設問は「社会的評価」だけどそんなことはどうでもいいんだよ。これは人生のリアルの問題なんだよ。もし人間が生まれて来るときに他人の人生を選べたら、生まれて少しして「これの人生を選んだのは失敗だった」と考えて他の人生を選べたら、果たして人間は自分の人生を生きてるだろうか?
多分、生きられない。もっといい人生があるはずだ、もっと他の人生があるはずだ、といつまでたっても人生は始まらないだろう。
ところが現実には人生は選べない、これ一回きりだ。そして何の選択もなく自分になってしまった。
だからこそ、このしょぼい人生を少しでもマシにしようと思って努力するんだろ、他人にはなれないから「諦め」たりするんだろ。
結局「努力」と「諦め」は選択の余地のないところからしか生まれないんだよ。生きてる間の全ては一回きり。複数回あるように見えるのはそういう思い込みだけで、全ては一回だけ。
異性の選択もそうなんだよ。こいつしかいないと思わないと「努力」も「諦め」もしない。その「努力」と「諦め」は想像できるような生易しいものじゃないんだ。
だから複数回の異性を「よりいい異性を探すため」という理由で変えているものは、本当は一回しかないものを複数回あるように思い込んで、「努力」と「諦め」を放棄している。
社会的な評価はどうか知らないが、少なくとも私はそう見ている。
素敵だな。
そうだよな。 有難う。元気が出てきた。 少しのことで、もうこれで関係が終わってしまったように感じることは、まああるにはあるけど、 そういうことを味わうことのできることの有...