日本西洋史大会の公開講演 近現代世界とヨーロッパの位相
を拝聴してきたので簡単にまとめたい。感想としてはなんとなくグローバル・ヒストリーの影響が強いように思った。
ヨーロッパの統合とその起源、そしてのヨーロッパ中心主義への批判といった感じだった。
ヨーロッパの文明の担い手という自覚は17〜18世紀台頭するオスマンに対峙した事と
アメリカ大陸の発見と植民地化によって育まれたそうだ。
ヨーロッパは15世紀ら17世紀のまでの間に、2つの前線ー東方におけるイスラーム、
オスマン帝国といの引き続く対立と、ほかの大陸のヨーロッパへの拡張
ーとの関わりで文化的概念として展開した。
こうした争いこそがヨーロッパを地理的、文化的概念として作り上げたのである。
ヨーロッパの文明の担い手という優越意識を示す例として学校教育と国際学会の提唱したコメニウスは次のように述べている
今日のヨーロッパは、帝国、宗教、学知、技芸など人類が卓越しているすべての点で、世界で最も豊かな部分である。ヨーロッパはほかのあらゆる部分を凌駕し、現在は過去のあらゆる時代、世代を凌駕している。・・・広さの点ではアフリカにもアジアにも及ばぬものの品位においてはそれらを越え、ヨーロッパと比較すればすべて粗野で野蛮にみえる。
こういったヨーロッパの優越意識は18世紀後半にヨーロッパがほかの地域に比べて優位に立つ際に帝国主義と共に顕著になった。啓蒙主義が流行した時代であるが、啓蒙主義もまたヨーロッパ中心主義と人種差別的な面があったのは注意すべきである。哲学者のカントは次のように述べている。
アフリカのニグロは、将来ばかげたものをこえる何の感情も持っていない。
(中略)
白人と黒人というこれらの人間種族間の差別はかくも本質的であって
また文化的に野蛮な非ヨーロッパを啓蒙するという事で帝国主義や侵略が正当化された。
J.Sミルは
未だに野蛮な国々は、外国人(白人)によって征服され従属させられるという時期をまだ過ぎていない。
文明国の政府は野蛮な隣人をもつことが避けられない。そして野蛮な隣人がいる際には、防衛的な姿勢で満足できるとは限らず…長短の違いはあれ我慢の時期を経た後に、その野蛮な隣人を征服したりせざる得なくなる
と言っている。
アフリカ、アジアの植民地に対する正当化としてさらにトクヴィルとユゴーの発言を載せる
トクヴィル
これらの半ば野蛮なアフリカの国々は、中世の末期にヨーロッパで起こったものと非常によく似た社会発展を今経ているのである。
ユゴー
世界の相貌は変化するでしょう。
(中略)
アジアは文明を取り戻し、アフリカは人間を取り戻すでしょう。すべては人の労働のもと、世界の全血脈のあらゆる部分で
豊かさが溢れだし、悲惨さは消滅するでしょう。
(中略)
革命を起こす代わりに人は植民地を作るでしょう。文明に野蛮をもたらす代わりに野蛮に文明をもたらすでしょう。
またヨーロッパ内の「野蛮」として排除されたロマ(ジプシー)も忘れてはならない
ロマ研究家のイアン・ハンコックは次のように述べている
ロマニはどこにも登場しなかった。これらの本の著者は誰も、ロマニがヨーロッパの歴史あるいは文化の一部をなすとは考えなかったのだ
18世紀後半から19世紀ヨーロッパは「啓蒙」を通してヨーロッパというか西洋はアメリカなどヨーロッパ大陸を超えて拡大していったが、
ヨーロッパと認められるには文明標準を満たす必要があった。
文明標準には基本的人権の保証、国内法の整備と法の支配、国際法の順守、近代的な官僚機構と軍事などに加えて、
植民地の保持、ヨーロッパ的な文化的習慣と野蛮な非ヨーロッパを捨てること、などがありヨーロッパ中心的でほかの地域に対する排他的な視点があったことも忘れてはならない。
アメリカ、オーストラリアといった地域も近代化に加えて植民地を得ること(ベルリン会議など)によって西洋国家としてみとめらたのである。
また明治維新によって近代化した日本も植民地をもつことによって初めてヨーロッパ的な文明国としてみとめられたのである。
植民地で行われた暴力はヨーロッパに還流され2つの大戦で真価が発揮された。
クーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ論やシューマン宣言によってヨーロッパ統合へと向かうが、初期は植民地支配を肯定されていたのは留意すべきであろう。
ヨーロッパの統合が自らを相対化出来ずにヨーロッパ中心主義から脱却できずに既に終わってしまったヨーロッパの栄光にすがりついているのではないかという非難もある。
Kalypso NicolaidisのEurope's post-imperial conditionより
EUとその加盟国は再生産されているという意味でのポスト帝国主義的な
考えと振る舞い方の習性を「脱中心化」しなければならない。
それは、ヨーロッパが世界的な覇権を握っていた19世紀から発している態度であり、ヨーロッパを世界情勢の中心、
ヒエラルキーの頂点に以前としてすえ続ける習性である
また現在の難民問題はヨーロッパが本当に脱中心化し自らを相対化できるかどうかの試金石であるとして木畑洋一先生は話をしめくくった。