と、断言できる人は、生活に余裕がない。
生活に余裕がなければ、意味を考える(感知する)余裕もない。
けれど、単に現実に振り回されているだけだとも言える。
「仕事をしているうちに、意味なんて見つかる」という話も聞く。
これは、「意味」というものの範囲を広く捉えれば、成り立つと思う。
具体的には、次のふたつを含めたい。
1.「俺なんて、無駄で食っているようなものだよ。あはは」
2.「仕事に意味なんてない。生活(金)のため。甘いこと言ってないで、もっと現実を見ろよ。バカじゃねえの?」
これらを否定するのは、とても難しい。
その理由は、これらの意見が正しいからではなく、彼らが仕事をしているうちに、自分で見出した「仕事の意味」だからだ。
「自分で見出した意味」の力はとても強いので、それを彼らに捨てさせて、考えを変えさせることはできない。
また、そのようなことをする必要もない。他人は他人だ。
わたしは生活に余裕がないので、そのような説得をする余裕もない。そもそも、実際にそのようなことを言う人は、周りにいない。
なぜなら、周りに誰もいないからだ。
したがって、意味を見出すことは(良くも悪くも)適応の一種であり、意味を見出せない(ことに悩む)ことは不適応なのだといえる。
最も重要なのは、いくら金を持っているかだ。
ああ、はやく結婚したい。