2009-08-28

攫い雲

 その日、夏の太陽が強すぎる光を降り注いできていた午後、美倉奈津美は熱戦の続く高校野球をラジオに流しながら、台所で洗い物を手にしていた。生ぬるい風に流れ落ちる汗を煩わしく思いながら、扇風機の細い送風を受け続けている。昼間使った鉄鍋を、ごしごしと金束子で磨いていた。

 風通しがいいよう開ききった部屋を二つほど抜けた先に、庭に面した小さな縁側があった。そこに、一人息子の翔太が氷菓子を頬張りながら腰掛けている。夏休みもそろそろ終わりではあったが、しっかり者の奈津美の遺伝子を引き継いでいた翔太には、もうやるべき宿題はひとつも残っていなかった。悠々自適といった姿で、美味そうに氷菓子を食べている。

 奈津美は、しつこい汚れに悪戦苦闘していた。それほど鍋を酷使した覚えはなかったのだが、底にへばりついた黒い塊があったのだ。

 それを、何度も何度も金束子で擦る。何度も何度も何度も何度も。塊は、頭の方から順に削れており、もう少しすれば全部取りきることが出来そうだった。

 そんな折に、翔太が声を上げた。

「入道雲だ!」

 なになに、夕立に降られては堪らないと、奈津美も顔を上げて台所の小窓から空を覗いた。けれども、青々とした空には雲の欠片はひとつもなく、とてもじゃないが入道雲など見当たりそうにはなかった。

「ねえ、母さん。大きいよ。入道雲だ。もうすぐ雨が降るよ!」

 尚も、翔太は声を大きくさせてきている。首を捻り、傾げては空を眺める奈津美だったが、結局ひとつも雲を見つけることができなかった。

 翔太は何を見ているんだろう。

 不思議に思った奈津美は鍋を擦る手を休めると、一度翔太がいる縁側へと足を向けた。直接教えてもらおうと思ったのだ。

「翔ちゃん、入道雲、どこにあるの? 母さん見つからないよ」

 訊ねながら目にした縁側には、しかし、食べきった氷菓子の棒が落ちているだけだった。翔太の姿はどこにもない。庭に顔を出して辺りを見てみても、どこにもいない。

 見上げた空は真っ青に染まっていて、雲の気配など、どこにも見受けられなかった。

「それから、私は家の中を探し尽くしました。真っ先に玄関に出て、翔太の靴がなくなっていないのを確認したのです。けれど、どこにも翔太は隠れていませんでした。寝室の布団も、押入れの中も、どこもかしこも乱れた様子はなかったのです。あの瞬間まで続いていた時間の中で、忽然と翔太は姿を消した。もちろん、誰かに攫われた可能性も考えました。けれど、私たちがいた家には高い石塀があったのです。十二歳の翔太を塀越しに、それも物音ひとつ立てずに攫うことなど、土台不可能だったのです。……翔太は、まだ帰ってきません。連絡は一度もありません。ただ、ときどき私は思うのです。あの日、あの瞬間翔太は何を見ていたのだろうと。大きな声を上げて叫んでいた『入道雲』とは一体なんだったのだろうと。かれこれ五十年以上も昔の話ですが、未だに私には分からないのです」

 ――老婦・美倉奈津美の証言。S市にある某老人センターにて収録――

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