「大衆」という言葉について、それは(自分も含めた)ネットの住人を示すもののように感じられることがある。(こういうことを言うと嫌われるかも知れないが)ネットリフレ派的な向きに否定的ニュアンスを感じるとすれば、それは必ずしも学派的に形成され、あるいは問題意識を有する社会運動体のようなものではなく、既存の権威・権力に対する否定や罵倒を目的に人間同士が連んでいるように感じられるときであろう。(一例を挙げれば、与謝野大臣に対する罵倒への過剰な支持の集まりや、リフレ政策ポータルサイト(http://wiki.livedoor.jp/reflation/)への「集い」などがある。無論、批判そのものは健全なものであったのかも知れない。)
ネットには、ある種の開放感、誰もが受け入れられるという特長があり、質の高い論考が存在し、それを評価するエディター的な人間がいることも事実である。その一方で、ネットリフレ派のような向きは次第に大衆化しつつあり、最近の民主党への支持(あるいは、4年前の自民党への支持)と同様に、問題意識をもった確たる社会運動体とはみなし得ないものとなりつつあるのではないだろうか。
こうしたネットの「不健全化」とともに、ネットを通じた心的満足が低下することで、専門家(に近い見識を持つ人間)による積極的なブロギングもみかけることが困難になりつつある。また、ネットに内在していたエディター的機能も最近では機能低下が著しい。そうした現状に対する別立ての仕組みとして、シノドス(http://kazuyaserizawa.com/)のような試みを位置づけることができるのかも知れない。それは、小規模のサークルの中に問題意識を有するメンバーを囲い込むことによって、ネットの「不健全化」に対抗しているようにみえないこともない。
しかしながら、このシノドスは自分の好みではない。なぜなら、それは手段としてネットを利用していることは事実であるが、その特長である開放性は失われており、「中心」に集う人間が「前衛」となり、同時に課金の対象ともなる「大衆」を指導するという姿勢がみえみえだからである。しかも、学会によるセミナーの実施や論壇誌など、そのような機能は既に現代社会の中に存在している。学会であればそれを通じて「中心」に通じる道は存在する。論壇誌も、積極的に新しい書き手に対する登竜門を設けることで、新しいマーケットを開拓することは可能かも知れない。シノドスにこれらとの違いがあるとすれば、経済的収益の配分くらいであろうか。
自分は、近年のネットの「不健全化」の傾向をみるにつけ、それに対するあきらめの心境が強まっているのだが、それを代替するものは、やはり開放性が維持されたものであって欲しい。自分のポジショニングに対する信条としては、自分を「大衆」と位置づけるような社会の機能に対し常にそれを拒否し続ける、ということとしたいと考えている。開放性を保持した新しい別立ての仕組みがさらに生まれ出ることに期待している。