2009-07-14

http://anond.hatelabo.jp/20090614211909

創価3世で、高校受験をきっかけに自分信仰に目覚めた。

学会活動も、高校から自分から進んでするようになった。

仕事が忙しい時期や、たまにうつっぽくなって、一時的に組織から離れた時期もあった。

その間、常に自分にとっての信仰と向き合ってた。

この信仰は本当に正しいのか?

正しいとして、自分は本当に信仰しているのか?

信仰の正しさについては、様々な体験を通じて、どうやら間違いないらしいというくらいの確信めいたものはある。

でも、自分信仰が本物なのかどうかは、疑いが消えることはない。

もしかしたら、一生涯かけても消せないのかも知れない。

信心してなければ、こんな悩みなんか持たなくて済んだだろうな。

でも、目の前の困難から逃げ出すか、ひたすら耐える人生だったと思う。

人生の具体的な困難にどう対処するかは、誰も教えてくれない。

自分で解決するしかない。

自分で考えることのできない人間にそれはできない。

信心は、その困難を乗り越える力になる。

学会では、その力をどう信心で引き出すのかを教えてくれる。

その最大のお手本であり、分かりやすく教えてくれる人が、学会員にとっての師匠である池田先生なんだけどね。

記事への反応 -
  • 自分の獲得した理性で判断することをやめて他人に依存して人間性を捨てた人としか思えないんだけど。 人間をやめてるというか。

    • 創価3世で、高校受験をきっかけに自分の信仰に目覚めた。 学会活動も、高校から自分から進んでするようになった。 仕事が忙しい時期や、たまにうつっぽくなって、一時的に組織から...

    • 世界に広げて考えると、むしろ人間性を捨ててない人の方が少数派になるな。 入れ込み具合次第じゃないの? 神様から直接語りかけてもらってる人は別かもしれないけど。

    • 創価三世で、大学一年まで無根拠に信じていた俺としては 「自分を失う」というよりは「信念を共有する」って感覚に近かったな 大学一年で上京してからは、周囲の学会員がファナティ...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん