2008-08-15

宮崎駿の本当の限界

「宮崎駿」「限界」でググって出てくるようなことを書くつもりはない。

僕は宮崎駿に限界が来て欲しくない派だからだ。

しかし来るような気がする。

何も「崖の上のポニョ」がつまらなかった、とかではない。むしろ大傑作だと思った。

しかし「ハウルの動く城」で僕が初めて感じた宮崎作品への不満が「ポニョ」でも解消されていなかった。

いや、解消どころか、堂々と居座っていた。

その不満とは、食い足りなさである。もっと広がるんじゃなかったの?という。

例を出すならば、「ハウル」ならハウルが戦っている戦争の背景事情、ソフィーが悟るハウルとの因縁など。「ポニョ」ならば町が水没した後。いずれも作品の後半だ。

ちなみに「ポニョ」のそこからのくだりは、素晴らしいクライマックスだったとも言えてしまう。おそらく最後のカットが運命的に素晴らしかったからだ。しかし水没から最後まで、話が省かれ過ぎた感じは残った。

その食い足りなさは監督の意図どおりだという。

いわく、子供なら分かる。大人は理屈で説明されないと分からないようなシーンでも、曇りなき眼で見る子供たちは起きていることをそのまま捉えるので分かるのだ。メディア上の宮崎監督の話を、僕はこのように聞いた。

ここに僕は宮崎駿の限界の予兆を感じた。

結論から言うと、隠れ蓑に思えたのだ。

自らの構想力・創造力の疲労を肯定するのはいい。監督とて人間。脳も体も老いる。

しかし、「子供」なら分かってくれるという言い分は自己完結につながりやすい。

「子供」の純粋な美しさとだけ、付き合いたい。汚い「大人」は対象外だ。監督がこの方向に行きそうな気がする。

宮崎監督が創り出すファンタジーとは、世界を曇りなき眼で見、曇りなき行動を起こしたときに生じるかも知れない奇跡だと言えるだろう。

その意味で、宮崎アニメを渇望しているのは「大人」だ。

実は奇跡がすぐそこにあるのだという信念を欲しているのは、どんどん曇っていく自身の眼に不安を覚える人たちだからだ。

そして、そんなことは監督は重々承知しているはずなのである。

「崖の上のポニョ」のパンフレットの1ページ目に掲載された「監督企画意図」には檄文かと見まがうような熱く、子供向きではない言葉が並んでいる。「少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわず描いて、神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」。

このようにして宮崎駿は闘ってきた。そしてファンタジーという信じられる嘘、つまり奇跡の可能性を物語ってきた。宮崎アニメの絶大な人気の背景には、まさにこのような姿勢に対する「大人」の支持があったはずである。

僕は宮崎駿の創造力の減退が即、彼の限界を意味するものではないと思っている。体力に見合ったサイズで風呂敷を広げ、小気味のいい素晴らしい作品は作れるはずだから。

宮崎駿が自分の父なら何も言わない。幸せになって欲しい。

しかし彼は時代に選ばれてしまった。明らかに時代が欲する、偉大な才能だ。

宮崎監督にはその自覚を持って欲しい。

最後となる作品は、僕らが決める。自分で決められるなんて思わないで欲しい。

そして何よりも、神経症時代との闘いをやめないで欲しい。

「子供」たちの世界の外から「子供」たちを描き続けて欲しい。

おそらく彼は「もうやめたいよ」「汚いこととなんて関わりたくないよ」と愚痴りながら闘う人なのだろう。

僕が限界の予兆としてあげつらった発言も、オリンピックの金メダリストが練習中に吐いた弱音と同種のものなのかも知れない。

いや実際そんな気もしてきた。

だとすればこんな文章はクズみたいなものだし、単に宮崎アニメの典型的な一ファンのファンレターとして読んでもらえればいい。

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