わが友人、正確にはわが友人だった人たちが、既成メディア等でフィーチャーされるようになってきた。本も上梓したようだ。正直な気持ちを吐露するならば、彼らの活躍は羨ましくも、あるいは微笑ましくもある。
ただ、最も強く感じるのは、彼らがもはや私の手の届かないところに行ってしまったということだ。
彼らは、それこそ叩き上げで自らを確立しつつ、持てるノウハウを磨いてきた。そして今度は、その実践の経過と結果を世に広く知らしめる機会を得た。
対して私は、植木等ヨロシク「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ~♪」と、とくに何も究めず無為に社会人人生を過ごしてきた。そういう私が、インテンシブな彼らに置いてけぼりをくらうのはある意味当然だ。
しかしながら、私にはいまだ求めてやまないものがある。それは、私がまだ小学校低学年くらいの年齢だった頃の、貧しくてもそこそこ幸せで笑顔の絶えなかった家庭の姿だ。
正直、今の私はとてもそれを獲得できているとは言えない。週末はほば必ず家を空け、逆に妻と子どもは仕事や塾通いでストレスを溜めている。
私自身に限っては、非常に充実していると言えなくもない。でも、家族はどうだろうか。けしてそうとは言えないのではないか。
妻子のストレスが家庭という場で金切り声や泣き声といった形で発露される度に、私は「家庭」としての不幸を憂えるのだ。このままでいいのだろうか、と思う。私にとっての幸せとは何だろうか。家族にとっての幸せとは何だろうか。そしてそれはささやかなものであっていいはずなのに、それすらも実現できてないとはどういうことだろうか。
今の私にできることを、改めて見つめ直してみたい。私ももはや若くはない。
家庭の不幸を見たくなくて仕事に逃げてない?