考えてみれば、投票は、多数派の形成のためのものではなく、すでに形成されている多数派に権力を与えるためにあるわけだ。
で、ある以上、個人の投票にちからがない、というのは、少し違うのではないか。
逆に、それへのストレートな反論も、すこしずれている。
我々が、我々の個人的政治意見を、国政に反映させたい、と願うならば、それは、投票の手前に重点がある。
投票そのものは、自分の投票しか左右できないのだから、たしかに無力だ。
問題は、
1 存在する多数派の意向がきちんと選挙に反映されるか。
2 そもそもその主張が多数派であるのが適切か。
ということが問題で、「若者は選挙に行け」というひとは、「選挙が輿論の実体を反映しないのはよろしくない」ということなのだろう。
問題はその誤差がどれくらいか、ってことだが。
で、そうではなくて、そもそもげんざい多数派の意向がきにいらない、自分の意見が通るように選挙にいけ、というのは、奇妙な論理だ。
なぜなら、どのみち、その意見が多数派と異なるのであれば、選挙が公正である限り、通らない意見表明でしかない。
だから、「投票のみによって政治を変えよう」というのは、本末転倒だし、基本的に無理な話だろう。
だから、実に、めんどくさく、馬鹿げた話であるが、多数派の意見と異なる主張があって、それが選挙で多数派になって欲しいのであれば、
その手段として投票を勧めるのは、倒錯だ。じゃあ、どういう手段がより適切か、というのは運動論になるので、さっぱり一般論としてはわからないが。
逆に、選挙制度がうまくいってない、ちゃんと輿論としては多数派なのに、選挙の機能不全によって、投票結果に反映されていない、という話なら、
たしかに、投票を勧める意味はある。
で、だ。そういう理屈なら、ひとりの票では何も変わらない、というのは反論として余り有効ではない。
そういう前提であるなら、自分と同じ意見の人がたくさんいるはずだから、「1票は1票でも孤立した1票ではない」。
逆に、選挙制度がうまくいってない、ちゃんと輿論としては多数派なのに、選挙の機能不全によって、投票結果に反映されていない、という話なら、 たしかに、投票を勧める意味はあ...