先輩が嫌いだ、先公が嫌いだといわれても、私にはどうしてその嫌われている人が嫌っている人の琴線にふれているのかわからなかった。
知っていたが、いざそれを結論としよう脳内で変換しようとしていても、どこが不恰好な結論になっていた。
それに、嫌っている理由なんて聞きたくないし、聞くのはあまり好きではなかった。
その理由を聞いてしまうと、鵜呑みしてしまって私まで嫌ってしまうからだ。
だから、私の自分にはあまり関係の無い人間関係データには、どこが抜けているデータだった。
私は誰かを嫌うという意思表示を控えていく主義だった。しかし、ある日のことだ「&&&(私の本名)って@@@のこと嫌っているよね」と。
私は知人の一言に少し戸惑いを隠せなかった。
一気に嫌う人の立場になった私は、“まあ あんまり”と気の抜けた返事をした。 その知人も@@@のことが嫌いだったらしく、彼は嫌いな理由はいわずにジョークのようなな軽さを持った中傷をした。
確かにわたしは@@@のことがあまり好きではない。
しかし、嫌いではないのだ、嫌いになってはいけないのだ。
@@@と私の関係は良好になる必要はないが、険悪になってはいけないのだ。
そんな関係を壊す嫌いな理由を聞くという行為は嫌う人の話を聞く第三者だけではなく、嫌う人にもその行為をやられてしまうということを認識して他人の人間関係を知るべきだと思った晴れた日の午前
私も、人を嫌いになることはできない。 でもそれは、嫌いになった人に自分が嫌われるのが怖いほど、自分が臆病だから。