2007-03-13

何を話したかではなくて、何を反芻するかだ

相手との会話の中で、自分にとっては、「何を話したか」というものが重要な気がしていて、メモを取ったり、議事録をとったりしているのだが、その場で話したことはそこまで重要ではない気がしてきた。

では何が重要か。それは、自分の話したことを、相手がどう反芻するかだ。

相手が反芻する時間は決まっていない。1日かもしれないし、1年かもしれない。しかし、確実に自分と話したことは反芻される。反芻された結果、どういったものになっているかが重要なのではないだろうか。

目の前の人に「好き」だと伝えた。相手は「この人が私のことを好きというはずがない。たぶん裏があるはずだ。きっと、お金を借りたいに違いない。あの人はうまいことをいって気分をよくさせておいて、お金をせびる悪い人なのではないか」と反芻し始める。すると、あなたは、好きだといっただけなのに悪い人のように感じられてしまう。

事実と解釈は違う。しかし、ほとんどの人が事実と解釈をごっちゃにする。好きという単語を発しただけなのに、そこには様々な解釈が生まれ、反芻されていき、消化され、吸収される。

相手がその場でどんな反応したかだけでは、どのように反芻するかはわからない。それが悩みどころだ。

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