2024-05-03

2024-05-03

自分他人理解について、それで済むならあまり説明的な言葉を使いたくないと考えてしまいがちだ。既存言葉説明しようとすると、端っこを捨てたり、体の肉の形を変えたり、捻じ曲げたりしなくてはならないところが少なからず出てくる。辞書に載っている言葉対象のものを表すためのものではなくて、指し示しているものがなんである理解するための補助線だと思う。その言葉ひとつですっかり代替できる人間性質などなく、強いて言えばその言葉に近いかも、という感情状態があるだけ。だから小説というものが、言葉でまるごとをそのまま表そうとする試みとしてあるのだろう。

でもマイノリティに関わる言葉については、説明的な言葉を使いたくないという動機だけで特定言葉を避けるのでは取り漏らしてしまものが多すぎる。その使い方自体政治性や歴史的背景が帯びてくる。その言葉意図的に使うこと自体抵抗になったり、その言葉を避けて使わないこと自体が、その人たちをなかったことにする流れに与したことになったり、できるだけフラットに使おうとすること自体が確実にいまある差別を見て見ぬ振りすることや、既存差別構造再生産に与したことになったりする。

言葉を使えば私はノンバイナリであるエイセクシャルであるなどと言うことができるが、そう言ったそばからそれを言うために捨てたもののほうが気になってしまって、眼の前の話に集中できなくなる。だから私はそういう言葉は使わない。カミングアウトなどということもしっくりこないからしない。ただ話している相手の目の前に、なんとなく性別規範から外れた感じの私がいるだけだ。それだけでいいと思うのに、自分が選ばないことでどういうフリーライドをしているのか、私は計算することもしていない。私は先人の努力に甘えているのだろうか。あるいは私がなんとも言わずにこういう自分であることで、誰かを励ますことになっていたりしないか

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