「杉江松恋」を含む日記 RSS

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2019-06-04

百合SFブームは「ウィトゲンシュタイン梯子」なのか?

ここ数日、ハヤカワ文庫百合SFフェアに関連して、書評家の杉江松恋がフェアに違和感を表明し、杉江を含む百合SFフェア懸念派の発言Togetterにまとめられ、さらにハヤカワの編集者がそのまとめの削除を申請する……といった一連の出来事が、ツイッターのごく一部を騒がせていた。

(ハヤカワ編集者の削除申請を、百合SFフェア批判封殺解釈しているらしい発言をいくつか見かけたが、あれはむしろ杉江松恋らフェア批判者への反発をこそ抑え込むための措置だったのではないか

そんな状況の中で、百合SFフェアに含まれ作品の著者が投稿したのが、以下のツイートだ。

<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

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ウィトゲンシュタイン梯子、という言葉はよく分からないが、ググってみたところ、「おもちゃと同じだよね。“やがていらなくなる為に”、それは必要なんだ。」といったような意味らしい。なるほど。

果たして草野の言うように百合SFブームは「ウィトゲンシュタイン梯子なのだろうか。

しかに、今回の百合SFフェアに対して、なぜ「百合」などという狭いカテゴリだけを殊更に取り上げるのか、もっと広く「ジェンダーSFフェア」でいいのでは、といった声はいくつかあった。そういう人々にとっては草野言葉はまさに、我が意を得たりという内容だろう。

だが、それは大多数の「百合好き」の考えとはどこまで一致しているのだろうか。

自分自身は、胸を張って堂々と百合が好きだと言えるほどの百合好きではない。そのためこれはあくまで推測でしかないが、多くの場合百合というジャンルを好きな理由はそれが「百合から」、男と女でも男と男でもなく「女と女の関係性だから」としか説明できないのではないか。逆に言えば、「女と女」であることにだけは、唯一絶対意味がある(「女」の範囲をどこまでとするかは人によるだろうが)

あくまで性の多様性肯定するフィクションの一つとして完全にフラット百合評価している、という人も中にはいるだろうが、多数派とは思えない。たとえ百合と同時にBLなど他のジャンルも好きだったとしても、「百合ならではの良さ」が少しでも存在すると信じるのであれば、それは「女と女」に帰着するほかないだろう。

なんで「女と女」なの?と更に問うこと自体は一応可能だ。現に、主に非当事者によって「男性排除した世界処女性を安全に味わうため」とか「自身男性性への罪悪感から来る女性化願望」とかいった“分析”がなされることは多い(下衆の勘ぐり的な“分析”の代表例として挙げただけで、別に百合の愛好者に男性しかいないと思っているわけではない)

そういった詮索好きな人たちには、その勢いで現実性的志向にも同じように“分析”を行ってみてもらいたい。やれるものなら(実際にやってしまう人も時々現れるが)

閑話休題

草野ツイートは、物語ジャンルとしての百合百合であることの意味、つまりは「女と女」が最終的には他の関係性・性志向の中で相対化されて、良くも悪くも無意味になることを目指す、という姿勢の表明と読める。

もちろん、この件はただの百合ではなく「百合SF」についての話であるセンス・オブ・ワンダー(って結局なに?)が重視され、既存常識を乗り越えることを良しとするSFというジャンルであれば、百合と結びついた時に、百合好きが百合に抱く(不合理で保守的な)幻想解体するような方向に傾くのも自然なのかもしれない。

だが、もしも最終目標が「特にカテゴライズなく同性愛テーマ作品普通に幾多もある環境」ならば、敢えて「百合SF」という看板を掲げるのは、不必要である以上にかえって逆効果なのではないか性別に関する固定観念を直接揺さぶ手段SFには現にいくらでもあり、わざわざ「百合SF)」という限定された概念を経由するのは、目指すゴールから遠ざかるだけの回り道に思える。

百合に限らず様々な関係性がSFで描かれるようになること自体は、良いことに決まっている。だが、フェア対象作家の中の一人に過ぎないとはいえその内部からウィトゲンシュタイン梯子」という言葉が出てきたとなると、「百合SFフェア」は素直に乗っていい波なのか、受け手に迷いが生じてもおかしくない。SF好きはともかく、百合好きにとっては大きな問題になりうるだろう。あくまで上にのぼるための道具として梯子必要とする人間と、梯子のものを愛している人間の間にある溝は、当たり前のように深い。



そこまでの意図は無い発言だったのかもしれないが、どうにも気になってしまったので書いた。上でも書いたように自分自身はそこまで強く百合が好きというわけでもないので、ガチ百合好きの人の大半が、ハァ?オレ/ワタシは全然気にならないんだけど???と言うのであれば、別にいいです。

2019-06-02

杉江松恋「完全に百合を性の対象として消費している」って何?

杉江松恋というライターが、ハヤカワ文庫百合SFフェアを批判したらしい。

早川書房、百合はじめます。ハヤカワ文庫の百合SFフェア|Hayakawa Books & Magazines(β)

中でも特に目を引くツイートはこれだろう。

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「性の対象として消費している」という、かなり強めの表現で、リンク先の文章画像)を非難している。

しかし、「完全に百合を性の対象として消費している視線」というのは、改めて考えると具体的にはどういう意味なのかちょっと分かりづらい。杉江自身はこの件について詳しく説明する気はもう無さそうなので、この「性の対象ツイートで何を言いたかったのか、こちらで勝手に考えてみることにする。

1.百合同性愛者?

今でこそ「百合」というのは、女同士の関係性を描くフィクションジャンルということになっているが、そもそも語源はそうではない。男性同性愛雑誌薔薇族」の編集長が、男性同性愛者を意味する薔薇族対義語として、女性同性愛者を「百合族」と呼んだのが始まりだ(とWikipediaに書いてあった)

もちろん現代の「百合」には女性同性愛も含むが、それはあくま物語ジャンルとしての話だ。

杉江は「百合」をジャンル名ではなく古い方の用法女性同性愛者の意味に捉えて、ハヤカワ(の編集者)が現実人間を弄んでいるように感じたのだろうか。

現実と一切繋がりのないフィクションなどは存在しないし、社会の中で弱い立場の人々を描く時にはより大きな配慮必要なこともあるだろう。しかしそれはそれとして、ジャンル名としての百合の話をしているところに、(現実の)百合族の話だと思って入って来られてもちょっと困るというのはある。

2.百合女性のもの

現在では誤解されていることも多いが、物語ジャンルとしての百合は元々は男性ではなく女性が書き/描き、女性が読むことで発展してきたもの、らしい。

女性同性愛者や、非同性愛者であっても女性たちが読む分には問題がない。しかし、そこに完全に非当事者ヘテロ男が入ってきて百合を楽しむという行為は、それだけで性的搾取である、というのが杉江の考えなのだろうか。だとしたら、あまりに潔癖すぎる姿勢である

そういえば、やはり批評家ライターでありハヤカワでも仕事をしている牧眞司という人物も、以前こんな発言をしていた。

SF評論家・牧眞司「異性愛者で恋愛経験もなさそうな人が百合とか言って喜んでる」(7/28追記) - Togetter

百合には、批評家という人種の心を滾らせる何かの因子でも存在するのだろうか。

3.ただの誤読

リンクツイート引用されている文章には、こういう一節がある。

例えば、終末の世界女の子2人が旅するのが“エモい”のです

分かる〜。

しかし、本来の内容はどうでもいい。問題は、「エモい」という表現だ。

エモい」と「エロい」。似てはいないだろうか?

「終末の世界女の子2人が旅するのが“エロい”」

杉江は、こう見間違えたのではないか。これならたしか性的消費と言われてもしかたない。想像力暴走気味な気はするが。


恐らくはどれも正解ではないだろうが、今回の件を考える上で、少しでも皆の助けになれば幸いだ。

 
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