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2012-03-10

[] 当たり前のことをそれが当たり前でない人に語る時のテンプレ

「結論ではなく前提を確定させるレトリック」とでも言うべきか。

これを結論だと考えているなら教育者として詰んでるけれど、内田先生はおそらくスタート地点だと考えているはず。

http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_1013.php

の文章について「教育エンタ」「教師→クリエイター」 「効率→売上」に機械的に置換してみた。

微妙意味が通らなくなるけど、大体同じ論調で似たようなこと言える話がいっぱいあるな、と思いました。

大事なのは効率じゃない」とか「感じ方は人それぞれ」「唯一の正解などない」という

当たり前だけど、当たり前になってないたぐいの主張を論理的に説明したい人のテンプレとして非常に便利な文章だと思うのでみんなも読みましょう。

エンターテインメントと売上は本質的になじまない。というのは、売上というのは、「単位時間内の仕事量」を以て考量するものであるが、エンターテインメントがそのアウトカムを計測するとき時間の幅は原理的に「その人が死ぬまで」というもので、「単位時間」を切り出すことができないかである。もちろん、無理をすれば単位時間を切り出して(「1時間以内の」とか「一学期以内の」とか「卒業時までの」とか)エンターテインメントアウトカムを考量することもできないことではない。けれども、そこではじき出された数値は、エンターテインメントを受ける本人にとってもエンターテインメント機関にとっても、実は何の意味も持っていない。


しかエンターテインメント機関の質評価に際して、「単位時間内にどれほどのエンターテインメント成果を上げたか」を見るということはやろうと思えば可能である。例えば、「今年の大学入試東大に何人合格たか」とか「TOEICの全校平均スコアが何点」ということは数値的に示すことができる。だが、それをあるエンターテインメント機関エンターテインメントの質の指標だと見なすことはできない。したい人は勝手にされればよいが、それには何の意味もない。

私たち経験的に言えるのは、「難関校合格するだけの学力をもつ生徒がたくさんいる高校」は難関校合格者が多いということ、「英語ができる生徒のたくさんいる高校のTOEIC平均スコアは高い」ということであって、それは単なる同語反復に過ぎず、当該エンターテインメント機関の行っているエンターテインメントの卓越性については何も語らない。


もし、本気でエンターテインメント機関としての優秀性を難関校合格者で測定したいと思うなら(誰が思うか知らないが)、高校入学時点で複数の高校に同数の生徒をランダムに配分して、「よーいドン」でエンターテインメントして、3年後の東大合格者数やTOEICスコアを比べればいい。新薬治験と一緒であるランダムグループ分けして、こちらにはA高校のエンターテインメントをほどこし、こちらにはB高校のエンターテインメントをほどこし、3年後の同じ試験を課して学力を測定すればとりあえずエンターテインメントプログラムの限定的な効果についてはデータが手に入るだろう。でも、そんなことをしている学校日本のどこにもない。やろうという人もいない。エンターテインメント機関の質の指標をそのような数値で示すことが実は無意味なのだということをみんなほんとうは知っているかである


というのは「このエンターテインメント方法でやってみたら、うまくゆきませんでした」ということをエンターテインメントする側は絶対に言うことができないかである学校エンターテインメントの相手は生身の人間である。「出来の悪いエンターテインメントプログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。エンターテインメントにおいて「実験」は許されない。だからエンターテインメント機関の卓越性は科学的には考量不能なのである松下村塾にしても、適塾にしても、懐徳堂にしても、劇的な成功を収めた学校歴史上たくさんあるが、それが成功した理由を科学的に証明することは誰にもできない。それを証明するためには、松下村塾と同じ資質の塾生たちを集めて、吉田松陰ではない人が教えた場合アウトカム比較するしかないが、それが不可能だからである


卓越したエンターテインメント機関が卓越しているのは「卓越した資質を持った若者たちが、そこに惹きつけられて集まってきた」からである。私たちにはそれしか言えない。別に吉田松陰有為青年たちに向かって、「うちで学ぶとこんなに知力が上がり、いずれ歴史的転換点で大きな働きをして栄爵を得るでありましょう」というようなパブリシティをしたわけではないし、「他と比べて、こっちの方が学習努力費用効果がよさそうだ」と算盤を弾いて、高杉晋作伊藤博文山縣有朋が門下に参じたわけではない。そこで何が行われているのかわからないし、そこで講じられていることにどんな有用性があるのかよくわからないけれど、「なんだか知らないけれど、そこに行って学びたい」という若者たちが蝟集してくる学舎がエンターテインメント機関として結果的に高いアチーブメントを示す。私たちが知っているのはそれだけである


エンターテインメント機関の質はそこで学んだ若者たちがそれからあとなしとげた仕事の質によって見るほかない。そのときはじめて「これほど優秀な若者たちが一堂に集まった学舎はきっとすぐれたエンターテインメントプログラムを行っていたに違いない」という推論が成立するのである。あるエンターテインメント機関の質は、そこで学んだ人々のその後の生き方を見ることで事後的に測定するしかない。だが、「棺を覆いて定まる」という言葉が教えるように、ある人が「どのような評価を得たか」が確定するまでには長い時間がかかる。松下村塾の卓越性が歴史的に証明された頃には関係者は全員死亡しているので、科研費をつけることもできないし、塾長紫綬褒章を送ることもできない。そうものである。私たちがある学校の卓越性や瑕疵についてのエビデンスを得るのは、いつだって「もう遅すぎる」ようになってからなのである


からエンターテインメントアウトカム単位時間を区切って計ること(つまり「売上」を論じること)には何の意味もない。エンターテインメントを受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じエンターテインメントを受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校ときに受けたエンターテインメントのおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。 

私が30年のクリエイター生活の経験から言えることは、エンターテインメントにおいて、クリエイターからの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」エンターテインメント技術というもの存在しない。残念ながら。



人間は実に多様なきっかけによって心を開き、心を閉じ、学び始め、学ぶ気力を失い、成長を開始し、退行する。私たちクリエイターが言えるのは、「経験的に比較効果的な方法存在する」ということだけである。その方法さえクリエイターごとにみな違う。だからクリエイターたちが集合的に「正しい教え方」について合意形成するということは決して起こらない。

だが、まさにすべての子どもを斉一的に知性的感性的に成長させる方法存在しないという当の事実人間本質的な開放性を担保していると私は思う。それは言い換えると、あらゆる人間のあらゆる言葉、あらゆるふるまいが、子どもたちにとっては「学びのトリガー」となる可能性があるということである



やがて知的ブレークスルーを担うようになる破格にイノヴェーティヴな子ども(千人に一人くらいの確率でいる)にとって、目の前に立つクリエイターほとんどは(残念ながら)知的にはあまりインスパイアリングではない。けれども、「クリエイターが十分に知的に啓発的ではなかったためについに才能が開花しなかった天才」というようなものを私たちは想像することができない(その程度のことで萎れてしまものを私たちは「才能」とは呼ばない)。クリエイターは、しばしばその狭隘さや愚鈍によってさえ子どもの学びを起動させることができる。「なぜクリエイターたちはこれほど愚鈍なのか?」という問いはある種の子どもたちを「学校」や「エンターテインメント」についてのメタ認知に導く(彼らはいずれ「誰であれ教壇の向こうに立っていてさえいればエンターテインメント的に機能する。人は教える立場にある限り、教えることができる」という人類学的知見にたどりつくだろう)。


これほどに学びの機会が多様であるのは、自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じクリエイターに同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときクリエイター言葉意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味現在自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。だから過去の出来事が意味の改訂を拒絶するというのは人間が成長を止めたということと同義である(それゆえ、意味の改訂を拒絶する出来事の記憶のことをフロイトは「トラウマ」と呼んで治療の対象としたのである)。


自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。学びというのはそのようなしかたでダイナミックに構造化されている。学びが力動的で、時間的な現象である限り、私たちが生きる一瞬ごとに、私たちがかつて受けたエンターテインメント意味は改訂され続けているのである。私たちがかつて受けたエンターテインメント意味が振り返るごとに改訂され、そのつど深みと厚みを増し、そのつどそれまで気づかれなかった相をあらわにするということ以上にエンターテインメント的な事況というものがあるだろうか。


「売上」というのはもう変化することのない価値人間尺度からすれば「死物」としての価値)を抽象的に切り出された単位時間で除して得られるものである。そのようなものを数値的に考量したり、比較したりすることに学びにおいてどれほどの意味があるのか、もうこれ以上の言葉を継ぐ必要はないだろう。

この記事で語られている理屈は、滅茶苦茶汎用性高いと思います

政治のように決定が大事場所で、いつまでたってもこういうことをずっと述べ続ける人は

バールのようなもので投げられても文句は言えないと思いますが、

議論のスタート地点でこういう「アタリマエのこと」を考えてもいない人はもっと危険です。

アタリマエのことを、それが当たり前でない人に納得させるように語るのは非常に難しい。

この文章から学べることは多いと思います


お暇な人、良ければ細かい部分修正したり換骨奪胎して

「お前の感想けが正解じゃないんだよ2ちゃんの豚め」とか

「売り上げ厨死すべし」的な話を作ってください。

 
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