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名前を隠して楽しく日記。

2024-05-17

anond:20240517214216

俺に気があるとはならないよなぁ

勝手に好きになって他の人と話してるところを見たら胸が苦しくなるだけだよなぁ

アサシンクリード弥助のやつ

黒人活躍する場面を白人がとってしまうことを問題視するのに

アジア人活躍する場面を黒人がとってしまうことは問題視しないのなら

より根本的な差別がそこにあるってことだよね

anond:20240517170113

女がやってるというだけで弱者男性の歌を歌ってるだけでムカつくし遠慮したい俺みたいな奴に受けるんじゃないの

善意好意

僕は南の島で生まれた。僕がまだ母のお腹にいた時に、父が軽はずみな悪戯をした。母は気を失い、倒れた。それは僕の運命を狂わせ、家族運命も変える重大な結果をもたらした。僕は脚に障害を持って生まれ、その障害を治せる医療機関は島にも近隣にもなく、関東関西の子供専門病院での長期にわたる入院治療必要とされた。両親は治療費と移住費を捻出するため、先祖伝来の家屋土地田畑ほとんどすべて売り払い、僕が2歳の冬、家族揃って島を出て、関西のある県に移住した。僕はその県の県庁所在地ある子供専門病院入院することになった。


僕が入院した日、窓の外の山々が人生で初めて見る雪で真っ白になっていたことを今でも鮮明に覚えている。両親は家に帰りたいと泣く僕を残して帰っていった。僕はそれから4歳になるまで約2年間入院し、5回の手術を受けた。僕の脚は完治はしなかったけれど、障害者と判定されないくらいまでには改善した。島を出た時は、僕はまともに立つことすらできなかった。退院した時は自分の足で歩いて病院を出た。担当先生看護師さんたちが涙を流して見送ってくれたことを覚えている。


入院により僕の障害改善したが、同時に子どもの成長に必要とされる多くの大切なものを得られなかった。両親から愛情家族他人との人間関係を築くための社会性を身につける機会、病院食ばかりで食べ物好き嫌いを克服する機会、成長に必要な体力と運動能力を得る機会などだ。このため、僕の後の人生で苦しむことになる。前回の日記では、特定の幾つかの出来事だけを挙げ、それが対人恐怖症や人間不信に繋がったように書いたが、実際にはそうではない。


退院したばかりの頃の僕は、体力がないため、同世代男の子たちとは遊べず、妹の後ばかりをついて回った。そして彼女彼女友達と一緒に遊んだ。それは主に、体力を必要としないままごと人形遊びだった。ある時、駄菓子屋さんで妹たちが紙製の着せ替え人形を買った。僕も買おうとしたら店の人に「あなた男の子でしょ!」と叱られた。よく女の子みたいだと言われた。そして、それからもずっとそう言われ続けることになる。


5歳の春、僕は幼稚園に入った。入園日の翌日から、午前中は親から離れて園で過ごす日々が始まったが、その初日で躓いた。僕は園に着いて僕を置いて帰る母を見てパニックになり、大号泣した。僕は病院で育った影響か、感情表現が下手で滅多に感情を表に表さないが、入院した日のようにまた家族と引き離されると思い、その時は全力で抵抗した。それは単に僕の勘違いだったけれど。入園日や卒園日のことは一切覚えていないが、この大泣きした時のことだけは記憶に残っている。

その後、僕は順調に幼稚園に通うことになる、はずだった。


近所に山川君という同級生男の子がいた。同じ幼稚園に通い、小中学校も同じだった。幼稚園に入った4月の末、彼は、突然、僕の首を締めた。息ができなくなり、眼の前が真っ暗になり、意識がどんどん遠のいていった。僕が意識を失う寸前に彼は手を放した。その後、僕の登園手帳5月6月カレンダーは、登園をしたこと示す判子が押されず殆どが空欄になっている。僕は首を締められたことにより、様々な感染症にかかり、ずっと寝込むことになった。

その出来事があってからは僕の母は彼を見ると、手を上げて打(ぶ)つ真似をして、「あんたのせいで」と怒った。その度に彼は彼の母の後に逃げ込んだ。母は彼のことをずっと後まで憎んでいたが、僕は彼のことをそんなに憎んではいなかった。小中学校で、彼は僕がいじめられているのを知ると、時には相手鉄拳制裁を加え、僕を二度といじめるなと言ってくれた。その方法善悪は別として、実際にそれは効果があったし、僕はそれに感謝している。

自身は、なぜ僕の首を締めたのか、それがどんな結果をもたらすのか分かっていなかったと思う。僕は、後に、同級生から他の人の見ていない所でよく抓(つね)られたりしたが、彼は同じような軽い気持ちだったのかもしれない。10代後半の彼が自ら語ったところでは、彼は先天的(おそらく遺伝性の)精神疾患を患い、その治療を受けていた。先天的という意味では僕と彼は同じ境遇で、それは僕ら自身の力ではどうしようもないことだった。僕の物理的に変形した脚では、いくら頑張っても障害のない人のように歩いたり走ったりすることはできない。物理法則を、意思の力や努力で変えることは不可能だ。脳も物理法則支配されているのだから精神疾患だって本人の意思の力や努力だけではどうしようもない。


結局、僕は幼稚園を1ヶ月半以上も休むことになり、十分な体力も付けられずに小学校に上がった。入学式初日に、隣りに座った立花君に抓られた。その後に何度も経験することになる、隠れた場所でのイジメだった。僕は他の誰も見ていない2人だけの場所で、抓られたり蹴られたり嫌味を言われたりよくした。また、3年生の時に、近所の年上の男の子プロレスごっこをしていて、抱きつかれたこともある。抱きつかれたというより抱きしめられたような感じで、その後、凄く気まずくなった。だから、僕はできるだけ他人と二人きりにならないように気をつけた。後から考えると、これは僕が適切な人間関係を築いていく上での弊害になったと思う。

ちなみに、僕を最初に抓った立花君は高校まで同じだったが、後には友だちになった。当時、僕の住んでいたのは某ラノベ舞台と言われる市で、公立高校入試にいわゆる学区割というシステムを導入しており、成績上位者の一部を除いて、住んでいる学区で通う高校指定された。だから小学校から高校まで、多くの同級生たちと同じ学校に通った。小中のしがらみを抱えたまま高校まで進学するのは、ある意味きつかった。


小1の時は、いろんな子にいじめられた。抓ってくる子が多かった。クラス学力1、2位を争っていた男子女子によく悪口を言われた。彼らは進学塾に通っていたけれど、塾にも通わないのに教科書をスラスラ読める僕に嫉妬したのだと思う。僕は、入院中の毎晩の看護師さんたちによる絵本読み聞かせで、3歳になる頃には平仮名を全て覚え、絵本も一人で読めるようになっていた。僕のテキストは「くまのプーさん」だった。だから今でもくまのプーさんを見ると、特別感情を抱く。入院で失ったものも多かったが、得たものも大きかった。

いつからかは覚えていないが、僕がイジメられるのを見かねた新池さんという女子が僕を守ってくれるようになった。彼女は本当に心が真っすぐな子だった。彼女は僕より背が低くかったが、人一倍勝ち気で男子相手喧嘩でも一歩も引かなかった。だから彼女は学年中の男子から、新池ゴリラと呼ばれていた。新池さんは授業が終わり、帰宅する時もずっと僕の側にいてくれた。

新池さんとは中学まで一緒だったが、同じクラスになったのは小1の時だけだった。彼女彼女の妹の面倒をよくみていた。彼女はいつも妹と一緒にいた印象がある。彼女は僕のことも彼女の妹と同じように庇護すべき対象と思ったのかもしれない。彼女は僕にとっては同級生というより、姉のような存在だった。

僕は前の日記で新池さんをゴリラ女子と書いてしまったが、それは仮名かめい)を使わなかったから読み易いようにそうしただけで、僕が実際に彼女ゴリラと呼んだことは一度もない。そんなことしたら罰が当たる。彼女は僕の守護神だった。彼女は本当にかわいい子だった。だけど、僕には彼女を慕う気持ちはあったが、恋愛感情は一切なかった。そこははっきりさせておきたい。


小2になると別の守護神が現れた。担任田口先生だった。田口先生女性で優しかったが、弱い者イジメ絶対に許さなかった。先生最初の授業で、僕には障害があるからクラスみんなで守ってあげて下さいと言ってくれた。僕はクラスで一番最後逆上がりができるようになったが、先生がそれを母に報告すると母は泣いたらしい。先生はその話をクラス全員の前で話し、みんなも一緒に喜んで欲しいと言った。当時は、逆上がりくらいでと僕は恥ずかしかったが、今思うと本当にいい先生だったと心から感謝している。

そんな先生の下でもイジメをする子はいた。僕は病院食を食べて育ったため、好き嫌いが多く、食べられない給食が多かった。ある日、給食チキンクリームスープが出た。僕は鶏肉が食べられなかった。無理して食べ、最後は戻してしまった。それを見たクラス安田君という男子が「汚ねっ!」と言って、嘔吐物に唾を吐いた。別の誰かに呼ばれて駆けつけた担任田口先生がそれを見ていた。先生クラス全員が縮み上がるほどの鬼の形相で、烈火のごとく怒った。安田君はわんわん泣きながら、僕と一緒に嘔吐物の片付けをさせられた。僕はそれ以来、毎朝給食メニューをチェックし、ビニール袋を給食袋に忍ばせ、食べられない給食をこっそり持ち帰るようにした。まだ給食は残さず食べるというのが当たり前の時代で、おそらく田口先生は僕の行動に気付いていたと思うが、何も言われなかった。同級生の中には、精神的な理由から肉類を食べられないことを公言し、それを許容されていた子もいた。本来は、学校に僕が好き嫌いが多い理由をきちんと説明しておけばよかったのかもしれないが、僕は親にそういうことを相談できなかった。僕は、いじめのことも親に相談できなかった。


小2の2学期に徳田君という転校生が来た。ある日、体育の時間が終わった後、彼は僕を抓った。それをクラスの別の子が見ていた。僕はジャングルジムの上に避難させられ、徳田君はみんなに引きづられてギャンギャン泣きながら田口先生のところへ連行された。徳田君は転校してきたばかりで田口先生方針を知らなかった。彼は僕をいじめたことで、クラスの大半を的に回してしまった。

徳田君は相当に困ったようで、苦肉の策だったのか僕に接近してきた。自分の家に遊びに来いとしつこく僕を誘った。僕は彼が怖かったから何かと理由をつけて断った。彼の最後の手は「うちにはお金が倍になるゲームがある」だった。家が貧乏だった僕は、その言葉簡単に転んだ。彼の家は僕の家から100メートルも離れていなかった。当時、僕たち家族は、両親が市役所転入届けを出しに行った際、役所の人が「市内一の貧乏アパートから早めに出た方がいい」と助言したくらいの貧乏長屋に住んでいた。2階建てで庭に木まで植えてある彼の家は、実際はそう大きくはなかったが、僕には豪邸に思えた。彼の家の中に入れてもらうと、転校して初めて来た友達からだと思うが、彼の母と祖父母が僕を歓待してくれた。そして、いろんなゲームを二人でした。当然のことだが、最後までお金が倍になるゲームなど出て来なかった。彼が家の外まで一緒に出て見送りしてくれた時に、僕は思い切ってそのゲームのことを聞いてみた。彼は「そんなのあるわけ無いじゃん」とけろっとした顔でいった。そんなにも平然と嘘を付く人がいるという現実に僕は戸惑った。そんな僕に、彼は全く屈託のない笑顔で、「また、必ず遊びに来てね」と言い、手を振った。その後、彼には多くの友だちができ、彼が僕を家に招待することは二度と無かった。それどころか、僕のことなど一切相手にもしなくなった。僕がその後の人生で、悪徳商法詐欺などの被害にあわないで済んだのは、間違いなくこの時の教訓があったからだと思う。それは人を簡単に信用してはいけないという僕の人間不信を強固にする出来事でもあったと思う。

徳田君の名誉のために補足すると、彼は詐欺師などにはならず真っ当な人生を歩み、今では小さいながら自らの事業を立ち上げ、一人で切り盛りしている。彼とは社会人になってから何度か会っているが、苦労が顔に滲み出ていて、気配りのできる本当にいい大人になっている。


小3から中3の話は別の日記や別の媒体でも書いているので省略する。


僕は脚の障害のため、短距離走は誰よりも遅かったが、心肺能力人一倍優れていたと思う。僕の体は、例えるなら、パンクしたタイヤを装着した高性能エンジン車のようなものだった。脚の悪さを心肺機能で補うことで、持久走はかなり速く走れた。学校マラソン大会中学で200人中5位、高校では700人中10位だった。これは自慢しているのではない。僕は高校では陸上部所属し、中長距離走選手として成果を出したかったが、競技者レベルには全く達していなかったというのが現実だ。そのため、僕は高2になるまで試合には一度も出して貰えなかった。

高2で初めて800メートル走に出場した時のことは鮮明に記憶している。それは県の全高校陸上選手が集う競技会だった。観客席には選手監督コーチマネージャーなど数千人がいた。

スタートピストルの音とともに出場者全員が出走すると、会場全体がざわつき、どっと笑いに包まれた。僕の走り方がとてもヘンテコリンだったからだ。それまでにも走り方を笑われることはよくあったが、数千人いる会場であんなに大勢に笑われるとは思いもしなかった。走り方一つで何千人もの人たちを笑わせられるなんて、僕はお笑い芸人より凄いかもしれない。

僕の高校陸上部員の僕に対する声援は会場全体を包む笑い声にかき消されてしまった。どんなに笑われても、監督が苦労して僕を試合に出させてくれた以上、途中で棄権することは絶対にできないので、僕は死にものぐるいで走った。僕が最後尾で第4コーナーを回り、正面スタンド前に来た時に、その奇跡のような出来事は起きた。もの凄い声援が湧き起こった。走りながら、僕がスタンドの方へ目をやると、よく合同練習していた隣の高校陸上部キャプテンが身を乗り出し、両手を口に当て「〇〇、ファイトー!」と僕の名を絶叫し、それに続いて他の部員たち全員が大声で声援してくれた。走りながら僕は体中に鳥肌が立った。その声援は僕の高校部員たちの声援を遥かに上回っていた。そして、その声援は会場全体に響きわたった。一瞬にして会場が静まっり返った。水を打ったようというのはああいう状況を言うのだと思う。たった30人ほどの人たちの声援が、何千人もの人たちの笑い声とざわめきを一瞬にして吹き飛ばししまった。気まずい空気が会場全体を覆った。急に静かになった競技場の残り400メートルを僕は力の限り走った。

結局、成績は最下位だったけれど、あん奇跡のような体験をできただけでも、僕は競技会に出場した甲斐があったと思う。隣の高校陸上部キャプテン水野君には、今でも本当に感謝している。


大学時代のことは別の媒体でも書いているので省略する。

社会一年目に関することは別の日記に書いたので省略する。


社会人2年目の4月本社異動になった僕は、地元に戻ってきた。地元には戻ったが実家には戻らず、会社の寮に入った。ゴールデンウィーク実家に戻ると、高校時代に同じ陸上部にいた津木と岡崎から飲みに誘われた。焼き肉屋で空腹を満たした後、津木がおもしろ場所に連れて行ってやると言った。

それは岡崎の家の近くの小さなスナックだった。津木がドアを開けると、2人の女性が明るく迎えてくれた。僕は本当に驚いた。そこにいたのは小1の頃、僕のことをずっと守ってくれた新池さんだった。彼女は小1の頃と全く変わらない笑顔で、僕たちを迎えてくれた。僕がいることに気づき彼女も驚いていた。新池さんは全然変わっていなかった。彼女の隣にいたのは彼女の母だった。彼女の妹も一緒に働いている三人の店だということだった。もう彼女と何を話たのかは忘れてしまったけれど、津木ばかりが話していて、僕はあまり彼女と話せなかったように思う。僕は、小1の時の感謝彼女に伝えたかったが、うまくタイミングが掴めず、結局は伝えられなかった。地元からいつでもまた会えるという思いもあった。

しかし翌年、僕は今の妻となる人出会い、翌々年に結婚し、地方へ転勤となってしまった。4年後、僕が転職して地元に戻って来た時には、もうその店は無くなり、彼女行方もわからなくなってしまっていた。彼女は小1の同じクラス同級生で僕がフルネーム漢字でも書ける唯一の人だが、SNS友達繋がりでも彼女名前は見当たらない。その後、僕はまた別の会社転職し、関東へ住居を移した。あの社会人2年目以降、僕は彼女とは一度も会えていない。感謝気持ちは伝えられる時にきちんと伝えるべきだったと、本当に後悔している。



補足

  • 僕は書くことを、つい1ヶ月くらい前から始めた。書くことはリハビリという人がいるが、それを実感している。
  • 書くことで不幸自慢したいのでない。そういうことは思い出すだけでも辛くなるし、腹も立つし、ネガティブ気持ちになる。
  • そうではなく、僕の周りにたくさんの敵意や悪意があったけれど、それを上回る善意好意に僕は救われてきたということを伝えたい。
  • 書くことで、僕は自身ネガティブで屈折した思考を整理し、僕を助けてくれたり応援してくれた人たちを思い出し、それと同時にそういう人たちへの感謝気持ち再確認できた。妻への感謝気持ちもそうだ。
  • 文章を公開するのは、そういう人たちが大勢いたことを、多くの人に知って貰いたいからだ。



anond:20240517213938

死にたい人の命を貰って生きたい人に回せればよいのにな

anond:20240517214321

そんな弱者男性おらんて

フェミニストとかリベラルって弱者男性解像度低過ぎるよなあ罵倒ばかりしてるくせに

anond:20240517170726

リズと青い鳥で、女の子の髪が揺れるのを見て「フフッ」ってなれってこと?

anond:20240517213537

ジャニーズ一強で他事務所排除していた時代ならともかく、ジャニ枠が一般開放されてスタダ、アミューズLDH、ラポネ等でひしめき合う戦国時代にわざわざ身長170cm未満を使う理由がないからね

anond:20240517213942

弱者男性だけど、そんな男いるかなあ少ないと思うよいても

anond:20240517124409

意外と仲間いっぱい出来そう

anond:20240517213942

弱男でもリリちゃんの仲間とお付き合い?はできるやん?

それと変わらん

anond:20240517124255

放置されているねえ。

あれだけ普段ブクマ叩きやはてぶの環境についてあれこれ文句を言っているのにどうしてかな。

anond:20240516154418

身長165cmの男なんて誰も求めてないから争いも起こらんよ

からトルコの予約1年待ちの骨延長手術希望者や経験者はほぼ165cm〜167cmばかりという

anond:20240517213250

まあ女だと例えば常識的な「おはようございます」の挨拶しただけで「俺に気がある」って勘違いして

ストーカーにまでなるような童貞たくさんいるから質を問わず彼氏作る「だけ」なら男よりはイージーかもな

虚しい

私は学者肩書きを持っていた。

研究テーマを誇張して言えば「不老不死である

脳や肝臓など(現時点の理解では)大体不可能や一部の臓器を除いて体内の器官を人工化し悪性新生物リスクを下げ、人類寿命を飛躍的に伸ばすことを目標としていた。

最終的に肝臓含めた全ての臓器や器官を人工的なものに置き換えることができれば寿命は飛躍的に伸びる。

脳すら人工物に置き換え、記憶思考バックアップ成功すれば我々は死の恐怖を克服することができる。

人生時間が長くなれば、それだけ人生体験する幸福の総量は上がる。

人類幸福の総量が増大するのだ。

テーマ自体も心が躍るものであった。

加えて、基礎医学臨床医学分子生物学計算機工学ナノサイエンス

あらゆる分野の研究者による共同研究が前提となっている新しいテーマであり、学問研究の場の閉鎖性や権威とは縁遠いものであった。

とにかく毎日が楽しかった。

しかし、数年前に自分自身が癌を宣告されてしまった。

当初は治療と並行しながら研究を続けていたが、治療負担が大きくなったこから研究を辞めた。

研究に専念できない自分ポストに座り続けることに自分自身で納得できなかった。

緩和ケアと並行しながら治療を続けているが状態は良くない。

虚しい。

不老不死を夢見ていたころが懐かしい。

もっと長生きしたい。

100年、200年。

いや、500年でも1000年でも生きたい。

太陽系、或いは宇宙が終わるまで生きていたい。長生きできれば、それだけたくさんの幸福を味わうことができるのに。

死にたい」「長生きしたくない」

そんなことを言う人達時間が欲しい。

anond:20240517213546

可愛い女の子ががら空きの電車増田の横に座ってきたら

うそいつは妖怪じゃない?

分頭にもう一つ口がある

anond:20240517213430

いや女はイージーだろ

女に生まれるだけで弱者男性にならずに済むし

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