名前を隠して楽しく日記。
お前の背中が鍛えられているのは平成14年に宮崎県人寮の地下の風呂場で第三者に目撃されてばれていることで今に始まったことではない
そのとおりなんだが、それが何か... ?
非モテストーカー側の話だったらじゃあなんで執着するんだよって感じだし(そもそも一緒にいない)、ストーカーされてる側の話なら関わりたくないので最初から関係ないし、どっちにも該当しないからなんの話だよと思って
例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。
そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。
そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。
まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。
もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。
どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。
すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋のふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが、
とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。
ところが日本人だと存外単純に見做して、徳義的の批判を下す前にまず滑稽を感じて噴き出すだろうと思うのです。
私のしかつめらしい態度と堂々たる演題とに心を傾けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のある矢先へ、
突然人前では憚るべき異な音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪えないからです。
この笑う刹那には倫理上の観念は毫も頭を擡げる余地を見出し得ない訳ですから、
たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、
女が容姿だファッションだ美容だという「女臭い」話題ばかりで通用したのは文字通り「女子供扱い」されてきた弊害。
しかし女も一人前として扱われればいつまでもそんな幼稚なことばかり言ってられない。
女が力を持った結果じぶんの肩身が狭くなったと思ってるようだが女の話題というのはもともとがそういうものだったのでありそれが可視化されてきたに過ぎない。
そんなこと誰も言ってない。思ってはいるけど。