はてなキーワード: let it goとは
ASKAの詞の特徴の一つは、複雑な比喩を折り重ねていくことにある。そうした複雑な比喩の解読については、「On Your Mark」の楽曲分析で先日書いたところである(http://anond.hatelabo.jp/20140924014048)。
しかしながら、私はCHAGE&ASKAの熱烈なファンであるけれども、「比喩」の観点から歌詞を見ればASKAよりも巧者は他にもいると思っている。例えば、スピッツ。「ロビンソン」の印象派の絵画を思わせる複雑な比喩を見るとASKAに少々分が悪い。では人生の機敏という観点から見ればどうか? 私の考えでは、ASKAは中島みゆきに遠く及ばない。しかしそれゆえにASKAの歌詞は二流であるわけではない。
ASKAの詞はJ-POP史上稀に見る「音楽性」を持っている、というのが私の意見だ。「言葉が音楽性を持っている」とはどういうことか? 分かりやすい例として、まず"YAH YAH YAH"をとりあげて、それを説明したい。
「YAH YAH YAH」のサビは、ご存じのように、ひたすらYAH YAH YAHが繰り返されるだけである。しかし「YAH YAH YAH」という発音には極めて綿密で、天才的な直観があると私は考えている。仮に、YAH YAH YAHの部分を「ウ」でも「エ」でもよいが、別の母音に置き換えたものを想像してみると、「YAH YAH YAH」という曲そのものが成立しなくなることが了解されるだろう。YAH YAH YAHの発音の秘密はそれだけにとどまらない。その前の歌詞に注目する必要がある。
この部分を読むと、「イ」の発音が異様に多いことに気がつく。「イ」は、歯を食いしばって発声される。怒りを耐え忍ぶかのような身振りを発音が要求している。そして、サビに入る時に「ア」の開放的な音に切り替わる(殴りにいこう「か」)。サビの一個手前に、このような母音のドラマが隠されている。この「イ」と「ア」の動きをYAH YAH YAHというサビで何度も何度も再現するのである。なお、「今から一緒に」の前にある「勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい」では「イ」で終わっているので、まだ耐え忍ばなければならずYAH YAH YAHと叫ぶことができないように発声的にも規制されていることが分かる。こうして見てみると、一見単純に見えるYAH YAH YAHの歌詞には天才的な音楽的直観が働いていることが分かるだろう。
そうした作詞法はASKAの専売特許ではない。そうした作詞法を意識的に採用しているのは、ASKAも尊敬している井上陽水である。陽水は、「Tokyo」の冒頭部分「銀座へ鳩バスが走る」という歌詞の秘密を次のように語っている。
タモリ で、それを作りたいってことに、なんで銀座が浮かんできたわけ? しょっちゅう行ってるから?
陽水 いや、そういうことじゃなくてホラ…、東京でね、やっぱり一曲ね[作りたいと思ってたから]。で、「銀座へ~」っていうね、あのー、人によってね、いろいろ、発音でね、取り柄がある発音とあんま響かないのがある。「銀座へ~」っていうのが、この口にすごく合ってたの。「銀座へ~」、あ、響くなあ、って。
7:00-7:40頃 https://www.youtube.com/watch?v=szB9lhaX2XY
井上陽水の曲を聞いてみると、たしかに言葉の「音」に対する独特の"美意識"があることが分かる。これはこれで、余人には真似しがたい孤高の美をたたえている。「Tokyo」であれ「Make-up Shadow」であれ、言葉に対するきわめて繊細な美意識を私は感じる。
完全に余談だが、全世界的に流行した「Let It Go」の歌詞にも言葉の音に対するこだわりを強く感じるので紹介しておく。
My power flurries through the air into the ground
My soul is spiraling in frozen fractals all around
And one thought crystallizes like an icy blast
I'm never going back, the past is in the past
この部分は、一番の大サビに向かう、心躍る箇所だ。
歌い始めの「My power flurries through」の部分は、口をすぼめる内気な発音が多い。しかし、「the air」の所でやや反抗的な「エ」の発音がやってきて、「into the ground」で一回大きく開放的になるが、すぐに締められる。「My soul is spiraling in frozen」までは基本的にはやはり内気な発音が多い。「fractals」のところで「the air」とは別のしかたで(歌い方で)反抗的な様子を見せるが、これも「all around」の個所で一回開放的になるが閉じられる。こうした発音のドラマの最後に、「the past is in the past」の個所がやってくる。このようにして、まことに開放的で、ドラマチックな「ア」の発音がここに訪れるのである。
このように、言葉の音に対する意識は世界的に存在する。しかしながら、日本語は、世界の様々な言語と比べても「母音」の割合が非常に多いという特徴をもっている。日本のロックミュージシャンたちはこの母音に苦しめられてきたのだ、と言っても過言ではないだろう。そこで例えばサザンは子音に着目した。サザンは日本語における子音の可能性を大きく拡張したミュージシャンとして評価することができる。しかし、ASKAはあくまで「母音」の可能性にこだわったミュージシャンであると私は考えている。日本語の本来の特徴が「母音」にあるのだとしたら、その「母音」を徹底的に活用したのがASKAである。
こうやって私が言葉の音に対して敏感になったのは、チャゲアスの音楽を聴いてからだ。ASKAは、まず歌唱からして、母音を強調している。これは良くも悪くも「古さ」を感じる歌唱であろう。母音を強調する歌手として、例えば尾崎紀世彦や布施明を挙げることができる。彼らの歌唱には「昔ながらの情念」を感じる人が、とくに若い人になればなるほど多いのではないだろうか。一方、母音を強調しない歌手、小田和正の歌唱にはそうした「古さ」を感じることはないのではないか。母音は、本能的な部分に訴えかける、ほとんど呪術的と言える原始的な力をもっている。しかし、それを真に受け止めるためには現代人はいささかシャイなのだ、というのが私の持論だ。母音とは、一種の「ますらをぶり」である。ASKAは「ますらをぶり」のシンガーである。
私の見立てでは、ASKAが母音から歌詞を構成する方法を意識化したのは、だいたいシングル「WALK」以降である。「WALK」より前の曲には、母音に対する美意識を見出すことが難しかった。逆を言えば、WALK以降には母音に対する鋭敏な感覚をASKAの曲に感じる。国民的シンガーCHAGE&ASKAが出来上がったのは「SAY YES」であるが、「SAY YES」と同レベルの作品を量産できるようになったのはだいたいシングル「WALK」の時期からだ。一つ一つ楽曲分析をして証明をすることもできなくはないが、それをするとなると、ちょっと本格的にやらなくてはいけない。そこで、ASKAの曲の中でも、母音の使用がもっとも素晴らしいと思う楽曲を一つ見てみることにしよう。「はじまりはいつも雨」だ。
「はじまりはいつも雨」はASKAソロの曲だが、チャゲアスVer.も残されている。私の一番好きな音源である(https://www.youtube.com/watch?v=5mzj72QxrYo)。
「はじまりはいつも雨」は、メロディーと歌詞の二つが複雑なハーモニーを形成しており、決して不協和音をつくっていない。母音の使用法も極めて洗練されている。しかしながら、冒頭から母音の分析をはじめても感覚的に分かりづらいと思うので、もっとも分かりやすいところから見てみよう。それはサビの終わる所である。
失くした恋達の 足跡(あと)をつけて(二番)
まず気がつくのは、これら全ての終わりが「エ」で終わっているということである。仮にこれを「エ」以外の音だと考えてみよう。すると、この曲自体がぶち壊しになることが分かると思う。「ア」だと少々なさけない感じがするし、「イ」はやや幻想的になるかもしれないが悲痛な雰囲気も漂いそぐわず、「ウ」はそこで完結してしまい、「オ」では重すぎる。ここは「エ」でなければならない。暗い街中に消えていく複雑な余韻は、ここでは「エ」によってしかつくることができない(なお、似たような曲として井上陽水「帰れない二人」があることを指摘しておく。また、ASKAは「はじまりはいつも雨」を作る時にその曲を意識していると私は考えている)。
さて、この曲における母音でもっとも美しいと思うのはサビに入る前の「誰よりも 誰よりも」という箇所だ。J-POP広しといえども、このような「オ」の大胆な使い方をして、それが成功をおさめている例を私は他に知らない。この箇所は「ア」と「ウ」でも成り立たないことはない。しかし、「ア」だとあまりに開けっぴろげで楽観的すぎるし、「ウ」だと少しストーカーのようないやらしさを感じる。ここはやはり「オ」でなければならず、「オ」という少しくぐもった母音によっていささか内気な青年の、胸の奥底からやってくる高鳴る期待が的確に表現されていると私は考えている。言葉の「意味」ではなく「音」によってこんな複雑な操作をできるシンガーソングライターが今どこにいるだろうか? たいへん残念なことに私はASKA以外に知らない。
他にも「はじまりはいつも雨」には美しい母音が色々ある。例えば「今夜君のこと誘うから 空を見てた」の「と」の遠慮がちな「オ」とその後にメロディーとともに上を見た時にある開放の「ア」であったり(綺麗な夜空を見て嘆息つくような場景が思い浮かびます)。こういうことは言いすぎると野暮になることかもしれない。とりあえずは「はじまりはいつも雨」を聞いていただきたい。それから、「Say Yes」や「no no darlin'」などのチャゲアス名曲群から美しい母音たちを集めて、それぞれ言葉の音を解釈してみるのも一興だと思う。
※朝になって読んだら読みづら杉。あとで編集する。
観終わって、ディズニー映画でこれほど多様な読み方が出来る映画はない!と息巻いてシネスケ開いたらあんまりみんな自分の解釈提示してなくて、いきなりシネスケに書くのも恐いから、おそるおそる増田に書いてみる。ネタバレあり。
まずあらすじ。
幼少時に自分の魔法(触れたものを凍らしたり、氷柱を地面から生やしたりする)によって妹アナを怪我させてしまったエルサ。その経験から、親の指導により人との関わり合いを断絶。アナは治療時に記憶を失っているので姉がなぜ人との関わり合いを避けているのか理解できない。そんなエルサだが、大人になって女王に就任。その戴冠式のお祭りでアナはハンス王子と出会う。出会ったその日に婚約するも、エルサからはそんなのは愛ではないと言われてしまう。ここでアナが日ごろの鬱憤をぶちまけ、それによりエルサが激情しこれまで隠してきた魔法を発動。2人が住むアレンデール国は雪に閉ざされる。魔女を捕らえようとする追っ手から逃れ、エルサは氷の山で独りの王国を築き上げる(ここでLet it goを歌う)。雪に閉ざされたアレンデールを何とかすべく、アナはエルサの後を追う。途中出会った男クリストフと共に氷の山に行くも、エルサはアナに帰れと言う。ここでアナの話からアレンデールが自分の魔法のせいで大変なことになっていることを知ったエルサは絶望し、魔法を発動して再びアナに重症を負わせてしまう。アナを治療すべく、クリストフは魔法使いのところに行くも、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」と言われる。クリストフは真実の愛=婚約者であるハンス王子のキスが必要と解釈し、アナをハンス王子の下に送り届ける。ハンス王子と再会したアナは王子のキスを求めるも、実はハンス王子はアレンデール国を乗っ取ろうとする悪者であることがここで発覚。王子はアナを見殺しにし、アレンデールの大臣にアナはエルサの魔法で殺されたと告げる。氷の城を襲撃して捕らえたエルサの処刑がここで決まる。処刑の直前にエルサは逃亡する。他方、アナの方は、愛とは「他人のために自分を犠牲にすること」と諭され、自分を助けるために命を賭しているクリストフの姿を思い浮かべる。そこでクリストフの下に向かうが、そこにはハンス王子と対峙するエルサの姿が。結局アナは目の前のクリストフを尻目にエルサをハンス王子から守る。エルサの魔法によりアナは凍ってしまうが、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という言葉を信じたエルサがアナにキスし、アナは目覚める。ラストは「真実の愛」により雪が溶けたアレンデールの光景を映し出し、終了。
主題は2つあってそれが1つに繋がる構造。主題の1つは、自らの「魔法」をその共同体の中では抑圧せざるを得ず、「魔法」は共同体と決別することで解放することができる。しかし、それには種々の問題が生じる、というもの。主題のもう1つは、「真実の愛」は家族愛である、というもの。この2つの主題を繋ぐのは、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という命題で、「魔法」の解放により生じる問題は「真実の愛」でこそ解決できるいうようになる。
主題の2つ目(「真実の愛」は家族愛である)というのは最近ディズニーが『マレフィセント』で主題としたところ。同映画では、魔女の呪いにより永遠の眠りについたオーロラ姫が、真実の愛により目覚めると言われている。そこでイケメンの王子がキスしてみるがダメで、結局お母さんのキスで目覚めるというストーリーになっている。そこで語られているのは、その辺のイケメンと1夜の恋に落ちたところでそんなのは愛ではなく、家族愛こそが真実の愛である、というメッセージである。そうしたことから、主題の2つ目は割とはっきりしていて、それほど多様な読み方ができるというものではないと思う。
問題は主題の1つ目で、Let it goの解釈がここに関わってくる。日本語版だと「ありのままに」と訳されているのは周知の事実だが、これだと「自分らしく生きていけばいい」というメッセージになる。しかし、これは正確ではない。エルサは自分らしく生きた結果、アナを傷付け、故郷の国を雪に閉ざされた世界にしてしまったのである。この曲はそのような自己肯定的な曲ではなく、「(是非はともかく)とにかく家族を捨て、自分は解放されたんだ」という意味に解すべきだろう。
仮に主題を上のように解するとしても、そこには「魔法」は何を意味しているか、という問いが存在する。ここでの「魔法」とは、
①それにより周囲の人間を傷付けるため、
②周囲から自制と抑圧が求められるが、
を意味する。これを前提にまずありうる解釈は、「魔法」とは同性愛を指しているというものである。この線で作品全体を考えてみると、同性愛を抑圧し、隠そうとする家族という共同体を捨て去ることで、同性愛の問題は解決する。しかしそれは真の解決ではなく、種々の問題が生じるものである。大事なのは、家族との相互理解、歩み寄りによる「愛」であり、それこそが問題を解決するのだ、という読み方になる。
先月末にアナと雪の女王を見に行ったら本気で辛くて吐きそうになった。理由について二週間ほど色々と考えてやっと何とか形になったから吐き出してみる。内容自体にはあまり言及しないので見てない人には分かりづらいかもしれないけど、もうDVDやBDも販売されてるから気になる人は買って見てください。
姉のエルサには雪?氷?冷気?ともかくそういうものを操る魔法の力があるが、ある日不幸にもその力で妹のアナを傷つけてしまう。怪我自体は平癒するが、アナの中の魔法の記憶は操作によって改変され、エルサは魔法の力を抑えて行使しない事を要求される。しかしエルサの力は強大になる一方で、手袋で何とか抑えこむしかない状況だった。
幼少期こじらせコミュ障としてこの辺りでもうだいぶつらい。この場面でのポイントは2つ、「幼少期の失敗」と「自己否定の強制」にある。幼少期に大きな失敗をして常にその失敗に絡む自己否定を強制され、また両親もその失敗に対するフォローが出来ないどころか自発的自己否定を遠回しに要求する。父親の「力を抑えるんだ」と、エルサが「手を触れたら怪我させてしまう」と言った際に怯えながら手を引っ込めた母親の姿で開幕わずか数分でもうトラウマで吐き気が止まらなかった。
時間は流れ、成長する過程でも力は制御出来ないほど強力になって行った。しかしある時、国王である両親は船旅の途中で帰らぬ人となってしまい、王位継承者は姉のエルサとなってしまう。そして事故から三年、ついにエルサは女王として戴冠式の日を迎える。
ここもだいぶ辛い。ここでのポイントも2つ、「状況に新しい手は打たれなかった」「状況は悪化の一途を辿った」という点だ。例えば両親の船出前のシーン、アナは屈託なく両親に抱きついてるのに対してエルサは膝を折って距離をおいているあたり、この他者からの救済のない状況は幼少期から改善される事無く続いたと思われるし、ただ力を使わない、抑えこむだけじゃなくて適切にコントロール出来る様にするといった改善は無くただひたすら門と窓の閉ざされた城の中で時間だけが過ぎていってしまった。一方で力はひたすらに強く、制御できなくなる一方。
そんな状況でも女王として戴冠式をを執行する必要があるため、13年閉ざしていた城門を開いて戴冠式を執行する。何とかつつがなく終えたと思ったら、妹がパープリンな事を言い出したがために力が暴発してしまい、エルサは遁走する。
ここのポイントは1つだけ、「時が流れると、自分の状況はお構いなしに周囲は様々な物を要求される」という点だ。エルサはどうしても自分の力を抑えることが出来ない状況になっている。しかし、その中で出来うる限りの工夫をして戴冠式というイベントをつつがなく進める為に繊細な注意を払って式次第を進めていっていたが、自分の力のせいで取り返しがつかない失敗をしてしまう。これは、コミュ障的には「幼い頃から抑圧していた心理的な要因が原因で、大きな場所で取り返しのつかない失敗をしてしまった」という風にしか読み取れない。
今回一番つらい気分になったのがここ。Let it go自体は映画を見る前からYouTubeの公式チャンネルで英語版日本語版の両方を聴いてた位には気に入っていた歌だったんだけど、実際に劇場で見た後は本当に見るのが辛い曲になった。日本語版の歌詞だと「ありのままの自分になるの」と言ってるけど、その後の映画の展開を見る限り全くありのままでもなければ変わっても居ないし、自分を好きになれても居ない。はっきり言ってしまうと、これは力の暴発でインターネット上の文脈での「無敵の人」になってしまったエルサが、やけっぱちになっている以上の意味はない。そもそもlet it goと言ってしまっているのだから、自分で力を抑圧してまで守ろうとしていたありとあらゆるものに対しての強力な離別のメッセージだ。これが「無敵の人」化でなくて何だろうか。
それじゃあどういう風に結末がつくのかと言うと、色々あったけど姉妹の真実の愛が凝り固まった氷を溶かした、という結末になる。実際そういうオチなのでそれ以上言う事がない。
とまぁここまで映画の流れを見た時に、翻って自分の事を考えた時にどうなるのか、と言う風に考えると非常に暗澹たる気分になる。幼少期に色々とこじらせたまま改善をする機会なく歳だけを重ね、しかし現実は非常にも多くのものを要求する。幸い今は大きなミスをしたことはないけど、ふとした機会に自分のこじらせてる何かのせいでとんでもない大失敗をやらかしてしまって「無敵の人」になるとも限らない。しかしその一方で「無敵の人」になってしまった後にその状況から救い出してくれる真実の愛は全く存在しない。
はぁ。もうどうしたらいいのかすら分からなくなってきた。
http://anond.hatelabo.jp/20140108194144
監督がどうだとか、演出がこうだとか、主演俳優の演技がどうだったとか、そんな話はいったん脇に置いて。
「燃えよドラゴン」をリアルタイムで見た年配の方々が、口々に話すのは、必ずしもブルース・リーの格好よさではないはずです。
彼らが楽しそうに話すのは、肩をいからせながら劇場を後にする観客の姿であり、少ない小遣いを握りしめてヌンチャクを買いに走った幼い自分自身の姿。
「単純に面白かった」映画の上半期ベストとは別モノとお考えください。
第5位 ゼロ・グラビティ(2回目)
第4位 ウルフ・オブ・ウォールストリート
第3位 アクト・オブ・キリング
第2位 ロッキー・ホラー・ショー
委員長(女)と鑑賞。学生時代はいつもツンと澄ました表情を崩さず、どこか近寄りがたい雰囲気だった同級生(当時クラス委員長)(美人)(三つ編み)と、同窓会で再会 → ホラー映画話で盛り上がる という夢のようなシチュエーションを経て、ホラー映画友達に。2013年中は、これまで一人で観に行っていたホラー映画を、委員長(仕事中だけ眼鏡をかける)と一緒に観に行くという、もし学生時代の私ならその場で卒倒してしまいそうな、夢のような時間を過ごしました。つまんなかったな、死霊のはらわた。面白かったな、キャビン。映画の終盤の大虐殺シーンときに目が合って、満面の笑顔だったことは一生の思い出。
しかし、楽しい時間はいつまでも続きません。2014年早々の飲み会の席で、「年末に彼氏ができた」「彼氏が嫌がるかもしれないので、一緒に映画を観に行くのは控えたい」という旨を委員長より告げられます。悲しいけれど、仕方ない。
「じゃあ最後に、普通に面白い映画を観に行こう」と誘って観に行った映画が『ゼロ・グラビティ』。私は2回目の鑑賞でしたが、面白い映画は何回見ても面白い。さみしいけれど、さようなら委員長。
奥さん(スイーツ)と鑑賞。彼氏彼女のころは昔は一緒にホラーやスプラッターも観てくれたのに、今では「王様のブランチで紹介される映画しか観たくない」と言い張るようになった奥さん。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も、事前に予告編や前評判を観て「これは『グッドフェローズ』の方のスコセッシやな・・・?」と判断し「奥さんと観に行く映画リスト」からは早々にはずしていたのですが、「王様のブランチで紹介されていて、とてもおもしろそうだった」という奥さんの強い希望で一緒に観に行くことに。今回ばかりはありがとう、王様のブランチ。
鑑賞後「もしかして、やっちゃったかな?」と不安に思いながら、恐る恐るに感想を聞くと、意外なほどの高評価。今でも、奥さんの中での評価は「『アナと雪の女王』より『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。『LET IT GO』より『マコノヒーのチェストソング』」とのこと。「んーんー、んーんー」って歌いながら夕食の準備をする奥さんかわいい。
「もしかしたら今後は、付き合いはじめた頃みたいにアメコミ映画も一緒に観にいってくれるかも?」と淡い希望を抱き、後日ためしに『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』を自宅で一緒に観たところ、途中でいびきをかいて眠りはじめました。
高校友人(男×2)と鑑賞。それぞれ個別に食事に行ったり遊んだりすることはあっても、3人そろって会うのは久しぶりだったため、妙に緊張したことを覚えています。少し早く劇場についたので、上映前に学生時代の思い出話に花を咲かせたのち、並んで写真を撮りました。学生時代からはつらつとしていた友人は、今でも若々しく。おっさんじみていた友人は、よりおっさんに。
携帯で撮った写真を見ながら『変わらないものなんか/何ひとつないけど/変わるスピードが/違ったんだなあ』というクロマニヨンズの歌が頭をよぎります。
映画を観た後は、完全に圧倒されてしまい、会話もそこそこに、つけ麺を食べて解散。ベトナム・マレーシアで仕事をしている友人の「現地の人を見る目が、少し変わるかもしれん」という一言が印象的でした。
初見。「『ロッキー・ホラー・ショー』はコスプレをして騒ぎながら、観客が一体となって観るもの」と事前に見聞きしていたので、「昨年の『パシフィック・リム』のように、映画館が一体となって鑑賞したような気分が味わえるかもしれない」と思い、ガチガチにコスプレをして会場に赴いたところ、持ち込みでコスプレをして映画館に来るような頭のおかしい一般客はおれだけだったため、上映中、かつて経験したことのないような孤独にさいなまれました。
好事家たちの間で熱狂的支持を集めるVシネマシリーズの劇場版。委員長(女)と鑑賞。「委員長ともう一緒に観に行くことはない」と言った舌の根が乾かないうちに、ダメモトで誘ってみたところ、まさかのOKが出ました。「どうしても観たいから、彼氏は説得した」とのこと。さすが、Jホラーファン。ほん呪シリーズコンプリートは伊達じゃありません。覚悟が違います。
劇場につくと、そこはホラー映画Tシャツを着た男性客率が非常に高い異空間。twitterアイコンをプリントしたTシャツを着ている剛の者まであらわれるという異様な雰囲気の中、映画が始まると、予想外の展開の連続に、劇場は揺れるような歓声と爆笑に包まれました。終盤の想像を絶する超展開に、委員長が思わず「どうなってるの、これ」と笑いながらつぶやいていたのが印象的。上映中、こっそり横顔を覗き見すると、委員長は本当に楽しそうに笑っていました。今度は振り向いてはくれなかったし、目が合うこともなかった。
上映後、食事をしながら近況について尋ねると「付き合ってから最初に観に行った映画は『永遠の0』」とのこと。彼氏の一番好きな映画は『アルマゲドン』。委員長の一番好きな映画は『エクソシスト』。それでも委員長は彼氏にべたぼれ。がんばれ、負けるな委員長。
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今年も残り5か月。誰と映画を観に行こう??
タイトルはこうつけてみたものの、もちろんいろんな長女・長男の形があると思う。
けれど、今回は最近急速に空しくなってきたので、「こんな思いをする長男・長女」を増やしてはいけないと思って書く。
上の子はあなたたちの試作品ではない。それ以降の子どもたちに失敗から学ぶ工夫を反映させるための道具ではない。
let it goとか言ってしばらく流行ったけど、現実はそんなにすぐレリゴーできないので、その辺りは親の側から留意してほしい。
以下、私情も交えながらもう少し細かな「やめてほしいこと」を書いてみる。
私の妹は年が少し離れているので、同じ学校に在籍するのは小学生の時しかない。
親は親で、「お姉ちゃん・お兄ちゃんがいるから助かるわ」と私に細かな配慮を丸投げしてきた。
たとえば、家庭科のキットを買うとき、書道の筆の手入れの仕方、アルバイトの選び方、果ては大学の学部選び、ゼミ選びまで。
「お姉ちゃん・お兄ちゃんにアドバイスしてもらいなさい」と責任を子どもに丸投げするのは間違っている。
下の子も下の子で調べたり考えたりする手間を自分で経験するのが必要。
上の子のメソッドをかすみとるだけが彼らの人生ではないし、彼らの人生のためにはならない。
はじめての子だから右も左もわからなくて、を言い訳にする人がいるが、それは間違っている。
「はじめてだから」と予備校の面談についてくる親。その面談の相手大学生アルバイトですよ。
その大学生アルバイトの言うことを鵜呑みにし、「さすがたくさんのものを見ているチューターさん!」という感じ。
しかし実際はそのアルバイトはプロでもなんでもない。なので当然ベストの形の出願はできない。
当時の私はいろいろと自分で調べて、いろいろ提案したが「金を出すのは親!」の暴論をかざされてはどうにもならない。
その当時の反省を活かし、妹の入試はとてもうまくいった。正直殺意しかわかない。
③上の子に許されたことは同タイミングで下の子にも解禁してはいけない。
たとえば外泊なんかがわかりやすいだろう。
大抵上の子は外泊を全く許されず、それを周囲にも責められたりするのだが、
下の子は上の子の外泊解禁のタイミングで同じように解禁されたりもする。なぜだ。
大学の時に時間があるからたくさん旅行したり思い出作りをしたいのに、自分は禁止された。
それなのに、下の子は大学生の時からうきうき外泊。もう正直殺意しかわかない。
上の子の青春を世間体とかそういう言葉で握りつぶすなら、下の子にも解禁するべき。
ちなみにこの疑問を親にぶつけたところ、見当違いも甚だしい反論をされ、何の解決にもならない解決法を示される。
だまされてはいけない。
確かに下の子は頼りなさそうだし、小さいし、心配なのもわかる。
けれど、いつもいつも下の子に構っていると、上の子は我慢せざるをえない。
本当は具合が悪いし、正直かまってもらいたい日もあるのに、「お姉ちゃん・お兄ちゃんだから」という理由で放置される。
下の子が小さいうちならまだしも、ひどいのはこれが子どもがいい年になっても続くことである。
上の子が死にそうなくらい疲れていても、下の子にちょっと何かがあれば親はすっ飛んでってしまうのである。
ちなみにこれを親にぶつけると、またわけのわからない理論で返されるだけなので、もうやめよう。
勘違いしないでほしいのは、私達は何も下の子が憎いわけではない。
でも、自分だって子どもなので、親に見守られてる、愛されているという実感がほしいだけなのだ。
それなのに、いつもいつも下の子ばかり構われる、自分が我慢すればすまされる、そういうことを小さいうちからすりこまれると、
親の求める良い子であろうとして無理をし続けてしまうことになる。
でも、その無理ができてこそ自分は親に認められるので、限度いっぱいでもう無理ということをいつまでも言い出せないまま、
なんでこんなことを言い出したかと言うと、今私がこの状態だから。
我慢しないと見捨てられるし自分が我慢をすれば世の中のことはうまく回ると思っていた結果、
具合が悪くなって時々夜中に涙が止まらなくなったり、家の中にいると常に吐き気に襲われたりしています。
でも、これを誰にも言えないので、とりあえずここに投下してみたのです。
これを書いている間はちょっとすっとしています。でも、家庭にも社会にも私を私として受け入れてくれる人はどこにもいません。
こういう思いをしている人が他にいないか、あるいは下の子目線から「上の子が辛いとか言うのは傲慢だ」とか、
誰かが何かを言ってくれないと押しつぶされそうなので、とりあえず書いてみました。
アナと雪の女王はエルサは“Let it go”の歌で悪役から変わったのだという話があったけれど、もし悪役のままだったらというのを考えてみた。
エルサ:悪役
アナ:変わらず
ハンス:ヒーロー
クリストフ:ちょい役
戴冠式までの話は変わらず、アナとハンスは婚約をするがエルサが暴走して逃亡、アナが後を追う。
残されたハンスは氷に閉ざされた国で、国民が困らぬよう国を運営。王宮の食料を配ったり、薪を配給するなど細かいところにも気を配る。
国中を凍らせたエルサは勿論、国民をほったらかしのアナの人気が下がり、ハンスの人気は急上昇。
馬だけが戻ってきてハンスが捜索に行くのも変わらず。兵士はエルサを殺そうとするが、ハンスによって救われ城に連れ戻される。
国民のためにも氷だらけの国をもとにもどすようにハンスはエルサを説得するが、エルサにもどうすることもできない。
氷の魔法にかかったアナはハンスに事情を話してキスを求める。アナを愛しているハンスは勿論キスするが、魔法は解けない。
アナを救うためにハンスはエルサのもとに向かうが、彼女は逃げ出していた。エルサを追うハンスは港で彼女を見つける。
ハンスはアナの命が危ないことをエルサに告げ、一刻も早く氷の魔法を止めるように説得する。
魔法の力に苦しんできた自分に比べ、苦労を知らずに育ってきた妹、国をひとりで背負うことになった自分を手助けしようともせず婚約を決めた妹、そんな妹など凍りついてしまえばいい。
心まで氷になったかのような冷酷なエルサを前に、ハンスは剣を抜く。この国の皆を救うため、愛する人を助けるためなのだ。剣を振りかぶるハンス。
そこにアナが止めに入るのは変わらず。姉を思うアナの心にうたれて剣をしまうハンス。
自分を助けようとしたアナによって我に返るエルサ。しかし彼女の体はすっかり氷に変わってしまう。
慟哭したエルサは自らを凍りつかせ、砕けて粉々になる。
エルサの死によって、国を覆っていた氷は消えてゆく。
ハンスの見守る中、アナの体も元に戻り息を吹き返す。
めでたし、めでたし。
とあるゲームの「プレイすることで投票できる人気投票」のシステムを見て、これはよくできたシステムだなと思った。
子ども向けでありながら大友人気もある(この書き方でだいたい何のゲームか予想できそう)ゲームなのだけど、
大人の財力にモノを言わせた票操作が難しくなるわけで、非常にフェアなルールではないか。でも票数が開示されない怪しさ。
そこで、一般向けの似たようなシステムは何かと思い、カラオケランキングが思い浮かんだ。
http://joysound.com/ex/ranking/karaoke/total/weekly.htm
アイドルはほとんどいない。AKBですらトップ10に1曲入るのみ。ジャニーズはどこ行ったのという感じ。
アニソンやニコニコ発の曲も強い。奏はアニメカバーのおかげかと思いきや元々定番化している模様。
ただしアニソンでもCDランキングに入ってくるようなものではなく、やはり定番が決まっている。
アニメを含めた新しいアイドル曲は歌われないのか? そう結論づける前に年間アーティストランキングを見てみた。
http://joysound.com/ex/st/special/feature/2013year_ranking/index.htm
やっぱりアイドルは強かった。ここに来てEXILEや浜崎あゆみ、倖田來未なども食い込んでくる。
いわゆるマイルドヤンキーからの支持か。この概念あんまり好きじゃないんだけどさ。
「アイドルなんて特典つけなきゃこんなもんなんだよ!」と言おうとして調べたわりには、それを否定も皇帝もしない中途半端な結果が出た。
AKBの新曲が来週配信なのでもうちょっと後に調べた方が「やっぱりアイドルって人気だね」という感じが強くなったかもしれない。
2013の年間ランキングでフライングゲットの下にいた恋する~が今では週間で2位にいるのを見ると、アイドル曲の中でも定番の新陳代謝があるよう。
考えてみればカラオケはその場にいる人に聞かせるものなので(実際に聞いているかとか、本当に聞かせたいつもりかはともかく)、
定番に流れやすいのは当然だった。がっつりマイナーなアイドル曲はドルオタだって歌いにくい。
もちろん「歌いたいものを歌いたい」気持ちもあるので流行も存在する。let it go以外のアナ雪曲は映画見てない人からしたら聞き覚えのない曲だ。
そんな流行と定番の狭間にある日本人の空気の読み方と個性の出し方が見えてくる、それがカラオケランキングであると無理やり締めることにした。
追われて逃げたというと、留まりたかったのに逃げざるを得なかったというニュアンスだが、
そうではなく、パニクった末の逃走であって、追い詰められて立場を放り出したわけだろう。
そのあと一人になったところで、様々なしがらみを捨てて、吹っ切れた。
身構えない、かっこつけない、ということであり、
それが「無垢」のイメージにつながる。
自分探しというのは「自分を偽る必要のない立場を見つける」ということで、それも「ありのまま」だ。
言っておくが、これはおまえの言うところの「前者」、日本語としての「ありのまま」の話だぜ。
エルサは「ありのまま」なんて言っていない。
エルサが言う「let it go」は、「ありのまま」とは逆に、力を込めることだ。
力を込めてしがらみを吹っ切る、ということだ。
良き王であらねば、良き姉であらねば、魔法を隠さねば、そういう重しをぜんぶ放り投げることだ。
悪く言えばそれは「自棄」「無責任」「独りよがり」だけど、そこを肯定的に捉えるのが「let it go」という言葉なのだ。
そういうことなんじゃないのか。
AKBに切り込んだ(リアルな意味で)人がでて、おおと思ったら、本当に切りつけていた。
(が、どうでもよい)ちゃんと切り込めよ。
#言葉で、切り込んでもどーせ気づかねーんだし、寧ろこれぐらいしねーと
#こいつら気づかねんじゃねーの(鼻ほじ)、恋するフォーチュンクッキーはいい曲ね
正直、AKBのファンと呼ばれている人にはいい人も多かろうが、
大半はカモられている馬鹿だ。
日本人の草食性や、自分で決めたり、ものを解釈して判断してという
ブラック企業に楯突くこともなく、言われるがままに、あるがままに。
一つの文化として見た時に、確かに特殊で、独特の文化圏だと言える。
俺は滅茶苦茶一時期嫌いだったが、今やどうでも良すぎ。
※ゴールデンボンバーやその文化をうまく破壊しながらよいものを作成している
アメリカでもone directionはティーンのものであって、大人が食いついている
と馬鹿にされる。そういった、子供文化を馬鹿にする、という目線が無い。
例えばライムスターの宇多丸が下記のyoutubeで語っていたように
(舶来のものだからよいのではなく、良いものはよい)GREEEENのアホ馬鹿映画
#邦画ということであれば直近、桃井かおりに馬鹿にされていたが、
#ようやくそれぐらいになって気づく。
悪いものをクリティサイズできないということは、良い物を良いと言えないことと同義だ。
普段からそういう目で見てないのかな。
今宵山中は雪が白く閉ざし
その女王こそがあたし
風は吼える あたしの心の様に
抑えても噴き出した
神も見捨てるあたしの業
誰も来ないで
誰も覗かないで
いい子であらねばならない業
この気持ちすらも秘密
知られてはならない
知られてしまった
知らね 知ーらね
知らね 知ーらね
そっぽ向いて 全部拒否
知ったことか
何とでも誹れ
世界滅べ
寒さには慣れてる
あたしを苛んだ苦悩
あたしには今は無力
今こそあたしの力を示す時
限界をぶち破れ
あたしはあたしだ
知らね 知ーらね
あたしは暴風 あたしは荒天
知らね 知ーらね
あたしが泣かされるなどあり得ない
あたしは起ち上がる
あたしは此処に居る
世界滅べ
あたしの力は天地を貫き
あたしの魂は渦を巻いて世界を覆う
想いは凍てつく風となって顕れる
あたしは顧みない
過去は捨てた
知らね 知ーらね
夜明けの様にあたしは起つ
知らね 知ーらね
都合のいい子なんか知らね
あたしは起ち上がる
光輝きながら
世界滅べ
寒さには 慣れてる
The snow glows white on the mountain tonight
Not a footprint to be seen.
and it looks like I'm the Queen
The wind is howling like this swirling storm inside
Couldn't keep it in;
Heaven knows I tried
Don't let them in,
don't let them see
Be the good girl you always have to be
don't let them know
Well now they know
Can't hold it back anymore
I don't care
what they're going to say
The cold never bothered me anyway
Makes everything seem small
And the fears that once controlled me
It's time to see what I can do
To test the limits and break through
No right, no wrong, no rules for me,
I'm free!
I am one with the wind and sky
Here I stand
My power flurries through the air into the ground
My soul is spiraling in frozen fractals all around
And one thought crystallizes like an icy blast
I'm never going back, the past is in the past
And I'll rise like the break of dawn
Here I stand
In the light of day
※追記
今日は彼のお母さんを呼んで、一日早いけど母の日ということで二人で手料理を振る舞い、プレゼントを渡しました。
そんで寝る前にはてな見たらえらくブクマがついていて戦慄しました。
おかげで前に進めそうです。
わたし
30代女
見た目は年相応
駅弁卒
彼
30代男
見た目はなかなかのイケメン
専門卒
昨年から何度か
「彼氏と同棲しようとしている/同棲を始めたのだけど、なんかちょいちょいうまくいかない」
という内容を増田に書いている。
彼とは結婚に向けて少しずつ話を進めている。
互いに両親にも紹介済。
毎週金曜日は彼は職場のメンバーと飲み会なので、わたしも今夜は一人で近所のスシローで寿司を食べつつ晩酌をしている。
マリッジブルーというやつなんだろうけど、同棲を始めてから彼にみるみる冷めている自分がいる。
冷めている、と言っても、いびきがうるさいのも、おならが超くさいのも、バスタオルを惜しげもなくじゃんじゃん使うのも、そういうのは別にいい。全然いい。
こないだは、映画を一緒に見ていて、話の流れで「士農工商」ということばを彼が知らなかったということがわかった。
思わず
「わたしもべつに歴史とかそんなめちゃくちゃ詳しいわけじゃないけど、これはたぶん常識だから…」
と言ってしまったが、それが嫌だったようで彼は一人でしばらくイライラしていた。
たぶん同棲前までは、常に気を張って懸命に言葉を探しながらわたしと接してくれていたのだろうと思う。
ただまあ、知識がないというだけなら、まだいい。
それだけなら、なんとかなる。
彼はどうやら、そもそも頭が悪い。
「語彙が少ない」「論理的思考力に乏しい」のだ。
こんなに頭が悪い、というか、ものを知らない人だとは思わなかった。
「レツゴー、レツゴー」
って歌うから、ふざけてるのかと思って明るく笑いながら
「もう違うよ、レリゴーだよ」
って言うと
「え!レッツゴーじゃないんだ」
と照れくさそうに言う。
本当にレッツゴーだと思っていたらしい。
いやまあ、ディズニーに興味がないのは知ってるし、興味がないから適当にしか入ってこないのもよくわかる。
んだけど、さすがにそれぐらいは把握しとこうよ。
毎朝、ZIP!であんだけゴリ押ししてるじゃない。(うちは、平日朝は必ずZIP!と決まっている)
「Let it go」の「Let」の意味や用法までは知らずとも、彼もタイトル自体は何十回と目にしているし、ビートルズの「Let it be」がどういう歌なのかをなんとなくでも知ってて、そこに日本語版の「ありのままに」というフレーズも合わせて聞くなら、まあ原題のニュアンスは普通はわかるもんだと思う。
たぶん彼は、「Let」の用法は間違いなく知らない。それは仕方ない。
でも「Let it be」も知らない。聞いたことはあるだろうけれど、たぶん意味は知らない。
覚える必要があったわけではない。
今日までの日常で幾度となく見聞きする中で、自然と記憶に残っている。
ビートルズとか士農工商とかいうのは、そういうものじゃないかと思う。
思うに、情報に対する感度が違いすぎるのだ。
見聞きする機会は彼にもあったはずだ。
それを受け止めるアンテナがなく、記憶に留めるだけの容量もない。
知らないことを責めてはいけない、と思う。
わかんない人に寄ってきてほしくないので注記しますが、ビートルズだの士農工商だのレリゴーは、あくまで例示ですからね。
そのレベルのことを正確に知らないって、ホワイトカラーの社会人の知識量としてはどうなの、って意味です。
あと、はてなーはこういう話をするとバカのひとつ覚えみたいに「別れれば?」と言うが、すぐにそれを言う人は、別れずになんとかしたいからこそここにこういうことを書き連ねているのだということが理解できない人だと思うので以降話を聞かないようにしている。