はてなキーワード: ISDNとは
ネットが何でどういうものかを知らないで使ってる子が多いんだ。
スマホゲームとかね、アップデートでダウンロードするデータ量か多いと使用してるプロバイダだけのせいにする人がいる。
まあ、それは置いておいて、データ受信の遅さはプロバイダに限った話じゃない。いくらプロバイダの回線速度が速くてもデータ送信側のサーバの転送速度が遅ければ意味がないんだよ。
だから、それは例えばドコモ光が遅いとかauひかりが遅いとか一概にもそれとは言えないわけだよ。
じゃあ、ドコモ光とか速いのかよ!?って食って掛かってくる人がいるだろう。
凄い速いとは言えないね。だけど、地域によってかわるのはあるね。
食って掛かってくる君の地域が遅くても、他の人の地域では問題ない所もある。そういうこと。
あとね、これが一番勘違いさんが多いのだけどキャリアとかプロバイダが言っている速度は、あくまで試験をしたら『このぐらいまで速度が出た』っていうだけで、それを継続して出せるわけではないということ。
いわゆるベストエフォートというやつ。
過去の遺産のISDNみたいな回線ならまだしも、今の時代のネット回線は特に回線の品質保証が出来ていない。
電波の入りが悪い地域でも、ほんの少し端末を傾けたら速度が出るようになったってのはあるし、それで速度が出たら『ここもこれだけの速度が出ます』ってうそぶく事業者もいる。
なんも知らないのにあれは遅いこれは遅いって言ってるのは、あまりにも無知すぎるんだ。
おじいちゃんがハードディスクの容量をメモリサイズと言っちゃうくらい無知に近いのよ。
覚えておいて損はないんだよ。
ときはまさにブロードバンド黎明期、Yahoo BBとかができてISDNとかもう無いんじゃね?っていうくらいの頃、この頃のNTTは「ADSLなんでクズ、光ファイバーこそ至高」と言いつつちっとも光ファイバーになってなくて、とにかくISDNにつなぎとめるために必死だったらしい、そんな時代。NTTもADSLサービス自体は提供していたけどものすごくやりたくないという空気を出していた。
そんな頃のNTTとのやり取り
NTT「左様でございますか、まず、通信速度が出るかどうかは保証しかねます、最悪ISDNより遅くなります。またADSLに変えることで電話番号が変わります。万が一ADSLの速度が遅くてISDNに戻したいという場合も再度電話番号が変わります。また、元に戻す際も工事費用などがかかります」
オレ「???速度が遅くなった例はあるんですか?」
NTT「はい、お住まいの地域ですとあのへんとこの辺はかなり遅いようです、お客様がお住まいの辺りについては情報がまだございません」
オレ「早くなることもあるんですよね?」
NTT「はい、ですが早くなった地域は申し上げることができません」
オレ「え、なんで?遅くなった地域については言えるのになんで早くなった地域については言えないんですか?」
NTT「遅くなった事例ならいくらでも出せるんですが、早くなった事例は出せないんです」 <ー なんだそれ?
NTT「え?遅くなるかもしれませんし、その場合工事費も余計にかかるし、電話番号も何回も変わりますよ?」
オレ「変えます」
NTT「ー」
変えたことで、ISDNの64kbpsから1.5mbpsくらいまで増えた。なんだよNTT脅かしやがってくらいにしか思わなかったけど、これって問題あるやり取りな気もする。
なんでこんな感じのやり取り許されてたんだろうな。その後光ファイバーになったわけだが、当時のNTTのアンチADSLが本当にひどかった上にユーザーに不利益乗っけ過ぎだろう。
匿名で自分のログを世の中に浮遊させ、そして拾って頂けるのは楽しかったです。
長く続けるとバカなので何処かで絶対にボロが出る。なのに書きたくなってしまった。
再投稿です。きちんと上がらなかったように見えたので、消してしまって、もうええかと思ってしまったのだけど、
見たかったというコメントを見て、少し修正して上げることにしました。こんな駄文にありがとう。
https://anond.hatelabo.jp/20210130001953
https://anond.hatelabo.jp/20210131035752
これらの続きです。
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前回のエントリでずっと4GBのメモリとともに作業していたと書いたが4GB以下が正しい。
最初の現場は128MBだった。あと、盾を鉾と書いていた。この誤字脱字と誤用の多さで私のプログラマとしての質の低さもなんとなく察して頂けるだろう。
◯結婚した話◯
何故か結婚の話が書かれていないという書き込みが幾つかあったので結婚の話から。
30歳を越えてから趣味が充実していた事もあって周囲には煩く言われるものの、結婚を考える事はあまりなかったし、結婚の分岐に入ることが必ずしも幸福につながる選択肢とは限らないと考えていた。
この考えは今も変わらないが私は運良く幸福につながるほうへ入ったようだ。すまんな。
何せ30歳を越えてからは同じ趣味のおっさんの友人たちと焼き鳥屋であーだこーだいいながら企画を練り、イベントを立てたりするのが楽しくて仕方がなかった。
20代があまりにも労働をしすぎた。22歳から28歳までの6年間、年俸制なので一円も残業代が出ないのに月300時間勤務を2年半はやったと思う。最初のうちはISDN接続のテレホタイムでのネトゲが自分のゴールデンタイムであり、息抜きの時間だった。
時代が今なら渋谷凛か風野灯織に貢いでいたことだろう。長い労働時間は人生の搾取だ。
嫁は異業種の人で、友人のボカロPのファンだった。彼のライブに通ううちに顔なじみになり、少しだけ会話をするようになった。
ある時行ったライブが月曜夜の開催ということもあって若い人が多く、ライブハウスの中でスーツを着た客が私と嫁しか居なかったので思い切って「今日はスーツ、我々だけですね」と話しかけ、そこから色々な話をしたのを覚えている。いやらしい。
ボカロPのライブでの出会い、つまり私が結婚出来たのは初音ミクさんのおかげだ。
30歳になったあたりからようやくIT業界に過残業を何とかしようという機運がやってきた事、そして定時で上がる精神的な胆力がついた事で音楽を作る時間的精神的な余裕が出来、人との交流が生まれ、ライブに行く機会が出来たから私のような人間でも結婚出来たのかもしれない。しらんけど。
国勢調査によると35歳を過ぎてから結婚した男性は約3%らしい。私は一生分の運をこれで使った。(正しくは6.8%だと何処かの教授が言っていたが)
自分が居た現場の雑感だと、同じシステム開発現場でも大手SI や 大手SI子会社のほうが結婚している人が多かったように思う。多重派遣はやはり収入面で結婚に対してネガティブな意見を聞くことも少なくは無かった。
若い頃は親にも親戚にも「そろそろ結婚も考えないといけないだろうから派遣社員辞めないとね」と言われたことを思い出した。SESの増田は一度は言われたことがあるだろう。
世間一般的には技術職というイメージよりも派遣社員というメージが強く、収入面も相まって世の中の反応厳しい。
普通の一般派遣と請負の派遣の人が混在している現場が多いと思うが、前者は1人でも派遣が出来、上位会社の現場のリーダーが直接指示をすることが出来るので最近はその方が多いように思う。
ところが、一般の派遣会社として登録するには資本金が多くないとダメで、派遣法が改正されたあたりで資本金が少ない会社は請負の道を選ぶしかない。
そうすると複数人で現場に行き、自社のリーダーに仕事の指示をされる形になる。ただ、コレは守られていない現場が多い。
さらに、大手や大手子会社と取引を直接行うのにも資本金の大きさ・設立してから何年等の条件があったりもする。
資本が少ない会社は資本金の多い「別な会社を迂回して」契約する。そこに多重派遣ができる仕組みの1つがある。上位請負の営業が◯◯社経由しろという場合、利権・癒着の場合もあるのだろう。
新人の時、パワハラの教育担当に私が毎日何度も怒鳴られているのが流石にプロジェクト内で目に余るようになったらしく、私はドキュメント整理という新たな仕事を貰う事になる。
炎上プロジェクトの為、全く作られて無かったクラス図をソース等からRational Roseで自動生成し、体裁を整えて他の設計書も含め印刷をした。同じものを2部作るのだが、何故か同一性保持という理由で一部はコピーで制作。分厚いバインダーに綴じた。
印刷とコピーで休憩もせず毎日終電の生活をしていた時、PMに「広島の二番バッターみたいだなおまえ」と言われたのを覚えている。コツコツやるけど面白みがない人間だと言われたのだ。
要領の悪い私に休憩のタイミングなんて解らなかった。ましてやパワハラマンに使えないと毎日散々どやされ続けた後なので尚更である。
その経験から私は同じプロジェクトに居る若手に「そろそろ1回休んだら?」「いつまで働いているの?増田がそろそろ帰れって言ったって言ってもいいよ」となるべく声をかけるようにしていた。モテそう(モテなかった)
この時、たまたま席が空いているという理由で隣に座っていた方が、のちに難易度が高い事で有名な銀行統合の現場の某SIのトップになっていた。プロジェクトの雰囲気は良くなかったが、いつもにこやかで私のような末端にも優しかったのを覚えている。出来る人は余裕がある。
印刷業務が終わった後、入社してからずっとテストだけをやらされていた1年上の先輩のアベさんと、とうとうプログラムの修行に出してもらえる事になった。
新規開発のプロジェクトである。プログラムも一杯書けてラッキーなのではと思っていたのだが、自社の人間はアベさんと私だけで、あとは上位会社のPMと、更なる下請けで構成されていた。
現場のリーダーも下請けの人で、この人が私とアベさんの教育係という事になった。
自社の営業が初日に来て「この子達よろしくね」とリーダーに伝えた所、「任せてください!」と良い返事をしていたが、自社営業が居なくなった翌日から面白いくらい態度が一変することになる。
何を聞いても露骨な悪態をつき教えてくれず、技術的な質問も一切受け付けない。
流石にアベさんと自社の営業に伝えたのだが、翌日朝私のところにやってきて「チクったな」「自社の人間でも無いお前らに教える余裕はない」と言われてしまうだけで特に事態の改善はされなかった。パワハラ上司の次はこれだ。駅のホームドアは大事なので全駅に付けて欲しい。
救われたのはインターネットが使える現場だった事だ。とはいえ、なんせソースレビューも私とアベさんで互に行うので、技術的な進歩がまるで無い。
ある時、私が書いたプログラムがメモリを使いすぎてフリーズするようになり、問題になってしまった。他にも技術的に問題のあるプログラムを書いてしまった事が続いたのと、リーダーに対してハッキリとモノを言うことも災いし、PMの判断で半年でプロジェクトを出ることになってしまった。
もっとうまく立ち回る事も出来たように思う。しかし、若造は人生の経験値が足りなかった。
多重派遣の大きな問題として、現場ガチャにより環境が大きく変わるというのがあるだろう。2~3年も我慢すれば大抵の場合次の現場に行けるのかもしれないが、短い人生の2~3年は少ない数字ではない。
請負ではなく一般派遣扱いで来る技術者の中には新人なのに1人で派遣されてくる人も多い。そんなのは新人教育とは言えないと思うのだが、どこの会社の募集要項にも新人教育はバッチリと書いてある。
その「新人教育」とやらの実態というのは大抵の場合、外部で行われる初心者研修と、自社の営業が「この子よろしくね」と現場に伝える程度の事でしかない。
社会人としての新生活での不安、技術的な不安、誰が教えてくれるのかも解らない不安、定時になっても誰も帰らない・帰って良いとも言われない、作ったものの品質の不安、数多くの不安を抱えて過ごさなければならない。ちゃんと相談出来る人も現場に居ないのである。
技術的な所は勿論、精神的なケアも必要な時期だと思うのだが、このような体験を20代前半でしないといけないのはどうも無駄な苦労をしているようにしか私には思えない。
ただ、新人が伸びる為に必要なのは「経験者によるソースレビューによる指摘」が必要不可欠だと私は思う。レビューを先輩・上司が行い、新人が書いたコードの信頼性の担保が出来ないと、余計なバグを生み、可読性・メンテナンス性も落ちるだろう。
なによりバグを出してリーダー・PM・顧客に「こいつ大丈夫か?」と思われるストレスの大きさと自信喪失感は長く忘れられない。
余談だが、最初の教育担当のパワハラ先輩とはその後別な現場で一緒になった。しかも彼は会社の倒産後、上位請の会社に転職していたので私に仕事を振る立場として現れたのだ。全く知らなかったので顔を見た時は「ヤバい現場に来た」と焦ったのだが、「あの時は俺の頭がどうかしていた。申し訳ない」とまず謝られてしまった。驚くほど柔和な性格になっていて棘が全て抜け落ちていた。その後一緒のプロジェクトの間はたまに昼飯を一緒に行くまでになった。
約1年一緒に働いたが一度もドヤられる事は無かった。許せるか許せないかは別として、パワハラをするほうにも何かしらの事情や背景があるのだなと一つ学んだ。
社会人1年目の忘年会はゲイのショーパブの観劇だった。そこでアベさんはダウンタウン浜田の高校(全寮制男子校)の同級生というママに唇を「むちゅーーー!!」と音が聞こえるような熱烈な口づけをされ、人生のファーストキスを奪われていた。私は隣でただ震えるしかなかった。
知人もなく上京してきた為、他の社員と交流する帰社日をそこそこ楽しみにしていた私は怒りのあまり社内報に若気の至りで”ボロクソ”に書いた所、社長の目にとまり、翌年から忘年会の幹事を任されることになってしまった。なにせショーパブの観劇は社長の要望だったのだ。
そして、普通の居酒屋で特に弾まない会話をして終了をする忘年会を2年繰り返した。
自社の忘年会を面倒に思うベテラン社員は多く、各現場に電話で来てくださいねと念を押して来て貰ったのに参加者が全然楽しそうではないのだ。
普段それぞれが別の現場に居る人なのでそれほど同僚感も無く、特に仲も良い訳でもないので会話が弾まないためだ。良かれと思って2時間半飲み放題にしたが、本当に盛り上がらない。
「なるほど、これで会話をしなくて良いイベント(且つ社長の趣味)がブッキングされたのか・・・」と理解した。
その経験があり、”自社”に缶ビール等の各種アルコール・ノンアルコール飲料とテイクアウトの料理を用意し、16時開始、17時から随時帰りたい人は帰る。という方式に変えた所、立食(椅子も勿論ある)で仲の良い人の所に居て彼らとだけ話すことも出来るし、色々な人と交流することも可能になった。時間が短いために会話のネタに困ら無い事も功を奏し、思った以上に盛り上がる事が出来た。
子供が出来た今ようやく思うに至ったが、子育て世代も延長保育やパートナーにお願いすることもなく早めに帰れて良かったはず。殆どは17時から続々と退社していたが、以前は無かった有志の二次会組もいくつかあったようだ。参加者にも総務部長にも「毎年これで良いね」と言われ、ほっとしたのを覚えている。
何が正解かは解らないが、業務時間内で終わる自社での短い時間の立ち飲み(椅子席あり)は好評だったので、幹事をやらされがちなSES増田は参考になれば良いなと思う。
基盤まわりの仕事をしていた時、あまりにもプロジェクトでメモリの初期化漏れが頻発して問題となり、プロジェクトのお偉いさんが捻り出したアイデアが「”物理”メモリ全部を定期的に端から終端まで0で埋める」というものだった。
そしてそれをどう実現するか?という会議に呼ばれたのだ。
指を使い「物理メモリを”端から””端まで”全部、プログラムが動かない時間に定期的に一回ゼロで埋めればいいじゃない?」との説明があった。
これは良いアイデアだとご満悦の上役と、違和感を覚えない他のベテランの参加者達。
「まず、仮にこれが実現出来たとして、サーバーが立ち上がった時点でOSやミドルがメモリを利用していますが、どうしますか?OSもミドルも当然落ちます。」
「メモリですが、皆さんが普段変数宣言やmallocで受け取っているメモリの番地ですが、全て仮想メモリのアドレスなのはご存知ですか?」
「我々のような庶民は直接物理メモリアドレスに仕組み上アクセス出来ません」
「物理メモリにアクセスするにはカーネルのプログラミングが必要になります」
「メモリにはユーザープログラミングで触れる事が出来る層と、カーネル層という仕切り、さらに仮想メモリ・物理メモリという仕切りがある為に、堅牢性を保持している云々」
ここまで伝えても皆ピンときていない。文章にすればまだ解るが所為オタクの早口の説明なので当然、私の話術にも大いに問題はある。
もしかして自分が間違っているのか?このままだと私がこの対応をやらされる羽目になる。
私は交渉事でうまく立ち回れる技を持っては居なかった。なので、最後の手段に出た。
「だからこんな方法は絶っっ対 実現できないんですよ!!!」と突然のブチギレ。いや、出来るのかもしれんけど。
一同ポカーン。突然のメガンテを使った私に皆パルプンテ状態になり、
「増田がココまで言うのなら出来ないんだろう」という事になった。
正直、高い技術も必要ない汎用的なシステムの開発現場のなんてこんなものだ。AWSもGitHubも触ったことのない私があえていおう。
最初のエントリーに業務時間内に勉強させろと書いたが、目的が無ければおそらく時間があっても、「私は完全に仕事をしています」という顔をしながらviで青空文庫やアマチュアの小説を読んでいた時間の方が長かったのではないかと思う。