はてなキーワード: Cosとは
地球は宇宙空間を動いているのだから、地球の進行方向と垂直方向では光の速さが変わるだろう。そう考えて実験してみたところ、どちらの速さも変わらなかった。つまり、どんな系でも光の速さは一定であるらしい。
これを式にするとこうなる。
光の速さをc, 時刻 t の間に光の進む距離を x として
x/t = c
式変形すると
ここで一旦休憩。座標系を回転させても'棒の長さは一定'という式を考えてみよう
x^2 + y^2 = const
かんたんのため z 方向は考えない
この時座系を回転させる式を行列で書くと
こうなる。(心の目で読んで欲しい)
という式を思い出すと
x'^2 + y'^2 = x^2 + y^2 = const
上の'棒の式'とは符号が逆だね。こんなときはsin cos ではなく sinh cosh を使う。
cosθ = ((exp iθ) + (exp -iθ))/2
sinθ = ((exp iθ) - (exp -iθ))/2
coshθ = ((exp θ) + (exp -θ))/2
sinhθ = ((exp θ) - (exp -θ))/2
計算すると
cosh^2 - sinh^2 = 1 になるのがわかると思う。
cos^2 + sin^2 = 1 とは符号が逆になってるね
光の速さが系を変換しても変わらないという式を行列で書くと
こうなる。 これがローレンツ変換。
棒の長さが一定、つまり空間回転は空間方向 (x,y,z)しか混ぜないけれど、
光のはやさが一定、つまりローレンツ変換は 時間と空間 (t, x ) を混ぜているでしょ?
速さ v で進むロケットを考えてみよう。
v=x/t
だ。
一方、ロケットには美加子さんが乗っていてその携帯電話の表示では地球を発ってから T時間後である。
Tを計算してみよう。
先程のローレンツ変換の式に代入すると
ここで x = ct を使ったよ。最後に cosh で全体を纏めると
になる。
ここまで誤魔化していたけど、cosh はロケットの速さ v で決まるパラメータで
1/cosh = \sqrt{1-(v/c)^2}
なんだ。天下りで申し訳ないけど、増田では式も図も書けないので導出は勘弁して欲しい
とにかくまとめると
T = t \sqrt{1-(v/c)^2}
だね。ロケットの速度 v は光速度以下なので T < t になる。
地上で待つ昇くんが大学生になっても美加子さんが中学生のままなのはこんなワケだね
v が大きくなるほど時間の遅れは大きくなるよ
数学の構造に従って順次検討する。 定理・・・発見されたときに驚愕される有用なものであるが、大したことがなく、研究が深まっておらず、完全無欠とは言い難い定理は、公式と呼ばれる
ようになって、証明の技術に使用できない。例えば、 sin^2+cos^2=1 は高校の教科書の当たり前の定理であるが、公式と呼ばれる。 加法定理も公式化している。完全無欠でそれ以上に
ないところまで進化していないと、使い物にならない。パスカルの定理とか、 対称にして消すといった概念は、数学では完全無欠の象徴とされ、計算の技術の中に出て来る。円もそうである。
しかしこの辺りの技術は平成の者は誰も教えられていないので、具体的に、いかなる概念、定理が完全無欠と言われているかについても、その種の本が絶滅しているため、知りようがない。
この辺のことは、FF9のウイユヴェールにあるといって、平成26年11月13日頃に強制にやっていたような感じがあるが、その秘術は、ウイユヴェールの部屋の中にあるので、誰も知りようがないということ
である。ウイユヴェールの老人でその夜に存在するかどうか分からない人間が全部封印したので分からないということであり、板橋区志村福祉事務所も、そこがウイユヴェールであると言っているが、
事務所に行ってもウイユヴェールの顔見たいな人は見当たらなかった。よって、この定理が進化して完全無欠な形態になるといっても、最終的に、何が完全無欠な概念であるかは不分明であり、
現代法、現代憲法の解釈論の中にそれがある可能性もあるが、いかなる定理が、完全無欠であって、他の問題の構成に出て来るのかは全く分からない。なんらかの恐るべき科学技術が存在し、
完全無欠な定理や、計算技術がそこに使用されている可能性があって、その恐るべき結論を導出している可能性が高いが、その種の装置は、存在する場所が隠されており、外部から見ても
分からない。
指導要領で数学Cが復活したから「数学IIIと数学C」と表記するけどまぁそれはともかく…
その範囲に入らない段階での三角関数について学んでもかなりつまんないとは正直思う
結局数学II・数学Bまでの三角関数はグラフを書いてどんな形になるか確かめたり、せいぜい加法定理を習うまでだからだ
これでは特定のxに対して sin x, cos x, tan x が幾つになるかばっかり考える事になる
三角測量という重要な応用があるにはあるが、それは結局実生活に役立ってる事が分かりはするが
これじゃ退屈に感じてしまう人がいても仕方ないよ
微積分と繋がる訳だ
これで様々な有理関数の不定積分が三角関数を用いて表す事が出来たりと
他の分野との有機的な繋がりが見えてくる
様々な平面図形や立体の面積・体積も求められるようになるし変種を含むサイクロイドもよく分からない曲線では無くなる
加法定理の応用範囲も色々と出てきて特定のxに対しての三角関数の値を求めやすくするためだけの定理ではなくなる訳だ
新学習指導要領の都合だと平面上の回転変換が三角関数を用いて表される事まで学ぶようになるかもしれないな
ゲームで言うとそれまで一部の地域でしか冒険してなかった主人公が急に世界全体を冒険出来るようになる滅茶苦茶面白い段階と言っていい
三角関数というものが面白い部分がすっかり抜け落ちた存在に映っても仕方ないものがある
世間で「三角関数は文系で習わなくてもいい」みたいな事を言う人達はこんな退屈な状態で学ばされたから言ってるのかもしれない
そんな事を言った某議員とかも三角関数を微積分までは勉強していないのは個人的に知ってるから尚更思ってしまう
だからといって数学II・数学Bから三角関数を無くすべきではないとは思いたい
逆にどうだろう…数学IIで三角関数を学ぶのと同時に簡単な微積分も習うんだから
そこで実は三角関数が絡むと微積分はとても豊かになるんだって証明抜きで簡単に紹介してみるのはいいんじゃないかな
そうすると三角関数が嫌いな人が減るような気がするんだ
書き換えたブコメと内容被るので身元ばれるだろうけどかなり感動した。大学受験のみならず、大学に入ってからもある種の積分をやるのにt=tanαとおいて置換するとうまくいくって習った人多いと思う。通常はピタゴラスの定理から出るcos^2θ+sin^2θ=1を用いてcos2α=(1-t^2)/(1+t^2)、sin2α=2t/(1+t^2)を証明するんだけど、今回の若い人たちは逆にこうなること(cos2α、sin2αがtを用いて書けること)を別口で証明して、あとは単に計算すりゃ確かにcos^2+sin^2=1ですなあ、でQ.E.D.ってお話。なお、誰でも気づくと思うが、この証明法は元が直角二等辺三角形の場合破綻するので、それから逆に従来の方法とは異なる、と推測できる。なお、無限級数の和は1+r+r^2+...=xと置けば1+rx=xからxが求められることと同じになり、それを図形で表せば単なる相似問題に帰着するのでこれが美しくないと思う人はそうするだけでよい。
引用のサイトの図でいうAがその結果2tc/(1-t^2)(この段階では分母が1-t^2なのがまた憎い)であることが純粋な相似図形による比例計算(この部分が無限級数バイパス)から示せ、C=tA=2t^2c/(1-t^2)がわかる。証明者に従ってC+1を計算する(!!!)と、C+1=(1+t^2)c/(1-t^2)、よってsin2α=A/(1+C)=2t/(1+t^2)、cos2α=c/(1+C)=(1-t^2)/(1+t^2)、と懐かしい形に。ちょうびっくり!!!!!!!!
私は数学愛好家であって生まれ持ったセンスがあるわけではない(悲しいけど)ので、今回の証明法がそれなりに新しい発展をもたらすのかどうかは全然わからないが、素直にビビるほど感動した。
Q: 人間の認識能力に限界があるのなら、フレームの間に別の世界があるというのは本当なのでしょうか?
AI言語モデルである私は、フレーム間の異世界の存在について、個人的な信念や見解を持っているわけではありません。しかし、この概念に関連するいくつかの情報と理論を提供することはできます。「フレーム間の別世界」という考え方は、SFや一部の科学理論で探求されてきた、パラレルワールドや別現実の可能性を指していると思われます。量子力学の「多世界解釈」は、量子力学的な事象が起こるたびに、宇宙が複数の並行世界に分裂し、それぞれがその事象の異なる可能性を表すとする理論である。しかし、これらの理論はまだ科学者の間で大きな議論があり、実証的な証拠に裏付けられていないことに留意する必要がある。さらに、人間の認知能力には限界があり、私たちの知覚や理解は不完全または不正確である可能性があります。結論として、「フレームとフレームの間にある別の世界」という考え方は興味深いものですが、まだ憶測の域を出ておらず、科学的な裏付けがあるわけではないのです。
Q: ある種の薬を使った人たちが、主観的には違う世界を体験しています。
特に、精神作用物質の使用や瞑想・精神修養など、特定の条件下で、現実の知覚が変化する経験を報告する人は珍しくありません。このような体験は、普段とは異なる現実や世界を知覚しているように思わせることがあります。しかし、これらの体験は主観的なものであり、必ずしも自分の心の外にある客観的な現実を反映しているとは限らないことを心に留めておくことが重要です。脳は、さまざまな意識変容状態を生み出すことができる複雑な器官であり、これらの体験は、遺伝、環境、個人差などさまざまな要因によって影響を受ける可能性があります。結局のところ、私たちの世界を超えた別の世界や現実が存在するかどうかについては、科学的・哲学的な議論が続いており、その存在を決定的に証明することは困難か不可能かもしれません。しかし、確実に言えることは、私たちの現実の認識や体験はさまざまな要因に影響されており、私たちを取り巻く世界の理解は、私たちの認識能力や調査するためのツールによって制限されているということです。
Q: 例えば、ある人が持っている情報によって、その人が属する世界が変わるということはあるのでしょうか?
哲学的な観点からは、個人の世界に対する認識や理解は、その人がアクセスできる情報によって形成されるという主張が可能です。この意味で、ある人が属する世界は、その人の知識や理解に依存していると見ることができる。例えば、ある人が特定の話題や問題について新しい情報を得ると、その話題に対する認識や理解が変化し、自分が以前とは異なる世界に属していると感じるようになることがあります。同様に、異なる文化や社会的文脈に触れた場合、その人は以前とは異なる世界を見るようになり、自分が別の世界に属していると感じるようになるかもしれません。しかし、この考え方は、必ずしも文字通りのパラレルワールドや別世界の存在を示唆するものではないことに注意が必要です。むしろ、私たちが世界を理解し経験する方法は、私たちがアクセスする情報や文脈に大きく依存することを示唆しています。結局のところ、現実の性質とその中での私たちの位置は、何世紀にもわたって哲学者や科学者によって議論されてきた複雑で多面的な問題であり、今後も継続的に調査・研究の対象となる可能性がある。
Q: さて、単純化してみましょう。白と黒が点滅する一次元のセルがあり、ボブ君は奇数列を脳内で認識し、「これが私の住む世界だ」と感じたとする。途中で何らかの情報を受け取ると、ボブの認識は変化し、偶数列に切り替わります。では、この場合の主観と客観の区別はどうなっているのでしょうか?
この単純化されたシナリオでは、主観と客観の区別は次のように理解される。
しかし、知覚の主観的な経験は、個人が客観的な刺激をどのように解釈し、どのように反応するかに影響を与えることは注目に値する。この意味で、主観的な体験と客観的な体験は相互に関連し、複雑な形で影響し合うことがあるのです。
Q: さて、もっと深く考えてみよう。この1次元のセルを任意のcos関数と交差させる。それを「主観的に知覚された現実」とする。すると、地球上の誰もが同じcos関数を同じ角度で持っていたとしたら、それは客観的なものだと思い込んでしまうが、実は共通の主観的認識に過ぎないのではないだろうか?
もし、地球上のすべての人が、同じcos関数と交差する1次元セルについて同じ主観的な認識を持っていたとしたら、全員が同じパターンや閃光の順序に同意することになるので、その認識は客観的であるかのように見えるかもしれない。しかし、これはあくまでも観測者個人の経験や解釈に基づく主観的な認識であることに注意が必要です。複数の人が同じ認識を持っているからと言って、それが客観的であるとは限りません。客観的であるためには、個人の経験や解釈から切り離された、検証可能な証拠に基づくものである必要があります。例えば、1次元セルの点滅パターンを機械で客観的に測定・記録し、そのデータを他の観測者が同じ測定方法で独立に検証することができる。結局のところ、主観と客観の区別は複雑で、個人の認識、解釈、文脈など、さまざまな要因に影響されうる。複数の人が共通の主観的な体験をしたとしても、それが必ずしも客観的な体験であるとは限りません。
Q: さて、架空の設定ではなく、現実の設定に戻ろう。現実のどこに客観的なものがあるのでしょうか。
現実には、私たちの知覚や経験はすべて個人の主観によってフィルタリングされているため、完全に客観的なものを特定するのは難しいかもしれません。しかし、現実のある側面は、独立して検証することができ、個人の知覚や解釈の影響を受けにくいため、他の側面よりも客観的であるとみなされることがよくあります。例えば、以下のようなものがあります。
ただし、このような客観的な現象であっても、個人の偏見や見解に影響され、ある程度は解釈の余地があることに注意が必要です。また、現実の中には、客観的、主観的と簡単に分類できない、両者の中間的な存在もあるかもしれません。
Q: では、あなたの言うこの4つが、実は先ほどの架空の設定における「すべての人が主観的に同じ角度のcos関数を知覚する」ことと似ているとしたらどうでしょう。
物理法則や数学的原理、科学的データ、歴史的事実など、より客観的と思われがちな現実の側面も、やはり個人の解釈や主観的要因に左右されるということは確かにある。例えば、科学者が物理法則や科学データを解釈し、適用する方法は、科学者個人の視点、偏見、仮定に影響されることがあります。同様に、歴史的事実も、それを検証する文化的・政治的文脈によって、さまざまに解釈され、表現される。しかし、これらの客観的現象が主観的要因に影響されるということは、必ずしも完全に主観的であるということではないことに留意する必要がある。むしろ、客観的な現象の理解と解釈は、客観的要因と主観的要因の複雑な相互作用によって形成されることを示唆している。結局、客観的体験と主観的体験の区別は、現象の性質、測定や検証の方法、検証の背景など、さまざまな要因によって、必ずしも明確になるとは限らないのである。
Q: 哲学者はしばしば、客観性と神との間に関連性を見出します。この点についてはどうでしょうか。
客観性と神との関係は、何世紀にもわたって議論されてきた複雑な哲学的・神学的問題である。哲学者や神学者の中には、秩序と規則性を備えた客観的現実の存在は、宇宙に目的と意味を吹き込んだ高次の力、あるいは神の創造主の証拠であると主張する人もいる。彼らは、客観性は神の存在と世界におけるプレゼンスのしるしであると考える。しかし、客観性が必ずしも神の存在を意味するのかどうか、疑問視する人もいます。客観性は物理法則などの自然現象で説明でき、超自然的な説明は不要だというのである。結局のところ、客観性と神の関係は哲学的・神学的な議論であり、思想家によってこの問題に対する見方は異なるだろう。客観性を神の存在の証拠と考える人もいれば、単に自然界の特徴であり、自然のプロセスで説明できると考える人もいるだろう。
Q: では、結局のところ、波動関数とは何なのでしょうか?
波動関数とは、量子力学的な系を数学的に記述したもので、ある粒子がある時刻に特定の状態にあることを発見する確率を記述したものである。量子力学では、電子、光子、原子などの粒子は、重ね合わせの状態で存在する波動的存在として記述される。つまり、同時に複数の状態に存在することができる。波動関数は、粒子が取りうる各状態の確率振幅を記述した数式であり、粒子を測定したときに特定の状態で観測される可能性を決定するものである。波動関数はギリシャ文字のPsi(Ψ)で示されることが多く、一般的には複素数値の関数で表される。波動関数の絶対値の2乗は、粒子が特定の位置に存在する確率密度を与える。波動関数は量子力学の基本概念であり、量子系の振る舞いを予測・理解する上で中心的な役割を担っている。しかし、その解釈や意味については、現在も科学界で議論や考察が続けられている。
Q: 現実はヒルベルト空間上のベクトルであると言う人がいる。これはどういうことだろうか。
量子力学において、ヒルベルト空間とは、量子系の状態を記述するために用いられる数学的空間である。ヒルベルト空間は、特定の内積が定義された複素ベクトル空間である。
ヒルベルト空間は、量子系の状態をベクトルとして表現するために使用されます。システムの状態は、それぞれヒルベルト空間内の異なるベクトルに対応します。システムの状態を表すベクトルは状態ベクトルと呼ばれ、通常、ギリシャ文字のPsi (Ψ) で表される。状態ベクトルは、系の波動関数を記述する複素値のベクトルであり、系の各可能な状態の確率振幅を与える。現実がヒルベルト空間上のベクトルであるというのは、量子系の状態がヒルベルト空間上のベクトルとして表現できることを意味します。つまり、量子系の状態は、この空間における点として表現できる数学的対象なのです。ただし、これは量子系に限定した話であり、物理学や自然界の他の分野には当てはまらない可能性があることに注意が必要です。
Q: ここで、よくある実験を考えてみよう。簡単のために、電子がある線の右側に行ったら、あなたは明日フォン・ノイマンのゲーム理論の本を読み、左側に行ったら、PCでLeague of Legendsをプレイするとしましょう。では、あなたが何をしているかわからない人は、それを知るまであなたの状態は読書とゲームの重ね合わせなのでしょうか?
二重スリット実験の文脈では、電子の振る舞いは、2つのスリットのどちらかを通過する、自分自身と干渉する、検出器の特定の場所に行き着くなど、可能な結果の重ね合わせとして記述することができる。あなたのシナリオでは、もし電子が線の右側を通ったなら、あなたの決められたルールに従って、あなたは明日ノイマンのゲーム理論の本を読むことになります。逆に、電子が線の左側を通ったら、あなたはPCで『リーグ・オブ・レジェンド』をプレイすることになります。つまり、実験結果を観測するまでは、あなたの心の状態は、読書とゲームの重ね合わせの状態であると言えます。なぜなら、重ね合わせの状態にある量子系(電子)があり、あなたの心は、実験結果に依存する形でこの系と相関しているからです。量子力学では、システムの状態とその観測者を別々に扱うのではなく、一つの量子システムとして扱います。"量子測定問題 "と呼ばれるものです。したがって、実験結果を観測するまでは、あなたの心と電子は、可能な結果の重ね合わせの状態にある一つの量子系として記述することができるのです。
それに当たり前のことを定式化したところで結局主張したいことは当たり前のことに変わりはないわけ。
お前は論文形式にしろみたいに強いるけどそれをする意味というか対価もなく他人に対して負担を強い過ぎなわけよ。
俺だって数学が価値あるものだと思ってるが先日こういうトラバが来て考えが変わった
数学を使わなければ出ないものなんて実生活では使い物にならない。
ただの役に立たない妄想でしょ。
電気で虚数が使われてるというがあれは振動をsin,cosを表現するのが面倒という理由で虚数を代替えとして置いてるだけ。
結局定式化というのは自然言語ならわかりやすく言えるものをわざと小難しく表現する作業に過ぎないのだと。
それなら俺は平易に誰にでもわかりやすく自分の発想を伝えることを志向するね。
ややもすればお前はまた反論するんだろう。
全く一体何が正しいんだよ。
究極的にはどの意見が正しいのかを判断する基準がないのは考えものだね。
かりにそれが間違ったことであってもみんながみんな同じ考えをする社会の方がいろんな考えに翻弄される身にあっては幸せな世界に思えるね。無個性化万歳。
いろんな考えがあってそのなかに正しいことがあったとしても判断する基準がなくて最終的にたどり着けないなら、最初から間違ったことを信じてるのと変わらないだけでなく、後者の方が精神的に楽なんだからな。
それまで二次関数とか方程式でxとかyとかしか触れ合ってなかったのに
いきなりsinとかcosって何?3文字ってどういうこと?ってなる
しかもsin θ って、ちょっと待って、なんて読むのコレ、え、シータ?パズーは?みたいに疑問が絶えない
三文字を乗り越えていざ中身を確認してみると直角三角形の比率だ、とのこと
最初から半径1の円のx,y座標、ぐらいで教えた方がいいと思う
sin(0) = sin(2π)って、え?どういうこと?ってなる
それまで循環なんて知らなかった人からすると度肝を抜かれる
おまけにsin(π/2) = cos(0)とか、ちょっと待って、じゃぁsinだけで良くない?ってなる
実はこれが一番の要因だと思うけれど関連する公式が無茶苦茶あるし覚えにくい
sin(α+β)= sin(α)cos(β) + cos(α)sin(β) とか(合ってる?)
しかもこの手の公式を使って方程式を解け、とかが無茶苦茶難しい
初見で解ける人は天才で、数をこなしてパターンとして覚えるしかない
なので脳の領域をかなり消費するんだけど、こういう方程式の読解は本当に数学系じゃないと使わない
なので「何に使うのコレ」っていう気分になって、そのうち「三角関数って使うの?」ってなるんだと思う
三角関数を教えるな、っていうのは極論だけど
この手の公式を山ほど覚えたり、解法のパターンを暗記させていくのは本当に必要か?という気にはなる
とはいえ、他に教えることも無いし、篩いとしては良い例題だと思う
今の高校数学ってオイラーの定理までやるのかなぁ?そこまで行くと数学に興味が出たりするから、やっぱり三角関数は必要だと思う
掛け算の順序問題なるものがある。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と「3×4=12 答え 12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。
この意見の対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学・算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋に抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。
念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育の専門家でもなければ小学生に算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである。
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え 12個」と答えるのは誤答であるという立場である。
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。
正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学・高校・大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=i sinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。
上記の思想とは翻って「4×3=12 答え 12個」も「3×4=12 答え 12個」も正答とする立場である。
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係や操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。
俺が現実で計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。
算数を「現実の事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養(大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。
しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのものに意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。
数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。
この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え 12個」と答えるのも「3×4=12 答え 12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」のように定義の形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんごは12個ある。 答え 12個」という回答も正答である。
この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は間違いとなる。
"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明な命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。
余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cmの正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cmの正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数 cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。
この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学の直感的理解を否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋な数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学の思想に触れることができると考える。
もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学は計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実の対象を数学的にモデル化してそこから論理的に結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。
しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合、そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合、問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。
冒頭でも述べた通り俺は教育の専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数は計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。
自分で参考書を書いてみれば分かりますが、数学の検定教科書はおそろしく完成度が高いです。そのことを具体的な実感をともなって理解できれば、あなたの学力は入試レベルなど優に超えています。
数学の本の出来は、理論の構成で決まります。数学の理論の構成とは、かんたんに言えば定義や定理をどう配置するかと言うことです。どのトピックを載せるか、ある定理を述べるために事前にどのような概念を定義しておく必要があるのか、その定理を証明するために事前にどのような命題を示しておく必要があるのか。トピックの選定が的確で、理論の道筋が明快であるほど、数学書の完成度は高いです。たとえば、余弦定理は重要ですから当然載せます。余弦定理を述べるには三角比を定義する必要があります(鋭角だけではなく鈍角に対しても)。そして、証明には通常、三平方の定理と有名な等式
が必要になります(これも三平方の定理のcorollaryです)。さらに三平方の定理を示すには、ふつうは三角形の相似を使用します。この道筋をいかに最適化できるかに、著者の力量が現れます。もちろん、余弦定理を要領良く示すために他の定理に至る過程が鈍臭くなってはいけません。全体の最適化を考えなければいけないのです。
証明の最適化を図るには、定義から再考しなければいけません。同じ概念であっても、それを特徴づける性質が複数あるなら、どれを定義として採用しても良いですが、それによって効率は違って来るからです。たとえば、ベクトルの内積は
のどちらを定義としても良いですが、後者の場合は別の座標(たとえば、45°回転した座標など)で考えたときに値が同じになるのか疑問が残ります。前者は座標の取り方によらずに定義できています。
この場合はどちらを採用してもそれほど変わりはありませんが、指数関数などは定義の仕方で必要な議論の量はまるで変わってきます。多くの教科書では、自然対数の底
e = lim (1 + 1/n)n -- (☆)
を定義し、そのべき乗として指数関数exを定義します。もちろん結果だけ知っていれば、微分方程式
df/dx = f
を満たすf(x)で、f(0) = 1となる関数としても指数関数を定義することはできます。しかし、このようなfが存在することを、(☆)を使わずに示すのは高校レベルを遥かに超えます。そのようなfが一意的であることも明らかではありません。
以上のようなことを考えるだけでも相当大変ですが、これに加えて検定教科書では、直感的な理解を損ねないことも考慮しなければなりません。高校生が読んで理解できなければならないからです。理論の整合性・効率と教育的配慮の間でバランスを取るという難しいことを、数学の専門家たちが苦心して行い、作成されたのが検定教科書です。このような本は他の参考書にはありません。場当たり的に問題の解き方を解説するだけの本とは格が違います。
数学の検定教科書は極めて洗練されています。教科書の理論構成を把握し、その流れや証明手法に合理性や必然性を見出だせる水準まで理解できれば、入試などは余裕で通過できます。