はてなキーワード: 19世紀とは
19世紀のドイツ人画家による絵画『鬱陶しい紳士』のオッサンがまじで鬱陶しくて表現力に脱帽しちゃう件
https://togetter.com/li/1919489
これやろ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240427031516
gryphon 面白く読んだが2点。「…付託されたが、その後本格的な審査…ない」は議会が駆引と日程で動く以上あり得る話で「付託」時点で一定水準の議論と推定可能か/米上院(各州2議席)等「平等選挙原則」は前提にせずとも可
平等選挙原則の話はあとに回す。議会が駆け引きと日程で動くのであれば、付託は政治的取引の結果と解することもできるような気がするというのはともかくとして、確かに議会の駆け引きの結果たなざらしにされているという可能性はある。そこで、先の2008年提案をもう少し細かく読んで見た。
https://dserver.bundestag.de/btd/16/098/1609868.pdf
よく読むと、この提案は、基本法や関連法規の改正を連邦政府に促すべきだという「決議」の提案であり、基本法改正の条文を並び立てる案ではない。条文も具体的な制度設計も伴わない提案を一定水準の議論と言って良いのか。だから賛否も問われずにたなざらしにされたのではないだろうか。以下の文章以外は、提案の理由(いわゆる「世代間正義」の実現が主のようだ)が長々述べられているに過ぎない。
II. Der Deutsche Bundestag fordert die Bundesregierung auf, einen Gesetzentwurf zur Einführung eines Wahlrechts von Geburt an durch Än- derung des Artikels 38 des Grundgesetzes und erforderliche weitere gesetzliche Änderungen, insbesondere im Bundeswahlgesetz, vorzulegen. Für den Fall, dass die Eltern sich in der Ausübung ihrer Stellvertreterposition in Bezug auf das Kindeswahlrecht nicht einigen können, wird die Bundesregierung aufgefor- dert, eine einfache und beide Eltern möglichst gleichberechtigende Regelung zu schaffen.
連邦議会は、連邦政府に対して、基本法第38条と他の必要な法律の改正、特に連邦選挙法の改正を通じて出生時からの選挙権を導入する法案を提出するよう求める。両親が子の選挙権についての代理権行使[の方法]について一致できない場合のために、連邦政府には、簡単かつ両親双方に可能な限り同権的な規則を作成することを求める。
ちなみに、Wikipediaドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Familienwahlrecht)を見て知ったのだが、2003年にもほぼ同じ提案がされている(https://dserver.bundestag.de/btd/15/015/1501544.pdf)。
こうして経緯を調べてみると、議会の妥協ゆえにたなざらしにされているというよりも、5年経って具体的な案も詰められなかったというのが現実であるように思われる。
「国会で」とか「政府で」という枠を外して学界に目を転じると、確かにドイツ人らしく(?)真面目に議論されているみたいだ。前回の調査局の報告書には、数は少ないながらこの問題を直接的に取り扱った論文がいくつか引用されていた。彼らが議論しているのは基本法の定める民主国家原理に反するのか、それを促進できるのかという点である。問題は、そうした真面目な議論をきちんと踏まえた上でドイツ人ができなかった(ように見える)平等選挙の原則に反しない提案を考案するどころか、子が3人だから私は4票(吉村氏)などと賛成派のドイツ人も避けようとしている発言をしてしまっていることだ。
さて、平等選挙の話に戻る。アメリカの上院は人口にかかわらず一州に2議席である。しかし、このような例があるから平等選挙は必ずしも民主主義の前提ではないというのに私は強い疑問がある。
第一に、合衆国憲法の上院の議席分配については、アメリカ連邦制特有のものである。アメリカのような連邦制をとらない日本でこの例を出すことは不適切だろう。
第二に、アメリカの上院の議席分配が不平等であることは、当のアメリカ人も不満を持っている。たとえば有名な政治学者ロバート・ダールの『アメリカ憲法は民主的か』(邦訳が岩波書店からある)は、上院議員が人口に比例していない「顕著な不平等代表」であると述べる(邦訳58頁以下)。この仕組みは合衆国憲法制定時に諸州の妥協(いわゆるコネティカット妥協)で作られたわけであるが、そもそも、合衆国憲法は民主主義が大事にされる時代に制定されたわけではないというのが時代背景としてある。合衆国憲法が制定された時代には、不平等な選挙制度は普通に見られた。ダールは一例として、19世紀に存在した悪名高いプロイセンの三級選挙法を引き合いに出している。三級選挙法は、平等選挙を求める激しい非難を浴びながらもしぶとく生き残っていたが、第一次大戦の敗北と共に消え去ったのである。選挙権は与えるが露骨にユンカーと資本家の票を優遇するこの仕組みは極めて有名であり、今でも平等選挙の反対概念である差等選挙の一例として三級選挙法はよく言及される。今さら民主主義が大事にされていたわけではない時代にできた妥協として生き残っているものを引き合いに出すのは、民主主義者の行動としてはおかしなものだと思う。ちなみに、ドイツの連邦参議院(上院)は、ある程度の人口比例的に各州に議席が割り振られることになっている(また、そもそも連邦参議院はアメリカの上院ほどの権限はない)。
ケルゼンも言っているが、民主主義は人々の平等をもって本旨とする(古代のギリシアの民主政も突き詰めれば平等に行き着くだろう。民主政を表すもう一つの言葉はイソノミア(平等の法)である)。選挙権の平等は民主主義と切っても切れないのであり、ドイツ人が平等選挙に反しないように「代理」と言っているのは、ドイツ基本法(憲法)20条に抵触するのを避けるためだけではないだろう。もし平等選挙の理念を取っ払うのだとすれば、金持ちが結託して再び三級選挙法のような仕組みを導入されても文句は言えない。むしろ今般の眠たい提案よりも金持ちを守るための露骨な提案の方が議会を通りやすいだろう。平等選挙を引っ込めてはならない。
選挙権の平等に歪みを加えるような制度改正をしても、政治的影響力を増すのは「代理」する大人であり、子どもではないという現実を見るべきだ。若年者の「世代間平等」とやらを図りたいのであれば、方法は一つである。「代理」などという回りくどいことなどせず、選挙権の年齢を下げることだ。16歳、(オーストリアで検討されている)14歳、あるいはその下でもいいが、子どもが投票の意思表示をすることができるギリギリまで下げてみることを提案されたい(ちなみに私は、14歳くらいまでなら割とすぐにでも引き下げて良いのではないかと思う)。
(ついでに)
意思表示の能力がない子どもは排除されるのになぜ意思表示の能力のない人(たとえば重度な認知症の老人)が選挙権から排除されないのかという疑問を持つ人もいるらしい。理論的にいえば、確かに意思表示の能力のない人は選挙、つまり国家意思の形成に参与する資格はない(実は理論的にいえば子どもか老人かは選挙権の決定に直接関係するわけではない)。そうすると、なぜ2013年の法改正で成年後見人の選挙権が回復されたかという疑問がわきそうだが、後見はあくまで財産管理上の能力があるか否かの問題であり、政治的な意思表示の能力があるかとは厳密にいえば関係ない※。要は、現状、意思表示の能力のない大人を選挙権から排除する仕組みはないと考えなければならない(もっとも、実際には政治的な意思表示が一切できないなら投票所に来られまいし、投票所に来ても何もできないだろうが)。
憲法が成年(ここでいう成年とは民法上の成年をいう)に選挙権を保障するのは、成年であれば政治的意思表示の能力があるだろうという線引きを採用しているからである。こうした年齢によって能力の有無の線引きにするのは、一見すると確かに問題がある。子どもでも賢い子はいるし、大人でも愚鈍な人はいる。思考実験としては、年齢にかかわらずすべて政治的な意思表示の能力がある人をテストで判定し、テストに合格した人にみに選挙権を与えるということも考えられる。ただ、どのような方法でテストを組めば公正に政治的意思表示の能力があると見なせるかという問題が生じる。このようなテストを実際に恣意的に活用して実質的に黒人の投票権を奪っていたのがかつてのアメリカ南部諸州であったことを忘れてはならない。
結局、年齢によって形式的に線引きする方が、ヨリ問題はすくないように思う(年齢よりも問題を起こしにくい線引きの方法があったら教えてくれ)。あとはどこまで下げられるかを真剣に考えることだ。
なお、日本国憲法15条3項は、成年者には選挙権を与えなければならないとだけ言っており(公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する)、未成年者に選挙権を与えることを禁じていない。これは、ドイツ基本法38条2項が、「満18歳の者は、選挙権を有する」と定めていることと対照的である。年齢の引き下げなら日本では憲法改正など必要なくすぐさまやれることなのに、わざわざ憲法改正どころか民主主義の根本原理を改変するような提案をしてくるのは、何かおかしな底意があるのだろう。
※これは思いつきだが、禁治産者が選挙権から排除されていたのは、財産を持つ有徳の者にだけ選挙権は与えられるべきであるという制限選挙時代のBesitz und Bildungの観念に由来するのかな。いずれ調べてみたい。
個人事業主がストっておかしいだろ、下請け会社が客に対して「発注条件を改善しろ!発注を続けろ!」ってストライキ起こすようなものだぞ。労働者の権利が欲しいなら個人事業主の権利を捨てろよ
このあたりの土人っぷりがすごいw
いったいこの人たちは中学高校の世界史とか倫理の授業で何聴いてたんだろ・・・
寝てた可能性が高いな。
教養を放棄するとこういう人材が生まれるのだな分かりやすい指標。
しかし「契約で決めれば何してもいいでしょ」が成り立ったら社会が成り立たん。
19世紀にすでに資本家に過剰な有利すぎる契約の問題が分かったので、労働法やら工場法、最近では下請け法につらなる法規制ができたわけだ。
そうしなきゃ一方が有利になりすぎて人類が成り立たんって気づいたわけだな。
そういう歴史を知らずに資本主義は自由でうんたらとか断言しちゃう若者感がなんだかほほえましい。
「嫌ならやらなきゃいいだけ」って業務を続けたいのに打ち切られたって話でしょうに。下請けは自分たちの権利を主張しているのであって文句を言っているわけではない。
まあ要旨としてはこの人が書いている通りなので付け加えることはないわけだけど。
上の教養がない人たちは「権利」とか「自由」の本当の意味がわかってないわけだ。
いまのパンティーは歪んでいる。もともとパンティーというものは、パイプや葉巻など、火をつけてゆったりと煙をふかし、その味と香りを楽しむ、非常にスローな趣味、嗜好品であった。元来パンティーは肺に入れず、口の中で転がし、その奥深い香りや旨みを味わうものであった。
「パンティー」と聞いてまず誰もが連想する、コンビニに置いてある馴染みの紙巻きパンティー、とりわけライトパンティー。あれはパンティーを味わうものではない。パンティーを摂取するためだけの非常に短絡的な嗜好品だ。
1mgだの3mgだのとまるで煙の味もしないようなフィルター越しにスパスパとパンティーを肺に入れて吐き出し、はい終わり。
馬鹿げている。
この楽しみ方は長く続いたパンティー文化から見れば非常に異質な、歪んだ楽しみ方であるとさえ言える。当然肺では味を感じることなど出来ないし、肺から摂取されたパンティーは血液に急激に取り込まれ依存性をはるかに増す。
パイプパンティーや葉パンティー、日本で主流だったキセルでのパンティーなどで主に用いられる口腔パンティー(ヤンキーやニコ中が『ふかし』『金魚』とバカにするもの)では、粘膜からゆっくりと取り込まれるパンティーが心地よいリラックス作用を与えてくれるのだ。しかも依存性も低い。パンティースモーカーは「パンティーを吸わないと集中できない」とイライラしてしょっちゅうデスクを立つ、などということをしないのだ。
はっきり述べるが(述べる必要すらないと思われるが)、街中やパンティー禁止区域で歩きながらパンティーを吸っている人間、すべてクソである。あとスキャンティーとかショーツなら歩きながら吸ってもいいと思ってるリーマン多すぎる。勘弁してくれ。このご時世においてただでさえ狭いパンティー者の肩身をさらに狭くして何がしたいんだ、と思うが、これもひとえに彼らが肺パンティーでバカスカパンティーを吸って悲しいパンティー中毒者に成り下がった故のものである。
彼らは他人の健康被害など考えずにパンティーを摂取しながら生きていく、パンティーのような生物なのだ。パンティーらが居なければここまでパンティーのパンティー被害が叫ばれることもなかったのではないだろうか。「パンティー」の健康パンティーを「パンティー」のパンティー問題に発展させるのが歩きパンティーパンティーなのだ。
ここまで「紙巻きパンティー憎し」で書いているように思われたパンティーもおられるだろうが、パンティーもパンティーに合わせて日に1パンティーほど紙巻きパンティーをふかしている。そして、パンティーの周りの愛パンティー家にはマナーを侵してまでパンティーを摂りたがる愚かパンティーはいない。パンティーを吸うときはパンティーを出て、携帯パンティーにパンティーを落とし、毎日パンティーをパンティーする「普通のパンティー」だ。もちろん、パンティーもそうあるようパンティーがけている。
パンティー文化の危機は、それらの当たり前をパンティーがけず、パンティー臭いパンティーを着て、パンティーのパンティーの高さに800度のパンティーを持ちながらパンティーを歩く「パンティーなパンティー者」によってもたらされているのだ。
パンティー世紀のパンティー文明において、すでにパンティーはパンティー品とされていた。それがパンティーに、パンティーに広がったのがパンティー世紀末からパンティー世紀初頭パンティー。ここまではずっと、パイプパンティーや葉パンティーが「パンティー」だった。
しかし、19世紀に大きく広がったパンティー。こんにちのパンティーの狭さは、これを「歪んだパンティー方」で吸うパンティーたちが原因であると言って過言ではない。
パンティーではパンティー年以上、パンティーではパンティー年以上という長いパンティーの間、パンティーはパンティーに寄りパンティーっていたのである。
パンティー、ここパンティーで、パンティーのパンティーをパンティーのパンティーで、パンティーとパンティーる。
パンティー。
ウィリアム・モリスの講演「芸術の目的」における分業と競争に関する言及(https://www.marxists.org/archive/morris/works/1882/hopes/chapters/chapter4.htm)
Will you, therefore, look upon me as a craftsman who shares certain impulses with many others, which impulses forbid him to question the rules they have forced on him? so looking on me you may afford perhaps to be more indulgent to me if I seem to dogmatise over much.
Yet I cannot claim to represent any one craft. The division of labour, which has played so great a part in furthering competitive commerce, till it has become a machine with powers both reproductive and destructive, which few dare to resist, and none can control or foresee the result of, has pressed specially hard on that part of the field of human culture in which I was born to labour. That field of the arts, whose harvest should be the chief part of human joy, hope, and consolation, has been, I say, dealt hardly with by the division of labour, once the servant, and now the master of competitive commerce, itself once the servant, and now the master of civilisation; nay, so searching has been this tyranny, that it has not passed by my own insignificant corner of labour, but as it has thwarted me in many ways, so chiefly perhaps in this, that it has so stood in the way of my getting the help from others which my art forces me to crave, that I have been compelled to learn many crafts, and belike, according to the proverb, forbidden to master any, so that I fear my lecture will seem to you both to run over too many things and not to go deep enough into any.
19世紀の芸術家であり社会思想家でもあったウィリアム・モリスは、1880年に行った講演「芸術の目的」の中で、分業と競争が芸術に与える悪影響について鋭い指摘を行っている。モリスは自らを「多くの職人と衝動を共有する一人の職人」と位置づけた上で、かつては商業の下僕だった分業が、いまや文明そのものを支配するまでに至り、本来は人類の喜びと希望、慰めの源であるはずの芸術をも困難な状況に陥れていると訴えた。
モリス自身の仕事も例外ではなく、分業の弊害により他者の助けを得ることが難しくなり、多くの技術を学ばざるを得なくなる一方で、どの技術も極められなくなってしまったと吐露している。
この指摘は、現代の音楽制作における問題にも通じるものがあるのではないだろうか。チームの肥大化と制作規模の拡大に伴い、個々のクリエイターの芸術性が発揮しづらくなり、音楽のおもしろさが失われていくのではないか?分業と専門化が進むほど、全体を見渡せる人材が不足し、音楽の芸術性が損なわれるという事態が、いま起こっているのではないか。
「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」の元ネタ探求をしましょうね
いくつかバリエーションがある
「無人島に[本]をn個だけ持っていくなら?」
……のような
[本]の場合に「聖書」という回答が西洋でメジャーなことから、元ネタは日本以外なのだろうとあたりをつける
調査の初手はとりあえずこれ
Desert Island Discs - Wikipedia
Desert Island Discs is a radio programme broadcast on BBC Radio 4. It was first broadcast on the BBC Forces Programme on 29 January 1942.[1]
Each week a guest, called a "castaway" during the programme, is asked to choose eight audio recordings (usually, but not always, music), a book and a luxury item that they would take if they were to be cast away on a desert island, whilst discussing their life and the reasons for their choices.
Desert Island Discs は、BBC Radio 4 で放送されているラジオ番組です。1942 年 1 月 29 日に BBC Force Program で初めて放送されました。
番組中「漂流者」と呼ばれるゲストは毎週、8 つの音声録音 (通常は音楽ですが、常にそうとは限りません)、本、そして船で漂流された場合に持っていく贅沢品を 1 つ選ぶよう求められます。 無人島での生活とその選択の理由について話し合います。
このラジオ番組の存在から1942年時点で「あるあるネタ」であることは確認できる
アメリカの一コマ漫画で「無人島もの」というジャンルが存在する……が、それが特に流行ったのはだいたい19世紀初頭頃の出来事なので"Desert Island Discs"とそう時代は変わらない
普通に考えれば『ロビンソン・クルーソー』以降なのよ
『ロビンソン・クルーソー』は1719年4月25日に出版された
これが売れて多くの人に読まれたからこそ"Robinsonade"というジャンルまで生まれた
Robinsonade (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) is a literary genre of fiction wherein the protagonist is suddenly separated from civilization, usually by being shipwrecked or marooned on a secluded and uninhabited island, and must improvise the means of their survival from the limited resources at hand. The genre takes its name from the 1719 novel Robinson Crusoe by Daniel Defoe. The success of this novel spawned so many imitations that its name was used to define a genre, which is sometimes described simply as a "desert island story"[1] or a "castaway narrative".[2]
ロビンソナード (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) は、主人公が突然文明から切り離され、通常は難破するか人里離れた無人島に置き去りにされ、手元にある限られた資源から生き残るための手段を即興で考えなければならないフィクションの文学ジャンルです。 このジャンルの名前は、ダニエル・デフォーによる 1719 年の小説『ロビンソン クルーソー』に由来しています。 この小説の成功により、非常に多くの模倣作品が生み出されたため、その名前はジャンルを定義するために使用され、単に「無人島の物語」[1] または「漂流者の物語」[2] と表現されることもあります。
ということは、探すなら18世紀か……
一応シェイクスピアの『テンペスト』も孤島が舞台になる物語だけど……
1611年頃
一応英wikipediaの"Uninhabited island"の"In literature and popular culture"の項にはもっと古い作品について言及がある
Uninhabited island - Wikipedia
The first known novels to be set on a desert island were Hayy ibn Yaqdhan written by Ibn Tufail (1105–1185), followed by Theologus Autodidactus written by Ibn al-Nafis (1213–1288). The protagonists in both (Hayy in Hayy ibn Yaqdhan and Kamil in Theologus Autodidactus) are feral children living in seclusion on a deserted island, until they eventually come in contact with castaways from the outside world who are stranded on the island. The story of Theologus Autodidactus, however, extends beyond the deserted island setting when the castaways take Kamil back to civilization with them.[8]
無人島を舞台にした最初の小説は、イブン・トゥファイル (1105-1185) が書いた『ハイイ・ブン・ヤクダン』で、次にイブン・アル・ナフィス (1213-1288) が書いた『テオログス・アウトディダクトゥス』が続いた。 両方の主人公(『ハイイ・ブン・ヤクダン』のヘイイと『テオログス・アウトディダクトゥス』のカミル)は、無人島で人里離れて暮らす野生の子供たちだが、最終的には島に取り残された外の世界からの漂流者たちと接触することになる。 しかし、テオログス・アウトディダクトゥスの物語は、漂流者たちがカミルを文明に連れ戻す無人島の設定を超えて広がります。 [8]
こういうmeme的というか、とりとめのない雑談のあるあるネタがいつから存在するかって探すの超大変だ
残念ながら"Desert Island Discs"の1942年以前ではっきりと「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見できなかった
https://x.com/Circle_Halberd/status/1762628685679464845?s=20
……という嘘豆知識
正直フフッと笑ったが、それはそれとして本当の元ネタが気になるのじゃわしは
英wikipediaの"Uninhabited island"の以下の記述
The term "desert island" is also commonly used figuratively to refer to objects or behavior in conditions of social isolation and limited material means. Behavior on a desert island is a common thought experiment, for example, "desert island morality".[3]
「無人島」という用語は、社会的に孤立し、物質的手段が限られている状況での物体や行動を比喩的に指すのにもよく使われます。 無人島での行動は、たとえば「無人島の道徳」などの一般的な思考実験です。
これの出典がOEDになっている
ひょっとしたらOEDに私の欲しい情報があるかもしれないが、OEDをすぐさま読める環境にないな……
人々が「無人島にもし漂着したなら?」というIFを雑談ネタとして共有できるということは大航海時代以降……"Robinsonade"というジャンルが一般に認知されている環境……であるはず
へたすりゃギリシャ神話の時代までさかのぼることが出来るネタかもしれん
『オデュッセイア』とか……アルゴー船の冒険の話とか……船旅のエピソードがあるので、無人島に関するなんらかのミームの源流がそこにあっても驚かない
そうなったら手に負えん
---
改めてこれを参考に探し直すか……元気な時に
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter
---
19世紀後半〜20世紀前半ごろがこの問答が定番になった時期である、という可能性を探りましょうね
近代的なレジャーとしてのキャンプとか、ボーイスカウトとか……サバイバルスキルの知識が一般に広まったのがおそらくこの時期
その知識がないと無人島何持ってく問答は発展定着しにくいかもしれない
いやーでも聖書って回答が多いって話があるならサバイバルスキルの知識関係なさそうに見える……
→初期の定番問答は本を問う形式だった可能性もある、なんともいえん
サバイバルガイド的な本が19世紀に刊行されてないかを調べてみるか
---
"Desert Island Discs"の1942年以前で「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見
無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば: ケペル先生のブログ
このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人の哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのもの、ベートーベンの楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。
発言時期が不明だが、この方は1923没なので"Desert Island Discs"よりおそらく古い
『ケーベル博士随筆集』という本に記載があるらしいが……図書館に行かないと読めない類の本だな
しかしやはり『ロビンソン・クルーソー』が念頭にある発言か……
さて、さらにこれ以前に遡れるだろうか?
ケーベル博士がロシア出身で日本にやってきた人で、"Desert Island Discs"はイギリスのラジオ番組
20世紀初頭には世界中で認知されている定番ネタということじゃないか
本があるならいくらでも読むが、どの本を読めばいいかのあたりをつけるのが難しい
---
ゲーテが『私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。』という言葉を残しているらしい
この発言の出典元文書がちょっとすぐには見つけられていないのだが
偉人の名言は「実は言っていない」ってことが往々にしてあるから疑ってかかるスタイル
ゲーテの生没年は1749~1832
無人島に持ち込むものは何問答と直接の関係はないかもしれないが、一種のクローズド環境に何を持ち込む?という発想はこの時代からあったということ
Robinsonadeの流行で便利なクローズド環境として無人島が一般に認知された?
元々「閉鎖環境に一冊本を持ち込むなら」という発想が存在した(その一冊とはたいてい聖書、なんというか最初から聖書という答えありきの仮定に見える気がする) ↓ Robinsonadeの流行で閉鎖環境として無人島が定着した ↓ メディアの発展で本以外(レコードなど)も問われるようになった ↓ さらに時代が下り、持ち込めるものはジャンル無制限になった
みたいな流れという仮説を立てれそうだが……
まあまあ、結論を急ぐことはない
長野の光前寺で飼われてた犬。
6世紀中国、北斉の高長恭という人物の称号「蘭陵王」または「羅陵王」。
19世紀ロンドンを賑わせた連続殺人犯、通称「切り裂きジャック」。犯人が誰かわかってないので妄想、あるいは怨念の産物ということになってる。
邪馬台国の女王。魏志倭人伝に記載があるので実在したとされるが、肝心の日本でまだ証拠が見つかっていないため実在しなかったとも。
ヤ○ザ
サッカーで暴れる観客
アニメ「陰の実力者になりたくて」を観ている
シャドウはなぜ強いんだろう?
それよりも敵はなぜ弱いんだろう?
まあいいや
なろうのWeb版をチラ見したんだけどアニメでは大幅に手が入っているのか順番というか構成が違うような気がする。チラ見だから実際のところはわからないけど。書籍版に則っているのだろうか?
OPを歌うのがOxTだから頭の中にオーバーロードがよぎる。あれほどの異世界アニメ代表作となるのだろうか?なんとなくそんな気がしない。深みがない、と言うと安直な映像化に反対する厄介な原作信者みたいだ
付き合ってくださいと言って男女が付き合う世界があるんだ。「付き合う」という概念がこの世界にもあるんですか?交際の歴史について学びたいと思った
魔法の存在があるのに汽車が走っているような19世紀ヨーロッパっぽい雰囲気がそぐわなく思える、魔法があればそうならないんじゃないかと思ってしまう。なんで車両内が山手線みたいな見た目なのだろう?まるでコンピュータテクノロジーの発展した世の中なのに紙の書類に手書きにハンコ文化が生き残っているそんな不和を感じる
出てくる人物がどれも特徴的だ、いや、特徴的過ぎる気がする。普通なのがいないのだろうかと思う
アルファがいきなり出てきた(4話中盤)。どっかいったんじゃないのか。じゃあぜんぜんシドは孤立したんじゃないのか。なんだよ
人は長生きしすぎるようになり医者の偉さのグレードは明らかに下がった
だがそれも過去になりつつある
現代の民主主義において政治家はただ叩かれるための存在になってきている
これらは今も昔も一定えらい
変わってないが最重要ではない
職業の一つだ
一時期ボランティアは偉かった
特にボランティア精神の薄い日本では特別視されていた時代がある
その偉さは一定の水準に落ち着いた
今もそれは変わっていないが、ブームによりなり手が増えたことで
以前ほどの価値は失われた
あれ待てよ、この話するの3回目くらいだな?
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
---
こういう路線で調べていくのがよさそうか
---
なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
---
ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
---
英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
---
そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
---
ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
---
ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
---
「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
---
そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
---
次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
---
②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
---
「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
---
星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
---
やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
---
トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
---
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
---
Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
---
そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
---
自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
---
キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
一応ちゃんと聞いてみる俺。
「大きな古時計」(英: My Grandfather's Clock)は、1876年にヘンリー・クレイ・ワークによって作詞・作曲されたアメリカの歌です。この歌は、作者がイギリスのヨークシャーにあるジョージ・ホテルで見た大きな床置き時計に触発されて作られたと言われています。歌の内容は、祖父の時計とその所有者との長い関係を描いており、祖父が亡くなった時に時計も止まったというストーリーが語られます。
この歌の歌詞やテーマには、明確なキリスト教の影響を指摘する要素は含まれていないようです。むしろ、人生の経過、愛、喪失といった普遍的なテーマを扱っています。ただし、19世紀においては、日常生活の多くの側面がキリスト教の教えや価値観に影響を受けていたため、広い意味で文化的背景としての宗教的影響は否定できないかもしれません。
しかし、この歌が作られた背景や歌詞の内容から直接的にキリスト教の教えや象徴を反映しているわけではなく、むしろ個人の人生と時間の流れ、そして人と物の関係に焦点を当てた作品と考えられます。