はてなキーワード: 高畑勲とは
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動がみられる。
最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをしばしばきてきた。
アジア、アフリカ、中南米で。かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
ドラマ「おしん」(1983年)も思い出す。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、おしんのドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが過去を振り返るために旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じるエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
男性は芯がないくせに保守的で臆病だからこそ外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリホームにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものがもっていた。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。
一方、女性は嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧される女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代(都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀)は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、温かい視線を旅人である自分に向けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
かぐや姫の物語はスタジオジブリの最高傑作だし100年後も残る作品だと思う
ただ高畑勲はアニメ監督というより芸術家みたいな部分が強くて、決して万人受けするような作風ではないから一般人からは過小評価されているんだろうね
セサミストリ https://m.facebook.com/media/set/?set=a.122177036900000724
https://anond.hatelabo.jp/20240203015015
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
あのねー、あんたすっごい失礼なことをいうよね。
敢えて絵柄を似せたの。
まあ、さすがにハウルをキムタク顔で書いたりはしなかったけど今井美樹50代って、あんた当時のファンやってたおじいさんたちにコロされるよ。
にしても萌え絵ロリ幼女以外みとめないってどんだけ末期のロリ二次コン……
ジブリはおもひでとほぼ同時期に少女漫画をアニメ化してるんだけどそっちは顔は可愛いまま原作ストーリーの苦みを生かした感じだからふわふわの世界にいきていたいオタクさんやっぱりケチつけそう
宮崎駿は原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲はもっと恐ろしい。
高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象が かぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。
NHKのドキュメンタリーで興味をもって、遅ればせながら映画を見てきた。
例の番組では高畑勲との関係がクローズアップされていたけれど、この作品のテーマは少年の成長じゃないか。(千と千尋の神隠しと違って、一晩で見る夢のような内容なので、成長というより、自分の気持ちに折り合いをつけると言った方が近いかもしれない。)
作品のクライマックスを作るために、高畑勲をモデルにして、結果的に高畑勲を乗り越えたという見方はあるかもしれない。でもそれがメインテーマかというと、ちょっと違うような。
NHKのディレクターの関わり方(書生)からすると、スタジオジブリの確認なく放送されたとは思えないし、むしろジブリ(=鈴木敏夫)の意向が色濃く出ているのではないか。他のインタビューでも、鈴木敏夫はサギ男は自分、大叔父は高畑勲だと言っているし。
そう見せたい、そこに注目してほしいという理由があるのかもしれない。そのほうが注目されやすいからなのか、それとも、メインテーマがあまりにもパーソナルなものだからなのか。
敢えて視点をずらしたのか鈴木敏夫の意向ということなら、サギ男らしいと思った。
いずれにしても、素晴らしい作品だった。番組で宮崎駿が「頭のフタを開ける」と言っていたが、本当に誰かの頭の中を見ているような、或いは誰かの夢を一緒に見ているような気持ちだった。
あれを映像に具現化するって、すごいと思った。
要するにジブリで働いていたということだけが自慢の人なんだろう。
ジブリで宮崎や高畑の近くで働いたことがあるんだぞ!というのが自慢の種、飯の種なんだよ。
そういう人が宮崎駿という人をある意味で矮小に描いたドキュメンタリーを見たときに怒りを覚えるのはわかるような気がする。
宮崎駿は神であってくれねばならないんだ、そういう人にとっては。
でなければ、神の側近くで侍っていたということが自分の存在価値である人間にとっては大いなるダメージなのだ。
媚びへつらう。
ということを彼は批判している。
実際に媚びへつらっているのかどうかは知らない。
でも媚びへつらってあの映像が撮影できるなら幾らでも媚びへつらってやる、と思わねばドキュメンタリーなんて制作できないだろ?
なぜそんなことが理解できないのだろうか?
あの映像があるおかけで、大叔父というキャラクターが高畑勲を描いたものであるというのが実感を持って理解することが出来た。
例えば、書籍や雑誌などで鈴木敏夫がインタビューに答える形で、いや実は大叔父っていうのは高畑勲を描いたものなんですよ、と発言していたとしてもピンとは来なかっただろう。
しかし映像の中で宮崎が絵コンテを見せながら、これパクさんに似てるでしょ、と嬉々としているのを見せられれば1万字の文字で説明されるよりも遥かに伝わるものがある。
あの映像は貴重なんだ。
その貴重さがなぜ理解できないんだろうか?
その貴重なものを撮影するための手段として、媚びへつらいが必要ならなんぼでもやってやる、と思えなければ人に何かを伝えることなんて出来ない。
多分そういうところを理解できない人は創作というものは出来ない。
ものを作るということは並大抵のことじゃないんだ。
高畑勲さんがすごすぎる
絶対に妥協しない、妥協するくらいなら作品は未完成のままでいい
このスタイルを死ぬまで貫き通して作品を発表し続けることができたこと、社会的な名声も地位も手に入れたこと
周りの人にものすごく恵まれていたんだろうこと、それだけの才能も持っていたであろうこと
すべてが奇跡的だと思う
こんな純粋培養の「芸術家」は他にもいくらでもいるだろうけど、ほとんどの人は社会から脱落して食い詰めてどうしようもなくなるのがオチだろ、それが現実ってやつだろ
この人すごいよ、どうなってんだよ
あと、メカもキャラも人並み以上に描ける、あの本田雄さんがジブリに……って話は噂にしか聞いてなかったけど、マジだったんだね
鈴木 音楽について決めなきゃいけない打ち合わせの前夜に、ガールフレンドとユーミンのコンサートに行ったんですよ。それが初めてのユーミン体験。それで翌日、監督の宮崎駿と音楽演出をやっていた高畑勲に「ユーミンがいいんじゃないかな」と提案したんです。
こいつホンマに私情を仕事に持ち込むことに躊躇しない男やな。
で、宮崎駿も毎日ラジオで聞くくらいユーミン好きだったからユーミンにお願いしましょうってなって
ユーミン夫妻が全然乗り気じゃなくて1年以上「まだすか?」「どうすか?」って通い詰めてたら
ユーミンの旦那が「なんかちょっと重いんでなしでw」って言ってきたんだよね。
しょうがないので当時のユーミンの楽曲の原盤権持ってたレコード屋の偉い人に頼み込んで
楽曲を使わせてもらうことになったので、
魔女の宅急便にあの2曲が使われることに対しては
大ヒットしたのちに「ええで!」ってなってるんだけども。
忘れたくないのでつらつら。
●まひとさんは吾郎さん。
宮崎駿が幸せにしなきゃいけない人間だと思ってるのは吾朗さん。それは パンダコパンダから変わらない。
一方で 創作をしながら 築き上げてきた あれやこれやのご縁。その中で 高畑さんとの出会いや製作を助けてくれたおばあちゃんたち。動かしたらダメ、なるほど。守ってくれてる。
創作という魔力を持った大きな石の力を利用して世界を築き上げていく。宮崎駿はかつて世界を愛せるかどうか 鍵 という話をどこかでしていた、愛せる世界であってほしいと。
そのための創作 なんだと思う。これで1日は持つっていうセリフの意味はよくわかってないけど、これであと1日はこの世界を愛せるって意味なんじゃないかなと思う。あの石は宮崎駿の創作 なんだと思う。
世界を捉え直して綺麗に積んであげることで世界を1日だけ愛せる。そういう作品を送り出してきたんだと思う。
3日に1個積みなさいと言ってた。3日っていうのはそのままの3日って単位じゃない気がする。3年とかなんじゃないかな 適当だけど。
それぐらいのスパンで作品を送り出してあげることで世界が愛せる 手伝いをするっていうのがあの創作の石に見られた人たちの任務で、宮崎駿がずっと それをやってきたけどもう限界があるから 誰かにつぎたいと。
まろさんに失敗したこともあったけどそこには 言及してなかったような気がする。とにかく 真人さんに継ごうとしてた。まあつまりはごろうさんなんですけど。
だからこそ今までお世話になってきた人やあの人や この人もういなくなってしまった人に思いを伝えたいというのが、切実すぎるほどに伝わってきた。
ひというのが 何かの脅威を表すとしたら、創作の炎に焼かれていった高畑勲さんらふのことじゃないかと。
今まで戦ってきた数々の戦友たち、その人たちが次々となくなっていった。それでも背負うものがあるから足を止めることはできなかった 宮崎駿さん。その 宮崎駿さんの懺悔と逆にそれを肯定していかなきゃいけないという背景から生まれた作品 なんじゃないかなと思う。
そう考えると最初から最後まで本当に真人さんを中心に動いていて、
創作で今までお世話になった人たちへの感謝や気持ちが全部現れてるように思った。
残すべきものは残した。
さあ君たちはどう生きるか そう 投げかけられてるような気分になった 。これは個人の感想です。
さらに個人的な感想を述べていくと、宮崎駿 眞人さん好きすぎんだろ。作品 全部つぎ込んで 真人さんへのお手紙 じゃん こんなん。
スタッフも豪華。
まだ宮崎駿さんはご存命だけど、献花に近いような作品だと思った。
伝えられなかった思いの言語化と、
まるで遺書。