はてなキーワード: 高潮とは
宮崎駿は原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲はもっと恐ろしい。
高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象が かぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。
ニンテンドースイッチ向けにホグワーツレガシーが発売されたので買ってみたんだけど、最高すぎて今年一番ハマっている。
ちなみにハリーポッターは映画の一作目だけ見て「魔法が体系的じゃないしつまんねーな」と切ったレベル。
それでもTwitterで薩摩ホグワーツとかがバズっていたのでゲームの方はそれなりに面白いんだろうと思って買ってみた。
RPGでは必ず自キャラを女の子にするんだけど、14歳の女の子を自分好みにメイキングできるところでドキドキがとまらない。
洋ゲーはよくやるけれど、美形が作れるようになったとはいえおばさん感が否めないし、その点でもホグワーツレガシーは突き抜けていた。
丸眼鏡に四角い眼鏡、さらにはアンダーリムまで選べるので興奮は最高潮に達した。
これで赤いセルフレームのアンダーリムメガネが選べたらこの時点で昇天してしまっていたと思う。
そして当然魔法使いなので、ぞろっとしたローブを着込んでマフラーまで巻いているから露出度は皆無で、体型も全部隠れてしまう、が、それがいい!
むしろその方が断然リアルで存在感があって、北国の女子中学生感があって大変よろしい。
煩悶しながら出来上がったのは、ハーマイオニーを赤毛にして、眼鏡をかけた頭の良さそうな女の子だ。
さらにストーリーが素晴らしく良くて、この天才美少女が転校してくるや否やイケメンくんが「決闘でコテンパンにしてやるぜ」と突っかかってくるんだけど当然メタメタにされるわけだ。
洋ドラマだとここでライバル化するんだけどこっちが美少女なせいか(気のせい)他の生徒との決闘の時には一緒に戦ってくれたり、あまつさえ「お前にだけはこっそり闇の魔術を教えてやるぜ」と悪の道に誘惑してきたり、そのせいでイケメンだけには心を開いていた陰キャの闇魔法使いとのあいだで仲たがいが起こったりして「わたしのために争わないで!」と身もだえてしまう。
なんといってもこれらの物語がフルボイスで展開されるところが最大の魅力で、洋ドラマを見ているような感覚になる。
特にNetflixのウェンズデーとかセックス・エデュケーションに雰囲気が近い。
キャラクターの表情も豊かだし、声優の秋乃さんの声が良いこともあってCGなのに俳優さんのように生き生きと表現されているところがいいんだよなあ。
キャラクターもそれぞれバッググラウンドがよく作りこまれていて、それぞれの行動原理に整合性があるところがいい。
ポピーちゃんという動物を愛する女の子がいるんだけど、主人公よりもだいぶ背が低くておでこを出してて小学生みたいな外見でとても可愛い。
そんな彼女が密猟者集団にガチギレして一人でカチコミをかけたりするからビックリするんだけど、そこには悲しい過去が隠されていて泣ける。
みんなそれぞれ心の中に秘密や闇を隠し持っていて、お互いにそれを少しずつ明かしあいながら友情を深めていくあたりが、いかにも青春モノという展開で、魔法少女に転生してホグワーツを楽しんでいる感じがするのだ。
ほかにも魔法バトルがエルデンリングの純魔ビルドっぽかったり、装備を替えても見た目だけ好きに変更できたり、魅力はたくさんあるんだけどとりあえずみんな遊んでくれ! そして続編よ出ろ! 続編を出す魔法!
というかさ、
これは普通に風邪の諸症状なのかも知れない山脈に向かってシンプルにヤッホー!って叫びたいところ。
匂いがするのかしないのか
鼻が詰まってるのか詰まってないのか
どっち?って思うのよね。
でもなんかものを食べたときの鼻から抜けるあれなんて言うのかよく分からないけど
その味わいがグッとこないのよね。
桜とか標準木ってあるじゃない。
そのインスパイヤザネクストの気になる木の方じゃない方のそう言う気になる感じ、
これこの匂いを嗅げばだいたいは匂いが戻ってきたと言って評価出来る標準の匂い!
そもそもとして弱いものを嗅いで探ろうって言うのが無茶なのかも知れないわね?
なんか臭覚が戻りました!って
標準の匂いってのがあって、
あれの消えどきが分からないのよ。
なので、
今絶賛秋の味覚美味しい美味シーズンで最高潮を迎えているんだけど
打席にすら立ててないのよ。
覇気がないわ。
理力の輝き、
どのようにして輝くかは食うことなんだけれど!
とにかく食うことだ!って分かっていても
なんか食うきがないのよね。
うーん
馬肥ゆる暇も無いぐらいそうだ!つー感じの湧き上がる沸きに沸き上がりまくりまくりすてぃーの
食欲というかそういうのが爆発してないのよね。
秋なのになんだかもったいないような気がするわ。
うふふ。
最近よくコンビニとかで見かける完全食品的なパンにしてみました。
随分出始めよりかは美味しくなってきたと言っても、
同じ物ばかり食べ続けていると何かが貧しくなるかも知れない気配にちょっと敬遠していたんだけれど、
それにしてみました。
食が楽しめないと食が楽しくないわね、
朝食と言えども。
超ショッ、なんて言わないわよ!
レモン感は感じるようなもっと意識して強く思って飲んでみようかしら?
それは変わらないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
2023年の新日本プロレス「G1クライマックス」は内藤哲也の勝利で幕を閉じた。ファンの方は嬉しかったことだろう。
しかし、今回のG1は確実にある男が話題の中心に居続けたのは疑いようのない事実だ。
その名は清宮海斗。プロレスリングノアの若きエースといわれる男である。
今年1/21のオカダへの「蹴撃」から始まった清宮の行動は他団体のシングルリーグ戦出場へとつながって、リング内外で想定外の渦を巻き起こした。それが何を示しているのか。
まず、今回のG1への清宮参戦はどちらの希望だったろうか。これに関して私は新日本側の要請とみている。ここでの参戦が大きな話題になることは自明であり、チケット売上や専用アプリへの登録数を
増やせるいい機会である。ここで新日本側から感じるのは自団体の試合内容やレスラーへの自信だ。きっかけさえあればある程度以上の他団体ファンのとりこみが容易だと判断したのだろうと思う。
ノア側からみても清宮には良い経験になるし、知名度に劣り、参戦発表段階では新日本ファンからは諸手を挙げて歓迎されているわけでもない彼への「誤解」を解くいいタイミングでもある。
加えて若いとはいえ団体最高王座に2度(一度目は最年少記録での戴冠)就いた選手である。無碍な扱いをしないような話はあったろうし、そうでなければ送り出すようなこともないはずである。
しかし、ここから(おそらくどちらの団体からしても)想定外の事態が起こりまくった。
まず、新日本での発表時にファンから想像以上の歓迎を受けたことだ。おそらく新日本的にはブーイング半分の状況を想定していたのだと思う。それが想像以上の歓声とともに受け入れられたのだ。
次に新日サイドが目の当たりにしたのは、当初の予想や見積もりをはるかに超える技量をいかんなく発揮する清宮海斗のレスラーとしての能力だった。条件の厳しい(全くのアウェイ+一般的ではない20分一本勝負)中出る試合出る試合で、様々なタイプの対戦相手の特徴を引き出したうえでそれを超えてみせるという、清宮にとっては当たり前の、だが新日本サイドとしては予想だにしなかった状況を現出させたのだ。
その技量の突出の度合いが令和三銃士と名付け、なかで団体としては筆頭扱いであった辻陽太戦で現れた。この試合での清宮は普段の試合では見せない挑発的な技も駆使しつつ、最後は完勝としか言いようのない組み立ててで勝ってみせたが、現場やフロントはここまで技量差を見せられるとは思っていなかったろう。さらに海野翔太戦でも技量で圧倒しつつも海野の気の強さを存分に引き出して引き分けに持ち込んだ。さらに現IWGP世界ヘビー級王者SANADAとの試合でも試合をリードし、最後は時間ギリギリの敗北となったが、王者を差し置いて週刊誌の表紙にまでなってしまう状況となった。こうなればファンは正直である。新日本のファンが一目置くのは必定だ。
自団体の選手を差し置いて会場(=ファン)の信頼を次々に勝ち取っていく清宮を見て、新日本のフロントや現場は何を考えたろうか。その一端がゲイブ・キッド戦で現れたのではないか。
この試合、挑発的ヒールファイトをするスタイルに隠れているが、明確にゲイブは試合を壊しにかかっていたように見えた。清宮は最初受けるスタイルで修正を試みていたが、ある段階で完全に「これは違う」と判断したようだ。
セコンドも連れず、文字通り「単身」敵地に乗り込んでいる彼は試合そっちのけで自らと団体の尊厳を守る行動に出る。最低限の行動(眼球への攻撃や急所への打撃を行わない)は守りつつ立ち向かったのだ。ちなみに観客席で自らの頭を椅子で殴ってから相手に襲い掛かるという奇行ともいえる行為も、湧き上がる怒りを抑える行動とすれば納得もいく。清宮の突然の「試練」に対しても全く臆することなく、むしろ敢然と立ち向かう姿に、おそらくレスラー間で彼を見くびるものはいなくなったはずだ。
だが、一部の人間がそれを完全に脅威としてみたこともまた真実だろう。
私は、この試合を見たときに「これが<仕掛け>であるなら、予選突破はないのかもしれない」と思い始めた。普通に試合を行っても引き分けは当然あるわけだが、この引き分けはそういうものとは違うと見え感じたのだ。その後報道で清宮がスタッフを突き飛ばした、という記事が出た。普段は試合後でもそのような態度をとらない彼がとった行動はその内容が全く予想外であったことを示している。このあたりから、当初の思惑とは違う流れが起こっていたのではないか。
話は飛んで清宮は成田蓮戦で「まさかの」敗北を喫しあえなく予選落ち、となったが、翌日にノアの副社長を兼ねる丸藤正道がかなりセンシティブな内容のツイートを行った(https://twitter.com/noah_marufuji_/status/1687979081059762176?s=20)。真意は以前丸藤との対戦を希望した成田の勝利後に自身と対戦すると清宮のランクが下がってしまうということ、と言っているが、タイミングがタイミングなだけに鵜呑みにはできない。時系列の文脈からすれば成田の勝利を隠れ蓑にしてG1興行全体のピエロとして清宮を扱ったのはおかしい、という風に解釈するほうが無理がないからだ。丸藤の立場でこの発言をしたこと自体、新日本側に対するけん制の意味があるわけで、けん制せねばならない事案が起こっていたという推論にたどり着くことになる。
リーグ戦敗退後もG1興行に参戦を続けた清宮を待っていたのは、なんとほぼ第一試合でのタッグマッチ、というものだった。当初から決まっていたグレート・O・カーン&ジェフ・コブ戦はともかく、その後のマイキー・ニコルズ&藤田晃生、天山公吉&マスター・ワト、矢野通&オスカー・ロイベとの試合とあっては、いくら興行のハナが大事だといっても他団体のトップレスラーをあまりにもぞんざいに扱いすぎている。これはなぜだろうか?
私は準々決勝の組み合わせでAブロックの選手の相手を見たとき、ふと「ヒクレオのところにSANADAが、SANADAのところに清宮がいたほうがはるかに盛り上がったのではないか?」と感じた。これだと内藤がSANADAに勝利していたろうし(結果として優勝後の興行の流れもこのほうがスムーズだった。)、清宮とEVILの試合は相当に盛り上がったはずだ。しかもここで清宮が勝てば準決勝でオカダ戦ということになり、興行の盛り上がりは最高潮だったろう。
しかし、それこそが新日本側の最も恐れていたことではないか。清宮がG1興行の柱になってしまうのだ。この流れでオカダが清宮に勝っても決勝でその盛り上がりを上回ることができるか。決勝は内藤でもオスプレイでもそれは盛り上がるだろう。しかし、仮に清宮がそこまでの試合のようにベストマッチ連発の内容を見せていたらどうなるか。清宮の試合の積み重ねが新日側にあった「自団体の試合内容やレスラーへの自信」を揺るがせたのではないだろうか?
そうなれば最も安全なのは「観客の記憶の奥に清宮の存在を眠らせる」ことである。それはノア側の「想定外」だったろうことが丸藤の態度に表れている。
しかし、両団体にとって(良くも悪くも)更なる想定外は「G1によって清宮の支持が大きく広がった」ことではなかったか。
清宮敗退の報がネットに流れた際、新日本の方針を批判する発言が多く流れ、想像以上の数の新日本のファンがそれに賛同していたのは正直驚きだった。会場でも第一試合や第二試合の出場であっても大歓声で迎えられた。新日本側のレスラーたちの思いも天山戦後に天山自身が清宮を讃えた態度で伝わってきた。そしてなにより清宮本人が腐ることなくしっかりと試合を行いファンを裏切らなった。これこそ清宮が再三言っていた「ノアを広める」が具体的な形になった瞬間ではなかったか。
清宮は正式に使用技の伝授をされている関係から武藤敬司の影響が語られることが多いのだが、元は三沢光晴に憧れノアの門を叩いた生粋の「三沢チルドレン」である。ここまでの清宮の行動を見ればわかる通り、「レスラーは試合で魅せる」「いざとなったら筋を通す」「ファンを裏切らない」という三沢光晴の思想が彼のレスラーとしての行動に裏打ちされている。彼の恩師である小川良成の指導が大きく花開いた瞬間でもあったと思う。
さらに、清宮はあの若さにして日本プロレス発祥のプロレス技術の継承者としての側面を持っている。彼と新日本でタッグを組んだ大岩陵平は清宮にスカウトされる形でノアに留学となったが、すでにノア道場の道場主でもある清宮は指導者としての側面も期待されている。
負ければ、1次突破が絶望的となる一戦にホームで湘南と対戦したが、後半15分までに0-2。しかし同27分、途中出場のMFジュシエのゴールで反撃すると、後半38分にFW森永の得点で追いついた。そしてロスタイムには途中出場のMF鈴木亮のゴールで逆転勝利を掴んだ。
決勝弾の鈴木亮は「苦しい試合でしたけど、同点に追いついて、スタジアムのボルテージも最高潮だった。自分がこの試合を決めるという気持ちで入りました」と振り返った。
これでB組2勝2分2敗、勝ち点8に伸ばし、湘南、試合のなかった川崎を抜いて3位に浮上した。21日もアウェイで川崎と対戦。負ければ突破が絶望的となる状況は変わらない。来月1日の鳥栖戦まで9連戦という過密日程だが、主将の鈴木潤は「こういう状況が自分達を強くする。次も勝つだけです」。1次リーグも残り2試合、逆転突破へロイブル軍団は諦めずに戦う。
○野河田彰信監督(逆転勝利に)「前半はなかなかプレスがハマらず苦しかったが、途中出場の選手達がよう頑張った。過密日程ですけど、その中で我々はやるしかないし、勝たなアカンので、次もそれは変わらない」
ただ、太陽の輻射熱はいったんは地面(つまり温室効果ガスの影響圏内)まで届いてしまうので、地球に届く前に遮るタイプの手段に比べると効果は限定的かもしれない。
だとしても、たくさんの遮蔽物を宇宙に打ち上げるコストやそれを配置するハードルを考えれば、地球の表面を白い膜で覆うなんて比較にならないくらい安上がりで簡単なわけで、実現可能性や費用対効果を考えるとずっと現実味がある。
赤道直下の洋上に白いフロートを並べてプカプカ浮かせておくのが手軽だろうね。膜で覆える陸地は限られるし、人間の生活に影響が大きすぎるから……。海ならせいぜい航路をふさがない配置に気を配ればいいくらい。フロートをどうやって係留しておくかに苦労するかもしれないけど。
赤道直下の洋上に十分な数のフロートを並べれば、たぶんまず海水温の上昇に歯止めがかかる。あたたまりきらなぃ海水が様々な海流に乗って世界に配達される。海水温が下がれば大気への水分の蒸散も減り、あのアホみたいな大雨も降りにくくなるだろうし温室効果の抑制にも一役買うだろうね(水蒸気にも温室効果がある!)。
寝取られる男側に感情移入してしまうタチで、自分の恋人が第三者とセックスしてしまうなんて考えるだけで気落ちする。
でも、寝取られるかもしれない…と想像すると何故か興奮してしまう。
実際に寝取られるわけではなく、その寸前までいって結局何もなかった、というシチュエーションが性癖どストライク。
自分の彼女は男友達と飲みに行ったり、人数合わせで合コンに行くことが多々あり、そういった時は大体連絡が遅くなる。
そうなると「もしかして他の男といい感じなのでは…」と不安になるのと同時に興奮してしまう。
そして結局何事もなく帰ってくる(多分)のだが、そういう日にするセックス、まあ気持ちがいい。
おそらく寝取られるんじゃないかという不安が最高潮に高まった後に自分の元に帰ってきてくれた、という安心感が快楽をブーストしているのだろうと考えている。
同じ、もしくは近い性癖の人いない?
特段ファンというわけではなく、先月急逝した祖母がチケットをとっていたので代理で参加。
私は草加健康センターをホームサウナとしているものの、このグループについての予備知識がなく「つい最近LiLiCoの旦那さんがメンバーから卒業し、新メンバーが加入した」くらいのふわっと感だったが
会場に着き、賑わうマダムたちのものすごい熱気を見て、テンションが上がった。
ホールに入場する際にスタッフからあるものを手渡された。健康食品のサンプルだった。高麗人参のゼリーである。
同封のチラシにはメンバーの写真も掲載され、PR動画視聴用のQRコードが載っていた。
ファンの年齢層に合わせてこんなPRもあるのか、と感心していたら、開演。
2,3曲歌ってMCに入ると雑談?はそこそこに先ほど配られた高麗人参ゼリーの話を始めた。
というかがっつりPRだった。
リーダーの話術でファンサービスも盛り込んでありったが、内容はまぎれもなくPRだった。
…。
これ、観客はチケット7,000円(高い席は11,000円くらい?)払って広告見せられてるの?
2回目のMCが始まったと思ったら、また高麗人参ゼリーの話が始まった。
プレゼンのスライドも用意されていた(A4くらいの紙で物理的にやってたので資料内容は見えなかったw)
いや、話の内容もファンに楽しんで聞いてもらおうという気概は感じるけども。
私はQVCを見ているのか?
物価高だから、チケットの収入だけではコンサートの収益が出ないのだろうか
とか
チケ代上げると売れないのだろうか
とか。
エンタメを利益につなげる難しさを想像してしまい、ひとり世知辛い気持ちになった。
私はここ数年はもっぱらIP(知的財産のほう)のオケコン的な音楽イベントにしか参加しておらず、アーティストが歌うライブやコンサートには10年くらい足が遠のいていた。
うーん、まぁ番宣はメンバーの活躍を見れるファン側のメリットがあるものの。
この番宣もファンが参加する仕組みが取り入れられてて、喜ばれている様子に見えたけど。
私は、コンサートって歌や音楽などのパフォーマンスを楽しむ場だと思っていたので、かなり面食らった。
メンバー同士の雑談なんかを楽しむ時間で。多少台本はあるんだろうけど。
一緒に参加した両親(本来は祖母の付き添い要員)も驚いた様子だった。
父が「純〇は歌える営業マンなんだな…w」と形容していたので、なるほどと思った。
ビジュアルや歌だけでなく、PRのスキルがあるので替えの利かない存在なのだろうと。
ファンでない私が「番宣してた番組は見てみようかな」と思ったくらいには面白いMCだったので
ファンの人たちからすると、あのMCはCMとして認識しないか、あるいはコンテンツとして満足しているのだろう。
一概にコンサートと言ってもアーティストによって内容は様々なんだな。
さだまさしはMCのまとめだけのCD作っちゃうくらいらしいし。
カルチャーショックを受けた1日だった。
この記事で言うポリコレ潮流とは、今まで日の当たらなかった弱者やマイノリティに光を当てたり称揚しようという世界的な流行のこととする。そして特にエンタメ業界についてに注目する。
世界的、あるいは日本の世間的な言葉の意味はさておき、この記事ではそうする。
説教臭さや、諸々に配慮してますという目配せが娯楽への没入感を削ぐし、僕の美的好みから外れるキャラ・タレントの登場頻度が増えたからだ。
だが、ポリコレ潮流的な物が百害あって一利なしだとは思っていない。
僕は大学進学の際に、九州の人口20万くらいの町から人口100万くらいの町に出たのだが、そこのツタヤに、地元にはおいていなかった僕の好きなアニソン系歌手のアルバムがあった。
それを見て僕は、この町は僕みたいな周囲と馴染めないキモいやつもにも居場所を準備しているのだ、と嬉しくなった。
これは利便性の問題ではなくて、大衆が普段使いする施設が、自分のような人間の存在を想定に含めた運営をしていることが精神に与える影響の問題だ。
もう少しオタク一般に伝わる表現で言えば、アニメイトだったりとらのあなだったりコミケだったりの、オタクの存在を前提とした場所に始めて行った時の感覚にも近いと思う。
だから、差別されやすい民族とか、セクシャルマイノリティとかがエンタメでの登場頻度を増したことで、その人たちが「世界には自分たちの居場所がある」という感覚を得ることができるだろうというのは十分想像できるし、それはいいことだとも思う。
ではあるのだが、やはり僕はポリコレ潮流に好感を持てない。
最近の僕は、100万都市に出る以前の、というかそれ以上の、「この世界から僕は厄介者にされている」という鬱屈を抱えている。
ポリコレ潮流が、居場所のない人間にも居場所がある安心感を与えてくれるはずなのに、僕はそこから落ちこぼれている。
100万都市で精神を病み、無職童貞で三十歳を超え、実家に引きこもってネットで悪ふざけしたりロリエロ漫画でシコりつつも、最近ちんちんの勃ちが悪いことと両親の老いに怯えている僕の居場所は狭まっていくように感じる。
潮流という言葉を使っているが、じっさい上げ潮と引き潮のようだ。或いは株の上がり下がりのようだ。
僕が世界に存在を許されている感覚は、中学生までの頃は居心地の悪い引き潮、進学で人口の多い町に行き居場所のある感覚を得て上げ潮、おりしもネットの発達やオタク文化の一般化と共に最高潮になったが、その後潮が引き始め、下げ止まらない。
最高潮の頃の遺産で居場所や娯楽自体はまだあるが、成長率は低い。
ちょうど日本が、過去の遺産でGDPが世界三位ではあるが、GDP成長率は鈍化していて閉塞感が漂っているのと似ている。
まだ世界から捨てられきってはいないが、この後どんどん居場所が狭まるだろうな、ポリコレ潮流で引き潮になっているな、と思うから、僕はポリコレ潮流を好きになれない。
今のポリコレ潮流で、世界が自分達の居場所を認めつつあるという安心感を得ている人たちの、その喜びはいいことだが、僕という存在の株価が下がっていくこと抜きにそれはできないのだろうか?
大きい事から言うと信号無視の車に轢かれた。怪我はほぼ無かったけど、買って1年しか経ってない20万円の自転車が御陀仏になった。状況からして0:10だが保険屋とのやり取りがイライラする。
次は職場で頭のおかしな顧客に理不尽なクレーム対応をさせられた。しかも執念深くて何回も電話してくる。どう考えてもカスハラ。死ね。
ストレス発散でゲームをしていたが、スプラ3は理不尽に負け続けるしスマブラも理不尽な事ばっかり。パソコンで某fpsはゲームに入ったら2秒で中華チーターに頭を抜かれた。どれをやってもうまくいかないし理不尽だからイライラしてコントローラーを投げたらモニターが割れた。一瞬3万円のモニターが死んでしまった。我に帰る暇もなく余計にイライラしてきて今ここにぶちまけてる。