はてなキーワード: 難波とは
大阪は何度か行った。USJとそのついでのテンプレ観光したり、阪大ひやかしたりどっかの繁華街をブラブラ歩いたりした。難波だかでタコ焼きも金龍も食ったけど、一番最初に行ったガキの頃に食った551のアイスが妙に記憶に残ってる。ついでにどっかで貰ったタコ焼き味の飴が不味くて腹立ったのもセットで記憶にある。
551の店頭で土産用のチルドの発送か何かで待たされてて、その間にアイスを買い与えられたような気がする。確か母が大阪の知り合いと会っていたような気がして、その人に買ってもらったような記憶がある。我々観光客なら肉まん屋のイスキャンディーなぞ(ガキはともかく親は)目もくれなかったかもしれないし、地域住民に愛されているというのはマジの話なのかもしれないと今にして思った。
夏休みに行ってたんだろうし、暑い中食うたこ焼きやアトラクションの並び(隣の母が楽しそうでないなら尚更)よりも、冷たい喜びを身体が鮮烈に記憶してるのかもしれない。30秒くらいで食い終わっただろうし、その後は暇すぎて店のチラシかなんかを繰り返し読んで、それで夏は豚まんが売れないんでアイスを売り始めたって知識を得たのも妙に覚えてる。
何味を食ったかも記憶にないけど、無性に食いたくなることがある。フルーツ感が良い感じに強めだった印象が朧気にあるような気がしないでもない。
あと中学くらいに行った時、バス乗ってる間に湊かなえの小説を姉貴からもらって読んだのもなぜだかよく覚えてる。話の内容は一切記憶にない。
府民の全家庭がたこ焼き器持ってる訳じゃない。ウチにはあるけど。みたいな鉄板のアレがあるけど、実際の所たこ焼きがどの程度身近なものなのか気になる。
単純に食う頻度というか、例えば晩飯をラーメンにするか牛丼にするかという時にたこ焼きもそこに入ってくるくらい身近な存在なんだろうか。
都民にとってもんじゃや柳川鍋が身近かっつったら別にそんな事はない。明確にそれを食おうと思わなければ食う機会もない。一家庭の習慣ではあるけど、ウチはお好み焼きの方がよっぽど身近だった。ガキの割とよく道とん堀(地名じゃなくチェーン店の方)に連れて行かれたし、そこでももんじゃよりお好み焼きだった。
難波の駅前辺りにはたこ焼き屋も結構あった気がするけど、じゃあ大阪の外れの方ではどんなもんなんだろうか。東京の銀だこ程度の散らばり具合なのか。
たこ焼きとは離れて金龍の話だけど、あんなとこ外人か観光客しか入らんって人もいたし、飲んだあとの金龍がえ も言われぬ味があってええんやって人もいた。当事者に聞いても中々実態って分からんもんだなって思う。
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。
二年ほど前に、「母をコロナで亡くした」というエントリを投稿した者です。
https://anond.hatelabo.jp/20210504174141
あの時は、世の中に対してどうしても伝えたいことがあって、それを増田に投稿した。どんな形であれ文章で表現したことが、結果として他人の命を救うこともあるのではないか。そう信じながら、私はあの文章を投稿した。そして、それが大勢の人に読まれて、私の目論見通りに警鐘を鳴らすことに繋がったと思っている。
あれから二年。状況はどう変わっただろうか。
私の職場では、座席を隔てていたパーティションが全て撤廃され、また、時差出勤やリモートワークをする人は徐々に減りつつあるように思う。
梅田や難波などの繁華街を歩けば、以前と変わりない人の流れを目にすることができる。なにより、マスクなしで歩いている人も結構な割合で見かけるようになってきた。
また、テレビや新聞などで、コロナのことが話題になることが皆無になってきている。
ただ私にとって違うのは、母がもうこの世にはいないということだけだ。
どうして、母が犠牲にならなければいけなかったのだろう。母が倒れた時から、何度も繰り返しそう思ってきた。それが、今では「仕方がなかったんだ」とあきらめて、受け入れられるようになってきている。
肉親を亡くすという経験が初めてだった自分にとって、その事実を受け入れることができるようになるまでに、随分時間がかかってしまったように思う。人間は誰しも最後には死ぬものなのだと、頭ではわかっていても、どうしてこんなにも受け入れることが難しいことなんだろうと痛感させられた。
私もしっかりと前を向いて、生きていかなければいけない時期にきていると思う。それが、あの厄災から免れて、今も無事に生活している者に課せられた、義務みたいなものなんじゃないだろうか。