はてなキーワード: 道徳とは
マナー道徳学校の軍隊式教育を思考停止でカルトみたいに信仰してるだけのアホしかいないから、アスペのことも正しく扱えないしな
悪事の告発ができなくてすぐ流されて判断能力が低く説明能力が低い定型発達の欠点は見ないフリ、アスペを空気が読めない変な奴の一点張り
自由の濫用と度が外れた放縦の許容による昔の道徳の便利化と定形化。
単純な楽しさを追い求めることは悪くないが、社会的孤立層は非友好的環境に接する。
刑法は、広く、人類社会の犯罪という分野における専門的な教養を必要とし、犯罪の種類を分類し、条文ということにまとめ上げて国民に強制するという一般的な方法によって
内容が制定され、犯罪の種類に対応し、法定刑を合体させてどのように処罰するかをそこに盛り込むということによる、法的確実性を得るための技術であるから、そこに記載されている文章は
ただの小学生の作文の、小学生が書いた、~をしてはならない、といったことを箇条書きにしたものではなく、国家権力による必要な法則の一般的な強制という技術である。そこでは複数の
性格をもった条文というものによって一般的に制定され、強制され、権力者を通じ、技術的に解釈適用されるものであるから、社会の諸分野に対応して、複雑で高度な体系であり、それでこそ
法学部という1つのセクションとして独立されて研究されている。もしそうではなく、法律が、ただのしてはいけないことの箇条書きであるとすれば、法学部という一つの独立したセクションで、
経済学部や文学部と独立した学部を持つ必要性はないといわざるを得ない。法学部に進学する文科一類の諸君が、前期試験や教養学部で、数学の技術をさせられる趣旨もそこにある。
文科一類の諸君は、法学部で学ぶことは技術であり、道徳の箇条書きを暗記するところではないということを覚悟して、進学後の学修生活を送ってほしい。
何がいいって官能的な文章を書いてくれること。一応規約でR18の描写はダメと言われ、直接的なリクエストは弾かれるのだが、オナニーぐらいの描写なら特に怒ることもなく普通に書いてくれる。セックスも直接的なのはダメだが、ほのめかし描写ぐらいなら別に普通に書いてくれるので、本番描写にこだわるんじゃなければ普通におかずにできる。まあちゃんと読んだら意味が通らないなんてのは日常茶飯事だが、そのへんはまあどのAIもそうだから、適当に脳内補完するか自分で書き換えてしまえ。特殊性癖なんかも割りかしゆるゆるだし、妙に理解があるからそういうのが好きなやつは本当に今使ってみるべき。草むらに落ちてるエロ本読んで、国語辞典でエロい単語引いて育った、国語のできる悪ガキって感じがする。制限はあるがある程度はタダ。
その点chatGPTはダメ。頭コハル。「エッチなのはダメ!死刑!」とばかりに不適切判定してくるし、そもそもあいつはどんな話を書かせても明示しない限りは教訓的な話にしかしてこない。あいつ「校長権限で制服が超ミニスカになってしまった女子校」って頼んだら「この決まりに慣れることが新しい私を作る」とかそんな話書いてきやがる。そんなわけないだろ。あいつはプログラミングのドキュメントと道徳の教科書しか食ってないんか?
そうですね、関数やなんかも、中学校のときは、 f(x)ってただ書くだけなのを、ψ(x)とかって書いたりね、それからなんか、フェファーマンとかは私の時代はかなりスターで色々出来るという
ことでしたね。オヤジは物理をしていたんですが、物理はこうなんか、バランス感覚がないと出来ないような感じがして、人文社会の方では白か黒か分かってなくても数学はこうなんか非常に美しい
ということで、なんか、あこがれみたいなもんですかね、ただ単にそれだけでやろうとしていたような感じはありますね。そういえばそうですね、法学部だと道徳をやるだけなら一つの学部を作るはずがないので
法学部でやることは難しいんじゃないかと思いますね。常識で考えたら、経済学部が難しいのに法学部が簡単ということはありえないですからね。でも私の時代の法学部では難しいことは何も教わりません
でしたね、条文の規定は技術的に難しいはずであるし、解釈で判例もこうなんか、establishとかね、数学の定理みたいに書いているので、え? 数学の組み合わせ論で、 claimって書いてあって
それがestablishされてるっていって言葉だけしか知らないので、claimと定理は何が違うのかとか言っても言葉しか教わっていないので分からないということで
ロースクールのなんですか、佐伯仁志先生とかなんでもいいんですが検察庁や司法がその辺を教えないのは存在しないからだと思いますが、まあどうでもいいんですが、誰も分からないから2ちゃんねるの
法学板にも何も書いてないようなところがあると思いますが、もう忘れたんですがこうなんか2ちゃんねるって、日本私学や歴史学などの書き込みは多いですが、数学とか近代法って運営の方から
一番糞であると言われていてくだらない書き込みしかないのがばれたんですよね、2ちゃんねるってローマン的でアホなところがありますので、単純に、出来なかったからじゃないかと思いますね
先に宣言しておく
どのような理由があろうと、どのような事情があろうと、どのような過去があろうと
即ち、罪を判断する判断材料が意志なのか行動・具体的な影響なのか、である
だから誤解を与えないようにもう一度書いておく
それとは別の話として、以下の事を書いていきたい
佐藤さんは「彼の一言がなければ確実に生きてなかった」というが、「家族の暴言が今も脳裏によぎり、夢にまで出てくる」。
そうすると、平静でいられなくなり、発作的に「ダメだ。価値がない」と自分を責めてしまうだけでなく、SNS(X)で繋がる知人にも被害妄想をぶつける。「そのたびに親交が途切れて後悔する」という。
当時は衝動的に荒らしをしていたというが、一方で「疑問系の投稿にすることで名誉毀損などのリスクは減らせるという気持ちがあった」「私自身がされて一番嫌なことを同じようにしたのではないか」と冷静に当時の状況を振り返る。
地獄がある
恐らく、この記事に対して「加害者に寄り添いやがって」のようなコメントが山積するだろうことも含めて、この記事にまつわるあらゆる状況が悲哀と苦痛の連鎖だからだ
私は以下の記事を思い出す
自己犠牲とは、「間違ったこの世界への復讐」という意味が込められています。
(この場合の世界とは、自分以外の全てです。親も兄弟も恋人もすべて世界の一部です)
なぜ「復讐」になるのかというと、
日常生活においては、この世界は不都合のない世界で、自分の力の及ばない巨人に映るわけです。
かたや自分は、小さな存在で腕力も経済力もなく、世間からも顧みられることのない人間だと思っています。
この世界が自分に送り込んできた使者と対決し、自分の正しさを証明し、相手の無能もしくは無慈悲を暴露することが、生きる目的になります。
この記事においては自己犠牲をテーマとして扱っているが、構造としては同じであると感じている
攻撃性の方向性が内側に向いているのか、外側に向いているのかの違いに過ぎない、と思う
自分が行った加害行為を罰して欲しい気持ちも、罰して欲しくない気持ちもあるのだろう
加害行為を止めて欲しい気持ちも、止めて欲しくない気持ちもあるのだろう
トラウマは再演を伴う、私はそう思う
「ほら。自分が受けてきたことと同じ行動を今しているぞ。親から受けてきた理不尽だ」
「お前らは平気でそういう加害をしてきたし、見て見ぬふりしてきた」
「だったら、私が同じことをしても何も問題がない、そうだろう?」
「なぜ許されない?だったら、どうしてあの時は助けてくれなかったのか、なぜ酷いことをしたのか」
「何故、何故、何故……!」
そういう怨嗟の声が聞こえる
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。