はてなキーワード: 諧謔とは
https://anond.hatelabo.jp/20210215101500
・しょうもない犯人、しょうもない気付き、しょうもないミステリの元祖。
ウィルキー・コリンズ「月長石」
・長さのわりにミステリを期待して読むと徒労に終わる。ドラマ観れば十分。
・ミステリか? 別にいいんだけど。主人公の臭い自意識に長時間堪えられるのなら。手塚治虫の漫画版で十分。
コンラッド「闇の奥」
・「闇の奥」そのものより、「闇の奥」をもとにした無数のコンテンツのほうがおもしろい。『地獄の黙示録』とか。
F.W.クロフツ「樽」
・『樽』はタルい。これミステリ界の常識アルよ。クロフツはもっと薄くておもしろいのがいっぱいある。
・ヴァン・ダインとか今更読むやつおる??
・これもルールタビ―ユくんのキャラ小説なんだよな。意外にミステリしてる点は評価できなくもない。
・別のトラバの人も言ってたけど、悲劇四部作は通しで読めよ。おまえはスター・ウォーズをEP5から観るのか?
・オカルト〜〜〜〜〜〜wwwwww すいません、ふつうに好きです。
・クリスティならなんぼでもこれよりおもしろいのがある。まあ、ある種のパターンを確立したという意味で必読ではある。
イーデン・フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」
・いいかげん昔の人が評価してたからって理由だけでレドメイン家をこういうリストに入れるのやめない?
・アイルズ入れるのは当然として、バークリーも入れないのは理解に苦しむ。
ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」
・惰性でオールタイム・ベスト入ってる系の古典としては意外なほどエキサイティング。アイリッシュはもっと評価されてもいい。
・ハッタリのきかせ方は歴史に残るけど、わりに印象に残りにくいんだよな。
・これも型を確立したという点で必読ではある。
・出たよホッグ。20年くらい前ならおもしろかったのかもしれんけどさ。
・知名度の割に、ブクオフに行ったらかならず置いてあるだけの理由はあるものだ。
・出来不出来が激しい作家の一人。奇妙な味勉強したいんなら異色作家短編集読めば。
・そういえば映画版が最近リメイクされてましたね。つまんなかったなあ。ヒッチコック版と原作はいいです。
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」
・御三家のなかで一番キツい。春樹訳はさらにキツい。ロバート・アルトマンくらいの諧謔が加わって初めて鑑賞に堪えうる。
・ハードボイルドの先鋭性をもっともよく表した作家ではある。本篇より諏訪部浩一の『「マルタの鷹」講義』のほうがおもしろい。
・ロスマクの一冊を選ぶとなると戦争が起きる。法月綸太郎みたいなものさ。ここでもな。
・めちゃめちゃエキサイティングなんだけど、分厚いし今手に入りにくいし……。
・ル・カレのなかでは読みやすい部類だし、正解だと思う。
・ボアナルほんとに読んだことある?俺はない。映画は傑作だった。
・ルポルタージュミステリとしては先駆的だったのかもしれないが、今読むと長いしタルいし冗長。カポーティの美点がほとんど失われてしまっている。
・ポップでしょ。
・たかだかミステリ読みごときにエーコの真価が理解できるとはおもわない。
ローレンス・ブロック「八百万の死にざま」
・一発ネタで長編まるまるひとつ持たせた奇跡のような書物。とはいえレンデルはもっと濃ゆいのがある。
ジェイムズ・クラムリー「酔いどれの誇り」
・ネオハードボイルド作家たちは再評価されるべきだと思うが、中途半端に古くなってしまった感もあり、難しい。
・反面エルロイは古びない。ただLA四部作は何も知らない人が「ブラック・ダリア」だけ読んでもわからん気がする。
ジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」
・冒険小説も進化してるので、いつまでもヒギンズを引きずるのは不幸というか、グリーニーとか読ませたほうがいいのでは。俺は嫌いだが。
・マクリーンなんかよりイアン・フレミングのほうがよほどリストに入れる意味あるよ。
・作者がキモい。
・このリストのなかでは比較的新しい作品で、オールタイム・ベスト的なリストでみかけるのは珍しい。個人的な思い入れがあるのか? たしかに発売当時からそこそこ評判高かったけれど、薄い記憶を掘る限りそこまで評価する理由が見当たらない。気になる。
・ライスはたまに読むと心温まってよいが、それはスレた読者の愉しみなのであって、入門者が読んでも伝わりにくい。
・たしかに仕掛けはミステリなしおもしろい小説なのだが、別にこのリストに入れる必要はない。なんでミステリの人は文学にコンプレックスを抱くのだろう。
・うーん。
リチャード・二ーリィ「心ひき裂かれて」
・オールタイムベストでも陰が薄い存在なので、入っていると嬉しい。まあでも数合わせだよね。
ケン・フォレット「針の眼」
・フォレットもそろそろ再評価されるべきだと思うのだが、ダン・ブラウンみたいなものと思われているのだろうか。
・北欧系の元祖ではあるのだろうが、だったらよりエポックなミレニアム入れたほうが誠実な気がする。
・はあ。
江戸川乱歩「孤島の鬼」
・え?
・変格って今読むとふつうにつまんないの多いよね。
・そりゃ読んでも損はないとは思うが。
・当時としてはアベレージはある作家だろうが、そこで鉄鎖を選ぶ理由がよくわからない。
・うーん……いいんじゃないんですか。
・どう読むかによる。単純な出来でいったら虫太郎にはもっといいのがいくらでもある。すまん、いくらでも、はない。
・横正の作品をチョイス理由を添えずにポンと出されても困るんだよな。高校生も困ると思うよ。こんなんだけ読まされても。しょうがない。
・本格ベタな安吾のなかでもなんでよりによって一二を争うほど不出来な作品を選ぶのか。嫌いなのか?
・高木彬光でこれがあがってしまうのは、消去法の結果なのだと思う。
・通っぽいセクレトだが、そこは素直に「天狗」にしとけ。コケまくったサンドマンが唯一正位置になってしまった作品なのだから。
・映画の印象は強いが、清張であえてピックアップするほどかといえばどうか。
・変化球狙いすぎて外しとる。
・流れ的にはわからないでもない。
仁木悦子「猫は知っていた」
・と思ったらいきなり脳死みたいな。
・今あえて読むほどのものではない。
・同上。長いだけ。
笹沢左保「暗い傾斜」
・飛鳥高の長編ってそんな良いイメージないのだが。賞とったってだけで入れてない?
・今選ぶとなると難しい作家だが、針の誘いとかでいいのでは。
陳舜臣「玉嶺よふたたび」
・パッションだけで突っ走った奇跡であることは間違いないが、三大奇書にならべて語るほどかといわれれば疑問符がつく。竹本健治は”今”が面白い現役の作家だ。
・不可欠だとは思うが、真剣に読んでる人は少数派だろう。
・そうね。
・またひねくれたもん入れてくるな。
・ごめん、森村あんま興味ない。
西村寿行「滅びの笛」
・戸川昌子の話をすることはあるかもしれないな。
・マスト。
・鉄板。
・入れても良いとは思うが、そういえば結城昌治がおらんな。
・エッ? そこ?
栗本薫「絃の聖域」
・読んでない。そろそろ疲れてきた。
連城三紀彦「宵待草夜情」
船戸与一「猛き方舟」
・このへんはね。
・入るよね。
・急に九十年代っぽくなったけど、2000年代にもインスタントクラシックな作品はたくさんあると思うよ。
皆川博子「死の泉」
・皆川博子がミステリ的に評価できるかといえば微妙なんだけど、ミステリ界以外で評価される土壌がさほどないようなので、不運な作家だと思う。偉大な人です。
アプリでマッチングした歳上の落ち着いた彼は、車に乗ってやってきた。東京なのに。のっけからバブルかよ!って感じで、出会いから平成だったんだけど、湾岸をドライブしていい感じのレストランでご飯して、スーパー銭湯に行って(ここだけバブル崩壊以降)、あ、これはヤるんだなって感じが出てきて渋谷のラブホに。
ハチャメチャによいセックスだったんだけど、フェラしている最中に彼、実はお坊さんであるって言ってた(SEXするなんて生臭坊主だ)のを思い出して、ん、これ俺完全に稚児じゃん!!!ってなった。会った直後にすごく驚いた顔で「若いね」って言われてたし、若い子が好きって言ってたしで、稚児とセックスする僧侶の稚児側という日本史実践演習みたいなことをまさか30過ぎてするとは思わず、ホテル出たあとに、あまりにも面白くなって友達に平成なのに稚児してしまったってLINEしたら、一人で寂しく川越来てたけどメッセージ見て爆笑したわって返ってきた。
童顔に生まれたの好きじゃなかったんだけど、この体験出来たから良かったなと、そして歴史と諧謔の分かる友達がいてよかったです。あと、お坊さん、フェラの反応良すぎてめちゃくちゃ楽しかったです。
カワンゴはいわゆる「ネット住民」の感覚のままビジネス面でも成功している希少な存在だった。
彼が「あえてUIを悪くした」「赤字になることをやっている」と発言するときはネット住民独特の諧謔で、いわゆるネット住民が優勢のときはそれがウケていた。「経営者だけどこんなこと言っちゃうおれ」っていうネタね。だから誰も真に受けてなかったし、ツッコミを入れて楽しんでいた。
しかし、そういう楽しみ方はリテラシーが必要とされるもので、ネットがリテラシーなんて持っていない大多数のものに開かれると、カワンゴは炎上するようになってしまった。「経営者なのにそんなことを言うとは何事だ」と。文字面を額面通りに受け取るしかできない人には、カワンゴが言っていることはただの無能なのだ。時を同じくしてネットは何でもかんでも炎上するようになった。コメディアンが投稿した過去の冗談も掘り返され、炎上してしまう世の中だ。
つまり、カワンゴは何も変質してはいない。変わったのはネットだ。カワンゴはしきりにネット住民の居場所を作ろうとしていた。政財界に対して、ネット住民の性質をプレゼンできる唯一の存在だった。それがネットの変質によって失墜してしまうのは、とても皮肉なことだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/azusatheathre/n/nc7d516f7b4bc
とりあえず、「最近のスタートアップ企業の写真がアーティストばりだ」という目の付け所は面白いと思う。問題(と言っていいかは微妙なところだけど)があるとしたら、その紹介の仕方だろう。
こういう手法は大雑把に分けで「肯定」と「否定」のやり方があって、件の記事は否定だった。
同じ題材でも肯定的な紹介の仕方だと、
最近のスタートアップの記事の写真が一流アーティストみたいでカッコイイから紹介します。
・ゴールドディスク獲ってそうな貫禄
こうするだけで笑いに丸みが出る。
もちろんエッジの効いた、いわゆるキレッキレの笑いとして否定を取るのもありだけど、その分不快に思う人も出てくるだろうし、実際そういう声が出た。別に何もおかしくない流れだと思うんだけど、「不快な要素などない」とまで言い切っちゃうのは、やっぱり無神経にすぎる。
あれはセールスのためのキャッチコピーがどんどん暴走していった結果、実際の商品との乖離が激しくなってしまった部分があって、要は誇張広告に対する諧謔なんだよね。
でもこれは単純に会社の顔だよ。
千葉の気持ちがわからんでもないひとりのクソオタとして、千葉についての雑感を以下に記す。
政治的な観点からの物言いは極力さける予定だが、そう見えるだろうなというところもあるので注意。
また特にオチはなく、そしてネタバレは一切回避していない。未読者は即ブラバされたし。
実は、ともったいぶる必要もないのだが、実際のところ千葉はハルにマジ惚れしており、それが千葉というキャラクタに深みを与えている点はけっこう興味深い。
千葉は従前にも説明した通り、異世界転生(転移)チートハーレム無双モノの主人公をメタったキャラだ。
そういう観点に立てば、キヨリも【千年に一人レベルの美少女で、主人公(千葉)に強く惹かれており、従順な性格でもちろん処女(初登場時はフェラすら知らない)】という異世界転生(転移)チートハーレム無双モノのヒロインをメタったキャラだというのが見えてくる。
雑に(本当にひどく雑に)ノクタでやる異世界転生(転移)チートハーレム無双ネタとしてこれらの要素を考えるなら、前世で陰キャラとして鬱屈した人生を送った千葉は、転生した異世界で成長促進+その他のチートを得ることによって勇者となり、最高の美少女であるキヨリをゲットして男に成り上がる。
ハルも含めた三角関係として見るのであれば、前世を象徴するヒロインとしてハルがおり、異世界を象徴するヒロインとしてキヨリがいる。そのふたりをハーレムの一員としてゲットすることによって千葉は前世の鬱屈を解消しつつ、異世界でウハウハする――みたいな話になるわけだ。
「俺、アイツのことなんて何とも思ってねーから。誤解すんなって」
「誤解って何よ? あたしも知らねーし。断るにしても付き合うにしてもあんたの勝手なんだから、あたしをダシにすんなってムカついてんだよ」
(中略)
「え、いや、なんで怒ってるの? だから俺、ハーレム攻略も順序が大事だと思ってるし、最初の女は元同級生で奴隷メイドのハルで決まりと思ってるし……」
(チーレム主人公である)千葉からは、美少女キヨリの登場に(ツンデレキャラである)ハルが嫉妬したように見えている(もちろんハルはそんな千葉がただただウザく、そんなこっちの気持ちを解さないことにムカついているだけだが)。
(普段はこういうチーレムモノを愛好する)俺は、ある種のお約束を逆手にとる作者一流の諧謔をここに見る。
さて、ここで注目しておきたいのは千葉がキヨリにさほど興味を示さない点だ。彼は明らかにキヨリ<ハルの論理で動いており、なんならキヨリがモーションをかけてきたことをネタにハルを釣ろうという、キヨリのことをただのエサとしか思ってないフシさえある。そしてそれがまたハルをムカつかせる(ちばはじつにばかだな!(ドラえもんっぽく))。
この傾斜はチーレム主人公のメタキャラから明らかに逸脱しており、ある種のご都合主義だと言える(本当にキヨリとくっついてハルの前からいなくなってしまうと話に絡められなくなるという作者の都合)。
ただこれは作内でちゃんとケアされており、それが千葉はハルのことが本当は好き、という点なのだ。
もともと千葉とハルがこの異世界にやってきたのは、暴走トラックに揃って轢かれたせいだが、ハルの視点から見ると
そのときすぐ教えてくれれば避けれたかもしれないのに、わざわざ私のとこまで走ってきて抱きついてきたせいで、2人とも死んでしまって異世界まで吹っ飛ばされた
となる。
となる。
千葉のこの叫びは流れをちゃんと追っていくと中々に壮絶で、初めて読んだ時は、
いやー……。ほんとさー……、千葉さー……、お前さー……、馬鹿だよ。なんでさ、ハルのことを理解しようとして自分のことを理解してもらうようにコミュニケーションとれなかったんだよ、そうしないとわかってもらうなんてできるわけないだろ。でもさー……、俺はお前のその気持ちわかるよ。陰キャだもんなあ、教室の中心で輝いてるようなイケてるJKに自分の本心なんてなかなか打ち明けられるもんじゃないよなあ、相手は自分たちのことキモオタって言ってたんだもんなあ、無理だよなあ、言えないよなあ、ほんとその気持ち、わかるよ。
てなことを思いましたまる。
というところで終わらせてもなんなのでもう少し続けると、これは千葉が【俺が生命をかけて守ろうとしたんだからハルは感謝すべきだ、そして異世界で成り上がる俺の側にいるべきだ】という子どもじみた欲が破綻した瞬間だ。これによって千葉とハルは決別する。
千葉サイドの論理でこの瞬間を斬るなら、(千葉より圧倒的にコミュニケーション能力に長け、千葉を批評するほど状況が見えていた)ハルだって俺(=千葉)の気持ちに気づいてフォローしてくれなかっただろう、となる。
もちろんハルにそんなことをする義理はなく、批判されるいわれはない。けれども千葉がここで暴発してしまう論理は物語の中にちゃんと担保されており、千葉は意味なく怒っているわけではない。千葉の理屈や感情を理解することで共感してやれる余地は残っていて、千葉はただクソミソに叩かれるサンドバッグとしてここに存在するわけではない。
そしてこれは、物語が進むごとに超人になっていくハル(まあもとからそうなんだけど)も聖女でも聖人でもなかった、ただの東京のJKにすぎないんだよ、という提示でもある。
『JKハル』は、ハルをとにかく称揚し、千葉をとにかく叩くような物語ではないのだ。
レベルキャップによってチートに陰りが見え、ハルやキヨリとの関係も破綻した千葉はその後、ルペちゃんに教育されるようになる。
「確かに童貞くささはまだ抜けきらないけど、言われたことぐらいはちゃんと出来るようにはなったよ。ハルちゃんもキヨリちゃんも、千葉くんのこと育ててやるつもりなかったからか、自分で工夫するってこと知らなかったんだよね。だから私は、まずは立場から教えてあげたよ。優しくしたり、叱ったり、甘やかしたり。ほんと時々はぶったりもして、それから泣くまで褒めてあげたり。あとセックスの後はだいたい不機嫌になったふりして、自分の何が悪かったのか考えさせたかな。根は真面目だし、一つのことにハマれば熱心になる子なのはわかってたから。今じゃあの子も私のこと『ママ』って呼んで甘えてる。素直にはなったから、最近はちょっと放置と無視の期間を設けて、自分でもっと工夫して私の気を引けるように様子見してるとこ。お金は持ってるし暇な時間もあるようだから、いろいろ貢いでくれるよ。だけど、私って物よりは愛情が欲しい人だから。お店の前で土下座くらい出来るようになったら、褒めてあげようかなって思ってるんだ。えへ」
土下座のくだりはさすがにどうかと思うが、基本的には泣いてわめく程度のコミュニケーション能力しかない赤ちゃんの千葉を、ルペちゃんママが教育してあげている話だと言って良い(「千葉くんのこと育ててやるつもりなかったから」とハルとキヨリが直球で批判されているのも面白い)。
俺はここに救いを見る。
『JKハル』は男尊女卑の世界で超前向きな東京JKがサバイブする話だが、その主要な価値観として、相手とコミュニケーションを取ろうとせず自分をおしつけてばかりやつはクソ(男女関係なく)というのがある。コミュニケーションをとって相手のことを思いやりわかり合おうとするのを是とする世界において千葉は圧倒的に弱者であり、それがルペちゃんによって改善されていく。彼は今後、少しずつコミュニケーションが取れるようになって、本当の意味での友人、そして恋人ができるときがくるかもしれない。少なくともその可能性はしっかりと開かれた(番外編ではそんな千葉の活躍が描かれた)。
音楽に例えるなら、歌は人々を楽しませ、コミュニケーションを円滑にするツールだ。
しかし、歌にははっきりとうまい下手がある。いくら歌という存在が素晴らしかろうと、歌う人物が調子っぱずれでは逆効果となる。ノースティリスだったら死んでたぞってなもんだ。
それに加え、いくら歌がうまかろうが、挨拶も会話も、まじめな相談もすべてが歌で返されたら?
駄洒落はただ韻を踏めばいいというものではない、発想の転換や飛躍、あるいは文脈に沿った返歌、もしくは諧謔、とそういったテクニックを駆使することでユーモアに満ち溢れた駄洒落は出来上がる。
しかしながら、氏の駄洒落の出来はすこぶる悪い。正直、基本(韻を踏むこと)すらできていない。もう、何年も投稿しているはずなのにだ。
(じゃあ、上手な駄洒落の見本を示せ! みたいなマンガの批評に対して「じゃあ、お前が面白いマンガを描いてみろよ!」と返すようなコメントはお控えください)
また駄洒落がうまくない人に限ってしつこく駄洒落を繰り返す傾向にある。
会話において駄洒落やジョークはアクセントのひとつでしかない。相手に何かを伝えることの補助として使われるもので、それ自体が目的と化すと独りよがりな印象を与えてしまう。
オヤジギャグとは質の低い冗談のことを指すが、なぜオヤジなのかと言えば、そういった独りよがりで対話能力の低い人物に中高年(オヤジ)が多いと感じられたからだ。
ブコメは性質としてはメモ帳のようなものだが、はてブはソーシャルな場である。ただメモ帳として使いたいのであれば、プライベート設定にするのが最善だろう。パブリックにブコメを発信するということは、外部となんらかのつながりを得たいと考えた結果と言える。そして大半のブクマカはそのように扱っている。
氏の場合は駄洒落を言うか言わないか、という使い方をしている。「言わないこと」による発言のコントロールもされているが、言っている部分がほぼ駄洒落であり、内容に駄洒落を言うこと以外の目的も感じられず、非常に独りよがりなものを見せつけられる格好となっている。
氏よりもまだ駄洒落が上ず…マシなヒゲじいが結構なヘイトを集めているのも同様の理由だ。
質の低い駄洒落と、独りよがりにそれを繰り返すというダブルパンチこそが、氏のブコメを不愉快たらしめている原因と考える。
これを受け手の問題だと片づけてしまうというのは、いかがなものだろうか。
あと、NG設定について。
これに関してははてブに限らず、SNS全般に言えることだが、NG設定やブロックというものは、自室に侵入したゴキブリに対して姿が見えなくなるスプレーを提供しているに過ぎないということだ。這いまわる音や、シルエットまでなくすことはできない。というか室内にいることに変わりはない分、逆に怖いな。
嫌いな奴のツイートをフォロワーがRTで回してきたみたいなことはツイッターでは日常茶飯事だ。氏をNGにしたところではてブを使っていれば、今回のようにどこかで氏のIDに遭遇してしまう。
ゴキブリに対する根本的な解決方法は殺虫スプレーだが、これをSNSの場で適応するのは不可能だ。だからこそ悩まされる者は、ぐるぐると負の思考に陥っていくし、結果としてその感情は殺意にまで高まる。
元増田に対して非難を浴びせるブコメも多いが、ここには重要な問題があるように感じる。
それと、これに関連して虚構新聞に触れてる人もいたので、それについても。
虚構新聞で取り扱われている記事の質は低くはないかと思われる。しかし、サイトの思想上、それらの記事は他の新聞記事に紛れ込ませることに存在意義を見出している。しかし事実に基づかない記事というのは、ニュースメディアの意義に反するし、純粋にニュースメディアを欲している人たちにとって、それがいくら出来のいいジョークであろうとゴミクズ以下の代物でしかない。
先ほど自室にゴキブリが…という例え話をしたが、これも人の部屋にゴミを投げ捨てるような行為と捉えられてもおかしくはないだろう。
以下は、いわゆる【ノマカス】特有の性格、性癖、性向、発想等に関する所見です。
(1) 腐女子に対する、抑えがたい差別意識や侮蔑の念の虜になっている。
(2) 人種、性格はネトウヨに近く、ヘイトスピーチや恫喝が得意である。
(3) 【男女】、【公式】の価値など、【本音】では全く信じていない。
(4) 自分と他人との関係を、優劣、強弱、上下という視点で捉えたがる。
(5) 姑息な【ステID】、【ID非公開】による、無責任な投稿をしたがる。
(6) 自分がオタクであることを棚に上げたまま、平然と他人(主に腐女子)に罵詈雑言を吐きたがる。
(7) 腐女子に対する、異常なまでの猜疑心、不信感に凝り固まっている。
(8) 【本音】では、【男女】の恋愛、結婚など考えていない。
(9) セックス、結婚、貞操に関する既成概念、固定観念に囚われている。
(10) 価値判断を下す際、安易に既成の規範や権威に追従、迎合したがる。
(11)「なぜ?」、「なぜなら」という論理的、因果論的思考を苦手とする。
(12) 自己批評、諧謔性、ユーモアへの興味・関心が驚くほど欠けている。
(13) 他人と建設的な議論をするよりも、問答無用の自己主張をしたがる。
(14) 自説・持論の根本的な拠り所も、人生の最終目標も見えていない。
(15)【腐女子】だけでなく、【男女カプ派】からも嫌われているとの自覚がない。
(16) 自分を【ノマカス】ではなく、【男女カプ派・女オタク】だと勘違いしている。
(17) 確たる証拠の裏付けのないまま、すぐに【腐叩き】に囚われたがる。
(18) 内部に無数のコンプレックスを抱えているのに、その自覚がない。
(19) 【ノマカス】は同性愛への過干渉、DV、モラハラの危険性を孕んでいる。
(20) 自分の不如意を自力で解決しようとせず、腐女子のせいにしたがる。
(21)他説を批判する際、原文引用を避け、故意に歪曲して紹介したがる。
(22)【not腐】と【ノマカス】の間の明確な線引きを求めると口を噤んでしまう。
ライトノベルの主人公は努力しちゃダメなんです。読む側が自分を投影できなくなるからです。ヒロインは都合よく向こうからやってくる。超能力などの能力は、いつのまにか勝手に身についている。今のライトノベルの多くが、そういう設定で書かれていますよ。
――恋人や能力を努力して勝ち取るのではなく、何もしなくても、いつの間にか恋人と能力を手に入れているという設定でないと売れないということですか。その努力の過程こそが、今までは物語の根幹だったはずなのに。
そうです。今は努力できる立派な人物が主人公だと、読む側が気後れして感情移入できないんですよ。主人公は読者と同じ等身大の人間。そして、主人公に都合のいい物語を求める傾向が進んできた。文学の世界でもそうなってきていると思います。
http://www.yomiuri.co.jp/yolon/ichiran/20160923-OYT8T50010.html
カドカワのトップのくせして、この理解はまじで浅すぎやしませんか?
本当にいい作品を送り出す気があるのかと、100回は問いたくなる適当な物言いにイラッと来た。
そもそも、最初からチートを持って最強になることを「俺tueee」と揶揄されていたりするのはここ数年だけで、ジャンプなら北斗の拳やるろうに剣心、バスタードにBOY、過去の作品をあげればきりがない。みんな大好きガンダムのアムロ君だって、最初からワンランク上の人種だったわけですよ(あぁ、若い子的にはコーディネイターのキラ・ヤマト君の方が)。最強主人公が昔から愛され続けているのは明らかだ。
「努力に対して気後れする」というのは、どう考えても浅すぎる考えなので、ただのサラリーマンのオタクである俺が、超主観的にけれどkawangoよりはまともに、「最近のラノベ」っていうのを推論してやろうと思う。
ちなみに、全て根拠のない仮説だから、定量データ大好きなコンサルマンは読まなくていいぞ。己の中のロジックで書き殴っているだけだ。
正直こんなことすること自体、市場に対しての傲慢であることは理解したうえでだが、「カドカワのトップの発言」に怒りしか沸かないため、久しぶりに筆を取る。
努力云々が拒否されているかは正直わからん。少なくとも言えるのは、将棋の天才が努力する「りゅうおうのおしごと!」は最近のラノベではピカイチで面白いってことだ。そして、幼少期からガチで人生を変えようと努力を重ねて、家族を守るために死にものぐるいになる「無職転生」もまた名作であることを俺は支持する。
俺が言いたいのは、自己投影は「努力できる立派な人物」にしづらいのではなく、「異世界転生」にしやすい、ということである。しやすいなんて言葉も生ぬるいくらいに「ファンタジーに自己投影出来る現代最強の装置」と言っても過言ではない。
ファンタジーという題材自体、本来は自己投影には不向きなものだ。なぜなら、今の自分と照らし合わせて「そこにいる」ことを想像することが難しいから、ということは理解できるだろう。
我々が住んでいる現代、つまり「高層ビルが屹立し、夜も煌々と電気の光が輝き、インターネットで交流を重ねる世界」と「石畳を馬車が走り、騎士団が剣を振りかざし、魔法が世界の理である世界」では、あまりにも違いが大きすぎる。そこで生まれ育った主人公に感情移入するのは、本来はしづらいもののはずだ。
ただし「異世界転生」は違う。
自分が今いる現代、と、異世界であるファンタジー世界が、まずつながるところからスタートする。たったこれだけ、これだけで高水準の自己投影を得ることが出来る。
それは突然足元に現れる魔法陣か、はたまた気づいたら目の前に迫りくるトラックなのか。きっかけはどちらでも良い。今の自分が、異世界に行けるという想像力をカジュアルに補間してくれるのが「異世界転生」である。
何故か。
第一に、主人公がまんま現代に存在してそうな、ふつ~~うな人物であることが重要だ。もちろん最初から古武術をマスターして、スキルを盗む能力を授かるような人外主人公もいたりするが、基本は自分を重ね合わせられる主人公である。高校生、帰宅部で友人は少ないが仲の良い親友もいる。進学はどうしようと悩む2年生。趣味はラノベ。ほら、想像しやすいだろう。
第二に、異世界転生ってほんとにあるかもしれないだろ?という、諧謔が含まれるちょっとした夢である。死後の世界なんて誰もわからんし、宇宙にある元素だってまだわからん。もしかしたらマナを利用した魔法陣は発生するかもしれないし、事故で死亡したあとには神様がスキルを選ばせてくれるかもしれない。
「異世界転生」なんてねーよ、と鼻で笑うことは可能だが、誰もそれを証明することは出来ないのである。だからこそ、現代と異世界のつながりを、「ないな」と思いつつも受け入れることが出来ているのだと、俺は考えている。
重要なことだからもう一度言うけど、「現代」と「異世界」をカジュアルにつなげる「異世界転生」は紛うことなき物語の発明である。最初にトラック走らせた人には3,000ガバスあげたい。
「異世界転生」がすごいものであることは説明した通りだ。かくいう俺も、毎日仕事帰りにはブックマーク登録しているなろう作品を消化しつつ、健気にスコップしたりもしている。本屋の棚にならぶラノベも、以前よりも増えたなと感じることはある。実数はしらん。マーケティング大好きくん調べてください。けれども、これは現代の若者云々のような下らない推論なんかによるものではなく、あくまでブームの1つだと俺は考えている。
ところで、俺は30代前半のおっさんだったりするわけだが、中学生にはじめてブギーポップを読んでこの世界に足を踏み入れた。かどちんの作品は今でも全部読んでいるけど、ハートレスレッドが俺は大好きなんだ。あの頃は「セカイ系」なるものが流行っていて、なんだか薄暗いイメージの作品が人気を集めていた。細かいこたぁいいんだよ!と言わんばかりに、世界観設定などをあえて曖昧にして、読者に考えを委ねるような作品だ。正直俺はTVアニメ版エヴァンゲリオンが嫌いである。新劇場版は好きだぞ。
まぁつまり、今とは確実に違った主流だったと考えてよいだろう。
オタクの狭い世界でいうとその後に泣きゲーがメインストリームを走り、鍵と葉をプレイしないオタクはオタクに非ず、と総括しはじめるオタクもいたハードな時代だった。その後はいわゆる「新伝奇(この言葉あんまり好きじゃないんだけどな)」と呼ばれる作品がにわかに注目を集め、PCゲーでは月姫・Fate、ラノベでは戯言シリーズ、禁書、シャナが生まれていった。まだ少し薄暗さやきな臭さみたいなものが世界に漂いつつも「物語を曖昧にしない設定」が練られた作品が多かったイメージだ。そんな中、生まれでたゼロの使い魔は最先端だったんだろう、異世界転生の走りだった。お悔やみ申し上げます。
物語のムーブメントはここでもまた変わっていたわけだ。時代時代においてムーブメントはあり、「異世界転生」もその系譜の1つであると考えても不自然ではないだろう。美味しいものがあれば、それを食べ続けたいと思うのは至極当然の話しだ。最高の自己投影が出来る「異世界転生」をひたすらむさぼるのも、ただの欲求の発露だろう。
人間は成功体験にもとづき、欲望を繰り返し続ける生き物らしい。ソーシャルゲームの初期ガチャでURが引けるのは、その辺の心理をゲームに応用している可能性があるから気をつけるといいぞ。俺はFGOに毎月1万円課金している微課金兵だから、安心していい。
1つ面白いものを引き当ててしまったら、次に何かが来るまで、同じ成功体験を求めて同じものを摂取する。それは俺が辿ってきたオタク人生を照らし合わせてみても、超主観的に正しいと主張させていただく。
正直「異世界転生」は飽きてきたんだけどな。
最後にこれも超主観的な仮説だ。
エロゲisコンテンツの頂点。SF小説isオタクの原書。ラノベis心のフレンド。最高の1冊は「天冥の標」と豪語する俺だが、最近はコンテンツの摂取にカロリーが高すぎて億劫になってきてしまった。
昔のエロゲと言えば、長いプレイ時間を経て没入感が高まり、最高のカタルシスを最後の最後にぶちかまされる、そんな作品に90点が付いたものである。ゲームもそうだ。長時間プレイするRPGは食指が伸びない、仮に触れたとしても10時間でギブアップ。本気でコンテンツと向き合うのに気力が必要なのだ。
なぜかと考えてみると、コンテンツとの向き合い方が昔と大きく変わってきてしまったことに気づく。
例えば、インターネット。不覚にも、kawangoのdwagnoが作り上げた「ニコニコ動画」は短尺でコンテンツを楽しめる世界観を作り上げた。1本5分~15分程度のユーザークリエイティブな動画が数多く投稿され、それをつまみ食いする時代が2007年くらいから始まった。当時はアイマスのXBOX版プレイ動画をただただ見ていた記憶がある。その後に初音ミクや東方、まぁニコ動周りは色々とブームが起こっただろう。id3万番台の古参だからたくさん見てきたけど、今はたまにはてブに上がる動画を見るだけである。
アニメでいえば10分尺が増えてきた。ややもすれば5分。手軽に見れる極致と言って良いだろう。あいまいみーの作品構成は完璧だった。神アニメと言って良い。
デバイスはスマホ利用がメインユースである。スキマ時間にいじって、Twitterを見たり、ソシャゲのスタミナ消費したり(最近スタミナ系減ったね)、もちろんニコ動やYoutubeで商品宣伝見たりするのも楽しいだろう。若い子ならsnowとかsnapchatとかもあるな。comicoのリライフが地味に好きだから、毎週土曜日の更新が楽しみだったりするよ。
それが気づくとスキマ時間だけじゃなく、家に帰っても弄っていたりする。これを読んでいる皆もそういうことが何度もあったはずだ。
そうやって俺たちは、気づけば「カジュアルに消費できるコンテンツ」ばかりを楽しみ、それに慣れてしまった。「うわ、これ疲れそう」なんて言いながら積んでいるコンテンツ、皆はないだろうか?俺はある。たくさんある。以前は何を差し置いても、翌日の仕事に差し支えたとしても、徹夜してでも、読む。プレイする。そんなコンテンツが、いまや時間のある時に消費するかと積み積み。
もちろん時間があればいい。気力を振り絞って得られるカタルシスが最高であれば、なお良しだ。ラノベ読んでてよかった、エロゲやっててよかった、この年になっても年1くらいで感じる瞬間だ。
でも、その時間はいつの間にか、生活を縛るカジュアルコンテンツに侵食されてしまっているのが現実である。カロリー計算をした瞬間に、さすがにラーメン二郎は無理、と避けてしまうのは年を取ったからではなく、現代の生活をカジュアルコンテンツに束縛されているからだと俺は考えている。
そんな中、最近のライトノベルやなろう小説には、カロリーに優しいコンテンツが多い。それが「安定して人気の出る作品」であるというのが持論である。(爆発的ヒットではなく、一定数さばけるという意味である)
ポイントは2点である。「期待値を裏切らない」「スキマ時間に読める」
小説はそもそもコンテンツとして消費にかかる時間が長い。ハズレを引いてしまった時の時間的損失は読み手にとってつきまとう課題である。それを解決しているのが、昨今のラノベのパッケージであると理解している。
表紙、タイトル、帯、あらすじで、中身を想像出来る。そしてそれが期待値とずれないことが重要である。大ドンデン返しみたいな疲れるものはいらない。想像した快楽を得られ、時間というコストに対して最大限のパフォーマンスを出したいのだから。なろうの作品を読む前にタグをチェックして「ハーレム」を探しているそこの君。君だよ君。
そして、ここまで何度も述べているように、カジュアルに読み進められるパッケージとして、なろうの形式は最適化されている。1話あたり5,000~10,000文字の文量は便所でうんこしながらでも読めるだろう。通勤中であれば、2,3話読むことも出来る。区切りもつけやすい。はてブで糞みたいなエントリーを読むのと同じユーザー体験で、自分が好む小説を摂取できるのだ。そりゃあ楽な方楽な方に行きたくなるのが人というものだ。
kawangoの話はラノベのくだりだけはまじで許せなかったが、大筋同意できる意見も書かれている。
つまり、ユーザーが自分の好むメディア、自分に都合のよい物語を選び始めているということです。もちろん昔から、人々は基本的に自分にとって心地よいメディアを選んできたわけですが、まだ選択肢が少なかった。ところが今は、どんどんパーソナライズ化が進んできて、自分が信じたい情報、接したい情報だけが集まってくるようにするということが、ネットを通じてできるようになったということです。
心地よい作品を得たい、これは今に始まった話ではなく昔からそうだ。それを加速したのはネットであり、生活リズムによるものだと俺は考えている。
ジョブスのせいでエロゲをまともに出来なくなったから、あいつは地獄に行けばいいと思う。まぁiPhone7は買ったけどな。
そうは言っても、先にも述べた通り、コンテンツのムーブメントはいつか終わりがくると俺は思っている。あれだけ若いオタクの間で跳梁跋扈した東方ですら空気になりかけ、俺が大好きだったKeyだっていたるんが退社するんだ。時代は流れていく。それはもう人の手では止められるものではない。
ブギーポップではじめて感じたライトノベルという時代の到来。雫、痕、ToHeartからはじまったビジュアルノベルの胎動。なろうで形作られた異世界への特異点。
生まれ、壊され、生まれ、壊され。その繰り返しの中で、コンテンツは洗練されて進化を続けてきたのだから、今を変えていくのは強烈な快感を与える新しいコンテンツでしかない。
オタクコンテンツのトップランナーであるカドカワもといKADOKAWAが、それを担わずして誰が全うするというのか。「努力できる立派な人物が主人公だと、読む側が気後れする」だって?まじで言ってんのかあんたは?
そんな下らない仮説を振りかざして、閉じたコンテンツの世界を作り上げるのがあんたらのやりたかったことなのか?違うだろう?
今のライトノベルには面白い作品がたくさんあるぞ。エイルン・ラストコード読んだか?ライトノベルで熱血ロボットとか新しすぎだろ。最高にアガる作品だぞ。正直アニメは微妙だったけど、天鏡のアルデラミンも読んでて震えるわ。風呂敷たたみ始めるの早すぎてちょっとおっちゃん心配だけどな。
あんたの会社の社員はめっちゃチャレンジしてるんだぞ。わかってんのか?
にも関わらず、トップのあんたがその斜に構えた態度でいるとか、作り手とユーザー舐めすぎだろう。看板背負っていることを、どうか自覚してほしい。一度御社のラインナップを洗ってみて、いかに自分の認識がおぽんちなのかを理解してくれ。ラノベは多様性があって素晴らしいものだぞ。
俺はあんたが作ったニコニコ動画という世界にはじめて触れた時、新しい時代の到来を感じたんだ。実際に、2000年台後半はニコ動の時代だった。コンテンツのあり方を変えた1つの要因だったことは確かだろう。
サービスでもいい、コンテンツでもいい、もう一度それを作り出すくらいの気概を俺たちユーザーに見せ続けて欲しい。閉じこもった推論だけ振りかざしていたら、そこに未来はなくなってしまうんだから。
どうか。期待しています。
年金は上の世代を守ろうとしておかしくなっちゃった。国家をあげたネズミ講だから最初から破綻してたのかもしれないけど。
理屈で言えば、若者が老人を支えるってのはありそうなものだけど。少子化とか、経済の停滞でオワコン化して、若者にデメリットしかなくなってしまった。
結婚も、夫婦制度をとるならいろいろ補助を出すことで子供を育てやすくしたり、女の方が弱いから女を守ろうってので色々、妻側に有利な政策、法律ばかりになっちゃって。
理屈で言えば女の方がDVとか受けやすいんだからってのはありそうなものだけど。離婚率の増加とか、経済の停滞でオワコン化して、若い男にデメリットしかなくなってしまった。
なんつーか、経済の崩壊と、人権の問題。両方が制度破綻を招いちゃった感じってので、年金と結婚って似てるなあって思った。
そりゃ、年金が源泉徴収じゃなきゃダレも払わないだろ若者は。そりゃ、結婚が回りからの圧力なくなったらダレもしないだろ。
老人に話しを聞くと年金制度は若いとき払ったからもらって当然だろみたいな話をしだす。同じように女から話しを聞くと、将来設計のなかに結婚が無いのに恋愛するのはおかしいといいだす。
どこからその理屈が来るのかが理解できないが、本人達にしてみれば、「若さを売って尽くしたんだからもらって当然の利益」ってな感じなんだろうか?そりゃ若者は裸足で逃げますな。
経済が豊かならありだったかもしれない。あからさまな不平等さえなければやったかもしれない。
馬鹿じゃなきゃそりゃ乗らないって。皆降りる。
皆がやってるならやる価値があるシステムだと思うんだけど、降りていいよっていうシステムにしちゃったら皆おりちゃう。
※追記
年金っていう国が作った制度ですら余裕で破綻するんだから、結婚制度も破綻してもおかしくはないよね。っていうのを対比させて書いてみました。
結婚はメリットデメリットじゃない、っていう意見が多いみたいですが。個人個人ではそうでも、全体でみたら、「デメリットが増えれば降りる奴がでるのは当然だよね」っていう当たり前の結論しかでず、個人の精神論は意味無いと思います。
年金納める納めないは個人の問題だから、っていうので年金破綻を語れますか?それがおかしいと分かるなら、結婚を個人の精神論で語るのはおかしいはずです。
そして、降りる奴が増えるほど破綻するのは年金も結婚も同じなので、その部分が諧謔として面白いなっていう文章です。
皆が金もって余裕あれば年金くらい軽いモノだけど、金がなくなれば、年金がキツくなる。金が無い奴から結婚をあきらめるのを、精神論と言い出したら流石におかしい。
話題が去っても尚ここまでトラバを続けるような変わった増田であるからには、きっと何か、抱えきれない鬱積した物があるのだろう。
それもまた聖職者の務めだ。
神父や牧師や教会主ではないが、可能な限り、告解を聞き届けよう。
俺の口調を紳士的だとか言いだしたのは君でしょw
“純粋な善意から発生する己の行為であれば、受け手の相手の状態に関わらず、責められる責を負うべき一切の非などない”
と本当に思っているらしい。
よく報道番組などで、ストーカーの行為を擁護側が極力好意的に解釈した場合、“善意の押し付け”という表現がしばしば用いられる。
受け手に対する視点というものが完全に抜け落ちた言動は、「思いやりの無い人」という認識をすでに超え、もはや“人間性の喪失”として受け取られる。
なぜ、益も無く敢えてそのような言動を繰り返しているのか? 常識と禁忌との境界線を越える行為が、楽しいからだろうか?
もう一度自問した方がいい。
君にとって「悪い事」があるかどうかだって、俺にそんなこと分からないよw
つか何か「悪い事」があるなら遠慮なく言ってごらん?w
今のお前の姿勢・態度から受け取れるのは、諧謔半分、ネット越しに人をからかう“上級遊戯”とやらを楽しむ自分への陶酔が半分、といったところか。
増田ではよく見られるごくありふれた態度であり、悪意と認定するには至らないので、安心していい。
「俺が悪意だと思ったんだから悪意なんだ!」って言ってるだけだよね、それ。
その態度こそが、実に危うい。
お前の言動時における視点には、受け手に対する視点というものが完全に欠如しており、また不要だとすら考えている。
その自論を自覚し、また自論として押し通したい意志があるからこそ、この部分だけはどうしても看過できないのだろう。
他の言葉同様に、ハイハイとスルーをしても良さそうなポイントなのに、いつまで経ってもそれをしない。
理由は、推して知るべきだろう。
いったいどこからそんな思いがw
変わった感性してるねw
という事は、Siriがiphone以外にも対応すると、その望みは果たされるのだろう。
早くそうなるといいな。
君が君の「全レス主義」とやらを履行しない時どうなるのかなんか俺は関知しないよw
どうやら気付いていないようだが、他人の全レス主義を一番気にしているのは、他でもないお前自身だ。
普通のごく一般的な増田であれば他人の全レスなど気にしない。本当に、心の底からどうでもいい事だからだ。
今までいくつものエントリを書いてきたが、これまでも、そして今も、他の増田達が、その主義の履行に関して一切絡んで来ていない事が、その証左となる。
そしてお前の言動には、“他人に全レスを貫いて欲しい”という、ひどく奇妙な願いが散見できる。
ひょっとして、自らの増田経験の中で、トラバを返さずに放置し、後悔してしまった過去でもあるのだろうか?
だからこそ、既に他の増田達も去ったツリーでひとり、トラバを付け続け、トラバが返されなくなる日を待っている。
むしろお前の言動からは、返答されずに放置される事を望んでいる気配すら感じられる。
自分と同じように後悔して欲しい、でもトラバは返して欲しい、という、ひどく矛盾した思いでも抱えているのかも知れない。
どちらにせよ、人はそれぞれ、その個人の行いをするだけだ。
結局のところ、お前自身が解決するべき問題であり、他人にやってもらう事はできない類の課題であり、つまりお前個人がいつまでも抱えている宿題だ。
俺が拘ってるんじゃなくて、君が君自身の「全レス主義」とやらに拘ってるんでしょw
こっちはそういう君の拘りを茶化して遊んでるだけだよ。暇な時に。
いつまで自分の「全レス主義」とやらに拘って反応し続けるんだろこの人、ってね。Siriだのおもちゃだの言われてまでw
まぁ、さすがにそろそろ飽きてきてるけどねw
繰り返すが、他人の全レス主義に拘っているのは、他でもないお前自身だ。
また、その関係ない他人の全レス主義の履行について偏執的なまでに完全なる達成を求めているのも、他でもないお前自身だ。
一体何がお前をそこまで駆り立てるのだろうか?
これもまた、気付いていないのかも知れないが。
茶化して遊んでいるだけ、と弁解のごとく繰り返しているが、既に、そう定義され得るだけの行為の範囲は逸脱して久しい。
「ここまで言われたら流石に反応し続けないだろう」と思考しながらも言葉を投げかけるのをやめられないその姿勢は、明らかに異常だ。
なぜやめられないのか? なぜ飽きても続けるのか? 本当に自分は楽しんでいるのか? それを“遊び”と定義し続ける事ができるのか?
恐らく、その答えは一つだろう。
心に抱えた鬱積したものこそが、“ただの遊び”と弁解しつつ、そのような矛盾した行為に走らせているものと推察する。
どうして自分はこんな奇矯な言動を相手に対して取り続けているのか。
改めて、自分の中で行動理由をよく整理し、見直すべきだろう。
己の中に抱えきれないものがあるのなら、顔を隠して吐き出しても良い。
テクスチュアル・ハラスメントでキーワード検索すると一番上に出てくるこの記事
http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/gender/reviews/textual.html
「慶應義塾大学文学部の巽研究会公式ホームページ メCafe Panic Americanaモ」のブックレビューページらしいんだけど。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
このレビューの序盤が文学的な皮肉?諧謔?で、山形氏の記事は名誉毀損であるっていう理屈は、私にはさっぱり判らない。
裁判で勝って名誉毀損に対する賠償金を受け取った相手に対して、さらに公式ページを使ってちょっかい出すのはかなりお行儀が良くないと思うんだけど。
いろいろ迷ったんだけど、まあインターネットで知り合った人たちだし、インターネットの見える場所でお祝いの言葉を書くのも悪くないかなーと思って、なんか書いてみることにするよ。わかった人はてきとーに拡散でもなんでもして、ご当人たちの目の届く場所にでもこのURLを届けてください。ま「そういう人」なので、こっそりとどこかで見ていたりはしたわけですけど。
ボトルメールよりはもうちょっと確実性のある手紙でも、ひとつ。
つーか結局は自分語りな。この場合は自分語りしないと伝わらないこともあると思うんよ。
とりあえずそうだなー、びっくりした。びっくりはしたんだけどさ、なんていうか、あんがい意外でもないんですよね。ああ、なんか辿りつくべき場所に辿りついたっていうか。
そうね、まあ「彼」とでも呼んでおきましょうか。
彼との出会いは、俺が以前やっていたサイトの掲示板にまで遡る。俺がしょうもない日記書いて、共同で管理してた友人としょうもない対談みたいな記事作ったりして、まあ全体的にしょうもないサイトだったんだけど、掲示板だけは違ってたのね。エロゲやったりする人の多くがそうであるように、俺にも「青春」とか呼べる時期なんかなかったんだけど、もしあったとしたら、あの掲示板にそれはあったんじゃないかな、と思う。二十代後半だったけど。いいだろ別にいつ青春やったって。周囲に女とかぜんぜんいなかったけど。別にだからそういうのはいいんだって。
インターネット始めるまでは、自分の趣味のこととか話せる相手がいなくて、それで、俺は異常だと思ってたんだよね。こんなにフィクションに異常な思い入れする人間とかほかにいない。いたとしてもそれは同居人くらいで、ほかにはどこにもいないんじゃないか。まあ日本には人間が1億人くらいいるので、確率としてここに二人いる以上、もうちょっとはいてもいいんじゃないかなーと思ってたんだけど、サイト始めてみたら、思ったよりも多かった。そうやって集った同好の士のなかに、彼はいた。
あの掲示板って、ちょうどいまでいうツイッターみたいな空間だったと思うんだよね。界隈の人たちのたまり場みたいな感じ。あずまんが大王の塗装のバスとか出現したっていうんでわざわざ見に行って実況してみたりとか、やってることが本質的に一緒。そんな掲示板のなかで、彼の存在はひときわ異彩を放っていたと思う。寡黙でありながら重量感があり、切れ味も抜群、常に陰のようなものがあるのに、どこかすっとぼけた確信犯の諧謔がある。
同居人ともども彼の書き込みのファンになったね。彼が書き込んでくれるのが楽しみでしょうがなかった。
なんていうのかな、戦友、みたいな意識があった。骨の髄までフィクションに冒されて、二次元のキャラと添い遂げるくらいの勢いで大好きで、ほかに希望なんかなくて、掲示版みたいな場所に吹き溜まっててさ、でもそこしかなかった。ほかの人がどうかは知らないけど(たぶん似たような感情は持ってくれてると思うんだけど)、このクソみたいな世界のなかで、なんとか喘ぐように呼吸して、それこそ酸素に飢えた金魚みたいに口をパクパクさせながらなんとかエロゲとかマンガのなかに救いを求めて、そんでもって掲示版でなんか吐き出してる。ここでは本音で話せる。道端の路地の向こうに、あるキャラクターがいるかもしれない、永遠に会うことができないそのキャラの面影だけ追いかけてふらふらと散歩を続けるような、そんなポエムじみたことや、そういうバカで真剣でどうしようもない自分を笑い飛ばすようなことや、そんなことを日々繰り返して、それでもまあなんとか生きてるよね、別に積極的に生きる理由もないんだけど、とりあえずフィクションあれば俺ら呼吸はなんとかできるよね、みたいなそんな日々。
そんなのがまあ、俺にとっての青春だった。
そんな日々をともに過ごしてきた人たちに対しては、友人というより、仲間というより、やっぱり「戦友」っていう言葉がしっくり来る。
そういう場所を瓦解させてしまった理由ってのは、いくつかあると思うんだけど、まあいちばんは俺が結婚したからだな。
俺、アホだからさあ、どっちかしか取れないんだよね。真剣だったからこそ、ってのはあるかもしれないんだけど、少なくとも結婚するっていう事実の前では、俺はフィクションを捨てるしかなかった。だって、そこに魂の半分を置いてるんだもの。好きになるのも嫌いになるのも、すべてはフィクションのなかにしかそういう対象っていないんだもの。現実の人間なんて書割じゃん。こちらに実害を及ぼす人間だけが脅威で、あとは男だろうが女だろうが、じーさんだろうが幼女だろうがひとしく恐ろしいものだったわけで、それが、たった一人といえども「人間」を選んでしまったわけ。それは「世界を選ぶ」ということとほとんど等価だった。全否定してきて「フィクションを摂取する俺の肉体を生存させるための意味しかなかった」世界のなかで、俺は伴侶を得て歩いていかなきゃいけないわけよ。いいったって悪いったって、俺ひとりじゃない。とにかく俺は世界を切り開いて歩いていかなきゃいけない。
そうやって俺はフィクションを捨てて、書くことすら捨てようとした。
でもねー、書くのだけはやめられなかった。
言ってみればさ、フィクションを捨てること、書くことを捨てること、すべては裏切りじゃん。もちろん周囲の人はだれ一人として裏切りだなんて思ってなかったと思う。複雑な気分を抱えていたことは想像に難くないんだけど、俺が「この世界」に幸福を求めようとすることを咎める人なんてだれもいなかった。
だけどさ、逃げるようにサイトやめて、俺そういう不義理っていっぱいやってて、いつ見捨てられても不思議じゃない人間なんだけど、彼はそんな俺をずっと見捨てないでいてくれた。彼だけじゃない、俺の周囲にはそういうありがたい人たちがたくさんいて、俺は今日まで生きてくることができた。
いまはもうそうじゃなくなったけど、書くことだけが俺にとって救いだった時期ってまちがいなくあった。書いて、読んでくれる人がいる。そのことだけで「ひょっとして俺は生きていることを許されるのではないか」と思えるようなそんな日々があった。
ここに至るまでの十年以上、そのほとんどの歳月を、彼はだれよりも俺の読者でいてくれた。極端にいえば、命の恩人だ。ほかの数人の人たちと同様、彼は俺を生かしてくれた。読んで、なにごとかの感想を書いてくれることで「少なくとも書くことだけでは、生きている理由がある」と伝えてくれた。
でもね、そこにあるのは感謝じゃないんだよなー。いや感謝もしてるんだけどさ、あるとすれば「あのとき俺ら一緒にいたよな」っていう深い感慨だろうか。ああ、俺らはあのころ、あんなに生きるのが面倒でやってらんなくてつらくて、そんでもまあ十数年後のいまも生きてるよな、なんかかなりおもしろめでかつ珍しめの人生とやらをやったけど、まあ死んでねえよな、明日以降もなんとかやってくんだよなー、みたいな。
そんな彼が結婚する。
別に「結婚」っていう単語に無条件で反応しておめでとうなんて言う気はさらさらないんだけど、とにかく、彼は「見つけた」んだというひとつの明確な証拠ではある。結婚という形式に付随してくっついてくるいろんな義務とか権利とか、ようわからんけど、いろいろあるものをすべてひっくるめて引き受けて、たった一人の人を死ぬまでの伴侶として選んで、生命が終わるときまでは生きていくんだという決意の表明だ。そういうものとして「結婚」っていう形式はなんとも明瞭だ。
彼はそれを選んだ。
だからさ、変な話なんだけど、俺の感情としては「安心」っていうのがいちばん強いのかな。彼の生み出したさまざまなものの魅力の大きな源泉は「孤独」だったけど、それゆえに彼にはいつも荒野を歩いているような感じがつきまとっていて、もちろんこんなもん言葉になんてしないんだけど、その孤独のデッドエンドを彼が見てしまったらどうしよう、みたいな漠然とした不安はいつもあった。
そう、彼はもうひとりじゃない。
これかな。そうだ。あなたはもう、ひとりじゃない。ひとりでなければ、ふたりであれば、それはきっと世界を手に入れたも同然なんだ。この広大な世界を歩くのに、ひとりっていうのはなんともつらい。あまりに大きい。世界がその美しさの片鱗を見せたときも、厳しさのかけらを降り注がせたときも、たったひとりでは言葉すら虚空に消えていく。
あなたは、あなたの見た世界の美しさを伝える相手を得た。いや、最初からそれをふたりで見ることになるんだ。
それがどれだけ素晴らしいことかなんて、もう言葉にはできない。
たったひとりのための、あなたであるように。そのことがそのままであなたを幸福にするように。あなたと、あなたが選んだ人の幸福が、そのままで世界の美しさにつながる回路を形成しますように。
ちなみに、お相手の方もネットを通じて決して存じ上げぬ方ではございませぬ。存じ上げているっつーよりはもうちょっとよく知ってる。
なんで、この場を借りてお願いなど。
まあ、俺がいまさらこの場で言うことではないかもしれませんが、幸せにしてあげてください。言われるまでもねーよカスwwwと思われるかもしれませんが、それを承知でなお俺はそう言いたいのです。彼の孤独や、彼の傷つきやすさや、それでいてあんがい飄々としているところとか、飄々としているようでいて、もっと深いところで傷ついてたりするところや、そういうものをほかの人間よりは多少はよく知っている人間として。
なんかねー、ひとの旦那つかまえて俺のほうがよく知ってるヅラすんじゃねえよって叱られそうだけど。
そんでもまあ、そういうこと思っちゃうくらいには、彼は俺にとってかけがえのない人だったりするんですのよ。
あと還暦になったらクソどうしようもねえ鼎談とかやる予定なので、そこは多目に見てください。あなたもご存知の友人の環境が非常に劣悪です(もう一人の畏友とじょじぱんつのゴムを両端で引っ張ったり縮めたりしながらにやにや笑っている)。
まあ、なんですか、直接に会ったら俺のことだからビシッと決めて「おめでとう」とか言えそうもないんで、いまここで言っときます。ほら、しゃべるよりも文章のほうがうまいこと自分の考えてること言える人だから。
おめでとう。
つーかまあ、びっくりした。
新婦の方には俺も会ったことないんで、まあそのうち会いますかね。
第一報を知ってからすぐにうちの奥さまに知らせようとしたんだけど、あの人、ここんとこあるゲームにはまってて、仕事してる時間以外、寝るかゲームするかしかしてなくて、いま爆睡中。起きたら知らせるつもりですけど、たぶん反応はこんなもんすよ。
hamachan氏の批判は、逆ですよね?という指摘
なにより、こういう利害関係者の発言を圧殺したがる思想が何の疑いもなく平然とまかり通ろうとすることに対して、およそ日頃人権だの何だのという言葉を振り回す人ほど鈍感そうに見えることが一番恐ろしい、と思わないのだろうか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120716-00000071-jij-bus_all
原発の今後に関する意見聴取会で、電力会社関係者が意見陳述を行ったことが批判されているニュースに対して、「利害関係者の発言を圧殺するものだ」とhamachan氏はお怒りの様子。
しかし、さて、hamachan氏の言う「利害関係者」は、「電力会社社員」のことですよね。とするならば、そこで言う「利害」とは電力会社に取って利害なのでしょうね。そもそも彼らは、(電力会社の)「利害」に関することについて、充分に国に発言し意見し交渉しているのではないですか。その点で、「彼らの発言が圧殺サレテイル!」という批判を聞けば、普通は「?」となると思うのですが、ここは、氏一流の諧謔なのですよね。
それはそれとしておきましょう。しかし、それを置いておいても、hamachan氏の今回の指摘は、随分的が外れている印象です。どういうことか、説明しますね。
今回の件で、彼らが批判されているのは、この会が「国民に対する意見聴取」の会であり、にも関わらず、国に対して別個にチャンネルをもっている電力会社の人間が、「会社」の立場で「会社」の利害について語ろうとしたからですよね。hamachan氏は、どうもそこを勘違いしておられるように見えるのですが。
当たり前の話ですが、「国民に対する意見聴取会」で意見を求められているのは、普段個別に国に対して直接意見を述べるチャンネルをもたない国民一人一人であって、そこで問題になっているのは国民一人一人の「利害」であって、電力会社の「利害」ではないですよね。例の東北電力企画部長が批判されているのは、そういう場で「会社としての意見を述べますと…」と堂々とやったことであって、(そして、中部電力社員がまた同じようなことをやらかして顰蹙をかっていますが)、ここで、無理矢理、意見表明枠に入り込んで、滔々と演説を行うことで、一般の『利害』関係者の意見を圧殺したのは、むしろ電力会社のほうですよね?怒りの矛先が逆ではありませんか?
じっさい、一般参加者も、次のようにコメントしたと伝えられていますよね。
会場にいた仙台市の男性会社員(35)は「推進の考えでも、一般の人の意見を聞きたかった」と憤っていた。
http://megalodon.jp/2012-0716-1058-49/www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012071690071108.html
こういうフラットな立場で意見を聞こうという人間から、今回の電力会社の行為が顰蹙を買ったのは、私が上で述べたことが、ごく当たり前の理屈として誰にも感じられることだからだと思うのですが、いかがでしょう。
というわけで、「利害関係者の意見圧殺」に憤りを感じるhamachan氏は、当然ながら、今回の電力会社の行為に大反対なのですよね。ならば、稿をあらためて、電力会社大批判キャンペーンをなさるんでしょうか。もし、しないとすれば、氏がおっしゃる「人権を振り回す人」への批判は、全てブーメランとなってご自分に返ってくるということも、覚悟しておられるのでしょうか。それとも、口をぬぐって知らんぷり、でしょうか。
大変興味深いところで、今後の氏の対応を見守るばかりです。
俺もやってみた。
bbabbだった。
バランス感覚の優れた性格です。世渡りの名人と云った風が有り、万事に波風を立てない術を心得て居ると云うべきでしょう。合理的で冷静な分析判断に長けて居り、人間としての面白味に欠ける点が有ると云えばあるかもしれません。貴方の場合には、羽目を外す必要の有る場合でも、良く考えて見ると馬鹿馬鹿しくなって、諧謔(おどけ)たり、イイ子ぶったり、居丈高になったり、と云う芸を見せられないタイプなのです。言わばそれが、貴方の長所でも有れば、短所でも有る訳で、一時、流行語になった「役者やのう…」と云う言葉には、殆ど縁の無いタイプと云う事になります。
恋人や配偶者を選ぶ場合、先ず自分と相手の釣り合いを第一に考えるタイプです。環境の釣り合い、性格の釣り合い、容姿の釣り合い、を慎重に考えて是非を決めるでしょう。そういう様な訳ですから結婚の失敗は、比較的少ないタイプです。結婚後は当分の間、甘さと優しさを先ず前面に押し出して行く方が良いでしょう。
職業適性
一般的な職業には何にでも適性が有ります。警察官、刑務官、カウンセラー、宗教家、等特殊な仕事には向いていません。又、芸能、芸術、文芸などの分野についても、はてな?、と首を傾けざるを得ないような所が有ります。とにかく、一般的で常識的な職業に、最も適性のある事は疑い有りません。
対人関係
特別な注意を払わなくても円滑な人間関係を保って行く事には、不自由を感じないタイプです。但し、それはあくまでも、極く一般的な乾いた人間関係を作り、持続して行く為の、と云う注釈付で有って、それ以上の深い人間関係については、むしろ苦手とするタイプかも知れません。云うなれば、演歌や浪花節に出て来るような人間関係には、余り縁の無いタイプなのです。
今年の12月24日、家族と一緒に楽しく過ごした。彼女はいない。
と、これ↑はネットだから書けることで、リアルでは絶対にこんな風には言えない。
「彼女がいないから寂しく過ごしたんですよー」とのニュアンスの付加が必須になる。
「彼女と過ごすイブ」以外のイブについて、楽しかったとか充実してたなどとは絶対に言えない。
自分から「負け犬」と名乗るライフハックを開発したのが酒井順子である。
自身の属性として「負け」を付加することで、逐次の言明負担を減ずる。スマートだと思う。
本心を言うにしてもその結果強がりと誤解される恐れがあるぐらいなら
負けの所作をしたほうがよい。
という心情は多くの人が理解してくれると思う。
ところで、
クリスマスに一人身の男が抗議活動(と言う名の故意に惨めたらしい行動をする)
http://b.hatena.ne.jp/entry/hamusoku.com/archives/3872151.html
個人的にはくどさを感じた。
つまり、もうそろそろ、
http://www.imdb.com/title/tt0382932/
感動した。
最初は「The Lion and Lambs」観ようと思って映画館行ったけど
上映開始時間が微妙にこっちの方が早かったので変更。
正直、ピクサーは「ニモ」以降終わった会社だと切り捨ててきてさ
いや、つまらないわけじゃないんだよ。ただ、
マダガスカルとかオープンだの作ってる会社のと混ぜてもあんま変わらないよね、
みたいな評価でさ。あ、俺の中では、ね。まぁ進んで観るようなもんじゃないなっていうね。
そんなわけで見る前ノ期待値ってのは断然低かったのね。
だって響きがもっぱらつまらないと噂の(だから観た事ない)の「ライアンを捜せ」みたいじゃん。
「キャラ名+何か」の3Dアニメってなんか微妙な匂いがするじゃん。
まぁ、でもふさふさしたネズミが毎回クオリティーがやたら高いディズニーミュージックに乗って
歌って踊るのを見れればいいかなって思って金払ったんだよ。
あれから大分経ってるし、かなーり、ふさふさになってんだろうなぁ。
もう毛の間のノミとか視認できるくらいに、すげー、ってカンジで。
んでね、最初はね、うん。最初のーそうだなー40分くらい目まで、かな?
は
「人間主人公の名前がリングィーネだったから舞台イタリアかと思ったらフランスかよ」
とか
「なんだよ導入部クソ長ぇな」
とか
とか
「段々とフランス訛りの演技を放棄してく声優陣(笑)。その方がありがたいけど」
中盤あたりくらいからね
もうそんなことどうでもよくなってさ、
思わず姿勢が前のめりになるくらいにスクリーン凝視しちゃってんの。俺。
んで、観終わった瞬間、気づいたね。
「ああ、俺今回全然あくびしなかったな」
って。
んとね、今まで俺はどの映画見ても上映中、必ず一回はあくびしてたの。
いや、つまらないわけじゃないんだよ。
むしろ、つまらない映画なんて無いって信じてたくらいだから。
だって、大体解るじゃん。予告編やポスターや、今はネットもかな、
それでさ、観る前に最悪「クソっぽい映画」は回避できるじゃん。
大体映画なんて自分が興味あっておもしろそうな匂いがするから観に行くもんじゃん。
少なくとも、俺が見てきた映画はそうだったよ。
んで、映画観終わった後、全部「ああ面白かった。なんとなくだけど」で帰ってたのね。
でも、今回それは言い換えれば
「面白かったし、(最低『つまらなくはなかったし』)まぁ良かったけど、
感動はしないよね」だったってことに気づいたの。
実際俺映画でも本でもドラマでもドキュメンタリーでも「感動して泣く」ってことなかったし
まぁ、今回も泣きはしなかったし、別にそれはどうでもいいんだけど、
そのせいか知らんけど俺は「ネットで映画や本の批評とか感想が書ける人」
ってのを理解できなかった。だって、タダ単に「おもしろいか、つまらないか」の違いだけじゃん。
「つまらん映画にひっかかった!」って延々と怒りながら語る人もいるけど
俺にとってはそもそもそんなん「俺は観る前に映画が自分に合うか合わないかも判断ができんアホでーす!」
って看板ぶら下げて語ってるようなもんだったのね。まぁ、お仕事で観る人は仕方ないんでしょうけ、ど。
そんなわけでみんな役者とか監督とか映画の歴史の話とかして文章引き伸ばしてるだけでしょ?実際。
と信じてたわけ。
違ったね。俺。
間違ってたね。俺。
本当に魅力、というか何かパワーがある映画ってのは人を
「俺こんなん観てきたぜ!お前らも観ろよ!」
って言わせたり、文章にさせるだけの何かを持ってるんだね。
多分、前述の「つまらない、ということを長々語れる映画」ってのはそれだけの
マイナス方向へのパワーを持っているんだろうね。俺はこの先一生出合うことはないんだろうけど。
ストーリーの良し悪しや映像自体の細かな技術は俺には語れない。
種族を越えた友情や(男女・家族)愛、だけじゃなくて人種差別や「批評」そのもの等の要素を織り込んだ脚本。
胸に残るセリフ。
解る。それらは理解できる。けど、「他人に語れるほど細やかに消化して吐き出す」のはできない。
それでもこの映画には、
って思わせられるだけの物があった。SDI。
ラストシーンのあの「Ratatouille」の場面で、密かに拍手をするくらいの、何かがあった。
子供の鑑賞にしか堪えられないメリケンのアニメのどちらでもない
何かが。
いかにもつまらなさプンプンな邦題を墨塗りにして上から原題を貼るべきだよね!
今もやってるかは知らんけど。