はてなキーワード: 自虐とは
自虐に見せかけた自慢、まではいかないが「ガキと一緒にして欲しくない大人の私」という認識じゃないのそれ
自ジャンルには昭和生まれBBAを自称し、やたらとそれを強調してくる人がいるんだけど、正直やめてくれないかなあ
その人の正確な年齢は分からないけれど、昭和生まれ昭和生まれってやたらに強調しているからにはおそらく昭和60年代生まれだと思うんだよね
自ジャンルは原作が始まってから軽く20年以上の歴史があるから、昭和生まれくらい普通にいるし、
明言している人だけでも40歳以上は珍しくない。
そんな状態でまだ30代後半くらいの人がBBAを自称して連呼するのって、もっと年上の人達に対して普通に失礼だと思うんだけど
自虐のつもりが他虐になっている事に気付かないんだろうか
年齢とかよりもそういう無神経な感覚が嫌い
先日こんなものを見た。
『https://twitter.com/kanare_t/status/1775778556557316153』
瞬間的に腹と頭の中に濁ったものが湧いた。
見なければ良かったと思ったが見てしまったものはもう仕方ない。
出来るだけ早く忘れるか、と思ったが、しかしこれを見たことで“私はなにがどうして嫌いか”が明確なものとなったので、これもひとつの経験か……と思い、書き記すことにした。
私は自虐が嫌いだ。
今までも漠然と思ってきたことだが、それに明確な理由が見えた。
自虐とは他虐だということ。
「私はこういうところが変なんですおかしいんです」と自分を貶めているようでいて、発言者と同じ性質を持つ他者までも貶めることになっている。だから嫌いだ。
この発言者は「みんな」と呼び掛けている。「私と同じような性質を持つ者はおかしい」と不特定多数に周知している。これは他虐だと思った。
勿論これを見て気にならない人もいるだろう。この発言についた返信もいくつか見たが、概ね発言者に同意するものや、同じように自虐的なものが見られた。私にはそれもまた他虐の上塗りに見えた。返信していないだけで、静かに傷ついている人はいるかもしれない。
そしてもうひとつ。自虐は自分で自分に(そして自分と同様の性質を持つ人に)差別偏見の目を向けることでもある。だから嫌いだ。
この発言者は、自分の趣味嗜好を掲げてそれを異端視する言葉で表し、自らその趣味嗜好への異端視を促すような文を発信した。そのことに大きな不快感を感じた。
鍵アカでの内輪ノリなら良いかもしれないが、開かれたアカウントでこれを発信し、広く拡散されて様々な人の目に届き、「気づいた」人が、読書を楽しく思えなくなる可能性がゼロだとは言えない。
しかもこの発言者は小説家だ。読者がいるのだ。これはその読者たちも異端視し、「自分はおかしいのだ」という差別偏見を持たせてしまう可能性のある文だとも思え、不快感の一端になっている。
私自身は世間の読書率がどうであろうと構わないが、自分の職業にも関わる物事を取り上げて「こういうことが好きな人はおかしい」とわざわざ呼び掛けることがが何かにプラスに働くとは思えない。私がこの発言者の作品の読者だったらこの文に失望しただろう。
そもそも、対象が自分であろうと他人であろうと、何かしらの嗜好や特徴を取り上げて異常だ変人だなどと(褒め言葉として使っていたとしても)表すこと自体が嫌いだ。
それが犯罪や命に関わることでないなら、どんな性質だろうとなにを好んでいようと等しく普通の人間だ。私はそう思いたい。
これらのことを改めて考え、言語化するきっかけになったということでは、あの発信に出くわしたのもそれなりの価値があったのかもしれない。
ゴリョウボシでもゴリョウカクでもなくミチシルベと読む。これくらいは誰でもわかるだろうが、
実はマーベル映画のフェーズ4のようなワールドが展開されている。
まず原作の「名探偵コナン」と映画の「名探偵コナンシリーズ」だが映画の名探偵コナンシリーズは基本パラレルだと思っていい。
基本、というのは作者があまりにも映画に関わりすぎているため原作とリンクしていく部分がある…ということだ。
映画であったことが原作であったらおかしくなったりもするので良いとこどりしてると思ってほしい。
まじっく快斗は青山がコナン以前に連載していた「怪盗キッド」が主人公の作品だ。
この2つは9割同じ世界だと思ってほしい。そして作品時系列はリンクしている。同じキャラがコナンにも出ている。
10割ではない理由としては、紅子という存在がいるせいだ。紅子は黒魔術が使える。なのでコナンの世界では紅子は登場できない(作者談)しかしまじっく快斗の方では紅子は新一を認識している。
まじっく快斗の少しあとに連載されアニメ化にもなった作品で40代以降ではコナンよりもこっち派という人も多い。
その「YAIBA」のキャラクターが「名探偵コナン」にも出てくる。名前も同じである。
まず最初に登場したのは平次の母親が昔剣道大会で戦った相手、YAIBA主人公ヤイバの母親だった。名前の登場である。
そこからヤイバのライバルである鬼丸も名前だけ出て、後に本格的に平次たちと同世代の全日本2連覇の学生として出てくる。
さらに今年の映画にも出てくる沖田総司は原作YAIBAの終盤に出てきたキャラだ。
コナンでの登場シーンは鬼丸よりも少し多く「工藤新一のそっくりさん」として登場する。
これは作者が自虐で使う「キャラの描きわけが下手」ネタを使ったものだと思う。
ちなみに沖田が心を寄せている女の子はヤイバの妹(灰原の原型モデル)であるが原作YAIBAにはそのような描写ではなく、当時のファンの話から思いついたネタのようだ。
ここで注意。
「YAIBA」と「名探偵コナン」は別の作品世界だ。つまり「まじっく快斗」と「YAIBA」も別の世界である。
では名探偵コナンに出てくるYAIBAキャラクターは一体何なのかというと、単純にスターシステムであるということだ。
何故か?YAIBAの世界観がぶっ飛んでいて、キャラクターが強すぎるからだ。常人ではない。
YAIBAのキャラクターがコナンの世界に居たら黒の組織を潰してしまうだろう。
ここで問題が生じる。
京極真は名探偵コナンのキャラである。そしてYAIBAのキャラたちと素手で勝負したら戦えるらしい。
つまり京極真は名探偵コナンの世界にいたらいけない存在なのだ。しかし存在する。ここは特別ルールだ。
怪盗キッドは黒の組織とニアミスするが、京極真と黒の組織は絶対に会わない。
ちなみに京極真と同じくらい強いキャラは作者いわく沖田以外にもう一人いる。予想では若狭先生だと言われている。若狭先生は組織とガッツリ関わる。
鉄 刃 → 高山みなみ
ヒトデ男 → 高木渉
b:id:dmekaricompositeです。遅れましたがまた返信です。
ブコメは元々誰からも読まれる可能性があるものですが、今回は石黒さんがエゴサなどで悩んでいる様子なので余計に読まれる可能性高いと思うんですよね。
それなのに例えばこれhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240402192834
なんか「いいねしてた責任はもちろん問われるに決まってる」というのがトップブコメで、暗然としてしまいます。杉田水脈は単に「いいね」しただけでなくこれまでの言動と合わせてアウトだという判定なのに……。それに、いいねした責任というのは一年も誹謗中傷されてもまだ果たされないほど重いのか、仮にいいねした責任があるとするならどれほどの重さが妥当なのかと問い正したくなります。
それで自分のブコメが言及先に読まれることをもっと意識すべきではないかと思いました。それは別に批判するなということではなく、批判するにしても本人の前でも恥ずかしくないくらい正々堂々とした批判をすべきだろうという意味です。
その上で「一番賢い分一番タチが悪い」についてですが、私の第一の誤りはブコメのひどさのグラデーションを吟味しなかったことです。ib:id:muchonovさんのあのブコメは今でもちょっとどうかと思います。ただ「なんか感じ悪い」にすぎず、誹謗中傷だとは言えない。私はそれを「頭おかしい」等の完全に誹謗中傷なブコメと一緒にして「こいつらは敵だな」と雑に判定しb:id:muchonovさんについては「こいつは賢いから誹謗中傷にならないラインを見極めて遠回しに嫌味を言ったのだろう」と邪推してしまったわけです。なので「一番賢い分一番タチが悪い」という表現になりました。
そして──重ね重ねの失礼になりますが、私は以前からb:id:muchonov さんに対して「博識だけど時々無神経なことを言う人だな」という印象を持っていました。
自分のブコメを振り返ってみると、NewJeans紅白出場決定のニュースでb:id:muchonovさんに言及していました。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sanspo.com/article/20231229-AL75GW6KPVIBVOE3OQZE75GYZM/
b:id:muchonovさんが「よく大晦日に日本ローカルのイベントに引っ張ってこれたなと本気で驚いた」とコメントしていたのに呆れて
「紅白にはシンディ・ローパーもエンヤも少女時代も出演してるのに「よく大晦日に日本ローカルのイベントに引っ張ってこれたな」と驚いてみせるid:muchonovに違和感。頭宇野維正なんじゃないの?」
と書きました。私はこの時「b:id:muchonovさんって過剰な自虐をリベラルだと勘違いしてる人なのかな?それともかなり変な人?こういうへりくだりって対等な関係を築くのにむしろ有害なのよね……」とモヤモヤしていた記憶があります。
更に遡ると、新語・流行語大賞「ジェンダー平等」のブコメでもb:id:muchonovさんに言及していました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1810889
この賞の解説の「議員や管理職級の女性の割合を増やしてあげることがジェンダー平等だと勘違いしている人もまだ多いようだ」という文章を竹下郁子や北原みのりがとんでもない誤読をして「増やしてあげるとはなんという上から目線!」と罵倒していた件です。この時b:id:muchonovさんは
「単に「増やす」と書けばいいとこで、書き手自身の認識とも読める文脈で「増やしてあげる」表現を使ったことによる不幸」
「 id:muchonov書き手自身の認識だと読める文脈ではないでしょ…増やしてあげればいいというのは勘違いだとはっきり書いてるのだから。竹下郁子が読解力なさすぎるだけです」
と批判しています。今読み返してみても竹下郁子の誤読はひどすぎると思います。
ただし私は元の文章の書き手を芳野友子連合会長だと誤解して「ちゃんとした文章を書いている芳野さんに失礼」と書いてしまいましたが、b:id:muchonovさんは「あと、賛否両方にこれが芳野氏のコメントだと勘違いしてる人がいるような」とちゃんとツッコんでいました。私も人のことは言えません。
このような経験から私は「b:id:muchonovさんは党派性で認識がゆがんじゃう人なのかな。しかしためになることも言うし、b:id:zyzyのように完全に一線越えてる奴とは違うんだよね……」とモヤモヤした気持ちでいました。
前置きが長くなりましたが、今回の私の第二の誤りはモヤモヤをモヤモヤのままで留めておかなかったことです。答え合わせ云々のブコメを読んだ私は「ああ、やっぱりb:id:muchonovってb:id:zyzyやb:id:white_roseとかと同類なんだ。石黒さんを中傷する敵なんだ!」と安易な正解にとびついてしまいました。このように敵認定すると、モヤモヤは消えます。いみじくもb:id:muchonovさんが仰っている「陣営脳」に染まると0か100かしかないので、人間の複雑さに悩まなくてすむから楽なんですよね,この楽さが危険なのですが。これからはb:id:muchonovさんに対してもっとモヤモヤした認識のままで留まろうと自戒しています。
最後にもう一度「答え合わせ」について。石黒さんの動画を確認しましたが、石黒さんは「いいね」の晒しは好きにすればいい、しかし答え合わせと称して勝手なレッテルを貼るのはやめてくれという主張だと私は感じました。
長くなりましたが釈明は以上です。
物心ついた頃からアニメや漫画の世界にもしも自分がいて、好きなキャラと仲良くなってあわよくば恋人になれたら…という妄想をしていた。にもかかわらず、約四半世紀生きてきて人と付き合ったことはおろか恋愛感情を抱いたことがない。
傍から見ればただのイタいオタクだし、自虐でそう言ってしまうこともあるのだが、最近この心理について言語化できてきたので思考整理も兼ねて少し真面目に書いてみる。
しかし私は推しを好きになればなるほど、えも言われぬ不安が膨らんでいくのを感じていた。そしてそれは推しが現実に生きている人間だからだと気付いた。
彼はアイドルとしてカメラの前では自分自身をプロデュースしていて、そうでない時は当然ひとりの人間として生きている。しかしマスコミはそんな彼らのアイドルらしからぬ面、カメラの向こうに見せようとしていない姿を白日の下に晒そうとする。もしも推しのそんな面が露呈してしまったとき、私は変わらず推しを好きでいられる自信がない。内容によっては嫌いになってしまう可能性すらある。それが嫌。
二次元のキャラクターはカメラに写っていない部分は無に等しく、作中で描かれていること以外は空白。その部分を想像して描いた二次創作は人によって解釈の違いはあれど全て妄想で真実ではない。
自分の頭の中でだけは100%自分に都合のいい推しを愛することができるのだ。好きな気持ちは自分の中で永続する。つまりは偶像化。
私はこれを生きている人間相手にするのが苦手なんだなと思った。自分と全く違う人生を持つ他人に理想の恋人を投影できない。どんなに初対面の印象が良くても関係を深めるうちに好きになれない、受け入れられない部分があるのは当たり前だ。そんな部分をコミュニケーションによってお互いにどう折り合いをつけるか探っていけるのが健全な人間関係だと思う。恋人という特別な関係であるならば尚更。
ただ、私にとってそれは恋ではないのである。
二次元キャラに対する恋は永遠に一方通行で、相手が実在しないからこそ自分の好き勝手な偶像を押し付けることができる。だから楽しくて、心にささやかな潤いをもたらしてくれるのだ。
(妄想を表に出すなら公式や見たくない人に見せない配慮は必要)
三次元の人間を好きになって、相手から同じ感情が返ってくることはどんなに嬉しいのだろうとたまに考える。おそらく恋人という関係を長く続けられている人たちは相手を偶像化した恋愛感情を取っかかりにして、偶像とは違う相手の嫌な部分にも折り合いをつける関係性にうまくシフトしていけているのではと思う。そうして人生のパートナーとして共に生きることを選ぶ場合もあるだろう。
感情の熱量で言えば燃え上がる炎のような恋愛を経て、蝋燭の小さな灯が揺れる穏やかな愛へ、といった感じだろうか。
冒頭でも書いた通り私は20代半ばなので同級生が結婚した、という話題もしばしば耳に挟むようになった。惚れた腫れただけの恋愛はほとんどの人が終わらせて、恋人をつくるならその先を考える年齢になってしまった。
そして私自身も、今から惚れた腫れたをしようとするには心を燃え上がらせる燃料、精神的な若さみたいなものを失ってしまったように思う。生身の人間相手の恋愛を経験し損ねてしまったのかもしれない、ということが少しだけ惜しくなる。
恋してみたいなー。