はてなキーワード: 自由社とは
性犯罪被害の告発に対しては、セカンドレイプという主張が濫用されすぎだと思う。こんなん「時と場合による」としか言いようがないよね。
この場では、とにかく「被害者」の言うことが真実であるという前提で接するべき。仮に「被害者」の言うことが疑わしいのだとしても、ダイレクトに伝えるのではなく、治療者として適切な言葉遣いで伝えたりそれとなく適切な治療に繋げたりすることが求められるだろう。カウンセラーは知らんが、医師は国家資格があるわけで、そういう配慮も当然要求されるだろう。「嘘なんじゃないですか?」とか直截に言うような心療内科医やカウンセラーは看板を下ろすべきだ。
刑事裁判は、圧倒的強者である国家権力が、無力な弱者である市民(被告人)に対して、罰を科すかどうか決める場である。当然、被告人は、全力で自らの身を守る権利がある。被告人は身を守るために、「その日はアリバイがありました」とか「そんなことをする動機がありません」とか「踏み間違いではなく車の欠陥ではないでしょうか」とか「ドラえもんに助けてもらおうと思いました」とか「被害者の証言はここがおかしいと思います」とか、ありとあらゆる反論を国家権力に対して行うことが許されるべきだ。
実際、今回の事件や会津若松虚偽告訴事件のように虚偽の被害を訴えた事件だけではなく、「本当にレイプ事件はあったのだが、被害者が被告人を犯人と勘違いした」事件もある(氷見事件)。「本当の被害者なのだから、その証言を疑ってはいけない」などという原則を採用することは、刑事裁判の原則から考えてありえない。たとえどれだけ悲惨な被害に遭い苦しんだ被害者の証言であったとしても、疑われてしかるべきなのだ。なぜなら、被害が本当にあったのだとしても、被告人は犯人ではないのかもしれないのだから。
たとえば、仲の良い善良な女友達が泣きながら被害に遭ったという話をしてるときに、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言うのは割と人の心がない所業だと思うし、周囲のやつらからドン引きされ絶交されたりしても、まあ仕方ないだろう。
逆に、隣近所では評判のウソツキ女が被害に遭ったという話を吹聴していたら、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言っても、まあ、仕方ないだろう。日頃の行い、オオカミ少年、ってやつで、こういう場合に被害を疑うのは社会で生きていく上でなんら問題ない。
もちろん、善良な女友達が実は痴漢冤罪カツアゲ犯であり、評判のウソツキ女が実は本当にレイプ被害に遭っていたということもあり得るわけだし、実際の社会にはこのあいだに広大なグレーゾーンが広がっていて、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」なんて、実際のところはどうだか全くわからないだろう。というか性犯罪だけじゃなくて、殺人だって詐欺だって何だってそうであって、つまり本当に大事なのは「それ、わざわざ話題に出す意味ある? あなたがコメントする意味ある?」ということだろう。友達や近所の人なら意味も必然性もあるかもしれない。友達が泣き崩れてる横で「僕はノーコメントで」とか言うのは(よほどの事情がない限りは)人でなしのすることだ。しかし、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」にあなたがコメントする意味はあるのか?
さらに言えば、そのコメントを公開の場でする必然性もあるのか? もし「草津町ってひどいところだよね~」とか「絶対草津には行きたくないわ~」みたいなことを家族や友人のあいだでだけ喋っているなら、たとえばSNSの発言をめぐって訴訟リスクを抱えるようなことには基本的にはならない。草津町長は名誉毀損で何人もの人たちを訴える意向だと聞いているが、彼ら彼女らが身内の飲み会でそういうことを言っているだけだったら、町長は何の手出しもできなかっただろうし、フェミニスト学者の人たちが謝罪を求められることにもならなかったはずだ(cf. anond:20221117054344; anond:20221118212515; https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/okisayaka/status/1592551751072509953)。
もちろん、自由社会には「表現の自由」という大原則があり、意味も必然性もなくとも表現は自由であって、それを否定するとあいちトリエンナーレやクジラックスが弾圧される世界になってしまうから、SNSなどのオープンな場で自分にとって縁の薄い場所で起きた犯罪についての論評を行うのは自由であるべきだ。だが、天皇アートやロリ漫画と違って、実在の犯罪への言及には「冤罪に加担してしまう」というリスクが常につきまとう。「七色のおっちゃん」である(単なるざまぁ物かと思って読み始めたら期待値よりは面白かった)。義憤を燃やすのはいいが、それは後に訴えられるリスクを負ってまで燃やすべき義憤なのか? はよくよく考えた方がいいだろう。別に黙れとは言ってない。たとえば加藤智大のように現行犯で取り押さえられた人物については、冤罪の危険はそこまで大きくないので、言及しても比較的安全かもしれない。しかしもちろん、四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件のように、現行犯であっても冤罪があり得、取り返しのつかない結果が起きていることも忘れるべきではないだろう。そういうリスクを織り込み済みで、公的な場で義憤を表明したい、というならそれはもちろん表現の自由なので、どんどんX(旧ツイッター)で呟かれたりはてなブックマークでブクマコメントを残されたり、たまに裁判を起こされたりすればよいのではないかと思う。
前置き
文の構成がめちゃくちゃ。日本語もめちゃくちゃ。何が言いたいかを考えて読むと痛い目に遭います。
ナザレンコ・アンドリーというネトウヨアカウントを見た。彼は「ネトウヨ的言動で日本人を褒めてれば稼げます」という美味しい話、つまり「ネトウヨビジネス」に乗っかったウクライナ人だ。
ツイートの内容だけ見るとどこにでも居る極々普通のネトウヨ(日本人の代理人が投稿している可能性も極めて高いが)なのである。
どこにでもいるネトウヨ同様、理論のすり替えや屁理屈や「ネトウヨ」とは異なる言動の人をただ否定しているだけ(もちろん右派左派問わず政治教信者お得意の人格否定もある)
そんな彼がこんなに有名になれてるのは「白人」だからである。つまり、あからさまに偽フランス人の「エリック.C」や、自称ドイツ人の「しあん」や、アメリカ人の「ケント・ギルバート」と同じタイプで、「大和民族に誇りを持ってる」はずのネトウヨの白人コンプレックスを突いて有名になったのである。勿論彼の言動はロシア人差別を除いては本音などではなく、金稼ぎのための言動なのは明らか(彼らが心から嫌韓とか天皇陛下万歳とかするわけないでしょうが。)
日本人全体の白人コンプレックスは簡単に見て取れる。白人というだけでちやほやされるのだ。
私はロシア系であるが、それをネットで前面に出したことはない。日本人は白人コンプレックスを抱えているから非常に面倒くさいのである。
他のアジア人はあからさまに見下すが、白人には頭の上がらない「大和民族であることを誇りに思う普通の日本人」は「日本人は白人に近い」とか「日本人は名誉白人」みたいなことも言っているが、その時点で大和民族であることを誇りに思ってはいない。大人しく「白人になりたい」と言えばいいのだ。
白人がかっこいいというのも「西洋文化の流入によって作られた価値観」にすぎない。
西洋の文化が流入する前のアジアは「アジア人らしい美形」が美しいとされていたという。
話は変わるが、アジア人や黒人はIQが劣っているというヨーロッパの研究所が出した「発表」はデマで、むしろアジア人は全人種の中でIQが最も高い人種なのである(黒人のIQが劣ってるのは事実であるが彼らは他の人種にないような潜在的体力がある)
人種毎の能力差はあることはあるが、全ての能力が優れた人種が存在しないのである。
アジアの成長により「アジア人に政治はできない」ということがただの偏見だということが証明された
なのに、不思議とアジア人であることに誇りを思わず、白人コンプレックスを抱えている人が多い。
私は基本的に自由社会主義的な思想を持つため、人種にあまり興味がないが、右派までアジア人であることを恥てるのには目を当てがたいものがある。
初心だな。君が対抗言論などしなくても世論は維持されるし、君は「君の気に入らない不寛容に反抗している」だけに過ぎない。
君の行動原理が本当にそうした一貫性のもとになされているなら今頃君は社会的規範の全てに難癖をつける基地外になっているか、
「本当にヤバい奴」に喧嘩を売って色々と酷い事になっている筈だからね。
都合のいい、それでいて自分にも言い返せる程度の不寛容を相手にしているだけの君が自由社会の維持に貢献しているわけがない。
普通の出版社は自らがクレーマーと判断する意見に従わないだけの法的根拠と基盤を持っているし、
自由社会というのは「選択が自由」なのであって「自由である事に意味がある」わけではない。
敵と味方みたいな見方は敵を見誤るよ。
その①
https://anond.hatelabo.jp/20191120183622
その②
https://anond.hatelabo.jp/20191120185300
その③
https://anond.hatelabo.jp/20191120185607
●互いの溝を埋めていくために
●ハラスメントについて
・ひとたび法律にしてしまったら、フェミニストがレッテルを貼ったが最後、社会的地位を失わせるほど重い罰を与えることになる
・オタク文化もオタクという人間のアイデンティティの一部である、中傷されるのは権利の侵害であり、戦うべきである
・#MeTooで殴り掛かってくるなら#YouTooで殴り返そう
●解決策として
・対極から罵り合うのではなく、男性と女性で話し合って、相互利益のあることをみつけたい
・おっさんの美少女化により美少女がインフレすれば、女性性への価値は希薄になり、女性性を持っているだけで発生する類のセクハラは減るのではないか
・j・s・ミル(実在の人物)→JSにこじつけて女子小学生のキャラクターに
・「フェミ」のことは嫌いでも、フェミニズムのことは嫌いにならないでください
●配慮について
・レッドカード退場制など、セカンドレイプを防ぐための取り組みをしっかり行ってくれた
→求めていたのはこのような思いやり。これを世間に広めてほしい、が私の活動
・告発する側、される側という形になっている。故に、話が噛み合わない
・女性が殴られ「殴るのをやめてください」と言うことが攻撃ですか?
・どちらも殴られたと思っている、これは不思議なこと
・このことが言語化されたことは喜ばしい。ズレが見つかった。今後も話し合って正解を模索したい
→被写体に主体性があるので難しい。自由意志で撮影に臨んでいるのなら規制は必要ないが、強制されている可能性はある
・LGBTを気持ち悪いと思うのは自由、考えることは自由。でもそれを公にしたら差別。
・差別とはなにか?
・合理的ではない決めつけ
・ただし、実際のことを言っても差別になりそうなことはある(黒人と白人の平均IQの有意差など)
「企業が服装を営業戦略として用いる自由」を奪うことになるのではないか
・嫌い同士の対話になるとうまく通じないものだが、この会ではうまく意思疎通できたように思える
・今後、またこのような機会を設けるつもりはあるか?
・これは始まりに過ぎない
・対面だからこそうまくいかないこともあった。瞬間的にうまく反論できないこともあった。今日の話を持ち帰ってよく検討し、議論を深めることがしたい
・実際の被害者である私にもっと寄り添えよ、という気持ちがある
・フェミニズムには被害の歴史があったことは確か、戦ってきた女性がいたから現在がある
そのことには敬意を持っている
「自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する」と英首相が言っている。
これについてどう考える?
・ヘイトスピーチであろうが、表現の自由は認められるべきである
・ただし相手に侮辱だ、と言われたらその内容に耳を傾け話し合う必要がある
・ヘイトスピーチすら自由と言うのに、この会場でセカンドレイプ発言を禁止したのはなぜ?
・話をするためにこの場に限り、ルールを適用することはOKと考えている
「自由を制限する自由」はあってよい。法律として例外なく適用すべきではないということ
・対話が成立したこと、すれ違いを言語化できたことは大きな一歩である
これからもこのような機会を作っていきたい
・青識亜論氏のアジテーションじみた振る舞いはよくなかった
・フェミニズムvsオタク のような構造にしないほうがよかった
・青識亜論氏が石川氏を褒める感じ、これはレベル差アピールというテクニックで、論旨と関係ない。よくない
・両者とも社会的なジェンダーと性差を分けて話すべきところ、ごっちゃにしていた
(時間切れのためここまでで列挙中止となった)
以上
私の意見は
『ゲーテッドコミュニティを作って』別の場所で暮らせ」
と言っているように感じているってこと?合ってる?
いいえ、まったく。いったいどの記述からそのような結論を導き出したんです?
どうぞ、あなたがお子さんによく言い聞かせてあげてください、胸は性的なものではなく、尊重すべきものでうんぬんかんぬん、と。
もちろん、自由です! どんどん連れてきてください。連れてくるななんて一言も言ってません。
あなたが自由に連れてきたのだから、それを理由に他人の自由や権利を制限しようとしないでください。
「デフォルトが自由」がいやなら、シンガポールでも中華人民共和国でも朝鮮民主主義人民共和国でも、お好きな専制国家に移住なさったらいかが?
2000年代の大学生時代、私は妹を含めた家族とともに実家にいた。そこでは携帯電話や家の電話に掛かる詐欺の電話や宝くじの当選金絡みのカツアゲや不良による大人の園への勧誘に辟易していた。
それから時は進み、現在ではこういった集団に対しては社会的制裁が課せられるようになり、プライバシーの尊重はより厳格となった。不良が過去帳入りになり、もうこれで文句はない…と私は思っているが、世の中にはとにかくそういった些細な問題を徹底的に撲滅しなくては気が済まない人間がいるようだ。
「オタク性悪説」という言葉がある。思考の偏った人間の増加が社会に対する悪影響を引き起こすのだそうだ。
そのオタクが不良連中よりも害を引き起こすというのだが、こんなのは完全なデタラメである。しばしばオタクはネトウヨよりも危険という説も語られるが、それなら迷惑の順位を付けると以下のようになる。
こんなバカなことがあり得るだろうか?
よく考えてみよう。彼らによる迷惑が仮にあったとしても、その量は職業不良などにくらべるとケタ違いに小さいはずだ。おそらく数千分の一とか数万分の一とかのレベルだろう。それが「間接的に」社会に害悪をもたらしているということは、さらに問題のレベルは軽減されることになる。
ではそれらの立場の人がどういう問題を撒き散らすか、ここで考えてみる。
ネトウヨ = 政治的な直接的影響+政治的な間接的影響+見てくれにより不快感を覚えさせる
不良 = 反社会的な迷惑行為+政治的な直接的影響+政治的な間接的影響+見てくれにより不快感を覚えさせる
どう考えてもオタクが最も悪質などというのは寝言同然におかしな理論なのだ。こんな単純な足し算すらわからないのか?
思うにオタクなどという、政治活動家や不良連中に比べたらものの数ではないほどの迷惑を排撃しようとするのは、もうこれくらいしかいじめの要素がなくなったからだ。
タバコや放射線のように閾値のない害だとしても、ここまでのレベルになると、もはや花崗岩の上に立つのは危険(花崗岩は放射線量がわずかに多い)というほどのレベルの話でしかない。
そんなものを狂ったように排除しようというのは、健康論どころか、大衆ファシズムによる自由社会への害のほうがはるかに大きいといえる。
しばしば欧米はオタク(とくにアニメ・ドラマ・漫画・小説・日本文化)に関しては狂気じみたヒステリックな主張をしてくる。そしてオタクを絶滅させたいと思う人間がこれに根拠も曖昧なまま便乗するのだ。まさに思考停止状態というほかはない。
http://anond.hatelabo.jp/20160220142801
ソシャゲのガチャ問題の中で語られる言葉の中に「射幸心を煽る」というものがあります。
ガチャキャラの確率操作などの詐欺的な行為が問題視されることが多いのですが、
実際にはこの「射幸心を煽る」ことそのものがかなり問題である、という話をします。
さて、ところで、私は犬を飼っています。
犬のしつけをするとき、命令を出して犬がいうことを聞いた場合、「おやつ」をあげます。
ここで突然問題ですがいうことを聞いた犬に
1)毎回かならず「おやつ」をあげる。
のどちらが効果が高いかご存知でしょうか?
日常的な感覚としては1)の毎回いうことを聞くたびに「おやつ」をあげる、
こちらの選択の方がより学習効果が高いように思われるのではないでしょうか。
しかし、違うのです。実際には2)のときどき「おやつ」をあげる、が正解です。
「常に」ではなく「ときどき」もらえる報酬の方が学習効果が高い。これを覚えておいてください。
猿の檻に自動餌やり装置を設置します。ボタンを押すと餌が出てきます。
猿は、ボタンと餌の関係を学び、餌やり装置のボタンを押すようになります。
ここで犬のしつけと同じように設定を変更してみましょう。
1)ボタンを押すと常に餌が出てくる
猿がより、ボタンを押すようになるのは、犬の例と同じく2)の選択肢です。
犬よりも猿の実験のほうがより具体的な事例として実感しやすいことがわかるでしょう。
まさに「パチンコ」であり「スロット」であり「くじ」であり「ガチャ」です。
なぜ、この部分強化のような不可解な現象がおきるのでしょう?
言い換えると、
2)不確実な報酬のボタンを叩いてメダルを出すこと(賭け事)を好む人がいるのでしょう?
それは、脳の仕組みにあります。
このドーパミンは「意外な報酬」であればあるほど分泌が促されることが分かっています。
先日、有名元野球選手が使用していたことで脚光を浴びている「覚せい剤」も、
脳の報酬系に作用しドーパミンの分泌を促すとともにその効果を増強させます。
詐欺的なお金のやりとりそのものも問題なのですが、人間の報酬系に直に作用するような
遊戯の代償として対価を貰う行為は自由社会では認められるべきですが、
多くの人が社会生活を営めなくなるような可能性があるものは規制されなければならない。
そういうロジックなわけです。
「ガチャ」の問題において「射幸心を煽る」ことが問題となるのもそのためです。
「詐欺的な確率表示」でお金を振り込ませる商売は確かに問題です。
しかし、考えてみてください。そうした問題が散々明らかにされているにも関わらず、
「それでもガチャは回る」のです。
通常の詐欺的なモノの売買では考えられないことです。
「報酬が獲得できなければできないほど」意外性は上がり、報酬系への作用は大きくなります。
非常な低確率である人々に「価値がある」と認識されているものを供給する行為そのもが、
「射幸心を煽る」行為であり、多くの人間の社会生活へ負の影響をもたらす可能性が高いので、
これを覚えて頂ければ、と存じます。
いま何か努力してモノにしないとこの先生き残れないことがわかっている。しかも今の自由な期間に期限があるということもわかっている。
それにも関わらず、俺が部屋から出ずに何もしないのは、自分の部屋に閉じこもる居心地が良すぎるからで、さらに言えば俺に何かをしたいという動機がかけているからなんだけど、それにつけても俺は何かをしなければならない。
しかし何もしない。いや、正確には好奇心に基づいた何かをしようとする。とりあえず目の前のテキストを読もうとする。タスクを消化しようとする。
しかしスマートフォンが普及した現在、頭を使わなくていいコンテンツが止めどなく更新され続けるようになった現在においては、我々クソワナビの集中力の持続は困難を極めた。
一頁読みすすめるうちにスタミナが回復し、アプリを起動し、30分溶かしたのちに忘れてしまった一頁をもう一度読む。これを何度か繰り返せば図書館が閉館する。さらにこれを数百回繰り返せば一年は消滅する。
ところで、俺が思うに、ヒューマニズムにもとづいた自由社会に向かう現代においては、自律した生産能力のない人間・与えられた課題を50点でこなすことしかできない人間の生き方は虚しい、という価値観が広く共有されつつあるように思う。
虚しいのはよくない。そしてできればそういうものは無くなって欲しい。
そういう集合的無意識の産物こそが、インターネット上に無数に存在する、永遠に時間を潰すことが出来るコンテンツであるのではないだろうか。
Makerブームの本とか読むと、インターネットやいろんな機器の発明によって誰もが好きなものを手軽に作れるようになった現代は最高みたいなことがかいてあると思うんだけど、それは現代の一側面でしかない。誰もが手軽に好きなものを作れる一方で、誰もが手軽に人生を棒にふることができるようになったというのが正しい。
自分の意志で自分の人生を決めることが出来る人間だけが高度な技術でそれを実現し、そうでない人間は高度な技術によって時間を潰し酔生夢死に陥る。そうすることによって無生産な人間は社会的に低い地位へ流れていき、粗末な人生を送る。とうぜん子孫は残せない。
こうすることによって21世紀も後半に差し掛かる頃には、生産能力のない人間は淘汰されきるだろう。
そういうことを考えて、人生が粗末なのは嫌だな、と思ったので、俺はもがくことにした。
しかしそれはいまのところ失敗し続けている。なぜか、それは俺が生産活動を行うためのツール、つまりパソコンなんだけど、これが時間を潰すためのツールでもあるからだ。
たとえばブラウザ上で動くものをつくりたいと思ったとき、web上の気になるサイトの要素を右クリックすればインスペクタでそれがどのように記述されて実現されているのかがしれたり、Ctrl-kを押した後に作りたいものを入力すれば過去の事例や体験談やソースコードがすぐに見つけられたりするんだけど、それとほぼ同じ動作でTwitterを開いたりdアニメストアを開いたりxvideosを開いたりすることが出来る。そしてほとんどの場合、1時間後にはソースコードを読む気力を全て失った人間がデスクの前に座っている。
ブラウザで何を入力するのかということに俺の人生がかかっていて、今のところそれに失敗し続けているということがわかる。
そもそも俺は何かをしたいのか、何もしたくないのか、ということを考える。
当然俺は何かをしたい。できるだけ面白いことをしたい。そしてそれを実現するための方法は広い意味での創作活動しかないように思えて、そのための一番身近なツールがPCであることもわかっている。しかし俺はそれを活かすことが出来ない。何も出来ない自分に苛立つ、しかし結局何も出来ない。
こうして踏まえてみると、俺が何かをしたいとか創作活動をしたいと思っているという最初の欲求自体が間違っていたのではないかと思えてくる。そうなのかもしれない。
俺はできるだけ何も考えたくなくて、インターネットのエロコンテンツを眺めて過ごしたいだけなのかもしれない。しかしこのように明文化してみると、さすがにそれはないだろと思う気持ちもある。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d5a3a2bcc1ede917c0a77ccbf76959ed
小泉のときは与党で改革イメージ出してたから地方の利権派と都市部の改革派の支持を両方取れたし、2001年は野党も民主自由社民と候補がばらばらだったから大勝できた。でも今は自民党は野党だから地方の利権派はついてこないし、一票の格差もあるし、当時より民主候補も統一されてるので構造改革路線で勝てるわけがない。あと比例の得票数では2001年小泉自民<2007年小沢民主、2005小泉自民<2009鳩山民主なのでこれをみても小泉ほどのブームも起こせそうにない河野が勝つのは無理ってのは明らかだろう。地方区は定員一人か二人で自民民主以外が勝つのはほぼ無理だが都市部は3人いい上あるのでみんなの党が都市部で候補立てて躍進させるほうがまだやりやすいはず。もともと参院の議席もないし、比例は社民並に取れてるので増やせるのは確実。