はてなキーワード: 自由主義とは
刺殺された女さんの話か?
男が入れあげていただけなので、男さんを守るのは良くないと思います。
男さんは自分でなんとかするべきであって。端金は人を殺すには最低の理由なので。
防犯意識は分かるけど、「恨みを買うな」や「アスペは一般教室に来るな」は無理だろ。
「恨みを買うな」は逆恨みってのもある。金を搾取したところで「アナタとはお別れです」って言われたら男は下がるべきである。イタリアを見習え。マンマ最強国家だぞ。
「アスペは一般教室に来るな」ってのは極端だが「いじめの原因はソイツが教室に馴染めない/ソイツの存在が教室の常識にそぐってない」ってするなら、ただの「差別」じゃん。
いじめを回避するために、差別を容認する(区別は差別だぞ(笑))ってのは、やりすぎでしょ。
そもそも「アスペくんが私達の日常を圧迫してきますが、それはアスペくんだけではなく、私達も誰かを圧迫しているのですから、受け入れましょう」が正しい着地だろ?
増田はジャップだから「今まで通りの価値観と日常!」を維持したいんだろうけど、アスペもいじめず受け入れよう、ってのが今の世の中なんだから「健常者が我慢しろ」ってのは正解だよ。
合わせられるのは「健常者だけ」なんだから。
周知の事実だろうが少子化問題に関しては別に日本固有の問題ではなくて、あらゆる先進国で発生している事象だ。
ここに関して、国が悪いだの、なんだのいう考えなしはここでは無視する。
まず医療技術の発達が、子どもが生き残る確率を上げたのは言うまでもない。
そしてリベラルな思想の醸成により、口減らしみたい行為は表立ってはできなくなった。
どのような才能や出自を持ってこの世に生まれ落ちたとしても、あまねく子どもたちは育てられるようになった。
これが一つ、今では誰もが知っているだろう現代の大きな問題の要因だ。
ハンセン病を始めとする病気由来のものもそうだし、生来的な障碍者差別もそう。
周囲や、若い人の反応は気にならなかったようで、それよりもむしろ親や親戚などの身内が、
地域社会から自分の存在を隠そうとしていたということに傷ついた、と語っていたのを思い出す。
よく現代病などとして、最近は花粉症が増えた、とか発達障害が増えた、などと言われて久しい。
これはもちろん、科学や医療が発達して色々なことが分かるようになった、ということもあるし
昔からそういう素質を持った人はゴロゴロしていたよ、という話もあるだろうが、
一番の理由は、子ガチャが出来なくなった、許されなくなったからだと思う。
で、今になってグレーゾーンだとか、ひまわり学級だとかが見直されつつあるわけだ。
もちろん、社会全体として生物学的な多様性を保つことは、種全体としてもリスクヘッジになっているだろうし
倫理的な側面からも、人間社会が豊かになったことの証左であると言える。
だが、個人としての本人の意思はいかほど尊重されているのだろうか。
自分もとある身体的ハンディと、重度のADHDを抱えていたものの、そこそこの努力と
周囲の助けもあり、大学も卒業し、サラリーマンを経て、親の敷いたレール、つまり家業を継いだ(祖業は廃業したが)
クソボンボン野郎、という声が聞こえないでもないが、幸福度で考えても全く釣り合わない、と思う。
ノブレス・オブリージュなど聞こえはいいが、結局は社会の奴隷かつ、労働者の奴隷でもあるのだ。
はたまた巷にいくらでも溢れている成功者の自伝本のように、努力が足りない、
などという世迷い言をいいたいわけではない。
この努力、というものを、子どもに押し付けたいか?ということだ。
これからますます、勤勉で、清潔感があって、思いやりがあって、物事の分別がつく、聖人君子が求められる。
厳しくなりすぎたからこそ…自ら世捨て人となる人が増えているのではないか。
トラックに轢かれて別の人生を、自ら子ガチャをやり直すような妄想が、蔓延しているのではないか。
で、この少子化問題に関わる議論として、責任負いたくない問題がある
さらには、経営者、責任者、政治家の責任重すぎやしないか問題。
今では部長が悪い、課長が悪い、OJTが悪い、親が悪い、環境が悪い、国が悪い等と
終わりのない他責思考と、昇進拒否や退職代行のような責任回避思考が蔓延している。
そんな責任を負うのなら、JTCで怒られない程度にお茶を濁すが如く耐える方がいいと。
ただ、それすらも今は…
だって社会と法律が、どうあっても子供を殺すな、きちんと責任をもって教育しろ、と言っているのだから。
だが、お前ひとりで育て上げろとも言っていない。
そもそも人ひとりで育て上げられるはずもない。犬猫を育てるのとはワケが違い過ぎる。
人間は社会性の動物であり、文字通り、社会の中で、人々と交流することで全てを身につける。
そうした側面を無視して、新自由主義的な、自らの力で全て何とかしないといけないような考え方に囚われちゃいないか。
ただ、オギャーと産まれてくるのは、ただの動物だ。チンパンジーだ。
産まれてずっと親と暮らすわけでもない。社会性をどこかで身につけなくてはならない。
そしてそれは、才能にもよる。マセガキもいれば、少々社会性の獲得が遅い人間もいる。
何より実際のローグライトゲームのようにリセットなど出来ないのだ。
何も持たず生まれて、何も持たずに土に還るのだ。そうした自然な循環をしようじゃないか。
だからこそ、基本的には子どものしたいようにさせるのが一番だ。
時には殴ってでも止めないといけないこともある。
刺し違えてでも、社会に迷惑をかけないように体を張って止める。
それはお前の役目だ。それは覚悟しておけ。その責任を社会にだけ負わせるな。
今は教師も、近所のカミナリ親父も、その役目を負ってはくれない。
そういう意味で、精神的な子育てのハードルは上がっているのは間違いない。
ただ、それが出来ないと思うのならよく考えて親になってほしい。
躾をされないで育ち、大人になってから鬱になるか、反社として生きるかの二択を迫るのか。
大人になってから躾を身につけさせるのは非常に難しいし、個人主義の現代にそのようなお人よしはいない。
社会に出てから虐められてみろ。怒られてみろ。言いたいこと分かるよな。
いじめられるわけでも、怒られるわけでもない。
子供のうちはいくらでも挑戦させろ、失敗させろ、身内で迷惑を掛けさせろ。
一つだけ伝えておきたいのは、別に世界も社会もあなたの敵ではないということ。
そして、今は未曽有の危機、第二次世界大戦前後以来の混迷期だということ。
もっと言えば、明治維新と第二次世界大戦を同時に経験しているくらいの、
大きな変化の渦中にいるということを、頭の中に入れておいて欲しい。
産業革命以来の、"働き方改革"(強制)と、年間数十万人の人口減の同時発生。
そんな場面で、日本人同士でいがみ合って、責任を押し付け合ってどうする。
別に指をくわえてみてたって構わない。
けど、お願いだから、これに対処しようとしている人たちの足を引っ張ることだけはしないでくれ。
別に賛同してくれなくたって、協力してくれなくたって、疎外したりはしないから。
あまねくご先祖様、これだけの天下泰平を築いたものの、戦後最大の危機が訪れております。
この間、SNS上である議論に参加というか巻き込まれて、私含めた数人の参加者のレベル的にそれで結局答えなんか当然でなさそうな雰囲気だったので
「結局これはどっちもどっちってことなんじゃないの。こんなことしてるより別のことをしたほうがいいよ」みたいな返事をしたら
「それは悪しき相対主義だ」「相対主義の皮を被った保身でしかない」みたいなことをある人からいわれた。(「別のことをしたらいい」というのが相対主義?なのかはよくわからん)
でもそいつも全然、自分の意志があるのか怪しい話しか出来てない感じだったが。
しかし、この10年ぐらいの間に、「相対主義はとにかく悪い」という人たちの意見が目に付くようになった。
今日の晩御飯の内容から、ガンダムみたいなアニメの評論、日本とアジアの歴史問題認識の差まで。軽い話題から深刻な内容まで、一つの物差しでそれぞれの問題を計るわけにはいかないにせよ。
でも「相対主義は責任の放棄であり社会問題の根源~」みたいなことをいう人はリベラル側に結構いる。
資本主義でも社会主義でも、いじめっ子でもいじめられっ子でも、ドリフでもひょうきん族でも、連邦軍でもジオン軍でもなく、相対主義。
ほとんどの日本人は6・3・3制の学校で、まあ、社会の処世術とでもいうものを学ぶはず。日本人の「思想」「思考」が問題にされるとき、大体学校教育まで遡って批判されることが多い。
でも、私は小学校から高校まで「相対主義」なんて学んだことはない。相対性理論はあるけど。大学でも、ゼミでいろいろやったが、具体的に相対主義とは言わないにせよ「中立的」な見方・記述をするようにはいわれた。
我々もそうだったが、年に何十万人の若者が、中卒・高卒・大卒のいずれであれ社会に旅立ち、この社会を構成する。そしてほとんどの人々は、リベラル派の危機意識からすれば(どう形容していいか分からないが)、「相対主義」者ということだ。
学校で、国が定めた教育課程により(理系は一先ずおいといて)国語・社会・公民・図工美術・音楽・語学・道徳などの授業を6年間や3年間学び、家庭生活も過した人々が、学校を出る時には「相対主義」者として再生産される。
そしてそれは悪いことなのか、私にはわからない。この国は民主主義であり、自由主義であり、自分の思想を選ぶ権利があり、その上で、多くの人々は確固たろうが適当であろうが、相対主義を選択し、それで別に社会を維持できている。
少なくともこの社会のかなりの部分が、毎年再生産される「相対主義」で維持されているのは事実だ。相対主義者による虐殺であるとか強制収容であるとかも見聞きしたことがない。何がよほどの悪なのだろうか。
逆に、「相対主義」であることを徹底的に拒否する教育や生活とは何なのだろうか。
私は相対主義への批判を見るたびに、言っている人々の普段の言動と比較しても、なんだか検閲や全体主義に近しい論調だなと感じ続けている。
社会の授業で世界の国々や選挙制度について学ぶときに、ある国は素晴らしく、ある国は劣っていると教育するのだろうか。ではその上で日本の立ち位置をどう教えるのだろうか。
ベートーベンの曲を聴いたりピカソの絵を鑑賞した時に、楽譜や色調に現れる技巧は別として、徹底的に「ベートーベン」「ピカソ」の何たるかを国が定義し・教師もそれに盲目的に従い・生徒に刻み付けるのだろうか。
(よく相対主義の引き合いに出される)機動戦士ガンダムを視聴するときに、連邦軍やジオン軍のいずれかが徹底的な善であり対極は悪であると必ず親御さんが傍で「アドバイス」し続けるのだろうか。あるいは制作時まで遡って指図されるのか。(ゆうきまさみがそんな漫画描いてたな)
相対主義は決断や責任の拒否かもしれないが、では非・相対主義は決断や責任の日常的な強制にはならないのだろうか。それは反世俗主義的なカルトや閉鎖的な集団の思考(例えばエホバの証人、旧統一教会、搾取を目的とした自己啓発セミナー、戦前の日本政治など)とどう違うのか。
これらの集団が若者・二世三世信者に対してどう当っているのかも含めて。
もっと言ってしまうと、リベラル的なさまざまな批判や許容の精神は、人々に曖昧に巣食う相対主義という岩盤の上で存続できているのではないか。
長々と書いてしまったが、私としては、相対主義であると言われることは受け入れた上で、それが悪いとか変わるべきだとする思考には至らなかった。
ただ考える中で、他の問題も含めて、「教育・学制」というものはかなり意識する必要はあると思った。
毎年、「相対主義」であり、「自民党を『安易に』支持」し、「映画や音楽を『表面的』に」しか鑑賞できず、あるいは「胡散臭いやり取りを『プロレス』、くだらない文章を『ポエム』と呼ぶ」大衆が再生産されている。
そして大学の教授や活動家がいくら「再教育」しようとしても改まることはない。果してこの毎年の大衆の再生産の渦とでもいうものは「悪」「間違い」なのだろうか。
自分も表現の自由を尊重したい派なので所謂表現の自由戦士と呼ばれる側なのかな?と思うのだけど(ちなみに当たり前だけど表現の不自由展等、性的でない表現の自由も含めて守りたい派です)、他の人がどう考えてるのかな?と知りたい
過度なハイレグ、ローライズ「不可」 埼玉県公園協会が水着撮影会に「細かすぎる」手引き
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240321-XGE5TNCJL5EJBOQBJAZ5UZ6PCE/
「チキンレースをするからこうなる」「表自が規制を自らで呼び込んだ」と言ったコメントがあり、首を傾げる部分が有った為
まず自分個人の感じで言うと、今回の手引きの明確化は割と好ましいと思っているんだよね、基準が明確でないまま規制されるよりは格段にマシなので、
ただ上のコメントはどうも「表現の自由戦士は手引きの明確化を好ましくないと思っている」という前提があるようだし、記事でも手引きに異議がある人がいる模様で、もしかして、所謂表現の自由戦士の中でも自分は外れ値と言うか、ズレているのか?と思った次第
なのでどうなのか確かめたい
まず整理が必要だと思うのだけど、今回の件に不満を言ったからと言って、全てが好ましくないという事ではない
個人的には、自由主義的にはこんな感じで大雑把な順位付けが出来るのでは?と思う
規制が無い(100点)>>規制が有るが基準が明確で緩い(80点)>>>規制が有るが基準が明確で中くらい(50点)>>>>規制が有るが基準が明確で厳しい(20点)>>>>>>>>>規制が有り、基準が不明確(-50点)
で、今回の件は-50点から80~20点に上がったわけだから、基本的には表現の自由戦士的には嬉しいんじゃないの?と思っている
左派(なのかな?よく分からない)の人にはその点で誤解が有るんじゃないかな?と思ったのだけど、自分の考えが表現の自由戦士内で少数派なだけという可能性もある(なので聞きたい)
もう一つ誤解は、全ての表現の自由戦士が100点(規制が無い)を目指していると思っているのでは?という事。少なくとも自分は80点くらいがベストだと考えているし、こういう人は多いんじゃないかな?と思う
全くの無政府状態が欲しいわけじゃなくて、規制が有るとしてもそれが適切じゃない場合は批判の声を上げられることが大事で、その為には基準が明確でない事にはどうしようもない、という話(明確じゃない基準を不適切かどうかなんてどうやって判断できる?)
今回の手引きの基準が厳し過ぎると思う人にとっては、今回の手引きは-50点から10点に上がって前進だけど、更に点数を上げる余地がある(なので批判の声も上げる)、という事なのかな?と
(ちなみに自分個人としては今回の手引きの基準は割とまぁアリなんじゃない?と思っている。もう少し緩くてもいい気はするけど、そこまで悪くない気が、なのでそこまで不満はない)
「基準の明確化」と「基準の厳格化」と「基準が細かくなる」はそれぞれ違う、個人的には明確化→良い、厳格化→良くない、細かくなる→どちらかといえば良い、という感じ
なので、個人的には今回の件について「細か過ぎる」という批判は良く分からないなぁと思っている。「厳し過ぎる」とかなら同意するかはともかく意味は分かる
あと、表現の自由戦士以外(左派の人?)はどう思っているんだろうなぁ、というのも興味本位だけど気になる
規制の基準の明確化、厳格化、細分化について、それぞれどう思っているんだろう(勿論、性的な表現に限らず、政府批判などあらゆる表現の規制について)
実は自分とそこまで変わらない可能性もあるのでは?と思っている
と、言うような事を考えるに、今回の手引きって、協会側は手引きを作れてよし、表現の自由戦士も基準が明確化してよし、左派(?)の人達も明確な基準で運用されるようになってよしで、三方よしが実は実現してる可能性もあるのでは?と思った
ブコメ欄では何だかこの件で対立がある事が前提みたいなコメントが見られるけど、それはただの思い込みで、
自由主義には、大きくわけて2つの側面、社会的自由(個人的自由とも言う)と、経済的自由がある。
経済的自由は、これを推進する場合、いわゆる自由化、民営化、規制緩和、減税、といったように、商業主義的な施策を推し進めて、格差や痛みは生じるがトータルでの経済のパイを拡大して強い国にすることに重点を置く。
これは右派の思考。一般的に右派は保守と言われるが、経済に関しては進歩的なのが本来の右派であり、保守性は主に、社会的自由を伝統や慣習などの堅持によって抑圧する方面を見たときの印象となる。
共産主義においても、実態としては経済的自由に関しては右派的な施策をとっていることも多く、つまり商業主義的なイケイケドンドンで公害のような負の外部性を顧みずパイを広げていこうとしがちだ。
実は、世界基準で政策で見ると自民党も十分リベラリズムの政党なんだよね。
それは綱領をみるとよくわかる。
https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/
綱領には以下の様にある
我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これと併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。
実は各党の中で、自らをリベラリズムと称しているのは自民党だけなんだよ。
そして、やっていることもほとんど世界基準ではリベラリズム。それも今主流のニューリベラリズム。
https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/
実はリベラリズムという言葉は出てこないし、なんなら「自由」という言葉も1回しか出てこない。
政策自体は、実際のところ多少の見解の相違はあれど自民党と変わらない。ニューリベラリズム
https://new-kokumin.jp/about/declaration1
一応はリベラルという言葉が出てくるけど、自分たちの党を指してない。まぁ組織内候補専門の党だからこんなもんだろう。政策はリベラル系に数えられてるが、ネオリベラリズムに近くて、組合の組織内候補を通して、企業の影響を非常に強く受けている。下手すりゃ自民党よりも企業の影響を受けている党。確かに立民とは相容れない感じ。
https://o-ishin.jp/about/outline/
ここだけは「ネオ」ってつくネオリベラリズム、新自由主義の党だね。純粋なネオリベラリズムは、いわゆるリベラリズムとは似ているけれど違うものと見做されることが多いな。
日本は長年ニューリベラリズム的な政策をやってきたから、維新が行っている事は目新しく感じる。けれども、古くさいカビの生えた、そして世界中で失敗してきた新自由主義に過ぎないんだよね。ここの言うとおりに進めると日本はイギリスの様になる。
https://sdp.or.jp/declaration/
なぜか最もリベラルの用に思われるかもしれないけれど、ここはそのまま民主社会主義の政党なので、自由主義からは、実はかなりほど遠い政策であったりはする。
https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/
古典的な自由主義(自由放任主義、個人主義)の意味のときと、二十世紀初頭以来の福祉国家的な新しい自由主義(弱者擁護、寛容、進歩主義)の意味合いのときがある。
他人の空間にずけずけと入り込んで自分の主義主張を押し付ける自由放任主義?
集団の意思決定に個人が異をとなえるのを許さず、そのような個人が出れば組織で「統括」する個人主義?
社会的に弱い立場、苦しい立場にある男性を自己責任と切り捨てるのみならず「チー牛」「弱者男性」などのレッテルを貼って嘲笑する弱者擁護?
自分達を絶対的な正義と位置づけ、自分達と少しでも異なる考えは悪と決めつけて糾弾する権利を持つ寛容?
70年前に戦争相手から押し付けられた憲法に対して一言一句堅守せよと主張し、見直しの為に議論をしようと呼びかけることすら「憲法違反」と決めつける進歩主義?
分からない。私にはリベラルの定義が分からない。これは多分に私の学力の無さがもたらしたものだろう。恐らく、真に学び、真に目覚め、真にリベラルを修めた、真のリベラルなら、そのような価値観を持つのだろう。
しかし私には残りの人生の全ての努力を費やしてもリベラルを正しく理解し、その崇高さに目覚めることは難しいかも知れない。無知無能の理性を持たないケダモノには人類の叡智は理解できないのだ。