はてなキーワード: 立憲主義とは
立憲民主党が向き合えなかったのは、民衆の知的レベルの低さだろうね。
立憲民主党の演説等々を聞いていると、聴衆に対して、立憲主義とか立法事実とか、そういう、真っ当な西側先進主義諸国の市民しか知らないようなことを、皆が知っていることが当然期待されるかのような主張をしているんだよね。
でもさ、ここは残念ながら日本だ。選挙で勝つ方を予想してそちらに投票するのが正しい行動だと信じているような「市民」が無視できない割合でいる。目指す政策についての質問がほぼ空白だったり質問の意味を理解できない程度の候補が元アイドルというだけで選挙で優勢になる。国権の最高機関で虚偽答弁を何百回もやった人物が総裁を務める政党であることは投票意向にはほぼ寄与しない。そういう社会だ。
まあ、このレベルの国民に日本国憲法は高度過ぎたのだとと思うよ。どうやらこの憲法も、近いうちに国民のレベルに見合った程度のものにされそうだ。まあ、これまでが異常だったのかな。
死んだ年寄が言ってたカビが生えて埃のかぶった言葉を引用したりしてあーだこーだと言うのってナンセンスだろ
集産主義者が「自由民主党」を名乗って保守をやって、「立憲民主党」の自浄作用のない金持ちが貧民を騙して立憲主義でも民主主義でもなさそうな政党運営しながらリベラルを語ってる2021年の日本の現状で、ハイエクが言ったかどうかもわからん言葉を引用するのは権威主義すぎる。
これは斬奸状である。いや何もお命頂戴という話ではない。枝野君は総選挙敗北の責を取り、直ちに立憲民主党代表を辞せ。
これは明らかに立憲民主党の敗北である。確かに事前の情勢報道(投開票日終了まで続いていた)では党勢は伸長されるはずであった。前回議席の維持ならば少なくとも敗北に非ずと強弁できるだろう。しかし、現有議席すら守れていないのは明確な敗北だ。就中、今次総選挙は前回大敗し、挽回は容易であるはずであった。議席を失陥し、一敗地に塗れた同志に恥じるところはないか。
これに対し、たもとを分かった国民新党は増、非左派野党である維新は大躍進を遂げた。単に得べかりし議席を、彼らに献上しただけではないか。これは間接的な反党行為とすら評価可能な事態だ。
それとも自民党が減ったから勝利だとでもいうのか。ならば55年体制下社会党と何ら変わらぬ、政権を目指さない安定野党に堕することになるが、それでいいのか。
あまつさえ貴君は、選挙前にこう言った。これは政権選択の選挙なのだと、自民政権か非自民政権かを決める選挙であると。
これは現状からすれば、そして選挙前の情勢からしても明らかに大言壮語の類であった。政治家が信頼を得るには、偏に誠実な言動を行うことである。身の程を超えた大風呂敷を広げ続ければ、やがて国民は貴君らの言動をそれなりに値引きしてみるようになるだろう。
他方、狡猾にも貴君は勝敗ラインの設定は行ってこなかった。ならば、政権として選択されず、政権首班として認められなかった貴君は直ちに他に席を譲り捲土重来を期すことこそ憲政の常道といえる。
貴君が代表の座に固執すれば、己の言動にすら責任を取らぬ政治家となる、それでいいのか。
選挙の前後、立憲民主党所属議員から、多数の失言があった。これらは全てシンパタイザーによって糊塗されたが、明白な誤りである。ただ詫びて済むものではない。特に政策的発言において、党方針と全く異なる方言と言ってもいいような発言があったことは、党員の管理が不十分である明確な証拠である。
また、政策議論における発言を弾劾し、デュープロセスを全く外れたまま処分し追放したことは、立憲主義の看板を著しく損ない泥を塗ったものであると断じざるを得ない。
更には、候補者調整においても明らかに指導力に欠く、もしくは一部の独走を許すような事態も招いている。
明らかに貴君には、党全体を管理し統率する能力か意志に欠けるところ大である。そのような人物を代表に据え続け、今後戦えるのか。答えは否、再びの敗北を招くだけである。貴君は貴君がお山の大将でありさえすれば、それでいいのか。
総選挙の結果を見れば、自民党に嫌気を指した層が進んだのは左傾化した立憲民主党ではなく、非左派と目された維新であった。
票田は明らかに中央にあり、左傾化したところでとれるのは現有程度であること明白である。さらに政権側は、敵失に敵失を重ねていた。正に棚から牡丹餅が落ちんとしていたのに、それを拾ったものは誰か。現状の選挙で数多くの批判の声をみすみす逃したのは、共産党との共闘によって中道にウイングを伸ばせなかった一点によるものである。
共闘路線は明白な失敗であった。たしかにいくつかの議席は共闘で得られたであろう。首がつながった議員もいるはずだ。自民の大物も仕留めた。しかしそれは単に局地戦における健闘であって、戦略の誤りは明らかである。
このまま進めば、選挙における依存度を増し、文字通り立憲共産党となり果てるが、それでいいのか。
以上、いずれも許されざる大罪である。故に枝野君、君は速やかに立憲民主党代表を辞せ。
政党は貴君の個人商店ではない。民主的存在なのだ。最早貴君の歴史的使命は終了した。党は貴君が立派に育てた。後進に道を譲り、立憲民主党代表選を行い今後の方針を定めるべきという審判が下されたのだ。それにより人材ここにありと、民主主義ここにありと堂々と示す秋が到来したのだ。
立憲民主党は代表を変えることが出来る、共産党の如き独裁ではないことを、己の犠牲を以て示せ。そこから党再生の一歩が始まると確信する。
nwpi
政党支持率見てたら次の衆院選で政権交代はまずないことは誰が見てもわかる。過去の政権交代した選挙(自民→民主、民主→自民)では与党第1党と野党第1党の支持率が逆転していたけど、今は全くそんな状況ではない。
つまり、ここ数日に枝野が発表した「政権取ってこれをやる」と言うのは絵に描いた餅でしかないのだから、必要なのは既存支持層を確実に取り逃がさないためのアピールであって無党派を取り込むことではない。政権交代ではなく現有議席の確保を至上命題とすれば、下手に党内が揉めそうな経済政策なんかやらずに反自民とリベラルをアピールしとけばいいだけ。党内向けの「総選挙ガンバロー」以上の意味はないんだから、いくら外野がガッカリしようが関係ない。
だいたい「立憲民主党」という党名自体がもともと「自民党は立憲主義に反している!」という反自民アピールなんだから、反自民は何よりも優先すべき党是だろ。ぶっちゃけ具体的な政策は自民と大差ないんだから、「政策は同じでも自民みたいな合法性や手続きを無視した我田引水はしません」というのが唯一最大のアピールポイント。そこを避けて具体的な政策なんか出したら「自民と変わんない」としか思われないだろ。
1,いいえ。
2,適切。社会性秩序の維持のため。
4,適切。ヘイトスピーチは対話を目的としない名誉毀損に類する表現行為であるため。
5,不適切。ヘイトスピーチと言えども表現の自由により保障される。表現内容を理由とする罰則は必要最小限にするべき。
6,不適切。表現の自由への制約は必要最小限であるべき。制約の根拠が不明確。
7,不適切。6と同じ。
8,適切。表現の内容により補助金に差をつけるのは表現の自由に対する間接的な制約になり得る。
9,ある。芦部、長谷部、四人本、基本憲法、立憲主義と日本国憲法。
10,法律で表現について規制すると、表現をする側の表現の自由、販売店側の営業の自由に対しての制約になる。そのため、自主規制のような形で行うのが望ましい。それほどに表現の自由というのは極めて重要な権利という事を理解して欲しい。
最近、「人権感覚のアップデート」とか言われることが多い。しかし、人権思想は短く見積もっても200年~300年以上の歴史があるので、過去もアップデートがあったのは間違いない。
人権思想の走りと言うべきもの。いわゆるマグナ・カルタや権利の章典などで人権思想の基本となる考えが整備されていった。
いわゆる「国家からの自由」と平等。政府が令状なしに逮捕したり、法律の規定や裁判なしに刑罰を与えたり、特権階級をもうけたりすることを禁じた。
いわゆる「国家への自由」。要するに参政権。必然的にこれもついてきた。
人権における画期的なアップデートである「国家による自由」が実装された。19世紀末~20世紀前半に成立し、これにより近代的な人権制度が一応の完成を見たといってよいだろう。
単に自由なだけでは恵まれない人が割を食うばかりになるので、生存権、教育を受ける権利などのように最低限保障すべき権利を規定し、政府が施策により実現することを義務とした。もちろん、これが特権であり平等性に反するという主張もあったが、現実に劣位に置かれている人を、平等な水準にするということで理論的な解決を見た。
「かわいそうな人」の権利を守るために、そうではない人の権利を制約しようと言う思想。
アンチファによるヘイトスピーチ規制の主張や、フェミニストによる表現規制の主張、性犯罪に対する要件の緩和や厳罰化などが人権3.0。
しかし、これは当然に、権利の制約になるので、人権1.0と真っ向からぶつかることになる。
もちろん、人権1.0でも、他人の人権を侵害する行為は禁止する(=政府が処罰する)ことはできる。殺人を行う自由という人権は認められない。
しかし、これは同時に、他人の人権を侵害したことが明確に立証できないことは禁止(=処罰)できない、ということと等価である。これを問題視する向きが人権3.0を主張し、人権1.0を攻撃している。
今日の、立憲民主党本多議員の離党騒動はまさに、この人権1.0vs人権3.0という問題である。人権1.0の立場に立てば、明白な権利侵害があることに対して「のみ」規制されるべきと考える。だから、様々な限界事例を例示して、規制の問題点を指摘する。対して、人権3.0の立場に立てば、明白な権利侵害があるかどうかはっきりしない事例でも、加害者の処罰が漏れることが到底許し難い。これに対して人権1.0の立場からは「十人の真犯人を逃すとも 一人の無辜を罰する勿れ」「刑法典はならず者の権利章典である」といった原則が掲げられ、被害者やその周辺の感情に寄り添わないことが美徳とされる。
増田は、この人権3.0へのアップデートを、バグが多く、危険なものだと考えている。罪刑法定主義や法の適正手続きといった手法、権利の衝突の解決手段としての公共の福祉、明白かつ現在の危険、こういったさまざまな近代的な人権と法制度に基づく道具立てとコンフリクトをする思想は、最早、人権とは呼べないだろう。単なる魔女狩り裁判を正当化し、フォークデビルを火あぶりにする、俗情との結託である。こんなものは、全く「立憲主義」などではない。