はてなキーワード: 社会学者とは
「まーたフェミニスト/社会学者か」とか「フェミニスト/社会学者は自浄作用がない」みたいな雑なカテゴライズをして叩く、こんなの不毛でしょ。
で、それを指摘する人の中にももしかしたら「男」「女」「フェミニスト」「オタク」「地方」「東京」「公立」「レズビアン」「ゲイ」「バイ」「トランス」「ロリコン」「リベラル」「ネトウヨ」に対しては同じ事をしてるかもしれない。
あなたは自分が属する属性に対して自浄作用を果たした事が有るんですか?それはどの程度の効果を上げて、その成果でその属性はどの程度今綺麗なんですか?
自浄作用の有る集団なんてほぼ無いでしょ、元々そんな義務無いんだから。
もう止めにしません?他の集団に自浄作用を求めたり、属性でカテゴライズして叩いたりするの、不毛だし、自分がされる側に成ったら批判するでしょ、矛盾してる。
「男」「女」「フェミニスト」「オタク」「地方」「東京」「公立」「レズビアン」「ゲイ」「バイ」「トランス」「ロリコン」「リベラル」「ネトウヨ」エトセトラエトセトラ、属性で叩くの、止めましょう?
これはどの党派性にも依らない、平等な提案の筈。「男」でも「女」でも、その他どの対立するグループにもどちらか一方に味方してる訳じゃなくて、どちらにも利益の有る話をしている。
勿論例えば「男」で一括りに出来なくなればフェミニズムの一部は困難になる、でもそれは飽くまで一部だし、元々論理的に正しくなかった不当な部分を排除するだけだ。
「男」と一括りに言っても様々な人が居る、強者も居れば弱者も居る、その特権にしても一様では無い、男女間の経済的な格差にしても男性側の恩恵に与れない人も当然居る。
それを「男」で一括りにするのは単純に誤っているし、そんな事をしなくてもマクロな統計的なデータを見て男女間の格差を議論する事は出来る。
上はフェミニズムを例にしたけど、反フェミとか反リベラルとか反社会学者とかも同じだ。属性で括ると、元々多様なその集団を不当に単純化して、論理的に間違った結論を出してしまう。
自浄作用にしたって、同じ属性だろうと所詮他人なんだから、そんな義務無いんだよ。
取引みたいな物だと思って貰えば良い。
おかしな主張をしているフェミニストや社会学者が居たとして、それを「他のフェミニストや社会学者が批判するべきだ」と思ったとしても我慢する、それは苦しいかもしれないけど、
逆に差別的な男性やオタクが居た時に、他の男性やオタクはそれを無視しても構わない。「他の男性は批判すべき」とか「オタクとして批判すべき」とか言われる必要は無い。
逆も同様、
差別的な男性やオタクが居た時に、他の男性やオタクがそれに反応しない事をあなたは卑怯だと思うかもしれないが、そうではない。
代わりに差別的な女性やフェミニスト等が居た時に、あなたもそれに反応しなくても済む。
それで良くないか?これはどっちにとっても有利な部分も不利な部分もある、イーブンな取引で、元々論理的に考えれば正しい選択でも有る。
逆に、自分は自浄作用を発揮するつもりがないのに他人に求めるのは、代金を払わずに商品を受け取ろうとする様なものだ。
勿論「自分は自浄作用を発揮するから、他人にも求めるつもりだ」と言っても良い。でも冷静になって考えてみて、あなたは一体どの位属性を持ってると思ってるの?
その全部の属性について責任をもって自浄作用を発揮するつもり?出来ると思ってるなら「馬鹿」の集団にも自浄作用を発揮しないといけなくなるからもっと大変になるよ。飯食ってる暇も無い。
元々無理なんだよ。
「自浄作用を発揮するべき集団と、しなくてもいい集団が有る」と言い張るかもしれないが、それを分ける基準を本当に論理的に明確に出来る?
その基準が(例えば「男」と「女」のどちらかだけ義務が有るような)あなたにとって都合が良い基準に取れると思ってるなら甘すぎる、結局どこかで自分にとって都合の良くない部分を呑まざるを得ない。
この程度の簡単な話を中学生位で通過していないなら、元々あなたは考える事にそれほど向いていないし、他人に何かを求める前に自分の事を考えてみるべきだ、考え損なってる事が大量にある筈だし、それを考えずに他人に何かを求めるのは倫理的におかしな事でもある筈だから。
避難所が暇空とスペースで対話しようとしたところ、「町山さんの二の舞いになるからやめなさい」と新人カルピスのミルージュが公開説教し、正気を取り戻した避難所がギリギリでスペースを回避
↓
新人なのに避難所を制御できる大物としてミルージュが注目され、文章力が高くて礼儀正しいことから大学教授だと暇空が認プロ
↓
めたまんやカルピスマンゴーと相互フォローの大学教授(東大情報学環所属の社会学者)を見つけたと暇アノンが虚偽の報告をする(本当は相互どころか一切接点なし)
↓
嘘に騙された暇空がその教授を掘ったところ、SKY-HI(若者に一番人気のラッパー)のポストをRPしていたことが発覚し、その教授とミルージュはマイナーなラッパーについて知っているという共通点があるから同一人物だと認プロ
↓
暇アノンのバサラキックが「銀の弾丸」という言葉を使用したところ、「銀の弾丸」が情報工学で使われる言葉だと知った暇空が、バサラキックの本体は東大情報学環所属(ただし専門は社会学)のミルージュだと認プロ
↓
堀口くんが過去に東大大学院進学を夢見ていたことから、ミルージュが進学を餌に堀口くんをスカウトして空気を入れた主犯だと認プロ
↓
10年くらい前までそう言われていたけど、めっきり最近は言わなくなったね。
性別について、自分では変えられない、と発言することは、トランスジェンダーへの差別だし。
静岡県知事が職業差別発言で辞任することになったけど、職業って自分では変えられるよね。
9浪インフルエンサーの東大院受験について、教育学関係の人が、彼の学歴差別発言を批判しているけど、学歴も生まれついてのものではない。
いったい「自分では変えられない属性への攻撃が差別」との言説は何だったのか。
(あと、国とか地方自治体とか差別を研究する社会学者のサイトとか本とか見ても、「自分では変えられないことについての差別は差別」的な言説は一切ないんだよね。今思うとそれも不思議)
確かに、近年の社会やメディアの影響により、「パパ活」という言葉が広く知られるようになりましたが、そのような関係は昔から存在していた可能性があります。テレクラや出会い系サイトなど、異性との出会いを求める場は古くから存在し、さまざまな形で人々が出会いや関係を築いてきました。
また、宮台真司のような社会学者が指摘するように、現代社会において性や恋愛に関する価値観や関係性が変化してきていることも事実です。その結果、パパ活のような関係が一部の人々の間で一般的になっている可能性もあります。
ただし、これらの関係が「退廃したソドムとゴモラ」のようなものであるかどうかは、その関係の性質や参加者の間での合意によって異なります。一部の人々にとっては合理的な選択やニーズに応えるものであり、他の人々にとっては問題があると見なされるかもしれません。
個々の人々や社会の価値観は多様であり、その中でさまざまな形の関係が存在しています。重要なのは、参加者が自らの意思で関係を築き、相互の尊重や合意の下で行動することです。
一般人は仕事内容が第三者にわかる状態でSNSで関係者を非難したり愚痴ったりしないんだ
大問題になるし、場合によっちゃクビや損害賠償だからね 。何のための秘密保持契約(NDA)って話ですのよ
誰も得しないので黙っているが正解だったけど、何がなんでもなにか申したい、危ない橋を渡ってでも『私じゃないもん』やりたかったなら、
せめて下記のように発言すれば、よかったよね、これなら表立っては誰からも責められずに『私が書いたんじゃないから』をできた
『最後の2話は、な…なんと!!!原作者様がご自身で脚本を書いてくださいました!サプライズプレゼント🎁🎄でしたが、原作ファンの皆様にも喜んでいただけるような作品に仕上がったと自信を持ってお伝えできます』
こう言っとけば、ゴタゴタが取り沙汰されても、下記のように言えば全部問題片付いた
『このドラマの製作過程では、チームメンバーの間で様々な意見が飛び交いました。それは、原作のファンやドラマの視聴者に、最高の作品を届けたいという共通の想いがあったからです。原作者の方にも、貴重なご意見やご協力をいただきました。おかげさまで、素晴らしい作品に仕上げることができました。ぜひドラマをご覧になって、製作チームの情熱を感じてください』
それすらもしないで、2次創作者の立場で原作者をドラマ出演者と一緒の写真を添えて非難という傲慢な奇行、そりゃ燃えるよね🔥
ただ、これ何度も書いているんですけど、日本シナリオ作家協会の振る舞い見ていてもわかる通り、
TV業界に連なる脚本家業界って世の常識が通じる世界じゃないんですよ
物書きに必要な能力と関係ない、コネ、コネ、コネ、そしてコネ、あと学歴みたいな世界です
(高卒・中卒のコンテスト出身の叩き上げ、高卒・中卒の劇団出身のとかもゼロではないが・・・・)
忘れた頃にしれっと活動復活しますよ、そんなナイーヴな業界じゃないし、今どきTV観てる人はそんな賢くないです(すぐ忘れる)
実際、ナチス大学教授、「延命治療やめろ」&「(小山田氏の障害者イジメに対して)裁判するにも知能がいるしね」の社会学者もTVに出てますしね
友達の嫁さんと初めて会ったときに、「奥さんとは呼ばれたくない」と言われた。
そういう人たちがいるのは知っていたけど、実物には初めて会った。
後で知ったけど、そっち系でも知られた人。(国際的な研究業績もあり、掃いて捨てるほどいる単なる活動家ではない。蛇足だが、社会学者でもない。)
「それじゃ、何て呼んだらいいですか?」
ただ、意外なことに、明確な返事が無かった。
意外だったのは、「相手にとってはFAQだろう」と思っていたから。
即レスされる、と思っていた。
「夫の友人に返すような、穏当な返事の用意が無かった」というところかな、と思ったが、単なる邪推。
「友達の相方を、名前では呼びにくいですよね」と友達に向けて言った。
「だよね」と返される。
「奥さん」と呼ぶのは、「あなたは私にとって『友達の奥さん』です」という暗黙のメッセージ。
逆に言えば、敢えて名前で呼ぶことは「あなたと直接の友達になりたい」というニュアンスがこもる。
少なくとも我々の世代は、そういうことは不躾だと感じるのが普通だと思う。
今後、直接の友達になることがあったとしても、初対面でそういう態度はとらない。
友達とは、日本語で話すときは「増田さん」、英語で話すときはファーストネームで呼び合う。
おそらくは奥さんとも、英語で話すときはファーストネームで呼び合うだろう。
英語で話すのにファーストネームで呼ばないとしたら、それにも特別な意味が生じる。
夫婦でマンションを買いに行ったときに営業から、子供の学校に行って教員から、「奥さんとは呼ばれたくない」のは理解できるし共感もできるし賛成もできる。
ただ、夫の友達に「奥さんとは呼ばれたくない」と言ってしまったのは、彼女のミスだったのではないか、と思う。
おそらく彼女はそのときすぐにミスに気づいたが、俺の方はこうして後で考えをまとめる段になって初めて気づいた。
恥ずかしい経験が、また増えた。
なんだか絶賛的な評価が多いみたいようだが、社会学は門外漢だけに、個人的にはモヤモヤが残った。
前回は上野千鶴子や吉見俊哉、大澤真幸などが全体の監修者で、巻数も26あったと記憶しています。各巻のタイトルも凝ったものが多かった。執筆者も社会学プロパーだけでなく、竹田青嗣などの周辺領域の方が入っていました。文体や内容も派手で、自由で、雑多で、それほど社会学とは関係のないものもたくさんありました。もちろんそれだけではなく、当時の最先端の社会学的な議論をしている論文もたくさんあって、たとえば落合恵美子が実証的な観点から上野千鶴子を強く批判する論文なども収録されていたのですが。
そのころから比べると、社会学も大きく変わりました。どちらかといえば、より地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになったのです。今回の『岩波講座 社会学』では、そうした社会学者が中心となって執筆します。特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続けるような、そんな社会学者たちはこれまでたくさんいたし、いまもたくさんいます。いま、この社会にとってほんとうに必要なのは、「職人的」な社会学者なのです。
要するに、この講座のシリーズ全体でおこなうのは、社会学そのものの再定義です。もっといえば、これは「本来の社会学」へと立ち戻ろうとする試みです。社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない。私はすでに、2018年に有斐閣から出版された『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という対談集で、そのような趣旨のことを述べています。
まずここで説明されるべきは、「地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになった」理由であり、そしてかつてはそうしたものが忌避(あるいは小馬鹿に)されていた理由である。例えば、社会学という学問の発展の結果なのか、社会経済的な環境の変化や取り組むべき新たな社会問題の登場の影響なのか、社会科学研究全体のトレンドの変化の影響なのかが、きちんと説明されるべきである。上の文章はそうした説明が一切なく、以前の社会学は中身がからっぽだったが、自分たちが「地味な、地道な、実証的な」ものに改善したという、それこそ中身が空っぽなことを言っているだけに過ぎない。
「社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない」というのも、別に社会学に限ったことではない。具体的には見田宗介や宮台真司のことを言っているだろうが、30年以上前には「大風呂敷を広げた預言者」は、哲学者の浅田彰など、社会学以外にも数多く存在していた。現在だと斎藤幸平や成田悠輔の名前が「現代の預言者」として思い浮かぶが、彼らは経済学者である。社会学者で思い浮かぶ名前はもういない(古市は軽薄ではあるが預言者的では全くない)。
そもそも、「地味な、地道な、実証的な」をくどいほど強調している点で、おそらくはSNS上の社会学バッシングを気にして怯えるばかりの、自分たちの中身のなさを暴露している感じがする。本当に「地味な、地道な、実証的な」人は、そんなことは口が裂けても言わない。ネット上の悪口など意に介さず、自分の研究にコツコツと取り組むだけだ。「大風呂敷を広げた預言者」についても、そうした人がなぜ必要とされるのかの現代的な状況について丁寧に分析・説明するだろう。
そして後半は、紙の本との出会いが大事だというノスタルジックな感情論に終始している。もちろん世代的に共感できなくはないが、30年前からの情報環境の劇的な変化と今回のシリーズの編集方針との関係について、社会学者として何か分析的な議論があるべきだろう。
細かいところだが、「巻数も26あったと記憶しています」って、なんですぐ調べないのだろうか。「地味な、地道な、実証的なスタイル」な人は、そういうところから絶対に手間暇を惜しまない。そもそも、岸氏はネット上の発言しか知らないのだが、それらを読む限り、経済政策論にも安易に口を挟んだりなど、「地味な、地道な、実証的なスタイル」の人には全く見えない。
僕は弱者男性プログラマーだ。コードを書いて金をもらっている。
そんな僕が、社会学や政治に興味を持つ人が多いこのような場で物申すというのはちょっと変だと思うかもしれない。
実際、社会学なんて僕の専門じゃない。
僕はコンテンツを収集するクローラを書いたり、それを検索できるようにインデクシングしたり、あるいはコンテンツのクリック履歴に基づいておすすめを表示させたりするプログラムを書いている。
このようなプログラムにも、社会的側面というのは存在する。利用者が何らかの目的によってその検索ツールを利用し、調べたいものにたどり着く。コンテンツプロバイダー、ユーザー、システムという3つのアクターの社会が形成されている。
社会学者がコンピュータについて語ることがあるぐらいだから、プログラマーが社会について語ってもいいだろう。
僕が常々思うのは、人々の目的だ。
つまり「この検索ツールを使う人は、一体なにがしたいんだ」「コンテンツを提供する側は何が目的なのか」ってこと。
もっと状況を限定するために、「ブログ検索」というツールについて考えてみよう。君がクエリを投げてブログを調べようと思うのは一体どういうときなのか。あるいはブログを書こうと思う人たちの動機は?
動機は基本的にneedとwantによって分類されると考えて良い。needの場合、例えば確定申告書の書き方について調べていて、適切な情報を知りたいと言ったケースがそうだ。
wantというのは社会的な本能に結びついている場合もあるし、退屈しのぎということもある。承認欲求は基本的に社会的欲求だし、ハッカーが自分の知見を公開するのはちょっとした挑戦だろう。
リーナスの法則というのを聞いたことがあるだろうか。マズローの欲求解創設と似たようなもので、「生存」「社会」「娯楽」という3つが人の行動原理だとリーナス・トーバルズは言っている。
ブログを書くのが「生存」目的という人はどういう人だろうか。きっとそれ以外に職がなく、必死にアフィリエイトで稼ぎを得ている人だろう。
ブログを書くのが「社会的目的」という人は、すごいことをして認められようとか、専門家とつながりたいと考えているかもしれない。
しかし「娯楽目的」というのはもっと崇高なものに思えてくる。ブログの文章を書くのが単純に「楽しい」といった人たちのことだ。
生存、社会、娯楽という3つの階段によって、コンテンツの質というものが判断できるのではないかと、僕はそういう仮設を持っている。
アフィリエイトで生存的目的の発信をしている人たちのコンテンツは、お世辞にも良いとは言えない。クリックベイトであったり、感情を煽ったり、SEOをクラックしたり、初心者的だったりする。
社会的目的の人たちはもう少しマシで、認められようとして努力をする姿勢がある。でも、「たくさんの人と繋がりたい」という目的の場合はちょっと注意が要る。結局、そういう人は手当たりしだいにアクセスを増やそうとするから、コンテンツの質は下がってしまう。
「文章を書くのが楽しいけど、人に評価されることはどうでもいい」という人たちのコンテンツを探すことは難しいが、こういう人たちのコンテンツは奥深いことが多く、表面をなぞったようなアフィカスブログとは一線を画している。
しかしこれはコンテンツを提供する人の観点である。これらのコンテンツをクロールし、検索できるように整備している「システム」の観点から見ると、どうしても「広告利益」のようなものが重要視されやすい。
Googleであれば、Googleの広告利益に貢献するようなコンテンツを検索結果で優先表示するかもしれない。そしてそれはまさに生存欲求のためのアフィカスを優先しているのと同じことなのだ。
インターネットがつまらなくなったと言う人たちがいる。僕は次の喩えでこれを説明しようと思う。
昔のインターネットというのは、水の上に白いピンポン玉が浮いていた。この白いピンポン玉は良いもので、楽しいものだ。
ところが徐々に黒いピンポン玉を投下する人たちが増えてくる。黒いピンポン玉は悪いものだ。手を使って沈めようとしないと、白いピンポン玉が見つからない。
そして今のインターネットは黒いピンポン玉が一番上に浮かんでいて、白いピンポン玉はその下で見えなくなっている。
白いピンポン玉は純粋な娯楽精神を持ったコンテンツのことで、黒いピンポン玉は「アクセス数を増やしたい」がために鬱陶しいことをしているコンテンツのこと。
つまり、インターネットでは年々白いピンポン玉を見つけるためにエネルギーを使う必要が出てきてしまっていて、疲れているときは必然的に黒いピンポン玉を見るしかなくなっているということだ。
リーナスは「文明は、生存、社会、娯楽という段階に進んでいく」と言っていたが、インターネットは「娯楽、社会、生存」という逆の階段を降りている形になっているように思える。
現段階では、アテンションの総和が一定であるために、ネット人口が飽和し、広告企業の利益は落ち込んでいる。純粋な娯楽ではなく、企業の生き残りをかけた戦争に突入してしまっているのだ。
僕は今のインターネット社会では、意識的に面白いコンテンツを見つけるためにエネルギーをかけることがかなり重要だと思っている。ダラダラとやっていたらアフィカスとバズ目的しか目につかない。
例えば人間が一日に読める文章量なんて限られているから、本当に面白い人を見つけたらRSS購読しておいたほうがいいと思う。
うるさいハエがクソに群がっている。「クソを美味しくないと思うなら、お前がつまらない奴だからだ」と左翼思想家が指摘するかもしれない。