はてなキーワード: 矯正とは
「子供の頃野球選手になりたかった夢を未だに引きずり続けている工場勤務のおっさん」
「子供の頃アイドルになりたかった夢を未だに引きずり続けているコールセンターのおばちゃん」
そういう生き物がいるらしいって昔聞いてたけど、自分がそういうたぐいの連中の仲間入りする所は想像してなかった。
自分が本当に何者になりたかったのか思い出せないまま今も生きている。
仕事を通して突然世界のヒーローになってしまえる可能性は一切感じない。
勤続年数が自分の1/3に満たない新入りにも抜かれるぐらいには才能がないから。
頭数合わせの冴えないオッサンとして、最低限の仕事をしながら歯車として仕事を回す。
それで手一杯だから休日はただダラダラと妄想をしながら昼寝したり、ネトフリ見ながらネットサーフィン。
自分と同い年ぐらいの成功者を見かけると自分の人生と何が違ったのか考えてしまう。
だけど本当に才能の世界で生きているフリークス達の存在に対しては、なんかもうあきらめが付くんだよな。。
プロ棋士やスポーツ選手みたいな異次元の存在と自分を比べても無意味だ。
乙一のデビュー作が16歳で書かれたなんて聞かされても相手は化け物だからどうでもいいと割り切れる。
一番質が悪いのは、仕事の中でそれなりに成功を収めてる感じの人達だ。
そういう名刺代わりになるような経歴を手に入れた普通の労働者を見かけると自分と比べてしまう。
俺はきっとそういう風にはなれないだろうし、なってしまうとプレッシャーで押しつぶされそうだから避けて生きてきた節さえある。
この世界に生きた証が欲しいとかそういう言葉で表現されるような感覚だ。
俺の場合はこの世界で生きる資格が自分にあると胸を張って生きていける何かが欲しいって感じだけど。
この感覚がそもそも毒されているんだってことは自分で気づいている。
結果を出さなきゃ胸を張って生きられないなら、生まれつき障害がある人や病気でずっと入院してる人はどうなるんだって話だ。
シルバーさんとして労働もしてない年金食いのジジババは社会のお荷物だからトットト死ねなんて言って回る気はないんだ。
そのはずなのに、自分がこの世界で生きるためには何か結果を出す必要があるんだって緊張感にいつも包まれている。
結局、実際に言葉や行動に出してないだけで、心の何処かで生産性の低い人間は社会のためにさっさと死ねと思っているんだろうな。
俺が向き合うべきは結果を出せない自分の人生のほうじゃなくて、結果を出さなければ生きる権利がないっていう基本的人権ガン無視な価値観に毒された自分の世界観なんだと思う。
今の状態で下手に結果を出してしまったら、まだ結果の出てない人達に死ね死ねと唾を吐きかけていく化け物に変わってしまいかねない。
どうしたらいいのかわからないんだ。
ぶっちゃけ、社会がそういった価値観で染まっているから、俺もそれに染まっているだけな気はするんだよな。
少なくともリーマン・ショックの直後の世界では、本当に世界はそんな色で染まっていて、その中で切り捨てを恐れた老人たちが全部の責任を若者に押し付けようと世論誘導したことで毒が濃縮されて凄いことになっていたわけだ。
自分が今やっている仕事が社会に余裕を生み出すために役に立っているという実感が持てれば……いや、その場合は社会に余裕を生み出すのに貢献していない他の人間に死ねと言って回るようになるだけだな……。
たまにそういう戦略とって社会に溶け込もうとする発達がいるが採用段階で全力で弾くべき
なぜなら尖った部分が有能でも所詮ガイジなので、他の部分で迷惑かけまくり人を不愉快にさせまくりなので存在が邪魔
なまじ尖った部分で人にマウント取れるもんだから、その手の発達は思い上がってその他の迷惑なガイジ要素を矯正する事を怠り
全方位無能型発達は特に論じるまでもないが、一部有能型発達様の才能を活かせるように周りが配慮してあげましょうという綺麗事も社会では通用しない
精神科医は発達障害者にも優れた才能があるとかいう詭弁で社会に負担を押し付けるのはやめろよ
発達には、お前はガイジだから人様の迷惑にならないように薬を飲んでリハビリをして、できるだけ迷惑かけないように生きるしかないと教えとけ!
特に中国からの攻撃はひどい。中国は日本に限らず世界中に五毛党を配備している。
ヘヘっ、負けるわけにはいかねえよな?
俺達日本人の「誇り」を見せてやらねえと。
日本人の国を愛する気持ちを育み、情報の偏向を無くし、諸外国の「真実」を教え伝えるボットを。
幼少のうちに矯正されて偏食が直ったのならなにより
それなりにいい天気だから散歩していたら公園に通りかかり、満開の桜を見ていい気分になっていると前方にいた中年男性の連れた犬が花壇の縁に小便し、飼い主がそこに持参したペットボトルの水をバシャバシャとかけて去った。私は犬を飼っていないのでよく知らないが、その水が小便を洗い流すのを意図したものであることはほぼ疑いようがなく、スマホで確かめるとやはりそうだった。しかし、あの程度の水量で小便の影響が消え去るはずもなく、どう考えても形式的なマナーに過ぎない。
人間が花壇の縁に小便することは違法だ。それはきっと公衆の面前で性器を露出することのみが問題ではなく、むしろ不衛生を防ぐことが主旨だろう。不衛生さでいえば犬の小便も違いがないから、これはよくない。とはいえ屋外に犬用の便所はないし、犬が人間の法を守る義理もないのだから非はない。対処すべきは飼い主だ。そして犬が尿意について人間と十分な意思疎通をとることはきっと不可能だから、人は犬が公共の場でいつ排尿してもいいように備える必要がある。つまりオムツをつけろ。
オムツを着けた犬は滑稽に違いないが、犬にそのような羞恥心はないから問題はない。ただ窮屈で不快ではあるだろう。そのような不便を負わせるのに引け目を感じるかもしれないが、この程度のことはこれまで人が犬に行ってきた仕打ち、つまり持って生まれた本性の遺伝子レベルや躾による「矯正」や、現在行っている首輪による束縛、つまらない食事の強制に比べれば些細なことだ。だからオムツをつけろ。そしてその見た目の滑稽さに犬を飼うことの業の深さを知れ。
犬が今お前を離れて生きていけないとしても、それは飼うことの正当化にはならない。お前がそういう状況を作ったからだ。だから真に犬を愛しているならば、犬にとっての地上の楽園を地球のどこかに作れ、もしくはそういう活動を興すか参画しろ。
そりゃ俺だってあんなもん中二のバリエーションの一種じゃね、って何となく感じてはいたよ
まあ30近くになって私アセクシャルかもとか言い出す女もいたりするけどさ
だからあんな変態殴ったら治る、社会主義になったら君のホモも治るみたいに考えてたのが昔のジジババなわけだろ
でもあの手の活動家の皆様とそれに連帯してたリべ様まで「ああいうのは生まれつきで"矯正"しようにも無理なんです!」ってクソ真面目な顔で言うものだからうっかり信じちゃったじゃん
「LGBT当事者の自殺率が高い!」っていうのですら「そもそもメンヘラが自称してるからセーテキシコー以前に生きづらく死にやすいだけでした」って、そういうオチかもしれねえじゃん
なんなんだマジでよ
発達障害者が、自称健常者らに勝手にレッテルを貼られてそれによって「救済」されたことにされたり、その独自に育んできたコミュニケーションを「矯正」されたりしてきたことに対して怒りを感じている。
だが、発達障害者に行われてきたことは、自称健常者・日本国民の下層の人々にも降りかかるだろうということも常々言ってきた。
過去これまでの氷河期叩きもそうだし、子ども部屋おじさんおばさんもそうだし、「ケーキの切れない~」もそうだ。何か曖昧な社会不安が起きるたびに、この社会は生贄を生み出してきた。
間違ってはいけないのは、「明確な原因→解決しよう」ではなく「曖昧な不安→あいつらがキモイ!あいつらが原因」ということだ。
俺は発達障害者やアスペルガーと指さされた人々に対して、「キモくて何が悪い。怒れ」と度々言い続けてきた。
https://anond.hatelabo.jp/20230318052208
「加齢の現実を理解していない」とか「おじさんおばさんは自分の年齢の責任を理解して」とか、そんなことばに従う必要はない。
ネット上では薄っぺらいルッキズムやエイジズムの批判が行われ、そして同じ口でおっさんやおばさんという言葉が悪口として使われる。
俺は堂々とエイジズムを批判する。55歳のおっさんが22歳のように振舞って何が悪いんだ?47歳のおばさんが16歳のように振舞って何が悪いんだ?
だが、それを具体的にどう擁護すればいいだろうか。発達障害者のそれと同様に身近にやっていくしかない。
俺も、飲み会で、まるで大学生みたいにはしゃぐおっさん(物書き)と、それに対する周囲の視線を見た事がある。そして俺はおっさんが孤立しない様に、同様にはしゃいだ。気持ちが良かった。
そもそも「成長」だとか「(曖昧な・出自や年齢にしか紐づけられない)責任」という概念自体を徹底的に疑え。少なくとも障害者の運動はそれをやってきた。
もしかしたら「キモい」おっさん・おばさんと、発達障害者の権利はいつかぶつかるかもしれないが、そんなことは関係ない。それはその時だ。
(黒人奴隷を解放するときに「いつか黒人が白人と衝突するかもしれない」なんて考えるバカは大勢いただろうが、解放は進んだだろ)
キモイキモイと意識し続けて、それで最後に誰が生き残るんだ?キモイキモイと言い続けてきた結果が今の閉塞感だろ?じゃあどうすればいい?
キモくて何が悪い。みんなキモいんだよ。上の記事の繰り返しになるけど、キモくていいんだよ。むしろ、「自分のコミュニケーションや生活はキモくありません」と思い込んでる方がキモいんだって言ったれよ。俺もお前もキモいんだって。
空気読んで人をいじめる本末転倒な社会を構成してる空気読みのお前らも病気だって。
そう言い切って、はじめて、エイジズムやルッキズムはぶち壊せる。
みんなも、「年齢にふさわしくない、キモいおっさん、おばさん」を見た時、自由を感じろ。これでいいんだって。それが過去と将来のお前を救う。それを広げていく。頑張ろうぜ。
それお前のストレス耐性が低いのと
お前のモノの考え方・捉え方が幼いゆえに他者から受けるストレスを増幅してしまうがゆえに
「お前、中学受験するらしいけど、中学受験するのはこんな汚い字を書くような子供じゃないよ」って。
中学受験する程度には発達が進んでいた子供なので、言いたいこと自体はなんとなく分かっていた。
「お前の字マジで汚くて読みづらいからいつも迷惑してる。とりあえず一言文句言いたいから、お前が傷つきそうな言葉を必死に選んでとりあえずぶっ放すわ。40人のテスト答案を見るこっちの身にもなれよ。頭クソワリーガイジはまだ諦められるけど、お前みたいに考える頭持ってるやつにまでこんな他人を舐め腐ったようなことされるとこっちはマジで苛つくんだよ」ってことだろ?
分かるよ。
大変だよな。
でもこっちだってどうしたら字が綺麗に書けるのかよく分かんなかったんだ。
小学1~3年生ぐらいの期間、後に中学受験をさせるような教育熱心な両親の元で色んな方法で字を綺麗に書く練習をさせられた。
半透明の矯正器具を鉛筆の先につけ、指の握り方を何度も指導されたよ。
なんとなく形はあってるんだけど、力の入れ方がなにか違うらしい。
それを伝わるように表現してくれた教本に出会うことが出来ず、ただただ変な握りのままひたすら文字を書き写していた。
上手くなることはないと親はいつしか諦めたし、俺も「どうせ20年後にはみんなキーボードで字を打つから手書きなんて完全に消滅してるだろ?」と未来の技術発展に希望を託して全てを終わらせた。
今はもうそこそこまともな字が書けるようになっている。
ある日図書館で出会った小学生向けの教本がドンピシャにハマった。
そこに書かれていたのは習字における技術を徹底的に分解して、一つ一つの要素についてのコツだったよ。
小学1年生の頃に与えられた教科書にも同じことは書いてあったのかもね。
でも教師は「とにかくひたすら書き写しましょう」と言ってた気がする。
俺に必要なのは丁寧に一つずつの技術に向き合ってひたすら脳を経由して身につけることだったんだよ。
生まれつき運動神経が悪くてさ、身体的感覚で覚えろって言われても上手くいかないんだ。
逆上がりは卒論が上手くいかなすぎて夜道を散歩してたとき、公園で自棄糞気味にやった出来るようになったが、スキップは未だにやり方がよく分かってなくて5年に1度ぐらい人に笑われている。
最初に技術を丁寧におしえてくれる人にあっていたら俺は最初から字が綺麗にかけてたのかもなあ。
教本との相性もあるけど、『とめはねっ! 鈴里高校書道部』や『ばらかもん』で習字に対しての苦手イメージが薄れていたのも効果があったように思う。
俺にとって習字の授業は、「なんでこんなことも出来ないの!増田くん!いい加減にして!」と怒られる時間だったから。
なまじっか他の勉強はスイスイ出来るせいで、習字が出来ない理由を「やる気がない。舐めてる」で片付けられがちだったんだよな。
結局さ、字を綺麗に書くために必要なのは「どうやったらキレイに書けるか」を知ることだと思うんだよ。
体で覚えるのが得意な人は体で覚えればいいけど、頭で覚えることしか出来ないようなら頭の中にコツを入れてもらわないと始まらないんだ。
字の良し悪しなんてコツを理解しているかと、正しいイメージで練習をどれぐらいしたかだ。
間違ったフォームで素振りを繰り返したって、ボールに上手に当てることなんて出来ないよ。
感覚的にしろ理論的にしろ、正しいやり方ってのを知る機会に出会う必要がある。
それは運で決まる。
教師との相性、教本との相性、たまたま見かけた動画や本、そういった所での出会いの中で自分の持って生まれた器に会うやり方が身につけられるかだ。
字が汚い人は、「字を綺麗に書くために必要な運に恵まれなかった人」だと俺は思う。
字の上手い下手ってよりはあらゆる分野に言えるんだろうね。
コミュニケーションが下手な人も、その人にあったコミュニケーションの技術を身につける機会に恵まれなかっただけなんだろう。
わざわざ罵倒されるような程のことなのかなあ……「お前の運が悪いせいで俺たちは大迷惑だ」なんてさ。
世の中は相も変わらず狭量が過ぎるように思うねえ。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。