はてなキーワード: 真逆とは
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
朝日新聞も間違った記事書いてデマ拡散した後に、リプ欄で間違ってましたと訂正していたよ。
仮にも新聞が元のツイートチェック程度の簡単なファクトチェックもやらずに真逆の発言をしたと間違った拡散をしたのは酷すぎる。
https://twitter.com/asahi/status/1469684755239440389?t=GzwRmLnvpK4Q-K9JB_xMBA&s=19
こちらの記事で「J・K・ローリングが数年前、『女性』のことをあえて『生理がある人』とツイートし、炎上したこともある」としていましたが、「『生理がある人』を『女性』と明言しなかった記事を揶揄するツイートで炎上したこともある」の誤りでした。お詫びして訂正します。
言葉は違うけど考えてることと一致してそうな気がする。
いつものコミュニティ内の会話ってお互いの考え方が似てるし理解もあるから
ある程度、想定内の会話ができていて自分も受け入れられてるし受け入れられるんだけど
初対面の人だったり別のコミュニティの人と話すと真逆の意見だったりして
コミュニケーション自体が面倒になってしまうことがよくあるんだよね。
その考え方の「違い」みたいなところを「不確実性」と表現したんだけど
互いの意見が一致しない可能性があるという「不確実性」を好きになれば他者とのコミュニケーションもうまくなるのかなと考えてた。
ここにぶら下げようかな。
なので、それを都合良く利用してきた部分はあるけれど、聖職者は特別なのでそれなりの厳しさも求められる。
他方、一般信徒からすると「坊さんから文句を言われなけりゃ、まあええやろ」の精神にもなる。
プロテスタントはそうした聖職者の特別性を批判してきた流れから、一般信者にも自覚的な行動を求める。
時系列めちゃくちゃじゃねーか
イスラム教の成立は7世紀。だから中世に十字軍をやってたんだよ。そしてイスラムの成立・発展の理由はキリスト教の腐敗ではない。その時期はキリスト教がそれまでの国教化と勢力拡大に伴う解釈の分岐を統合する教義論争が盛んで、三位一体説などの複雑怪奇な教義が正統として定められていった。異端審問・魔女狩りの時期はもう少し先だが、それに向かっていく厳格化の時期だ。だからこそ、教義が単純明快なイスラムが広まったんだよ。
プロテスタントは16世紀だ。そしてプロテスタントが自由だ退廃的だなんてのは真逆で、プロテスタントの方が戒律に厳しく、腐敗していたのがカトリックだ。だいたい免罪符を引っ張ってくるならそれを批判するプロテスタントが自由で気楽で退廃的なわけがないと分かるだろう。単純な知識だけでなく論理的な思考すら欠けてるぞ。
というわけで雲一つない空に誘われて20km離れた父方の実家ちなド田舎に自転車で行って
実家の近くのスーパーで後輪がパンクして20km自転車押して帰ってきたぜ
実家の近辺はスーパーや服屋やホームセンターが集合したショッピング地帯が一つある以外は畑ばかりという田舎で、実家に行くまでに峠を越えなければならない
その道中の風景が実に素敵だ
風に靡き黄緑と濃緑の縞模様を作る休耕地、ブロッコリーが並んだような新緑たち
道中にある家屋も瓦屋根の純日本風の屋敷に茅葺き屋根風のもの、時に取り残されたローコストの真逆を行く家屋の数々
見ていて実に愉快である
いいなァ田舎は…こっちに住みてえなァ…でも車必須だしそんな金ねえや…
と思いながら実家近くのスーパー前で後輪が周期的にぐよんぐよんと不可思議な反応をしていることに気づく
自転車ピクニックには双璧を為す忌まわしき最悪のトラブルが2つある
1つはパンク、タイヤの空気が抜けるアレ、気づくとテンションが爆下がりするアレである
マジかよ、と思いながら後輪を指で挟み押すと、出る前に空気を十分に入れたはずのタイヤが柔らかくなっていて思わず半笑いになる
俺はこの田舎に自転車および徒歩で一度ずつは帰ってみようと思っていた
そう言うことですか神様、粋な計らいですねェ!
ちなみに実家は海の近くにあるんだが、寄せては返す波に水面に反射する陽のきらめき、これも実に美しい
全てにおいて心が洗われる
海を横目に見ながら実家まで自転車を押し、叔母が守っている実家に辿り着くが事前に確認していたように留守だった、想定内ということで8年ぶり?の墓参りを速攻で済ませる
墓に手を合わせ「すまんな爺さん、これから20km歩かなきゃいけねンだわ」と詫びる
割とすいすい歩け、自転車押しながらでも割と余裕でイケるやん!と思う
道中にある、開店10分で客で埋まるようなラーメン+定食屋で10年ぶりに外食
醤油ラーメンおにぎりセット、醤油ラーメン自体は塩っぽく麺はボソボソしてて微妙だが、おにぎりとスープを合わせると絶品で、おにぎりについてくる漬物もこれまた美味い!
でもラーメンを標榜してるのにラーメンが微妙ってどういうことやねんと思いつつ店を後にする、また定食を食いに来よう
そして忌まわしき最悪のトラブル2つ目に襲われる
新たなカロリー源に腸も元気に糞を押す
田舎の道中には何もなく、郵便局も学校も閉まっていて何もない、あるのは山と畑だけ
というわけで躊躇なく野糞を決断、手ごろな雑木林を見つけ突入する
プリッとひり出し榊を入れていた新聞で尻を拭くとちょっと手に付いてしまい思わずshitと口走る
糞をひり出した後に見た緑の数々は生まれ変わった私を祝福してくれているようだった
その後は特に何も起こらず、パンクした自転車を地元のホームセンターに預け帰宅し現在に至る
往復40kmを20㎞を自転車、20㎞を徒歩で6時間ぐらい、割とあっという間だったな
けっこう体力付いたなって思った
バカを一人雇ってしまっただけで、一生負債がつきまとうなんて。
就活シーズンのたびにトンボ鉛筆の話が再燃するのとか見ててもふと思ってしまう。
たった一人のバカを面接で弾けなかっただけのことなのに、どうして看板に一生取れないクソが塗りたくられてしまうんだろう。
社内教育でなんとかすればいい?
そんなの妄想だよ。
バカにつける薬はない。
バカの何が凄いって何をするのか誰にも見当がつかないことだ。
SNSでバズりたいからコンビニの冷凍ボックスに入り、寿司屋で醤油をペロペロする。
なんでもやりかねないバカに対して教育をしようとしても解決方法なんてない。
「お前はバカだからSNSをやるな。せめて本名を隠せ」ぐらいはアリかも知れない。
なぜならバカにはバカだって自覚がないから「アレはバカ向けの話だろ?賢い俺は大丈夫。むしろ一部のバカが下げたイメージを俺が回復させてやるから感謝しなよ」とSNSでバカ発言を繰り返すことだろう。
会社も学校も根本的に何も変わらず、バカがそこの看板に関わってしまった時点でもう取り返しのつかないことが起きるリスクがいつだってある。
偏差値が高いだけのバカがノリと勢いでレイプやドラッグ売買に手を出したせいでイメージがゴミになった学校がどれほどあるか。
でも学校の場合はある程度は周りも理解してくれるだろう、なぜならペーパーテストしかしてないから。
面接で相手のバカの頭のおかしさを見抜けなかったというミスだなんて世間は思わない。
真逆で「面接で相手したバカの頭のイカレ具合を、会社が求める人物像にピッタリだと思って採用したんだろう」と決めつけてくる。
差別的な人間を採用したら「会社の中に差別的な価値観があったから、差別的であることを評価したんだ」と世間は決めつけるんだ。
ありとあらゆるリスクを想定して、少しでもバカじゃなさそうな奴を選ぶしかない地獄のジジ抜きゲームなんだよ現代における採用活動は。
そして、そこにちょっと失敗しただけなのに、何故か「トンボ鉛筆という会社は驕り高ぶっている」とか「JAXAという組織はNASAと比べると精神年齢が大幅に低い」とか言われてしまう。
可哀想だよ。
本当に可愛そうだ。
悪いのはたった一人や二人のバカだけなのに。
まあ、自衛隊みたいに組織全体が本当にバカの集まりで、百人や千人では効かず上から下まで数十万単位で脳みそヤンキー高校じみたクソバカの群れになっている組織もあるが、あそこはもう本当に「そういう人達を集めたい」って組織なのでさもありなんだ。
戦場で他人のどたまをぶち抜いたり、民間人の中に紛れたスパイを見つけるために一人ずつ壁に手をつかせて銃口ちらつかせながら尋問できるような人間に、人権意識なんてあったらすぐ壊れちゃうもんな。
世の中にはそういう組織があるんだから、安心して面接ではバカを落として、最終的にそういう組織に流れてもらうのが適材適所なわけだよ。
「貫く姿勢がかっこいい」とトップブコメにありますが、まさにそこなんです。
つまりあなたは精神的に重いものを担いでいる人、「担ぐ者」って事なんですよ。
ジムで筋トレしてる人なら分かりますが、重量担いでる時に話しかけられると心底迷惑ですよね。
「全然声かけてくれてオッケーですよ」と200kgでバーベルスクワットしてる最中の人に言われてもまず声をかけないですよね。
あなたは自分を担ぐ者だと思ってないかも知れませんが、ブコメやトラバは全員あなたを担ぐ者だと思っていますし、だからこそ「貫く姿勢」「かっこいい」「甲冑」「強い意志」なんていう、ロリータが持つお人形さんやお姫様といったイメージとは真逆の言葉が出てくるのです。
でもそれは嫌味ではないですし、話しかけない男たちもあなたの事を遠巻きに「エグい!」とか「キレてる!」とか思ってますよ。
「異性から避けられている=異性が嫌うファッション」ではないのです。
あなたがよく女性に話しかけられるのは、実は彼女たちも担ぐ者だからです。
250kgでセット組んでるアニキにはアニキワナビーの男たちが群がります。それと同じです。
ノータッチが基本とは言え、それを超越した重量を担ぐ者にはどうしても声をかけてしまうのが、同じ担ぐ者の抗えぬ本能なんですね。
なんとなくイメージ的にはロリータとかぶりっ子とか、女ウケ最悪で男ウケは悪ないってイメージだったけど、着てみると笑えるくらい真逆。
キラキラ今時女ファッションの時はもちろん、お疲れダル着社畜女(退勤時のすがた)でさえもの好きな男は寄ってくるが、かわいくロリータ着ている日だけはまったくキショいのが湧かない。女性ウケは女児からおばあちゃままでとても良いのだが。
社会人なので平日はさすがにロリータは着ていないが、それでもシークレットハニーや今は無きミルフィーユクローゼットを着て、毎日ツインテールで出勤してる。今の所いわゆる要注意お局さん系マダム全員に好かれている。ほかの女の人からもわりと好かれてる感じはする。男性陣からはそれとなく避けられている。
同じ人間のダル着すっぴん死んだ目よりもかわいいロリータ避けてくるのあまりにも意味がわからんくて男おもろい。別に寄ってきてほしくはないのだが、さすがに美的センスが理解できなさすぎるので男側の意見が聞きたい。
【追記】
とりあえず「男ウケが悪いというよりナンパ男ウケが悪いというほうが正確」「いろんな意味でめんどくさそう」あたりが理由なのかな。
街中で話しかけてくる同年代の男性≒ナンパ、まともな同世代男性は(良し悪しをどう考えているかはさておき)街中で知らない女の人に声をかけることはない、という認識が抜け落ちていた。確かに、全然性的に絡んでくるわけではないおじいちゃんとかは通りすがりに「お人形さんみたいだね!」「イケてるね!」と言って通り過ぎていくことがある。そう思うと大好きな格好をしながらナンパ男から身を守れるロリータありがたい。
めんどくさいに関しては「物理的にめんどくさい(脱がせづらい、服を汚してはいけないと気をつかう」、「精神的にめんどくさい(気が強そう、病んでいそう)」の複合めんどくさいといったところだろうか。
ついでに異質さが怖いと感じることもある。女性であれば程度の差はあれ着飾ることが好きな人は多いので、自分が着るかはさておきロリータがファッションと認識しがちだが、男性から見るとコスプレ等に見えがちで、街中でコスプレしている怖さを感じやすいとかだろうか。
服装は、出勤時は上記の通り。休みの日はアンジェリックプリティとかロイヤルプリンセスアリスとか検索すると出てくる感じの服。
それにしても、本文ではただ「なぜ同じ女が死んだようなボロボロの姿の時のほうがかわいい服に身を包んでメイクも髪型もばっちりキメてる時よりまだ声をかけてくる男が発生するのか」という謎を呟いているだけで、特に他意はないのだが、これだけ本文にはないようなことを勝手に読み取って賛否が出てくるロリータという服は、いかに良くも悪くも偏見というか固定観念をもたれているのかというのを改めて感じて面白い。
ただ、なにはともあれ、世の中には服を「浮いているか否か」という視点でしかとらえていない人がいるというのは、お洋服大好きな自分からすると未知の世界で、そういう考え方を知ることができただけでも、書いて良かったなと思う。
AIを使いこなすのに技術が必要なのはせいぜい数年、もって10年。
権利的に完全にクリーンなAIってのはそう遠くないうちに出ると思ってる。
内部にもモデルにも版権キャラや絵柄の情報を全く持っていないけど、
参考として2~3枚の画像を添付するだけで、
キャラの特徴や絵柄を完全に汲み取って再現できるようになるのも、
そんなに遠くない気はするんだよな…。
変な臭いがしないとか、下心マシマシで誘ってこないとか、そういう「無害」な人ってことだよ。
そしてワンチャン「優しかったり頼りになりそう」って人のことだよ。
だから服を洗濯して新しくしてもさ、ダサかったらアウトなんよ。
だって「世の中の空気を読めない変な人」「害を与えそうな人」にカテゴライズれちゃうからさ。
もちろん話していくうちに「この人は大丈夫だ」となる時もあるよ
「ダサい=空気を読めない=変なことしそう」という暗黙の数式があるから、そこは注意しないとね
髪型も、もちろんボサボサは論外だけどさ
20年前から変わってない流行遅れの髪型だと、害があるかも?と疑われるよね
そういう人はたとえ清潔でも清潔「感」はないよ
残念だけどね
「害がなさそう」を目指さなきゃね
顔の表情もそうだよ
むっつり無言で黙ってる人は「害があるかも?」ってなる
そういう人は清潔感があるようには見えなくなるよ
こう考えると、清潔感って難しいよね
僕らはどうやっても害のある見た目から逃れられないもんね…
だから、諦めよう
僕と一緒に!
バンダナ巻いて、ネルシャツ着て、ジーパン履いて、リュックを背負う!
真逆を行けば、逆に愛されるかも!
もう、開き直ろうよ!
好きな服着ようよ!
嫌われるなら上等!
こっちから願い下げ!!
そうだよね?
そうだと言ってよ
自分よりできる人に対しての2つの感情って、真逆の結果をもたらすよな
不出来な人、周りにすごい人がたくさんいる状況って
人によっては尊敬できる人がたくさんいるキラキラした環境なんだよね
そう考えると面白くない?
結局内側が重要なんだと
___
尊敬も2種類あって
そもそもソコを目指していないパターン、「俺にはとてもできない」ってやつ、これは良いよね、これに該当する嫉妬ってあんまないと思う
もう一つはソコを目指してるパターンで、「俺もああなりたい」ってやつ、これは嫉妬と表裏一体、大抵は嫉妬と尊敬が混在する
精神衛生上いいのは、やっぱ前者だと思う
って考えると、自分の目指すルートというのをまず絞ったほうが良いのかもな
より狭いほど良い、何も目指さないというわけではなく、要所要所で振り返ってpivotはするんだけど
最初から「金!・モテ!・権力!」って全部目指すと、あるのは嫉妬だらけだ