はてなキーワード: 白川静とは
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20100619/1277013348
読み終わって、日本ではどうなんだろうと思う人もいると思ったので、ちょっと書いておく。
自分自身も、子どもがこういう問題を抱えているとわかるまでは、なんにも知らなかったので、理解の一助となれば。
うちの子は、小学校の高学年。診断としては、高機能自閉症。知能に問題はないが、学習障害と、他人の気持ちがよくわからないし、空気が読めない。
今、住んでいる地域は、割と恵まれている方だ。個別対応もしてくれるし、デイサービスやグループワークなど、発達障害についてのサービスは整っている。それでも、診断が下る前までに、いろいろ面倒な経緯があった。
今思えば、小さいころから、とにかく友だちができなかった。活発で、積極的なのに、長く付き合う友だちができない。
おかしいなと思っていたんだが、本人は気にしていないし、楽しそうに過ごしているので、特別に問題視はしなかった。
学校の先生とも相談したのが、他にも気になる点があったので、自治体が行っている教育相談に相談した。
なぜなら、いじめの件に加えて、漢字が全然覚えられないからだった。
「他の子になじめない。きつい言葉を投げかけてしまうようだ。いじめると同時にいじめられていると先生は見ている。
加えて、漢字が書けないし、覚えられない。指を使っていつまでも計算している。発達障害があるのではないか?」
というような感じで相談をしたら、
「お母さんとの関係の問題ですね」とされてしまって……私が半年ぐらいカウンセリングに通うことになっただが。
その時受けたアドバイスが、「怒り過ぎるな、もっと愛情をかけろ、犬を飼え」
……犬ですか。
犬では解決しないだろうと思って、釈然としないまま、見守っていた。
「ひとりだけ、指示とまったく違う行動をとるのだが、耳が悪いのではないか」
集団行動が苦手で、大勢の中にいるとひとりだけ逆方向に向いていたり、よくしていたので、そうかもと。
それで、検査をしたら、聴覚の問題で、それだけで指示が聞こえないということはない。
そのころ、ちょうど個人面談があり、先生から、問題がいろいろ起きていることを聞いた。
突然、教室を飛び出してどこかへ行ったり、突然、怒りだしてクラス全体が凍りついたり。
「原因がわからないのですが、おうちでなにかありましたか」
と言われて、今度は考えて、自治体が行っている障害相談のサービスに「発達障害の可能性」と予約を入れて、待つこと1カ月。
専門的な検査をしたら、診断は下せないが、どうやら疑いがある。
学校で起きた事件や、いじめ、それ以前の友だちができない状態も、恐らくは発達障害に由縁するのでは。
そこから、「サービスを受けるには医師の診断が必要」と言われて、医師に診てもらうまでに、1カ月半以上。
10件ぐらいかけて、やっと予約がとれた。ほとんどが予約でいっぱいで来年にならないと無理や、既存の患者で手いっぱい。
しかも、「初見では診察したくない」とそれ以前に受けた検査や資料を準備しなければならなかった。
それで、やっと診断が出た。おかしいなと思ってから、3年以上。
他の地域でも似たような状況だと思うが、親がここまで動かないと、診断は出ない状況だ。加えて、程度の軽い子については、受け皿がない。
発達障害は、千差万別で、うちの子のような、空気が読めない分、限りなくポジティブで、自分自身が問題を感じないタイプは、誤解されやすい。
勉強ができないわけではない。漢字はダメでも、授業中の発言は活発で、国語以外の教科の成績は悪くない。
クラス全体と薄く付き合っているから、表面上は友だちが多いように見える。
だから、できないことが、理解されない。空気読めないとは、思われない。
「なまけもの」「大人を見下している」「反抗的」「手におえない」と先生から言われて、確かに、言動を見れば、そう捉えられてもしょうがないと思う。
大人がいちばん嫌がるようなことに気づいて、遠慮なく指摘するし、興味を感じる点については、延々と議論を吹っ掛けてくる。
逆に、うまく関係が築けているときは、「発想がクリエイティブ」や「おもしろい」、「楽しい」という評価を受ける。
学校では、先生によって、受けた印象が違うので、先生同士も混乱をするだろうなと思う。
この手の子は、10分ぐらい話しただけではボロは出ないが、1時間話しているとイライラしてくる。それが性格なんだと割り切るぐらいの気持ちがないとやっていられないが。初対面の大人は、不思議な苛立ちを感じると思う。話の展開が、常識とズレているので、まじめに聞いていると、船酔いするような感じ。
今担当してくれている医師が、小児精神科医で、しかも、発達障害が専門だったので、理解してもらえて助かったが。
彼の説明がおもしろかった。
コンピューターに例えると、CPUの処理速度は猛烈に速いが、バッファがほとんどないタイプ。
以前の経験をフィードバックして、答えることが苦手なので、とにかく、何回も試行を繰り返して、解にたどり着いているんじゃないか。
一見頭の回転は速いが、いずれ、経験値を積むことがうまい子たちに抜かされて行くだろう。
見た目、バカじゃないから、バカなことをすれば、目立つ。それを指摘されても、本人は正すことが非常に難しいんじゃないか。
「これから、さらに誤解されるし、本人も傷つくことが増えると思います」
と言われて、親ができることは、なんだろうと。現状、模索している最中だ。
つらいだろうなぁ。誰でもできるようなことができないんだ。あるところだけ。
前置きが長くなったが、学習障害のこと。
うちの子は、とにかく漢字を覚えるのが苦手だ。あと、読むのが遅いし、行をよく飛ばす。
しかも、わかる漢字と、わからない漢字がまだらにある上に、読書はそれなりにしている。
ホントに識字障害なのかなぁと。疑われても仕方ない。
で、先生からも「まじめに練習をしろ」と言われて、ノート1冊分、泣きながら、漢字を書いていた。
それでも、忘れてしまうわけで。
それが、とにかく、いろいろな方法を試している中で、ある日、白川静の漢字なりたちの本を読んで、ワークをはじめた辺りから、突然、書けるようになって驚いた。
漢字の成り立ちを絵で見て、漢字の法則がインストールされたようだ。
まるで、プログラムが更新されたみたいに、それ以降は、覚えは悪いが、書けるようにはなってきた。
ポッカリ、穴が開いたようにできないことがある。
ってのは、困ると同時に、うまくはまるメソッドが与えられると、ぐんと伸びる可能性があるんだが。
そこまで細かく指導してもらうことは望めないので、親次第になってしまう。
また、白川静の本も、うちの子には合ったが、他の漢字が苦手な学習障害の子に合うかはわからない。
だから、安易にはすすめられないんだが。
突然、ぐんと階段を一段上がったような進歩を見せるときがあるので、もう仕方ないと放置しておくのもかわいそうだし。
丁寧な対応をしてもらう以前の問題とか、サービスはいろいろ整いつつあるが、あんまり簡単には解決しない状況だと言うことを書いてみた。
同じような状況にある子と周囲の参考になれば。