はてなキーワード: 田嶋陽子とは
「トリチウム以外も公表の必要…」社民・大椿裕子議員の投稿はミスリード。処理水めぐる発信で
https://www.huffingtonpost.jp/entry/fukushima-fc4_jp_650d6724e4b04db03fdc0db3
田嶋陽子氏「(処理水の)安全基準満たされてない」→誤り。テレビ番組で、魚の形態変わるんじゃないかとコメントも
https://www.huffingtonpost.jp/entry/fukushimafc5_jp_651101e7e4b0e83cc0daf3c9
自分はフェミニストがリアルで喋る場面をそこまで言って委員会の田嶋陽子以外知らなかったし、彼女もがっつりフェミニズムのみを喋るわけでもなかった。
それが今回、フェミニスト達がフェミニストだけで延々と喋る場面に出くわしたのだ。
BGM代わりにつけていたのでしっかり視聴していたわけではないが、それでもん?と引っかかる言葉がたびたび飛び出していた。
しかし個々の話はまともに聞いていないのでここではオスの増田の印象だけを記録しておく。
ネット上の文章というのは非同期だ。ブログはもとよりツイッターですら「その場」になりきれない。
言葉は言いっぱなしで始まり誰かとのリレーも間隔があきがちで雰囲気の醸成は難しい。第三者たちのはてぶ含め賛否様々な意見が入り混じることも拍車をかけると思う。
だからネット上で見るフェミニズム(を使い活動する人たち)は今はまだいろいろな面で論争が起きがちで、過渡期で、多様な意見が散見されるある意味観測気球のような存在だった。
それがTVではどうだろうか。フェミニストがフェミニズム視点の考えを吐き出し周りのフェミニストは同意する。
そこにカウンターとしての論客も、無知な状態から視点の解説を受けて噛み砕くタレントも居ない。
フェミニストの発がフェミニストに了されるだけの空間。自論の強化にしかならない空虚な時間。
オスを配した空間でオスの制度を敵視した話をするメスたちのなんと恐ろしいことか…。
そうそう、フェミニストが出る番組とだけ書いていたが、出演者のフェミニストは全員女性だった。これはちゃんと書いておかなければわからない情報だ。だよね?言われなくても女性だと思ってた?悲しいかなフェミニストの現状だよね…。
まあね、家父長制がなんだ女性の生殖の圧がなんだって話自体はネットにいれば今更なんで目新しさはないんですよ。増田も真剣に聞いていたわけじゃないしね。
ただただあの空気感がすごかったというね。フェミニスト教の教義の復唱と確認。みたいな排他的空気感。
あの雰囲気でさ、既存の女性軽視が潜む価値観で育ったオスがフェミニズムに感化されるシーンがどうにも思いつけなかったのさ。
あの場はフェミニズムの啓蒙ではなく男尊女卑の弾劾の場だった。それはネット上でも普通のムーブだけど、ネット上はそこがスタートラインで話が広がるのに対して、クローズドな対面の対話空間ではそこがゴールになってしまう。
ひたすら女性への圧力、男性が築いた支配構造を聞かされるのは良くてセラピー、言っちゃえば被害者の会でしかなかった。
歴史を紐解き、社会構造が、制度が、価値観が、規範が、オスが女性を支配し資源として見て抑圧してきたかを解説される。
増田は女卑は確かにあった(ある)と思うものの、それは一部分であり主目的ではないと思っている。
だけどフェミニストから見たらあれもこれも女性の支配"のため"にオスが拵えたものである。そんな風に聞こえるような言い回しをしてくる。
これがひとつふたつならまだしもあれもこれもがこのトーンで言われると引っかかりが強くなってしまう。
陰謀論者や集団ストーカーとかを主張する精神疾患者がたまに言う「その膨大な権力と労力ですることがそれかよ」的なこと。
フェミニストの話を聞いているとオスがめちゃくちゃ苦心して執拗に女性支配を頑張っているイメージが"ものすごく"してしまう。
でも、長い歴史で生きるには、制度を作るには、社会を作る・守るには、男女含め統率・支配するには、そんな女性の"ことばっかり"考えるわけにはいかんと思うのです。たぶん最優先事項ではないでしょう。
ところがフェミニストの話だけを聞いているとオスとはなんと恐ろしい生き物か、となってくる。
これがフェミニストが考えるオス(あるいはフェミニストが啓蒙する真実のオス)の姿だとすれば、フェミニストがこんなにも攻撃的であるということも納得がいく。だって打倒するべきオスはこんなにも強大で意図的で進行形で支配者なのだから。
今までこれらの背景を元に出力されるフェミニストの個々の話だけを聞いていてはこの理解が得られなかった。個々の物事をどれもこんなにも強くフェミニズム的に紐付けているとは思いもしなかったのだ。フェミニストを無礼てた。ヤバい。彼らが見ている男と、男が鏡や周囲を見て知れる男とは雲泥の差があるのだ。
なんでもかんでも虐げられた女性観の補強につなげるこのロジック、彼女らの論を正と見ればこの世は、オスはひどい存在で女性は本当に可哀想な存在だと思う。一方、彼女らの論を引いて傍聴している増田からすれば、彼女らが持つ「オス像」に ほかに することはないのですか。と問いかけたくなる。頭の中女一色なのか。
男性の悪事圧制の総和を背負った男という虚像。それにペタペタとフェミニズム的解釈をつけて補強していく。そんな作業工程を目の当たりにしているような濃度。
そうやって作られたあれもこれもを持ち合わせた虚像をベースに語られると、フェミニストの語る言葉に対する白けぐあいにも得心する。それ俺じゃねーもん。
ややアンチフェミっぽい増田から言えば、フェミニストがフェミニズムを(もし)一般男性にもリーチさせたかったら、もっと冷静になるべきだと思った。言い換えると、もっと今の男性を直視したほうがいいんじゃね?と。
フェミニストは闘い方を間違った。
上野千鶴子や田嶋陽子や初期のKutooが評価されるのは、社会的にまだ問題視されていなかったことに注目させたからだ。
問題視されていないことに注目させるには雑に大暴れするのが正解だ。
これはフェミニズムに限らず、安倍元首相暗殺によって統一教会に注目させたのも同じ理屈だ。
だが、ひとたび注目を集めたなら、そこから先は戦略を大きく変えて丁寧で緻密な議論が必要なんだ。
長時間拘束される職場での水着カレンダーが環境型ハラスメントと騒いだのは正しい。
でもそこで他者を正義でブン殴る快感を覚えて、自由に通り過ぎることのできる屋外での萌え絵まで延焼させるのはやりすぎだ。
その間のどこかに丁寧に線を引けるはずだった。引くべきだった。
しかし正義感に酔いしれたケンカ屋ばっかり集まってしまって崩壊した。