はてなキーワード: 生きるとは
魅力的な異性を好きになると言うことは「本能」以外の何だと言うんだろうか。
好きだとか嫌いだとかそういった判断は、突き詰めていくと理屈もへったくれもない「感情」に帰結するわけだし。
「生理的に受け付けない」とかもそうだろ。よくわかんないけど気持ち悪いからダメ、みたいな。
野生動物の場合、力のあるオスがメスを独占したり、
複数のオスが少ないメスに必死にアピールして、選ばれたオスだけが交尾できたりするわけだけど
これってヒトの場合でもあまり大差ないよね?
生きるために食べること、寝ること。交尾をして子孫を残すこと。これらは生き物として最低限の活動であって
その「最低限の活動」を全うできない個体が「劣っている」と評価されるのは至極当然のことだと思う。
それでも彼女がいるとか、結婚するとかがいいと思える人なら作ればいいと思う。
俺の今までの経験則から彼女作った場合と作らない場合の増田の未来を想像してやろう
・彼女がいることにより2人でいることの楽しさを覚える
・コードを書く分量は減る
それこそ、今まで楽しくはなかったけどしていたこと(食事とかね)すらも楽しくなる
・ちょっと他人に優しくなる
・書くコードも割と丸くなる(非エンジニア向けなアプリやウェブサービスとか作るんじゃないだろうか)
・技術力もあるけど、周りに人が常にいる人になっていく。
・時間もあるので、最新技術からOSやコンパイラ、ハードウェアなどの方まで、何でも時間が許す限り学習可能
・プログラミング以外の時間が邪魔。もしくは生きる為に最低限することにしかならない。
・時々寂しい時があるかも知れない。でも一人
・時々街を歩くカップルを見て微妙な気分になるかもしれない。でも一人。
・その一人の状態ゆえに「自分はここにいるんだ」的なメッセージをプログラミングに託すようになる。
・その様な自らの全てを託したプログラムは本当に世界を変えると思う(あなたの発想力が常人を超えていれば。ただ、一人の時間は沢山あるので、そこで一人ならではの独創的な発想が生まれる可能性あり)。マッドサイエンティスト的エンジニアになるでしょう
・ウェブで情報は手に入れるし、自分からコードを世界に向けて発信するけど、非コミュみたいな人になるかも
・孤高のスーパープログラマとなり、知る人ぞ知る存在に(技術力で他を圧倒)
・本とか講演会とかやっても、あなたが凄すぎで付いていけない人が殆どなので盛り上がりません。
・あなたはその才能ゆえ、大金を手に入れます。そうすると金目当ての女が沢山寄ってきます
お好きなルートをどうぞ
ってフワフワした感じなら前者
プログラムに全身全霊をかける。Microsoft,Googleなんぞ超えてやるぜ
って感じなら後者じゃないかね?
ただ、当然といえば当然だが後者は上手くいかなかった時に辛いんじゃないかな
無意味に規制されてしまう可能性がある時期にだから性質が悪い・・・
ありきたりだろうけど考えを整理するためにもつらつらと書いてみる。
なぜこういうときにゲームが問題にされるかというと
「事件の発想の元になったから」と
「欲望を刺激したから」の二つが思いつくわけだけど、
殺傷の場面はいくらでもあるわけだから、
ただ単に選んだ発想が多くの人を傷つけるものであっただけで
その発想自体に非を問うことはできない、というのが順当な考えに思える。
例えば性表現でも「寝た子を起こさない」という言葉が用いられることがあるが
発想を規制することは大人に対しては想像など内面の自由の侵害でしかなくなる。
仮に発想そのものを人類から規制し消滅させるSF的な仕組みがあったとしたら
次に「欲望を刺激したから」について考えると
人は誰しも程度に違いがあれ欲望を抱くもので
重要なのはそれを実行に移すかどうかということになる。
コストもリスクもほぼ無いといってよく社会的にもポジティブな要求と評価される。
行動はそれらリスクの認識よりも欲望が強くなったときに行われるわけだが、
ゲーム単体にそこまでの欲望の強化作用があるとは考えにくい。
むしろそれができるならゲームにまた違った可能性が開けるといってもよさそうだ。
(シリアスゲームで米兵の初陣で戦える率が向上したという話はあるが
それは慣れであり、欲望の強化ではない )
つまり、この事件で本来一番最初に考えるべきは
自暴自棄になることで欲望より認知したリスクが低い状態になっていたことと思える。
希望がない、死んでもよいという状態であれば
あらゆるリスクが0に近くなりゲームの模倣に限らず犯罪を起こしうる可能性は飛躍的にあがる。
ゲームを規制するよりもそういう状況にある人を減らすほうがよほど効果は大きいはずだ。
それを踏まえずにスケープゴートとしてゲームやゲームを遊ぶ人を叩くのは
同じような状況にある人をさらに追い詰め、逆効果であるとすら考えられる。
事件の背景として日本がいまだ年3万人の自殺大国であることも忘れるべきではない。
規制はそもそも下策であり、初めに考えられるべき上策は
上記の自棄になってる人に生きる希望を与える、ということも含めて
なぜ人を殺してはいけないかなどの感性の強化や
欲望を自分自身で制御する考え方の伝達、
欲望を抱くこと自体を理解・許容しての事前のカウンセリングの普及などで追い詰めない、
といったことだと思えるんだけれどなぁ。
低学歴の方があからさまに子供に学歴を押し付けると思うけどねえ。
うちの両親は高卒で「せめて子供には大学出てほしい」という気持ちが強かったらしく子供3人全員生まれてすぐに学資保険に入り、
塾や教育関係の出費は全く惜しまず、勉強しろ良い大学行けといつもうるさかった。
…でも結局全員学歴が生きるような職業につかず、技術や免許資格や己の能力で稼ぐような職についてしまったw
母ちゃんは「うちの子はどうしてみんなフツーに育たなかったのかしら…ちゃんと仕事についてるから良いけど…」と不満そうにため息ついてた。(※母ちゃん的には、大学卒業→企業に就職、が「フツーの道」らしい)
まあこればっかりはしょうがないよな。人間、自分のなりたいようにしかならないし。
おれは、生きるに必要な衣食住があって、友達や家族なんかが居て、
あとは今あるもので満足できるのが幸せなことだと思ってるんだが、変かな?
学歴君はどうおもう?
学歴君は、すごく褒めて欲しそうだけど、
みんなが褒めてくれないのは、
学歴君が、増田で褒めてもらえるようなことをしてないからじゃないかな?
自慢したいなら、せめて人に喜んでもらえることで自慢しなきゃ、
だれもその自慢を褒めてくれないと思うなあ。
みんなを困らせてばっかりいると、
相手してくれるのは、面白がって挑発する人と、
自慢が鼻について怒り出すような人ばっかりになっちゃうんじゃないか。
そういう人たちも終いにゃ飽きてきて、誰からも相手してもらえなくなっちゃうぜ。
もうすべて 終わってしまえばいいと思ってた
ああ 降り止まない雨の中何も言わず
果てしなく遠い明日へ ぼくたちは息を切らして向う
ずっと長い間生きて気がするけれど まだ届かなくて
ねえ もしも痛みがこの胸の奥に満ちていても
綺麗なものを「キレイ」と言えたらいいのに
きみは他の誰かじゃなく きみのままで
迷い続けた記憶を 大事に両手で抱きしめ
今駆け抜ける日々 ぼくたちは想い出すだろう
いつの日にかきっと
果てしなく遠い明日へ ぼくたちは息を切らして向う
ずっと長い間生きてきた気がするけれど まだ届かなくて
今駆け抜ける日々 ぼくたちは想い出すだろう
いつの日にかきっと
果てしなく遠い明日へ ぼくたちは息を切らして向う
白い光の中輝きに満ちた朝が きっと待ってるから
やたらもてはやされ、輝かしいものの様に語られる事が多い気がする。
その時期を過ぎた人達に言いたい。
懐かしむのはいいと思うんだ。
でも、過去を見て現状を嘆くのは絶対勿体無い。
あなた達は青春期を通って、今は朱夏、もしくは白秋……あるいは玄冬の時期を歩んでいるだけなんだ。
青く、萌え出づる春は過ぎた。でもそれってヒヨッ子を卒業したってこと。
ヒヨッ子たちより、あなた達は色々な経験を経て『生き方』を知ってる。
わーわー騒ぐのが楽しい時期もある。
けど、お茶をすすってのんびりするのが好きになったりする時期が来る様に、人生の楽しみ方を、人は日々学べる。
年を経たなら年を経た今だからこそ楽しめるものが、きっとあるよ。
私ですか?
朱夏真っ盛りですよ。
秋頃に「燃え尽きたぜ……真っ白によ」って言えるくらい今を楽しむよ!
男にも女にも裏切るヤツはいくらでもいるなんてのは百も承知。
安易に解釈してるのはあなたの方では?
男と女を同じように扱ってはいけないことくらいわかりませんか?
まぁいちいち説明はしないけどねー。
愛と勇気だけが友だちさ、でお馴染み、なだけあって、勇気は愛と同じくらい、ふわふわとした考え方だ。
「勇気を出す」っていうのは、単純に「行動に移す」ことと、どう違うの?
勇敢な人かと思ったら、単にブレーキの磨耗した人だったり(丸山君元気かなぁ)、臆病者でも、次善の策があれば最善を尽くせたりするので、人それぞれって素晴らしいことだと思う。
「勇気ある行為」なんて、周りが言ったとしても、当人には関係ない。
逆に、勇気を出したつもりでも、それが周りにとって勇気かどうかは分からない。
あやふやで観測不能なものを常に背骨に通して生きるとか、マッチョはナイーブだなぁ。まあマッチョなんてフィクションですけどね。あはは。
完全廃止とかは流石にあかんと思うが
それぞれの自由を全部尊重していたらどっかで衝突する。
ポルノを「見たくない」自由、権利も認められねばならないのだが、
現在の日本はコンビニ・本屋でエロだだもれの表紙のポルノ雑誌が普通に売られている
騒ぐのはいいが危機感をもう少し持つべきだ
自分らの自由ばかり・自分らの都合ばかりで、他者の事も考えてやらないからこうなる。
本気で完全廃止をもくろんでいるのかどうか俺には分からんが
最初からそれを狙っていたわけではあるまい
もっと前から節操ある扱いをしていればこんなことにはならなかったはず
いくら言われても各々規制しないどころか
オタどもは秋葉原で女子高生のパンツをローアングルから撮るなんつーことを昼間っから堂々とやりだすわ
コミケなんつー大イベント開いてエロ本売りまくり買いまくりだわ
こんなんじゃ猛反発が来るのは当たり前だ
声高に叫ぶ前にちっと反省が必要なんじゃないのか。
あまりにオタクが虐げられてきたから、その反発で「オタクだっていいじゃない」な論調が出てきたが、今度は逆にその「オタクだっていいじゃない」が行き過ぎてきて「オタクでも全然構わない、だだもれにしてもかまわない、自由だ、寧ろこれらを認めない一般人がバカ」くらいに過激化してきてしまった。もう少しオタクはオタクであることにある種後ろめたい気持ちを抱きつつ一般人の目に触れないようコッソリとたしなむべきものだろう。かといって一般人もそこにつけこみ過剰にオタク狩りをされても困るのだが。要はバランスが崩れたのだろう。
論語は「共同体の一員として生きること」を至上価値、及び思考する上での大前提としているため、
馴染めない人は徹底的に馴染めないかもしれない。自分も初めはあの共同体至上主義ともいうべき
価値観に辟易していたし、もし日本に影響を与えた古典でなければすぐにでも放り投げていただろう。
しかし、結局のところ自分は共同体へ帰属することなしには生きながらえないのだということを
おぼろげながら自覚するに到ると、徐々にその見方が変わってきた。論語は自分のような人間のために
あるのではないかと思うようになったのだ。
例えば「巧言令色卑仁」「剛毅木訥近仁」という言葉がある。孔子はここで言葉巧みな者を攻撃し、
しゃべり下手な人間を擁護するけれど、「言葉足らずな方が徳が高い」というのはやはり、嘘だ。
価値顛倒だ。誰だって自分の感情や思考を巧く伝えられたらそれに越したことはないはずだし、
そこにはある種のルサンチマンがあるような気がしてならない。
だが、そのルサンチマンははたして誰のものだろうか。孔子自身のものではない、と自分は思う。
彼は非常に雄弁な人だったようだ。論語には諸侯の問いかけに当意即妙の答えを返し、含蓄ある
言葉を以って弟子たちを導いた姿が度々描かれるし、実際そのような人でなければ人望を集めることなど
できなかっただろう。
おそらく、孔子が生きた時代にも自分のように口下手な、そしてその他の対外的な能力にも劣る人間が
いたのではないか。孤独に生きる者はともすれば道を踏み外す。彼はそのような人間の受け皿になろうと
心情を代弁したのではないか。
もちろん今になっては孔子の真意を知ることなど不可能だけれど、少なくともこの古典が今まで
読みつがれてきたのは、論語の言葉によってその心情を代弁されたと感じた静かなる支持者たちが
少なからずいたためではないかと思う。論語は共同体への恭順を説くけれど、その実アウトサイダーに
それと諦観っていうのは世の中そう変わらないから限界を見定めて生きることだろ。
達観するオヤジってのは、何か自分が偉くて、金や力がなくとも自分は立派なんだと勘違いしている奴のことだ
あまりにも端的な指摘だwww
限界を自覚したがために、達観&年功序列で下駄を履こうとするか、限界を客観視できないがために、
別のモノサシを持ち出してみたとかかな。
どっちにしても、煙に巻こうとして失敗していることの方が多い気はするんだがなあ。
社会で勝てないと分かったとたん、達観したと称して現実逃避する中年が多い事実は変わらないがな。中年なんて中身はガキみたいなもんでまあ術を使ってるから立派そうに見えるだけなんで。
それと諦観っていうのは世の中そう変わらないから限界を見定めて生きることだろ。
達観するオヤジってのは、何か自分が偉くて、金や力がなくとも自分は立派なんだと勘違いしている奴のことだ
まあなんというか我が意を得たり棚。達観なんてアホでもできる。金や権力を手にするのは全人格と全能力を必要とする。ほんと、達観とかしつつ、都市に住んで社会システムの恩恵を受けている自分が恥ずかしい。達観するくらいなら、霞み食って生きるくらいしないと威張れたもんじゃない。
同じようなこと考えてた。
二次ロリのエロが成立するのはそれが記号として三次ロリを指示してるからで、そこにあるのは間接的とは言え三次ロリへの劣情なんだよな。
反日戯画のたとえでいうなら、「それが個人的な妄想表現の域に留まってる限り何も言うべきではない」ってのが優等生的な答えなんだろうが、そんな反日表現があちらの国の街中に公然と溢れていたら、やはり日本人としてはちょっとなんとかしてくれ、といいたくなるな。いくら実際に手出ししてこないとしても、恐くてまともにつきあえんよ、と。
エロゲーのポスター溢れる秋葉原(が象徴する日本の状況)に対する規制派の意見も同じことだな。
あくまで個人的な妄想に留まっている間は良いけど、メディアに乗る作品を作ってしまうと、それは否応なく社会の風景の一部になってしまう。決して妄想の中だけで完結させることはできない。
ポルノの場合さらに難しいのは、ポルノは「悪」「反社会性」と切り離せないんだよな。多分。
差別とか暴力とか倫理の限界が露出するところと、人間の性ってのは関係がある。少なくとも自分はそうだと感じている。ポルノには絶対肯定できない部分があって、しかしその絶対肯定できない部分こそが絶対に必要でもある。自分の中にそういうヒドイものがあると認識することは、なんかこの、生きる実感に関わってる。
だから全肯定も全否定もできずに迷うんだよなあ。願わくば、社会の方もずっとずっと迷い続けてくれますように。優柔不断なのが日本のいいところだと思うヨ。
いつのまにか好きになっていた。
一緒にいるだけで、胸がわくわくして幸せだった。
ただ声を聞くだけで、安心できた。
彼女がいないときもいるはずもない場所なのに、彼女を探してた。
そして振られた。
世界が終わった。
それまで、彼女といるだけで輝いてた世界が、暗く終わりのない苦しみに変わった。
同じ世界なのに、同じ道なのに、同じ空なのに、同じ食べ物なのに、同じ言葉なのに、同じ一日なのに、何もかもがつらかった。
振られたときの帰り道をどう帰ったのか覚えていない。
最後に「さようなら」と言われて、気づいたら自分の部屋のふとんに寝ていた。
一瞬夢かとも思った。
でも、やっぱり、夢じゃなかった。
何を考えていたのかあまり覚えていない。ただ、時計の秒表示をじっとだまってぼーっと眺めていた。
涙もでなくて、何もできなくて、何かをしようとも思いつかなかった。
自分が今何をしていて、どうして布団に入っているのか。何をすべきなのか、何もわからなかった。
ただただ体が今まで感じたこともないくらいに重くて、そのうち気がつくと胸にずきずきと痛みが走ってきていた。
苦しくて、寂しくて、会いたくて、でももう会えなくて。
もう二度とあの笑顔を彼女は自分に向けてくれないのだと気づいて、つらくて苦しくて、生きていたくなくなった。
なにか彼女の笑顔以外に生きる糧があるのなら教えて欲しかった。
「さようなら」と彼女に言われた言葉と同じ言葉を言って、この世ともお別れしようと思った。
彼女の笑顔がない世界は、地獄でしかないと思えた。この胸の苦しみと痛みから逃げたくて仕方がなかった。アパートの最上階から見下ろす景色が、恐怖ではなく歓喜に変わっていたのには自分も驚いた。人ってすごいなと思っていた。
死ぬのを止めてくれた人がいた。本当は死にたくなかったのかもしれない。そんなに人に期待してなかった。人には期待できないということを確認してから死にたかったのかもしれない。
でも生きている。止めてくれた人は優しい人だった。そして私よりずっとずっと大人だった。彼女の言葉に私はやっと涙を流すことができた。救われた気がした。
私は、あのとき、私を救ってくれた人に本当に感謝している。そして、誰よりも尊敬している。彼女みたいな人がいるなら、この社会も世界も捨てたものじゃないと心底思える。
その恋人も私の友人だった。二人とも、とても良い人だ。二人とも尊敬している。
大学に入ってすぐに、私は振られてしまったけれど、つい先日、その尊敬する二人は結婚式を挙げた。私を含めたたくさんの人に祝福されて。
我が事のようにうれしかったのは、自分の叶わなかった想いをその二人に重ね合わせていたからなのかもしれない。二人の幸せそうな笑顔を自分の心の古傷にそっとあてて、傷口を埋めていたのかもしれない。
そんなことを思っている今日このごろ。
(だからなにというわけでもない)
子供側の気持ちもよくわかるけれど、いざ自分が親になってみると、
せっぱつまった親の事情というのも、ようやくわかってきた。
なんていうかなぁ、「子供の問題」ってのは、周りは、家庭が悪いんじゃないか、
親がこうしたらいいんじゃないか、と、つい考えてしまうし、
子供本人も、親にこうしてもらいたかった!! とか恨んでしまったりするんだけれど、
今になると、親にも子供にも、どうにもできない仕方のないことだった、と思う。
子供にだって色々事情がある。俺の場合は、どこを叩いても学校に行く気分がでなかった。
だけど、親からすると、そのまま放っておくなんて、普通、できることじゃない。
「この子をちゃんとレールに乗せておかないと!」っていうプレッシャーは、想像以上に大きいよ。
それは、親の見栄のためじゃなくて、いつまでも世話をしてやるわけにいかないのだから、
生きるために必要だって、ほとんど本能的な欲求から、子供の尻をたたくわけだ。
ランドセルをゴミ捨て場にすてた、というのは、ちょっと聞くと確かにひどい話なんだが、
なだめてすかして、どうにもならなくてヘトヘトになって、
自分も絶対外せない仕事があって、、となったら、俺もそれくらいやってしまうと思う。
俺も、半年に一回くらい、あとで後悔するくらい、常軌を脱して怒ってしまうことがある。
非常に悩んでるだろうこのお母さんを、安易に「ダメな親」あつかいすることは、
俺にはちょっとできない。生来のサディストだというなら話は別だが、