はてなキーワード: 猟師とは
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
37歳。
180cm 75〜82kg(体調や季節環境で変わる)。
顔はハンマー投げの室伏広治選手や阿部寛に似ていると言われるが単に濃い顔なだけ。
髪質は堅くストレート。初めて行く床屋がハサミを入れた瞬間「堅ったいねぇ!」と驚くくらい堅いようだ。
骨格は太く大きい。血統的に代々狩猟漁業を営んできた家系の出で、そのためか何も鍛えずとも握力が70kg以上ある。
太っては居ない。中肉中背と表現するにはあまりにもゴツいのでパワー系だと思っていただければ。
国立大卒。
情報技術者で一部特別報酬のある契約があり少なかれ変動はあるけれど平均年収はおおよそ800万円ちょっと。報酬が特別加算されることはあれど減ることはない契約。ボーナスは別にある。
国立大卒と言っても情報技術者である今は専攻と全く関係がなく、学生時代より趣味で続けてた独学プログラミングがいつの間にか職業になってしまったタイプ。
タバコや酒は吸えるし飲めるが普段はあまりやらない。紙タバコよりもパイプや葉巻などゆっくり吸えるものの方が好き(普段吸わないので一気に吸わないといけない紙タバコだとムセるため)。
酒はビールなどよりブランデーや日本酒、焼酎のほうが口に合う。タバコも酒も月に1度2度やれば多い方。
モノ作り。
スキル的にはプログラミングおよびパソコンそのもの、電子工作、製図、金属や木材加工、そしてDTMが可能。
まぁつまり自分で設計して加工して組み立てて動作させるまでを一貫して行えるスキル構成。DTMは電子工作系の趣味人にありがちな電子工作から派生したスキル。
ぶらりとその辺を歩いて写真を撮るのも好きでカメラ趣味も持っていて動画編集もそこそこできる。120Wの撮影照明を2基所持していると言えばカメラやってる人ならばどれくらいの撮影機材環境か察して貰えるはず。
(これは既婚の今実際にやってることだが)パートナーが居るのならば日々のパートナーの姿を可愛く綺麗に撮りたいと思っている。
熱血漢とよく言われる。
家柄的にガハハハと笑うような男性陣を見て育ったためか、インドアっぽい趣味や職業でありながらも根は何だかんだで体育会系。
人々が努力し目標へ向かって突き進むアツいモノが大好物で、応援するし協力もしちゃう。
世代的に2ちゃんねるニュー速VIP・ニコニコ動画黎明期世代なので、その当時流行ったパソコンでのモノ作りへ強く影響を受けており公開する環境が変わったものの今でもそれを続けていると言った良く、おまえらのモノ作りはアツいとずっと思ってる。
料理は基本的に男料理。生まれが生まれなので魚料理やジビエ料理だけは自信がある。やろうと思えばシカやクマを捌けるスキルがある。
近いほうが話が合うだろうけれど不問。
自分自身が太く大きいので女性の好みとしては自分と真逆さを求めていて小柄な方が好きっちゃ好き。
真逆さという意味で胸も大きければ大きい方が良いような気もするが、身長も胸の大きさも絶対基準でないどころかワンチャンそんな感じだと良いよねレベルの要望。
不健康なほど太ってなければ良くガリガリも心配になってしまい食わせてしまうので多少ふっくらしてる方が安心かな?
自分が短髪なので髪は長め、綺麗系・華美な服装よりも可憐な服装が似合うほうが好み。
(リアル妻は腰まであるロングヘアーで151cm/Gカップらしいので物凄く好みに合致したから当時アピール頑張った。つまりこの好みは妻の容姿である)。
すべて不問。
働きたいなら好きにしろ。働きたくないなら俺が食わせる。以上!
自分が熱が入ってくると「ヒャッハー!」な感じになってしまうので、おっとりしつつ冷静でかつマイペースな人を求める。
自分の「ちょっと面白そうだから行ってくるわ!」へ対して「いってらっしゃーい」と送り出すか「ちょっと待ってね?まず先に○○しなきゃダメじゃない?」「今日は私を優先する日!」などの返答があると助かる。
夜は積極的だと嬉しいよね!お姫様抱っこしちゃうぞ!加齢していくと辛くなることもあるらしいからそのときは言って!
楽しめるうちは落ち着きなんて要らんと思う。可愛い服でエロい下着で俺をいっぱい俺を魅了して、そして夜ができなくなってもイチャラブしようぜ!
オタク推奨。
何ならキミが欲しいそれ、作るが?
自分で鋳造まではしたことあるのである程度の量産は対応できる。
自分は基本インドアだけれど生家がアウトドア業なので普通にアウトドア趣味も楽しめます。
「写真撮って良い?」と聞いたら「良いよ」って返してくれると嬉しい。可愛いなぁ残しとこ!ってなってるだけなので。
掃除くらいはして欲しい。
メシマズなら俺が作れば良いけれど栄養バランスとかは知らんので俺が作らねばならないパートナーだった場合は栄養バランスとか調べるようにはなると思う。
いつかは欲しい。人数は応相談。
ただ年齢的に無理っぽいならば養子を取るかどうかは相談しようね。
富の本質は日本円などの通貨ではなく山で採れるもの海で穫れるものなどであって、通貨は富の交換の代替手段でしか無いわけ。そういう意味ではモノ作りっていうのは山で採れるもの海で穫れるものと同様に本質的な富であると言える。
ただ消費するだけでなく価値を生む生産する技術と生き方を子供たちには教えていきたい。そうしてお金を稼ぐとはどういうことなのか?を学んで欲しい。
それ以外についてはパートナーの方針に合わせる!田舎出身なのでお受験競争に遭ったことがなくスルッと国立大に入って出てきてしまったため、おそらく俺は学業に関して指導するセンスや知見がない!
勉強はなんか上手くいった!たぶんプログラミングとかやってて数学とか英語とか必須だった(当時のプログラミング情報は日本語マニュアルの更新が滞るとかよくあった)せいだと思うけど、勉強しようと思って勉強したことがないのでよくわからんのだ!
あっでも弱い者いじめは絶対に許さんぞ!非力なその子たちは将来のクリエイターかも知れん。俺はモヤシっ子がスゲーもん作るのを2ちゃんねるやニコニコ動画でいっぱい観てきたぞ!体育会系の身体にオタクの魂を込めたのはきっと八百万の神が俺にオタクを守れと宿命を与えたのだと思っている!
解決済み。
実家は漁師なのだけれど親父の代で猟師漁師は閉業が決まっており、兄弟とも話がついていて実家の土地建物は兄弟たちへ、猟師漁師関連の史料的価値のあるものは俺が相続することになっている。
自分は完全に独立して実家の土地建物を頂いても困るし遠方過ぎて管理にも困り、将来的に高速道路や鉄道が通るわけもなく、豪雪地帯なのでおそらく工場も建たないだろうから資産的価値はほぼ無いと言って良い土地建物だ。
ただ一応は幼少期の頃から猟師漁師の技術継承を受けた長男なので、矜持として猟師漁師関連の史料だけは俺が守らないとなと(管理が大変なもの大きすぎるものは歴史資料館に寄付とかするけど)。
土地建物を引き継ぐ代わりとして両親の面倒は兄弟が見ている(兄弟夫婦が既に実家へ住んでる)。
オタク忌避、陰謀論者、ネズミ講および類するもの、犯罪者、科学軽視および科学技術知見の普及妨害、伝統文化技術の破壊、個人意志の非尊重、俺が可愛いと言っても素直に受け取らず謙遜すること、誰かを下げて相対的に自分を上げようとする性根。
ある日、男が森で一羽の鶴を猟師から助けました。その数日後、美しい女性が男の家を訪れ、一緒に暮らし始めました。彼女は男に一つだけ条件をつけました。それは、彼女が部屋に閉じこもっている間は絶対に覗かないという約束です。
男はその約束を守り、何も問わずに彼女の望むように暮らしました。そして女性は毎日部屋に閉じこもって何かを作り、市場でそれを売って二人の生計を立てていきました。彼女が作り出す布は非常に美しいもので、人々はその品質に驚き、高価で買い取る人が後を絶ちませんでした。
男と女性は裕福になりましたが、男は彼女の秘密を決して知ろうとはしませんでした。彼は彼女が自分の約束を守ってくれたことに感謝していました。それは彼にとっては愛情の証であり、信頼の証でした。
そんな日々が何年も続き、二人は互いを深く愛し、幸せな生活を送りました。そしてある日、女性は自分の本当の正体を男に明かしました。彼女はあの時男が助けた鶴だったのです。
男は驚きましたが、彼女が人間でも鶴でも、愛しているのは彼女自身であり、その姿などは関係ないと感じました。男の理解と愛情に満足した鶴は、人間の姿を続けることを選び、二人はその後も幸せに暮らし続けました。
3人に1人は普通に良い人。
残りの2人に1人は目つきが怖いけど喋ると良い人。
そっから下、全体の1/6ぐらいにハズレがポロポロ混じってくる。
そう、小中学校の頃にクラスの20%弱を占めてた「ヤンチャ」でなんでも済ませられると思ってるクソ野郎クソ尼がそのままの割合で交じる。
自衛隊は入隊テストがあるから大丈夫とか、万引きやひき逃げでクビになるとか、そんなのもちろんアテにならん。
だって普通の会社だってまともな組織なら万引きした奴はいつ横領とかやりだしてもおかしくないからクビでしょ?
クソ人間にもレベルがあり、普段はまともよりだけど少しストレスがかかるだけで化けの皮が剥がれる奴から、調子が良いときは元気にクソでグッタリしてると気怠そうにクソな365日24時間態勢のクソ人間までそこそこの幅がある。
そんなクソの中のエリートクソは本当にクソだ。
おおむね40人いて2人ぐらいだとして、5%って所か。
大声でセクハラとパワハラを繰り返して日夜職場の空気をゴミに変え続け、それでいて「コイツにかかわると面倒くさいから相槌でも打っておくか」で放置され続けている。
ハラスメント禁止令や通報システムがあったところで、そういった人間が同じ職場にいたと通報するだけで「なんでもっと早く言わなかった!」と皆が怒られるし、職場全体の余罪追求のための査察で時間がひたすらゴミになるだけなので誰も通報なんてしない。
自分が居なくなったあとに通報しようにも通報の匿名性が維持されていないのでバレバレになるが、自衛隊は兵科(職種、クラス、タイプ、部内免許みたいなもんだと思ってくれ)で世界が分かれているせいで見かけよりずっと狭いので生きて行くのが厳しくなる。
匿名性を維持したまま何とか怒られを起こせないものかと粘ってみても無視されて終わったという話はよく耳にする。
強いて言うなら、外部の人間(民間人)に対して高圧的な態度を取ったときの様子をメモしておき、外部から通報があったという風を装えば結構通るそうだ。
でもこれも「こういう人が居たらしいですよ気をつけてね」で終わって、まあ誰がクソな事をしたのかは皆知っていても、それで本人が懲戒処分を食らうかといえば全くそんなことはないので蛙の面に水で終わりがちだ。
自衛隊は必死に空気を変えようとしていますよと外部に宣伝をしているが、実際には全く機能していない。
最近は結構な数の懲戒処分報告を聞くが、実際には長年放置されてきた問題に対して「流石にそろそろ通報を無視し続けると怒られるんじゃね?」と慌ててゲロったものばかりであり、結局の所「ああいった事件を受けて新たにクソ人間が追加で処分を受けることになった」というのとは違う。
未だ多くのクソが日々クソな言動を繰り返しながらも、クソに下手に嫌われたくないからと愛想笑いに囲われて幸せに暮らしている。
変わらぬクソだ。
何がクソって、そうして愛想笑いで対応されるとクソどもが本当に嬉しそうにベラベラとハラスメントトークを大声で続けることだよ。
アイツは本当に使えないとか、何を考えているのかわからないとか、常識がないとか、ぜーんぶ自分に帰ってきてるのにそんなこと全然思ってない。
本当に辛いよ。
まさしく税金泥棒としか言いようがない仕事ぶりをしながら「俺ってなんて大変なんでしょう。皆使い物にならなくて困っちゃうわ。そういえば今日道であった女がオッパイデケーって思ったら顔はブッサイクでさーwwwお前は一生マスクつけて暮らしてろよって思わず通りすがりに言いそうになったわwww」とか大声で言ってんですよ?
こんな職場にいることそのものが恥ずかしいって毎日のように思うわ。
転職して―。
でも技能が身についてね―。
なーんの役にもたたねー。
[B! あとで読む] 伊藤詩織さんの請求棄却 中傷に「いいね」、違法認めず―東京地裁:時事ドットコム
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.jiji.com/jc/article?k=2022032501194&g=soc
data-entry-created="2022-03-25T11:28:52Z"
ブクマページができたのは昨年の記事アップ直後なので、1ブクマ目も昨年までに付いてたということになる。
TwitterをURL検索した結果、直近ではこのツイートがされたあとに、伊藤詩織さん批判クラスタの拡散始まったが、このツイート自体の閲覧数は400超しかなく多くない。
当然だな! 訴訟の当たり屋 RTが違法も奇怪しい!:
伊藤詩織さんの請求棄却 中傷に「いいね」、違法認めず―東京地裁:時事ドットコム https://t.co/qQYsddx2vM— 中道 積 (@chudotsu) March 14, 2023
最も多く拡散されてたこのツイートも1500程度の閲覧数。このアカウントはフォロワー数9000以上あるので、ここきっかけにはてブユーザーにも拾われ新着に入ってしまったんだろう。
伊藤さんは「裁判所がセカンドレイプを許している結果と受け止めている」と話した。 ほら始まったぞー。
伊藤詩織さんの請求棄却 中傷に「いいね」、違法認めず―東京地裁:時事ドットコム https://t.co/63k5hTegTU— 野良猟師 (@kikorinolife) March 14, 2023
まとめると、インフルエンサーでもない地味アカウント界隈での地味な拡散では、間違いも訂正されにくく、結果地味に拡散が続き、はてブに新着記事として再浮上してしまうことになる。
っていう問題が脳に降ってきたんですね。
これは難問ですよ。
40人の集団からボコボコにされるのと、4000人からボコボコにされるのだったら、普通に考えたら後者のほうが怖いですよね?
でもそのウェブサービスにおいては「いやいやここは単なる岩の下のダンゴムシ。過疎地域の公衆トイレなんで話題にするような話じゃないですよ」と言うんですよね。
でもいざどこかの人口数百人の村で医者が追い出されたり、40人学級の誰かが不登校になったら、日本全土が話題にすべき大問題だと言うんですよ。
え?
4000人がかりのイジメはセーフだったのに?
不思議すぎませんか?
マジで難問なんですよコレって。
本当に難しい。
こういう話すると決まって「いや大部分はROMやし」って言うんですけどね、いじめ問題も主犯は3人ぐらいでその他の30人ぐらいは基本的に見てるだけなんで割合はあんま変わらんのですよ。
4000人のうち悪い意味で行動力のある400人ぐらいが変わる代わりにボコボコ相手を殴っていくんですね。
まあ相手が元々テレビの有名人みたいな人だったら、たしかに日本国民のテレビ視聴者4000万人がそれぞれのツイッターで批判するのに対しては誤差なんでしょうけどね。
でもこのウェブサービスではフォロワー数百人みたいな人も拾ってきて晒し上げるんですよ。
ヤバくないですか?フォロワー数百人の個人VS4000人のイジメっ子学級ですよ?モグ波VSローマ軍みたいなふざけた戦力差ですよ?マジで凄いと思います。この状況で「岩の下でダンゴムシが悪口言ってるだけなのにね」で済むんですかね?全長20mの超巨大ダンゴムシ怪獣ダンゴ・ダンゴに襲われているような状態でしょ。ある朝起きたらスターシップ・トゥルーパーズの兵士に転生していたような状態ですよ。この状況で「まあ刺激しなければすぐ別の場所に行くよ」とか言われてもヤバイでしょ。町歩いてたらいきなり熊が走ってくるようなもんでしょ。猟師に駆除を頼みに行くべき状況ですよ。
この状況をセーフと言うためのロジックを考えろっていう問題がですね。脳に突然降りてきたわけですよ。
ムズくないですか?
でもこれは私のIQが低いだけで皆さんなら簡単かもしれないですね。
なんかこういうIQ表示してお前の力を試してみろよって誘ってくるスマホゲーの広告ありますよね。
まあそんなノリっすね。
このエントリは昨今の暴力性について思うところがあり書かれた。
具体的に言えば「直接的な暴力は禁忌されると主張されながらも言葉の暴力については無頓着である」ことに違和感を覚え、皆様が抱える心の問題について何らかのヒントになればと考えて作成している。
猟師とは、現代でもある意味でその暴力性を野放しにされている職業の1つだ。
銃火器や罠が法的に制限されている程度で猟師の暴力性がすべて制限されているわけがなく、私自身も含め家の業(わざ)として猟師の技術を継承している人たちは箸一本あれば大抵のことはなせると言うだろうし、それがナイフやキリであればより効果的な使い方が出来る。
言うまでもなく私達は様々な命を奪い取り生計をなす者達であり、警察や軍隊や武術家や格闘家などと近似した暴力の専門家である。
法的な制限が緩いのは偶然であり、単に目立たないからそうなっているだけで機会が訪れればいくらでも法的に制限はされるものであると推測している。
私は猟師の技術を祖父と父に仕込まれたが普段から口すっぱく言われ続けたことがある。
「みだりに暴力を奮ってはならない」
私の心の成長に合わせ「みだりに暴力を奮ってはならない」の解像度は高くなっていった。
多くの人々は「みだりに暴力を奮ってはならない」と目にしたとき「そんなことは当たり前だろう」と考えるだろうが、今まさにあなた様が直感した意味の「みだりに暴力を奮ってはならない」とは少々違う教えを私は受けている。
なぜ私があなた様の想定を推測できるのか?と言えば、私自身も幼少期の頃はあなた様と同様の「みだりに暴力を奮ってはならない」と考えていたからである。
もしかしたらこれを聞くと大反対したくなる方も居るかもしれないが「みだりに暴力を奮ってはならない」は「みだりに」なのだ。
つまり絶対的な禁忌として暴力を封じた教えではなく、限定された条件がであれば暴力を発動しても良いとした教えである。
そもそも我が家は猟師であり、暴力の発動をなさねば食うに困り生きながらえることが困難になるので絶対的な禁忌として暴力を封じることができないという事情もある。
私が中学生のとき上級生と殴り合いの喧嘩をしたことがある。
今振り返れば喧嘩という表現すらおこがましく、先輩から最初の一撃を食らったので反撃へ移り一方的な状況にしたと表現したほうが良い。上級生は肋骨と肘関節にヒビが入った。もちろん意図的にやったことである。解体の応用だ。
それを知った祖父と父は激怒した。特に祖父は激怒しながら私へこう言った。
「男の暴力は大事なものだ!大事なものだからこそ最後まで取っておくんだ!男にとって大事なものなんだ!宝物なんだわかるか!」
祖父は激怒していたので「男にとって」と勢いあまって言ってしまったが、今の大人になった私は「人間にとって」と解釈している。
あなた様が「みだりに暴力を奮ってはならない」と聞いたとき「暴力は宝物」という解釈はあっただろうか?おそらく無いだろう。
中学生だった私は祖父のこの言葉へ衝撃を受けた。今まで暴力は絶対的な禁忌として教えられていたものと確信していたのに、そうではなく大事なものだからこそ簡単に奮うなという教えであったことに気付いたからだ。
あまりの衝撃に当時の私は自分はなんてことをしたのだろうと心から深く反省したし、2度と喧嘩で暴力を使わないと自分ルール、戒めとして持つようになった。
(※中学生時代の私から暴力を受けた先輩はオブラートに包めば普段から大人たちを困らせる「やんちゃ」なタイプであった。偶然にも私へ「ちょっかい」をかけてしまったのだ。)
私はこれらのことから「皆様の大事な宝物である言葉の暴力」について今一度考えて欲しいとお願い申し上げたい。
特に子供を持つ親であるのならば「暴力は大事な宝物」という表現の解像度は一層高いように思う。私も親となり解像度が高まった。
独身であっても例えば「法律上の緊急避難」や「法律上の正当防衛」「警察や国軍の暴力は合法」がなぜ成立するのか?という部分で高い解像度を得られると思う。子供が出来るまで私は「暴力は大事な宝物」という点で納得感を得ていた。警察や国軍であってもみだりに使えば違法化しますしね。
「言葉の暴力」を「大事な宝物」と解釈したとき、その答えは十人十色となることが予想されるが私はそれで良いと考える。
最後に、男であっても女であっても、リベラリストであってもフェミニストであっても、あなた様の言葉の暴力は大事な宝物であるからこそ、みだりに奮ってはいけないのではないか?と提言をよせてエントリをしめたいと思う。
世間の流行の移り変わりとは無関係に、私は度々『鬼滅の刃』の原作単行本を読み返しているのだが、またも同作を読んでいる。
ここ最近の読み返す切っ掛けの一つとなったのは、例によって金関丈夫の『木馬と石牛』である。何度目だ。
ひとまず最初に紹介しておく金関丈夫の論文は「わきくさ物語」と題する一篇である。
これは、腋臭(わきが、えきしゅう)や体臭を肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、その相違について、人類学的な統計データに基づいて西欧人と東アジア人の腋臭体質の多寡(出現頻度)を比較するとともに、東西の文学作品や文献に於ける腋臭や体臭に関する記述を比較したという内容である。今さら気づいたが、論文の題名は『若草物語』のパロディである。
金関丈夫の論旨を大雑把にまとめて紹介すれば、次のようなものである。「人類学的に見て、西欧人の集団では腋臭体質の人の出現頻度が高く、日本や中国などの東アジア人の集団では出現頻度が低い。それに呼応するかのように西欧では、身体の臭いを肯定的に捉えて讃美する詩や文学作品が見出される。それとは対照的に日本や中国では、身体の臭いを讃美する文学作品や記述は見られない。ひどい体臭の人が周囲から疎んじられるといった、否定的な記述内容は見出される。日本の文学においては、田山花袋の『蒲団』など西洋文学の影響を受けた近代の少数例を除けば、体臭文学は存在しなかったのではないか」云々。これも今さら気づいたが『大衆文学』の駄洒落である。
それはともかく、かのナポレオンが愛人に宛てて「近々戦場から戻るから、風呂に入らずに待っているように」と手紙を書いたという有名な挿話を知っていると、金関丈夫の主張にも頷けるところがある。
しかし、体臭文学に関して言えば、確かに金関丈夫の言うとおり国文学の中では劣勢なのかもしれないが、嗅覚そのものは、時代の変遷や題材の違いによる差異はあれども、国文学においても大なり小なり着目したり描かれたりしてきたのではないかと思う。源氏香(※)のような遊びが生まれたぐらいなのだから、香り・匂いを味わうことの悦びを昔の日本人も持ち合わせていなかったわけではないだろう。それにまた、腋臭のような刺激的な匂いに対する肯定的な記述が見られないからといって、体臭そのものに対する愛好癖が日本人の間に存在しなかったとまでは断言できまい。好ましくない体臭に対する認識があったのならば、好ましい体臭に対する認識があってもおかしくはない。したがって、いま少し詳細な再検討が必要ではなかろうかと思われる。[※注:源氏香は、室町末期以降の遊びであるが、源氏物語各巻の見出しに源氏香の記号が付記されるようになったのは明治以後のことらしい。また、その記号は、組合せ数学のテキストで例として挙げられることもある。]
とまあ、こういった具合に「わきくさ物語」を読み直したことが切っ掛けで、嗅覚について色々と思いを巡らせていたところ、竈門炭治郎のことも連想して『鬼滅の刃』を再読し始めたという次第である。
ところで、上に述べたとおり、私は金関丈夫の主張に対しては批判的な考えを抱いているわけだが、そのような批判的思考は私の独創ではない。以前に読んだ本の記憶から「はて、国文学でも、それなりに嗅覚は重要視されていたはずではなかったか?」と思ったので、金関説にも疑問を抱いただけなのである。
さらに、その時に本で読んだ内容には『鬼滅の刃』を妙に連想させる記述も含まれていたと記憶していた。そこで本棚を漁ってみたところ、それらしきものを再発見した。次に、それを紹介しようと思う。
『鬼滅の刃』の主人公たちである竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人が持つ優れた感覚は、それぞれ、炭治郎=嗅覚、善逸=聴覚、伊之助=肌感覚(触覚)である。炭治郎や善逸は、相手が人間か鬼か、人間であれば善人か否かを、これらの感覚によって看破できることは、漫画を読んだりアニメを観たりした人ならばよくご存知のことと思う。
この三感覚と同じ取り合わせを、私が目にしたのは、小松和彦の著書『神々の精神史』(講談社学術文庫)に収録されている「屍愛譚(しあいたん)をめぐって 伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の冥界譚を中心に」と題する論文の中であった。
まず、私が『鬼滅の刃』を連想させるものと記憶していた箇所を、少し長くなるが同論文から引用しておこう。
「男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚に依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかから豊かに創り出されるイメージの、想像力による夢幻の世界における営みであった。そして、日本的女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。」
奇しくも、小松論文の中で三つの感覚が挙げられる順序は『鬼滅の刃』の物語に主人公たちが登場する順序と一致している。果たして吾峠呼世晴は、小松和彦の論文や著作を読んでいたのかどうか。真実は分からないが、そういった想像をしてみるのは楽しいことである。
さて、小松和彦の論文は、国文学などにおいて見られる、妻・夫・愛人などに先立たれた人が、パートナーの亡骸を屍姦したり冥界を訪れるという物語や記述について論じたものである。その中でも題名のとおり特に、亡くなった妻のイザナミ恋しさに黄泉の国を訪れたイザナギの物語、そこで語られる覗き見の禁忌、その侵犯について考察している。
死して黄泉の国の住人となってしまったイザナミは、自分を現世に連れ戻すために訪れた夫イザナギに対して「それでは、現世に戻れるのかどうか、殿内に入って黄泉の神と協議します。私を待つ間、決して中を覗かないようにして下さい」と言い残して黄泉の殿内に籠もる。しかし、妻と黄泉国神との協議が終わるのを待てなかったイザナギが禁忌を犯し、黄泉の国におけるイザナミの変わり果てた姿(肉体が腐敗して蛇に集られている有り様)を覗き見てしまったがために、彼女は現世に戻ることが不可能となり、二人は別れざるを得なくなる。
この禁忌を犯す場面において、イザナギは彼の御髻(みみずら)に挿していた湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を抜いて、それに火を灯してから黄泉の国の殿内を覗き見るという筋書きになっている。この灯火を焚く必要があったということは、つまり、黄泉の国でイザナギとイザナミが語り合ったのは、闇の中であったことを示している(そうでなければ、黄泉の国で最初に再会した時点で、イザナミの肉体的変貌にイザナギは気づいていたはずである)。ここには、現世でも黄泉の国でも何ら変わることのない「男女の愛の営みや語らい(ピロウトーク)は暗闇の中でこそ行われる」という形式がある。
小松和彦の論文でも指摘されていることであるが、日本のイザナギ・イザナミの冥界譚やその他の屍姦譚・屍愛譚には、中国大陸の物語から影響を受けた節が窺える。小松論文でも紹介されているが中国の東晋時代の書物『搜神記』における屍姦譚の一例として、次のような話がある。
美しい女性と結婚した男が、妻から「私は普通の人間ではないので、結婚してから三年経過するまでは、夜、明かりで私の姿を照らさないで下さい」と言い渡され、それを守りながら夫婦生活を送り、二人は子まで設けた。しかし、どうしても夫は我慢が出来ず、ある夜、明かりで照らして妻の姿を見てしまった。彼が目にした妻の姿は、腰から上が普通の人間の女性で、腰から下は干からびた白骨というものであった。妻は「私は死者であるが、あなたが、あと一年だけ我慢して私の今の姿を見ないでいてくれたならば、完全に蘇生することが出来たのに。しかし、あなたが禁を破ったがために、最早それは叶わなくなった」と言い残し、形見として袍(うわぎ)の端布と二人の間に生まれた子を残して、男の元を去ってしまった。その端布を持って嘆き暮す男のことは、スイ陽王(スイは目偏にオオトリ旁)の知るところになり、袍の端布が王の若くして亡くなった娘姫のものと同じであったことから、娘姫の葬られた墓を暴いたとの嫌疑で男は取り調べられることになった。男が語った事の経緯を信じられない王と家来が、娘姫の墓を検分したところ、墓暴きに遭った形跡も認められず、念のために墓内に入って棺も確かめると、袍の裾が棺の蓋の隙間からはみ出ていた。それを見て「さては、本当に墓を抜け出して夫婦生活を送っていたのか」と、王も家来も信じるようになったとの由。この生者の夫と幽霊の妻も、彼らの愛の営みを、妻の申し渡した禁忌を犯さないように、明かりの無い暗闇で行なっていたことは確実である。
イザナギ・イザナミ冥界譚と『搜神記』における人間・死者婚姻譚との間に共通するのは、妻の本当の姿を見ることの禁忌、それを夫が犯したために妻の蘇生が叶わないという点である。
特に前者の覗き見の禁忌について、小松和彦は考察し、その本質は「女性が『ありのままの姿』を公に晒すのは好ましくないという、昔日の社会における男女観・価値観・倫理観の反映」であり「女性の本性を覗き見ることについての禁忌」だったのではないかと推理している。それを裏付けるかのように、生者であるパートナーに対して自分の本当の姿を見ないように要求する死者の話は、圧倒的に女性が要求する側であることが多いのである。また、禁忌を犯した夫イザナギに対するイザナミの怒りの言葉は「吾に辱(はぢ)見せつ」(私に恥を晒させた!)というものである。さらに、類似の物語として、豊玉姫(トヨタマヒメ)が出産の時、産屋に籠もり、それを彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が覗き見ると、豊玉姫の正体はワニ(サメ)の姿であったという話もまた、女性の本性を見る禁忌の事例として挙げられる。
死者にしろ生者にしろ、隠れている女性の姿を覗き見る男の性向というのは、時代を下っても変わらない。例えば『伊勢物語』の「むかしおとこうゐかうふりして」という出だしで有名な最初の一篇でも、田舎には不釣り合いな雅やかな女性が里に暮らしていることを知った主人公(在原業平)は、垣根の破れた所から彼女たちの姿を覗き見る。ずっと時代を下った現代においても、男性向けアダルトコンテンツは、視覚的表現が重要性を持つことは周知の事実である。このように、イザナギ、在原業平の昔から変わることなく、男性は「視覚的な欲求」を満たすことを強く好むと言って間違いない。
ところで、この「屍愛譚―」論文を再読し、期せずして気づいたのであるが、論文の著者である小松和彦の行なう考察もまた(覗き見の禁忌を論じて考察する必要性から、当然のことではあるとはいえ)、やはり「視覚の範疇」に留まっている。これもまた、視覚を重視する男の性向の顕れと言えるかもしれない。しかも、上に引用した箇所で「夜の闇の中での男女の愛の営みや語らいにおいては、嗅覚・聴覚・触覚が重要である」といったことを述べているのにも関わらず、同論文は、それらの三感覚が重要な働きを示している国文学上の具体例を、特に挙げてはいないのである。あるいは、国文学に詳しい人たちからすれば周知の事実なので、態々挙げる必要がないとして言わなかっただけのことなのだろうか?
とりあえず、男女の機微の話は後回しにして、ひとまず、妖怪を識別する手段としてのこれら三つの感覚について、話を進めることにする。
聴覚を妖怪の識別に用いる事例は、比較的容易に見出される。例えば、誰そ彼(たそかれ)時・彼は誰(かはたれ)時・夜のように、人間なのか物の怪なのかを視覚的に区別をつけ難い時、相手の妖怪が発する声によって正体を見抜くという事例は幾つも見つけられる。カワウソなどの物の怪は、人間から「誰じゃ?」と問いかけられると「俺じゃ」と言えず「おねじゃ」とか「かわい」などとしか言えないので、正体を見破られてしまうという。これは、言霊の力とも解釈できるが、音声(聴覚)による正体識別の事例と考えても許されるであろう。また、仮に人間の方が話し掛けたり問い掛けたりしなくても、妖怪の方から自発的に何らかの独特な声や音を発してくる(アズキアライ・テングダオシのような怪音、ヤロカ水の怪しい呼び掛け声など)ので、それを聞けば正体が分かるという例もある。これらも聴覚による妖怪識別に含めてよさそうである。
触覚の方はどうだろうか? 例えば、厠(便所)で河童などの物の怪に人間が尻を触られるという怪異の話は数多い。そして、それらの怪異譚は「毛むくじゃらの手である」といったような、通常の人間とは何かしら異なる手触り・肌触りの特徴を持つことを窺わせる描写が伴うことが多いように思える。厠が家屋の中では暗い場所に分類されることを併せて考えれば、これも視覚には頼り難い状況下で、触覚により妖怪を識別する事例と考えることが可能ではないだろうか。他には、猟のために山に分け入った猟師が、夜になり「これでは鼻を摘まれても分からないな」と独り言を呟いたところ、突然「これでもか?」と何者かの手に鼻を捻られたという怪異譚もある(参考:千葉幹夫『全国妖怪事典』静岡県の部)が、これは残念ながら手触りについて伝えていない。しかし、このように暗い場所や時間帯において、物の怪に身体の一部を触られるという怪異譚は、枚挙に暇がない。これらも触覚によって人か物の怪かを判断するという事例に含められないか否か、再検討してみるべきかもしれない。
問題は、嗅覚により妖怪を識別する話や本性を看破する話なのだが、残念ながら今のところ、これといった事例を見つけられずにいる。逆に、妖怪の嗅覚の方を利用し、何らかの臭いを発するものを人間が用意することで魔除けにするという事例ならば、比較的容易に幾つも見出だせるのであるが。例えば、焼いた鰯の頭を魔除けとする例は有名である。また、今でこそカカシといえば田圃に立つ人形のことであるが、日本神話でオオクニヌシがスクナビコナと出逢うくだりに記されているように、本来の古い和名はソホド乃至ソフドである。それがカカシと呼ばれるようになったのは、稲を荒らす鳥を追い払うのに、鳥の死骸を焼いたものを竹竿の先に紐で括り下げて掲げるという風習があり「臭いを鳥に嗅がせる」という意味でカガシと呼んでいたものが、鳥避け人形と混同されるようになったからである。上に挙げた鰯の頭も、ヤイカガシ・ヤッカガシ(焼き嗅がし)と呼ぶ地方があり、明らかに鳥避けのカガシと同じである。他にも、山中でタヌキやムジナの類いに化かされたことに気づいたならば、煙管(煙草)を一服すれば妖怪は逃げていくとか、小便をすると臭いを嫌がる妖怪を避けられるとか、人間の嗅覚ではなく妖怪の嗅覚を逆手にとって利用して払う例は多い。
小松論文では具体例が挙げられていないものの「視覚的に本性を見ることが禁忌とされた状態、特に暗闇の中で、何者かと一対一で対峙する状況において、重要な役割を果たすのは、嗅覚・聴覚・触覚である」という見解は、説得力を感じさせられるものであることは確かである。特に、愛の営みに関しては、そうである。人間がお互い裸一貫となって同衾する時、見た目の虚飾は、ほぼ通用しなくなるのだから。したがって、これら三感覚の重要性が高まることは、必然であるように思われる。
とはいえ「思われる」ということと、国文学などにおいて実際にどのように捉えられていたのかは、もちろん別問題であるから、これは検証の必要があるだろう。あるいは(素人である私に言われるまでもなく)既に専門家の間では検証済みなのかもしれない。国文学中の、特に男女の愛の営みや語らいにおける三感覚が占める役割について、どのように描かれ、語られてきたのか、可能ならば識者の見解を知りたいものである。
―――――――――――――――――――――――――――――
さて、私は上で、男女の機微の話を後回しにして、妖怪の正体を識別する感覚的な手段の話をすると書いた。そこでいよいよ、男女の機微、すなわち異性のパートナーのことを暗闇の中で知る手段としての嗅覚・聴覚・触覚の三感覚について論ずる順番がやって来た。といっても、上の文章を読んでもらえば分かるとおり、専門的な知見を私は持たない。そこで、識者の見解とは無関係に、今の私個人が思うところを書くことにする。したがって、これより以下は全くの駄文である。
文字数制限のため分割したので、続きは⇒anond:20221023224411
「女性が陰部を見せることで魔を祓う」という伝承に関する、本しゃぶり(honeshabri)さんのエントリを拝読したので、それに便乗して、思い出した雑多なことを書き残す。先に断っておくが、かなりくだらない話が多い。
中田雅喜(なかた・あき)という女性漫画家がいるのだが、彼女の代表作の一つで、80年代に成年向け雑誌『漫画ブリッコ』に発表した連載作品を一冊にまとめた『空は女の子でいっぱい』というタイトルの単行本がある。作品そのものの別名は『真・ダ○ボ』シリーズとも言う。伏せ字にしても意味が無いような気もするが、とりあえず○ィズニーが怖いので、形式的に伏せ字にしておく。
○ンボと言えば、耳が普通の象よりも大きくて、それで羽ばたいて飛行することが出来る、子象が主人公の物語である。
この『空は―』の主人公である少女も、身体の一部が通常の人間女性よりも大きく、それによって羽ばたいて空を飛ぶことが出来る。ただし『空は―』の主人公の巨大な身体パーツは、耳ではなく陰唇である。
ある日突然、X-MENのミュータントのように陰唇が○ンボ状態になってしまった主人公。女性に悪さを働く暴漢を巨大な陰唇で退治したり、人類からの差別や迫害に立ち向かったり、同じダ○ボ族たちと巡り会ったり、ダ○ボ族と人類の戦争が起きて巻き込まれたり和睦したりと、奮戦する主人公の姿と、普通の少年との淡い恋の行方。これら全てを描き切った一大ファンタジックSFエロチックコメディ絵巻である。念のために言うが、嘘は言っていない。ろくでなし子以前に、ここまでポップに女性器を強調したキャラクターを創造したクリエイターが存在したことは、日本のアート史上に記録しておいてよいであろう。
この最高に馬鹿げた漫画を執筆した切っ掛けが、果たしてどのようなものであったのか。それは、同じ作者によるエッセイ漫画『純情ももいろ日記』に経緯が描かれている。
この『ももいろ―』についても説明すると、現在でこそ、女性漫画家が性愛などについて赤裸々に語るエッセイ漫画や自伝的漫画のような作品は、決して珍しくもないが、中田による『ももいろ―』は、そのようなジャンルの先駆的作品である。日本漫画史上、もっと高い評価を受けて然るべき作品であると、個人的には考えている。
『ももいろ―』の内容も少し紹介する。例えば、成年向け作品の執筆に関して、誌面では最終的にボカシで消されるとはいえ、生原稿では性器を描かざるを得ない。他にモデルもいないし仕方が無いので、作者である中田雅喜は、自身や彼氏の性器の実物を見ながらスケッチしたという。そういったユーモラスなエピソードの数々が『ももいろ―』では、ポップで可愛らしい絵柄で描かれている。ちなみに、性器スケッチのモデルにもなった彼氏は、後に中田雅喜と結婚して夫婦になるのだが、漫画で描かれている外見的な特徴を見れば、彼氏の人の自画像そのままなので、誰なのかは一目瞭然である。よく本人がオーケーしたな……。器が大きすぎる……。ダ○ボだけに。
それで『ももいろ―』によれば、若き日の中田雅喜は、隙間風が吹く風呂無しアパートで暮らしており、冬の寒さに難儀していたため、ガス湯沸かし器を購入する資金が欲しかった。ちょうどそんな時に、知り合いの編集者が成年向け雑誌の仕事を持ってきた。その依頼を受けたことが切っ掛けで、中田は成年向け作品を執筆するようになった。そうして傑作『真・ダ○ボ』シリーズが生まれた。なお、中田雅喜は、無事にガス湯沸かし器を手に入れたそうである。
成年向け雑誌の仕事を中田雅喜のところに持ってきた、その編集者とは、何を隠そう「オーツカ某」である。この呼称を覚えている人がいたら、その人は若くない。これは、現在の大塚英志である。大塚英志といえば、千葉徳爾や宮田登の教え子であり、その学問的な素養を活かして『北神伝綺』『木島日記』『黒鷺死体宅配便』など数々の傑作を生み出した人物でもある。当時オーツカ某だった大塚英志が、漫画『真・○ンボ』の内容にどれほど寄与していたのかは定かではないのだが、もしかしたら民俗学や神話伝承などについて学んだ経験を活かして、アイデアを中田雅喜に提供したりしたのかもしれない。何か情報を知っている人は、教えて下さい。
かなり前置きが長くなったが、ようやく神話伝承の話題に繋がった。中田雅喜の『真・ダ○ボ』では、物語の終盤において「牙が生えている性器を持つ、女性の姿をした怪物の伝承」「自らの手で牙の生えた性器を広げる女性の姿を描いた石像」について言及される。そして「この恐ろしい怪物に関する人類の伝承は、遠い未来に遭遇する運命にあるダ○ボという異種族に対する、未来の記憶による恐怖の産物だった!」という話になる。分かる人には分かると思うが、これは勿論、アーサー C. クラークのSF小説『幼年期の終わり』が元ネタのパロディである。
さて、牙の生えた性器を持つ女性の神話伝承については、金関丈夫が「Vagina Dentata」と題した論文(岩波文庫『木馬と石牛』に収録)で、台湾や東南アジアなどに分布するものを特に詳しく紹介している。この神話は、日本列島にも存在する。
この神話群は、おおむね次のような内容である。「昔、とても魅力的な女性がいて、大勢の男たちから求婚された。しかし結婚しても、初夜に夫が死んだり逃げ出したりして、夫婦生活は長続きしなかった。その原因を調べてみたところ、彼女の性器に牙が生えていて、夫の性器を食い千切って死に至らしめることが判明した。その牙を抜いたり砕いたりすることで、彼女は普通の女性となり、新たに夫を迎えて幸せに暮らすことが出来るようになった(バリエーションとしては、単なる怪物として退治されて死んだといったものも存在するようである)」
この物語の典型の一つが、江戸時代の奉行・根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収録されている「金精神(こんせいじん)の事」と題する一篇である。これは、津軽で「カナマラ大明神」と称して祀られていた、黒銅(黒鉄)で作られた男性器型の御神体について、その由来を聞き書きしたものである。
この由来物語でも、やはり、牙が生えた女性器を持ち、それが夜の夫婦の営みの際に夫の性器を食い千切って死に至らしめるために、結婚しても夫婦生活が続かないという女性が登場する。その悩みを聞きつけた或る男が、この女性に結婚を申し込んだ。そして迎えた初夜、新しい夫は、自らのものを初めて挿入する代わりに、まず黒銅で作った男性器を妻の性器に挿入した。すると牙の生えた女性器は、黒銅の男性器に噛み付いたために、牙が砕けて全て抜け落ちた。それ以後、女性は普通の女性となり、つつがなく夫婦生活を送った。その時に夫が用いた黒鉄作りの男性器が、後に神として祀られ、今のように崇敬されるようになったとの由。
古今東西の神話や呪術において、男女のいずれの性器も、生命力や呪術的な力の源泉として神聖視される事例が数多い。その中で特に女性器は、妊娠・出産による人間の誕生という重要な役割を担うことから、生命の象徴そのものであった。しかし、それとは対照的に、Vagina Dentata神話で描かれている女性器は、牙を生やしていて、生命を生む存在ではなく、むしろ奪う存在である。これは、陰唇と口唇の形態的な類似と、性行為時に男性器を受け入れるという機能から、男性器を喰らう女性器という発想に至ったと考えるのが自然なことであろう。けれども、それだけではないように思われる。
Vagina Dentata神話の根底には「生命を生み出す魔力を持つ女性には、それと表裏一体のものとして、生命を奪う魔力もまた備わっているのが当然である」とする、呪術的な発想もあったのではないだろうか。ニギミタマ、アラミタマという言葉が示すように、聖なる力は、好ましい側面だけでなく、同時に好ましくない側面や荒ぶる側面を併せ持つとされることも多い。聖なる力が人間の役に立つ時には「カミの力」とされるし、人間に害を及ぼす時には「妖怪の力」とされる。こういった「カミと妖怪の間を振り子のように行き来し、変貌する超自然的な存在」という妖怪の有様は、京極夏彦作品に多大な影響を与えたことでも知られる妖怪学者・小松和彦の著作で、詳しく論じられている。女性器の神聖性に対して人類が抱いた、善悪判断を超越した畏怖の感情。それがVagina Dentata神話には残されているのであろう。
もう一つ。生命力の源泉という呪術的役割を巡る主導権争い、すなわち、女性原理と男性原理との間に生じた闘争や対立の記憶を、Vagina Dentata神話は今に残して伝えているのではないだろうか。『耳嚢』の金精神(こんせいじん)についての伝承は、生命を生むための呪術的な過程において、vaginaを重要視する女性原理から、phallusを重要視する男性原理が、地位や主導権を奪ったこと、男性原理の側から見た勝利の記憶を留めているのではないか。牙を失い、呪われた存在ではなくなった女性器は、その代償として呪術的・超越的な力を失って馴致されたとも読める。
しかしまた、こうも考えられる。生命力の源泉としての呪術的な力は、女性原理の場合、女性器の妊娠・出産の力として発揮されるが、男性原理の場合、男性器の種付けの力として発揮される。その一例として、田植え神事において、男性器を模した御神体を田圃の泥土に突き刺し、稲の豊穣を祈願するという儀礼が存在するという事例が挙げられる。金精神(こんせいじん)の由来物語も、新たな生命を創造する過程である男女の営みの中において、生命の根源に係る呪術的な部分で、男性原理の種付けの役割にも"平等に"重きが置かれるようになったことを示しているとも考えられる。そう考えるならば、つまり金精神(こんせいじん)の由来物語とは、男女双方の原理の二人三脚でなければ、人間は生命を生み出す呪術的な力を得ることは出来ない、女性原理だけ或いは男性原理だけでは決して呪術は成り立たないのだという「男女の共存・和合を説く物語」だと解釈することも可能である。対立や征服の物語として捉えるよりは、そのように考えた方が、建設的で平和的なのではないだろうか。
ところで、魔を祓うのとは少し違うが、男性器もまた、困難時に着衣を脱いで曝け出すことで窮地を脱するための呪術的な行為とするという事例がある。例えば、猟師が山で迷った時に、勃起した陰茎を山に向けて見せれば、山の神(女神)が喜び、その男性を助けて無事に下山させてくれるという伝承がある。
また一方で、女性器にも似たような発想の伝承がある。田植えをする時に女性が和装で下着を着けていないと、丸見えの女性器を田の神(男神)が見て喜び、田植え作業が早く進んで終わるように手伝ってくれるという伝承がある(そういったエロ話をしながら、田植え作業に勤しむ農村女性たちの活き活きとした姿を、宮本常一が記録に残している)。
このように性器を曝け出して超自然的な存在に祈願する人間の姿は、文明化した我々現代人の目から見れば、大らかではあるが、馬鹿馬鹿しく滑稽に映る。しかし、自らの肉体の恥ずかしくて重要な部分を曝け出すことができるというのは、相手が神(カミ)であろうと人間であろうと、それを捧げる対象に全幅の信頼や愛を抱いていなければ出来ないことであり、ある種の真摯さや敬虔さの証となる行為でもある。そう考えると、男女間の異性愛だけに限らず、全ての性愛行為の根本において、信頼や愛が何よりも大切であるとされることの原点が、これらの呪術的行為や図像には秘められているとも言えるであろう。
そう考えれば、魔力を持つ性器を曝け出すという古来の伝承や図像、それらの子孫として現れるポップカルチャー的な表現は、単にこれらを面白がるだけでも全く構わないとは思うが、改めて見つめ直してみれば、案外と我々現代人が真面目に学べる何かをも多く含むのかもしれない。
―――――――――――――――――――――――――――――
うんまあそれは別にいいよそこは問題じゃない、問題は序盤に宇宙人っぽい姿がチラっと見えてるのと明らかにUFOっぽいデカい鉄の塊見せておいて終盤に「宇宙人だ!!!!」って展開。
いや宇宙人やん!!!!最初っから宇宙人じゃん!!!驚きも何もねえよ!!!!
あと主役みんな棒演技なのは何でだよ!!!子役も結構大人びた見た目で小学生は無理があるだろ!!!
序盤、森にあるUFOを子供があるんですけど見つけたら見つけたで怖いから帰るって何それ?それまで興味津々だったじゃん。熊出没注意の看板が立ってる森の中を平気で歩いてるのに怖いも糞もあるかよ。
ていうか令和の時代に秘密基地と落とし穴で小学生が笑い合うの不自然過ぎだろ。落とし穴とか先に見せておいて終盤に宇宙人落としてこれが伏線だってかふざけるな
ていうか鉄の壁破って来る宇宙人が落とし穴でダメージ受ける訳ないだろ(受けてたけど)
そして父と息子の無駄な喧嘩なにこれ?まあ喧嘩するのはいいけど毎回抱き合って終わるのなんで?同じ展開何回も続けても面白くないよ
中盤、宇宙人がちょっと襲ってくるんだけど何故か主人公襲う時にオレンジ掴んで怯んで撤退するのよ
何で掴んだ?これも後の伏線のための無駄な動き過ぎて違和感が凄い
そして警察がいくらなんでも無能過ぎる、これ犯人が宇宙人だから仮に有能でも対処出来ないのに無能さが意味をなしてない。そして学校の教頭も無駄に嫌味ったらしい性格、これも意味など無い
あと町で過去に神隠しと言う名の宇宙人に攫われかけた爺さんが出るんだけど何で今町で行方不明事件起きてるの知らねえんだよおかしいだろ。
森で猟師が犯人だと思われてる熊殺したけど子供は食べられてなかったという展開
いや森に熊出るんかい!!!!!!!!めちゃくちゃ危ない森やないか!!!!!!
終盤、UFOが電磁波放って町全体が停電するところはちょっとだけ良かった。こんだけデカい規模で起こした騒ぎにどう収集つけるのか興味が湧いた。
「誘拐事件が多発してるので学校で待ちます」???おかしいだろ普通自宅待機だろ、せめて集団下校で学校に残る意味なんてないだろ。
宇宙人が襲ってたぞ!!!!しかも子供を誘拐して大人を殺すぞ!!!でも子供も誘拐じゃなくて実際には殺して栄養にしてるぞ!!!!!
いやなんで子供は誘拐されてて生きてること前提で話が進んでるんだよおかしいだろ。仮に変人だとしても死んでる可能性のほうが高いだろ。
宇宙人の弱点は細菌だ。中盤、宇宙人がオレンジに触れた時に怯んだのは細菌が弱点だからだ!!!!!!!
いや序盤で言ってなかったけど主人公は農家で細菌に感染したオレンジ燃やしてたけどそれ伏線??????ていうか細菌感染したオレンジ全部燃やしてたよね?????
なんか棒の先にタオル巻いてオレンジの汁付けたのを宇宙人に当てたら倒れたけどそんな弱いの?????傷口にとかじゃなくて触れるだけで??????
そしてその武器を逃げる時に捨てんなよ!!!!!!おい!!!!お前奥の手用意してるとは言えおかしいだろ!!!!!
ずっと持ってろ!!!!!
何で宇宙人一体やられただけで皆撤退するんだよ!!!!!!!!!!
何で良い話風に終わるんだよ!!!!!!おかしいだろ!!!!!!おい!!!!!!
俺がおかしいのかと思ってたけど映画終わった後周りも変な雰囲気が漂ってたのでこの映画が変だと思ったのは俺だけじゃなかったのかと安心しました。
「○○、なんてない」っつうタイトルの記事、とにかくタイトルが鬱陶しくて、糞食らえ!という気持ちになってまう
ほんまに気色悪いんや
ほんまに気色悪い上に、そのキショい「なんてない」構文に妙にこだわっているせいで、意味が不明になってしまっている記事すらある
センスがない
センスがなさすぎる
ゴキブリ以下の、ドブみたいな、ないほうがマシのセンスだ マイナスだ カスだ オタンコナスだ
イヤなんだ 見たくないんだ 他のタイトルにしてほしい
そんで、このクソ企画が、クソタイトルが、また妙に息が長いんだよ
去年くらいからずーっと、時折ホットエントリに現れて、俺に不快感を与えてくるんだ
なーにが「○○、なんてない」だ
どこがいちばんムカつくか?っていうと、実は、「なんてない」じゃなくて、「、」なんだよ
一回言い切ったあと、ちょっとタメをつくって、「なんてない」
タメをつくんなよ 腹が立つからよ
本当に腹が立つんだ ハラワタが煮えくりかえると言ってもいいかもしれない
せめてこの「、」がなかったらまだ許せてた
視認性だと後者のほうが下だけど、ムカつき度も下だ
腹立つねんマジでよ
だいたい、良い大人が、いつ「〜、なんてない」なんて言い方をするんだ
ガキっぽい表現をあえて使うことでアピーリングな雰囲気を出そうとしてんのかもしれないですが、ただただイリテーティング、ファックユー、アイヘイトユー、マザーファッキングバスタード、という気持ちにしかならない
実際、俺は最近何に対しても心が"凪"の状態になっていて、ほとんどのことには腹が立たない
元首相が死んでも、国家中枢が謎のカルト教団に支配されてても、戦争が起きても、「わー…」くらいの反応で済ませることができている俺が、「○○○、なんてない」という記事タイトルのあまりの気持ち悪さ、クソさ、ゴミさ、臭さ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ
それを木の葉でちょいと被せ!
殺すぞマジで いまの殺すぞというのは、俺自身に向けた言葉です
とにかくダメなんだよ 堪え難い
早く終わってくれねえかなあのクソ企画