はてなキーワード: 焦燥感とは
スタンド・バイ・ミーやイージーライダーが青春映画だと言われて今は納得出来る。中学高校の頃にそう言われてもピンとはこなかったと思う。へえ。青春とは死体を探して線路の上を歩くことなんですか。しょーもな。って。
例えば土曜の部活をサボって多摩川をチャリで下った思い出がある。
車のディーラーやファミレスがセーブポイントのように点在するばかりの幹線道路。歩いていてここは自分の居場所じゃないと思ってしまうような他所の住宅街。近くをウロウロしていても楽しくはない。Googleマップで面白そうな場所を探しても、近しい範囲に目ぼしいスポットはない。晩飯の時間もあるしそう遠くは行けない。
フラフラとチャリを漕いでいたらデカい川に辿り着く。見飽きた退屈な通りに比べたらなんだか妙に魅力的に見える。今日は半ドンで時間もあるし海でも目指してやろうって思う。
最初は楽しいけれど、すぐに川の流れも見飽きてくる。陸側の景色も「無」のような国道を挟みつつ、マンションか物流の倉庫か謎の事務所かの繰り返し。全部やたらと横にデカい。大きめの駅があるらしい、高い建物の密集する地帯が時々近付いては遠ざかっていく。
途中休んで水切りでもしてやろうかと思うけど、良さげなスポットは釣り人や浮浪者や遊び回るガキがいて近寄り難い。陰気な高校生が一人で水遊びするのもなんだか気恥ずかしい。
段々海を見ようと息巻いた気持ちも静まってくる。楽しさもなくなってただチャリを漕いでいると、段々漠然とした焦燥感のようなものが湧き上がってくる。「こんな事してる場合か?」って気持ちになる。先駆的覚悟だとか自己実現だとか、そんなような根源的な焦りや不安。大人になったら人から借りたそういう陳腐な言葉で片付けてしまうようなもの。常日頃感じつつ蓋をして押さえつけていたものが暴れだす。
焦燥感に駆られてペダルを漕ぐまま、結局晩飯の時間を考えて世田谷辺りで折り返した。海というゴールを迎えてればまた少し違う思い出になってたかもしれない。
後日友達にチャリで多摩川を20km下ったんだよと言って、バカでえと笑われた。その時はその程度の出来事だった。
後になってスタンド・バイ・ミーという映画を観て、それが青春作品に分類される事を知った。死体も拳銃も劇的な出来事も無かったけれど、華やかなものではなかったけれど、あれは紛れもない青春だったのではないかと思った。
川沿いを走るでもなく死体を探すんでなくても、別な形で同じ様な青春を過ごした人は沢山いるのかもしれない。抽象的な焦りではなく、進路考えないとだとかもっと具体的だったり切迫した悩みだったかもしれない。あの時の思い出はおれだけの宝物だと思っているけれど、誰でも似たようなことを経験するからこそ青春という言葉があって、スタンド・バイ・ミーも青春作品として支持されているのかもしれない。
先週大学をサボって多摩川をほっつき歩いてみた。あの頃感じた焦燥感が薄かった。
今は門限もなければ外食代くらい訳ないし、電車に乗れば海へ行くのも造作ない。自己実現が僅かにでも進んでいるから焦りが減ったのかもしれない。諦めたか、妥協を受け入れてしまったか、忘れ去ってどうでもよくなってしまったのかもしれない。
ナイーブな悩みにあまりしがみつきすぎない方が良いと思える程度のバランス感覚は手にしたような気がするし、それをすっかり捨てたら人間として終わってしまうような気もしている。
茜色の夕日を見て、短い夏が終わったのに子供の頃の寂しさがないことを少し思い出した志村正彦も似たような気持ちだったんだろうか。
青春と銘打って鮮やかに彩色してしまいがちだけれど、当時抱いた決して明くはないあの気持ちは忘れずにとっておきたい。それを忘れてしまったら、あの頃忌み嫌っていた、お前は子供エアプなのかよと思うような大人になってしまいそうな気がする。
明るい結末に終わらないアメリカンニューシネマも後味が悪い所はあるけど、その居心地の悪さは当時体験した青春への誠実さだと思うのでおれは好き。
この前食べた激辛料理のおかげで、まだお腹の調子が悪い。明日は図書館でまったり過ごそうと思ったのに休館日だ。上の階のクソ女は細心の注意を払います〜って描いた手紙をよこしてきたくせに変わらずうるせーし。舐めてやがる。憂鬱
そんなクソったれな時にピッタリな映画を観る。ウィズネイルと僕だ。
流石英国。なんで人間性も含めて最底辺、だけれど憎みきれない奴を描くのが上手いのだろう。今の私に刺さりまくりだ。色々書きたいけどいかんせん騒音ノイローゼになりつつあるのか集中力は無いし変な焦燥感はあるはでとてもじゃないけど書ける感じがしない。今もイヤフォンで音楽を聴いて気を紛らわしているけど、いつクソ女の頭の悪さが分かる話し声が耳に入ってくるのか考えてしまって休まらない。
この前食べた激辛料理のおかげで、まだお腹の調子が悪い。明日は図書館でまったり過ごそうと思ったのに休館日だ。上の階のクソ女は細心の注意を払います〜って描いた手紙をよこしてきたくせに変わらずうるせーし。舐めてやがる。憂鬱
そんなクソったれな時にピッタリな映画を観る。ウィズネイルと僕だ。
流石英国。なんで人間性も含めて最底辺、だけれど憎みきれない奴を描くのが上手いのだろう。今の私に刺さりまくりだ。色々書きたいけどいかんせん騒音ノイローゼになりつつあるのか集中力は無いし変な焦燥感はあるはでとてもじゃないけど書ける感じがしない。今もイヤフォンで音楽を聴いて気を紛らわしているけど、いつクソ女の頭の悪さが分かる話し声が耳に入ってくるのか考えてしまって休まらない。
暴力的かつ陰惨なシーンが多く、救いが無く、おまけに笑いの少ない作品だった。
ひろしは一有権者として、未来のない日本とそこで暮らす若者たちに責任を感じないのだろうか?
どうせ説教くさいなら、ジブリの方が良かったんじゃないだろうか?
でもですね、そんな不満もエンディングで吹き飛びました!
エンディングは動く漫画原稿風のアニメーションだったわけですがっ!!
そこではひろしの言葉に発奮した非理谷と成長したしんのすけが”仲間だ党”を結成し、総理大臣と官房長官にまで上り詰めた姿が描かれていたのです!
加えてモーニング娘。のLOVEマシーンが流れてきた日にゃ、日本の未来はWOWWOW!!WOWWOW!!!ですよ。二人の勇士に引っ張られてキラキラ輝いている日本があー羨ましいな!!って気分でしたね!
そもそも作中で誰も疑問を差し挟むことなく繰り返し語られる「日本オワタ」は明らかな政権批判!自民党批判!!そして無責任な大人たち(ひろしみさえ含む)批判であるわけですね。
可愛い二人の子供に暗い未来を残しておいて、何が頑張れだ!ふざけんな!!なんとかしろ!おまえは野原ひろしだろうが!!
違うんですよ。
その気持ちはわかる。確かにわかる。でもね、頑張るのはお前だよ!!!!!
みんなとお前と、どっちも頑張んないと、だめなんだよ!!!!
みんな当事者であり、そして仲間なんですよ。どれだけ政治的思想的に隔たりがあろうと、合法の範囲内で。
だから非理谷としんのすけの大成した姿に感動を禁じ得ないと同時に、それを献身的に支えたであろうひろしみさえと不甲斐なき自身を比較してやるせなさが心に堪えるのですね。
でも、この映画を見た全ての人が、ありとあらゆる様々な人々が、私と同じやるせなさ焦燥感を抱いているなら、これはやはり皆さん、道は違えどより良き未来を目指す仲間であると言えるのですね。
これこそが希望なのですね。
仲間がいると頑張れる。みんなのために頑張ると、自分も幸福になれる。
本当に素晴らしい映画だった。
ド田舎でフルテンでギターかき鳴らしてたら「答え」はここにあったんじゃないかって思った。
田舎は給料安いらしいけど、欲しいもののために金が必要なんであって金そのものが必要な訳じゃないしな。
西東京の郊外には絶叫できる道だってありゃしないね。家ばっか建ちやがってよ。
図書館も美術館も興味ない。ライブとかも行かない。欲しいものはネットで買える。どうしても現物見たきゃその時だけちょっと足を伸ばせばいい。
でもちょいと電車に揺られて都心をフラフラ歩き回るのは楽しいんだよなあ。神保町界隈やアキバから上野にかけてをフラフラ歩き回ってると、くるりやフジファブリックが歌ってる「東京」ってこういう事なんかなあって思う。
夜通しフラフラして始発で帰る時、早くから出勤の会社員もいれば学生だかフリーターだか分からんおれみたいなのもいる。疎外感だったり、寝ぼけてるのと浮かれてるので薄まった焦燥感だったりはあるけど、ウチん中で一晩中悶々としてる時よりは心地良い。
ネットの皆様が大好きな文化がどうのとかはどうだっていい。おれが歩き回ってて楽しいかどうかが全て。
現実逃避にとりとめもない事考えたりボーっと音楽聴いたりしながらフラフラ歩き回ってる時が後になって案外強く思い出に残るんだよなあ。
コンサータを18mgから32mgまで増やした段階で子供の頃から悩まされてきた眠気が改善され、雑念や焦燥感もなくなってだいぶ仕事しやすくなったのですが、先月最大量の72mg(32mg × 2)まで増やしたところ
・帰宅後薬が切れた反動が酷く、家事すら出来なくなる(家族からも薬飲む前の方がましだったという指摘あり)
・仕事中喉が渇く
といった副作用が酷くなり、一応今日まで様子を見ていたのですがこのままだと今の現場にも逆に迷惑を掛けてしまうので病院と相談して明日より先月までの32mgに戻して様子を見ることにしました。
コンサータ自体ドパミンやアドレナリンの量を増やす仕組み上、覚醒剤に近いようなものですし、自分の周りでもこの手の薬を服用しておかしくなった方がいたのであまり頼りたくはなかったのですが、確かに効果はあったのでこれからのことも踏まえ当面続けていきたい・・とは思っているのですが、最大量はさすがに多すぎたようです。32mgだと特に変な副作用もありませんでしたし、確実に改善は見られたので少し様子を見て病院と相談していきたいと思っています。
せっかく転職できたのに伝えた時点で解雇されてしまうのが不安だったのもあって伝えるべきか迷ったのですが、会社の社長さんには電話で自分がADHDの診断を受けていること、薬の副作用でパフォーマンスが落ちていることは伝えました。幸い理解はしてもらえたました。今の現場での作業が諸事情で年内から来月末に短縮されてしまったのですが、その期間一度一緒に昼食を取ろうというお話をいただいているので、そのタイミングで改めて自分が不安に感じていることを正直に話そうかなと考えています。
ちなみに転職したのはエンジニア(SES)の会社です。好きなことを続けていきたかったので、これから資格の勉強などもやっていきたいと思っていますし、ADHDの特性(過集中)を生かして長く続けていきたいと思っています・・・
ブログ含め何かを書く作業が好きだったのですが、正直現状この趣味にすら影響が出てきているので・・・
一応現場のチームメイトさんにもADHDの件は伝えていますし、ADHDだから配慮してくれなくていいとも伝えてあるのですが、残り少ないとは言え一緒になった仕事仲間に不快な思いはさせたくないので今日の午後、作業に影響するようであれば無理せず早退しようかな・・・と思っています・・・ただ残り5〜6時間で作業終了ですし、最初の案件なのでどうしても頑張りたいという気持ちもあるので結局最後まで残ってしまうことになりそうですが・・・
いわゆる「中抜きおじさん」系の仕事をしています。謙遜と自虐とネット的なシニカルへの媚びを込めた自己紹介にはなりますが。
「中抜きおじさん」なので自分が直接手を動かして実作業をすることはまずありません。
やるのは他の会社に実作業をふることと、発注元や上司に向けた資料作成ばかりです。
業務が無事完了しても「ここは俺がやったんだよな~~~」と思う部分は全くありません。
なので「あの仕事に関わっていたんですか~~~凄いですね~~~」と言われても全く響きません。
だって自分がしたのは業務発注の交通整理だけで、最終的に自分が手を動かして何かをやったという実感はないのですから。
反対に「あの仕事ってここが駄目だったですよね~~~」と言われると自分の責任を猛烈に感じてしまいます。
もっと早く発注をかけられていれば工期にもう少し余裕があっただろうにとか、この仕事はあっちの会社にやらせた方が効率的だっただろうなとか、そういったことが頭をよぎります。
クオリティコントロールにおいても、自分がビビらずに毅然とした態度で接していれば曖昧にせずに済んだ部分が数多くあったはずだと頭を過ぎることばかりです。
何より辛いのは実際に「まだ終わってないのか」「もっと上手くやれたんじゃないのか」「コミュニケーション不足だろうが」という非難を受けることです。
なまじっか自分の手元にはいくつかの選択肢があったわけですから、その中で他の道を選んでいればというタラレバが頭の中でずっとグルグルしてしまう。
その癖して「今回はよかった」「流石ですね」と言われたときには、「単に今回は予算があっただけだよ」「結局褒められているのはウチの会社のネームバリューや人脈でしょ?」としか感じ取れない。
仕事をすればするほどネガティブな感情が溜まっていくのに、プラスの感情は全く蓄積されない。
足りない分の精神力は日常生活の中で少しずつ回復する分から吸い取られていくので、仕事をすればするほどにただただ衰弱していく。
もう仕事なんて全くやりたくない。
頑張って仕事をするほど仕事を増やされてドンドン心が痛めつけられ、仕事をしなければ結局仕事上の失敗が積み重なって心が押し潰されていく。
辛い。
仕事を通して「俺って今回に限ってはよくやったよな~~」ぐらいのことを感じたい。
この仕事をしていると他人に何を言われても「結局お前は俺が管理している財布の中身にしか興味がないんだろ?」「ハンコを押してくれればあとはどうだっていんだろ?」という気持ちばかり湧いてくる。
持ち上げられようが貶められようが、予算と承認をこっちから引き出すための権謀術数に過ぎないんだろうなと穿った気持ちでしか考えられない。
もう何もかもが嫌だ。
自分の手を動かして出来たものを眺めて自己満足に浸れるような仕事をしてみたかった。
そう思って入ったはずの業界だったのに、気づいたら右から左にものを流すだけの仕事をしている。
何も面白くない。
俺のやっていることは電話交換手と何も変わらない。
それが本当に単純作業で脳を殺して働けばいいだけなら耐えられたかも知れない。
実際には複雑なパズルだったり間違い探しだったりをいくつも繰り返した果てに、やってきた仕事をほぼ丸投げするだけの仕事をしては、存在もしない満点を基準に罵声を浴びている。
そもそも元請けが直に作業者に発注していればよかっただけじゃないかという憤りと、もしもそうなったら自分たちは仕事を失うのだなという焦燥感と、そもそもそれでいいじゃねえかという逆ギレがいつだって入り混じっている。
仕事が辛すぎる。
転職したいが、この仕事を通してなにか能力が身についたとは全く思えないし、そもそももうこの業界でもこの業態でも働きたくない中で、どうやって他所に逃げれば良いのかもロクに思いつかない。
なんだかもう世の中が全部嫌だ。
どの仕事をやっていても、結局自分の性格だと同じように感じるのだろうか。
実際に手を動かして仕事をした所で「元請けが取ってきた仕事を単にやっているだけのロボットでしかない」と感じ、それでいて「俺がもっと細部を煮詰めていればもっと良いものが出来たはずなのに」と悩んでいたのだろうか。
そしてどこまでいっても褒められた時は単にその立場そのものが持つ機能への称賛だとしか思えず、ネガティブな言葉は自分に多くの責任があったと感じて落ち込むのだろうか。
どうすればいいんだ……。
子供の時の自分の方が、大人になった自分よりずっと賢かった。さっき娘を叱っててふと子供の頃に考えていたことを思い出した。
大人になることは許されないことが増えていくことだ。
うちはシングルマザーで幼少期に教育というものはほとんどなくて放置されている方が多かった。
よく川で魚を獲って遊んでいた。
小学1年か2年くらいになって多分学校の先生に右と左わからないの藤井くんだけですよ。とでも言われたんだろう。
その発言で今まで何も教えてこなかった親が焦燥感から慌てて右と左を教えてきた。
聞かれて答えるけど、間違えると叩かれた。
右は箸持つほう。左はお茶碗持つ方とか理屈で教えてもらえたらよかったんだけど。左は?右は?みたいな感じで感覚で覚えさせられた。多分感覚で即座に答えられるものだと思っていたんだろう。感覚で答えられないのはおかしいと思っていたんだろう。
今までそんなことはなかったから、叩かれるのが怖くて感覚で答えるんだけど、理屈が分かってないから間違える。泣きながらパニックになりながら答えて間違えてまた叩かれた。
そんな親のもとで生きていて昨日まで許されていたことがある日突然許されなくなることが何度かあった。
でもそれを少し経ってから振り返ってみると、方法はどうあれ、許されなかったことはやはり生きていくことには必要なことで、大人になることは当然に出来ることが増えていくことであり、当たり前が増えていくことだと思った。
そして大人になると。許されないことは自分のことだけでなくなり、家庭を支えること、安定して収入を稼ぐこと、生活水準を落とさないこと、などなと社会性を増してくる。
そう働いてお金を稼げないことは許されないことになる。
妻の方が稼いでるという家庭はあれだが。夫の収入に頼っている家庭は、そんな大人になって課せられる高度な許されないことを夫は頑張ってこなしている。
なのでそんな家庭はもう少し夫を敬って欲しい。なぜなら夫は許してもらえるように必死で戦っているから。大人としての自分という在り方を全力でまっとうしているから。
偉いよ。世の中のお父さん。
半年前、精神疾患による困難が生じ仕事を辞めた。何もせず半年経った。
起きては寝るのを繰り返す。一歩も外に出ず床に臥せる。たまに娯楽に興じてみるがすぐに焦燥感に支配されやめる。通院すら困難。
昨日やっと元気が出てずっとできていなかった部屋の掃除をした。乗らなさ過ぎてあがっていた車のバッテリーを復活させてもらった。
すごく活動的だったので、今ならいけるかも!と思い、復職に向けてそこら中に連絡した。
電話で話している内に苦しくなってきて号泣した。頭が痛くなった。
心を許していない人に向けて自分の話をするのが苦手だ。
特に疾患と就職の事を話すと確実に泣く。冷静でいられなくなる。
「自分という存在は相手の想定の埒外だ!」と思うと、泣いてしまう。
話せば話すほど「自分の現状はどうしようもないのだな」と絶望的な気分になる。唯一の突破口が自死だと思える。
世界の全てに甘えているし、自分は出来損ないであり、恥ずべき存在だという感覚が全身を支配し、結果涙が止まらなくなる。
負い目がある。恥ずかしくてたまらない。まともに働けない自分。他者とのコミュニケーションに障害がある自分。死にたい自分。被害妄想と加害妄想。
薬を飲んでいないからこうなるのかもしれないな。
でも今の処方に気分安定薬はない。診察の際は気分が安定しているからかもしれない。
診察中に号泣すればいいのか?薬を飲めばこのカス人格は矯正されるのだろうか。
炭酸リチウムを体にぶち込んだところで健康的な腎臓が濾過してしまうのになんの意味が。
金がないのに毎月毎月薬に金を払うのも大変だし。金がない。そうだ。働かないと。外に出ないと。
働き出せば少しは自信が付くと思ったし、お金があれば自由に買い物ができるんだと思っていた。全然違った。
くだらないことで延々と悩み、傷付き、泣き、欲しいものは買えず、死にたさはずっと付き纏い、もう縁が切れたはずの苦手な人間が夢に出て来る。
眠れないし、眠りすぎる。
嘘ばかりついている。
どうしてみんな働き続けられるんだろう。
恵まれた環境に居ると思う。働けなくても、一応しばらく生きていける。
このままではダメだが、現状を動かして、酷い目に遭いたくない。
書いたら少しは楽になるかもしれないと思い書いたが全然だった。死にてえ~
先月からストラテラ・・・のジェネリック、アトモキセチンに加え、コンサータ(18mg→36mg)も処方されるようになったのですが、今月からアトモキセチンはいったん終了、その代わりコンサータを成人に処方できる最大量の72mg(36mgを2錠)まであげてとりあえず様子を見てみることということになりました。
コンサータ・・・というか成分が同じリタリンは過去いろいろと問題になったこともあって、認可を受けた病院・薬局でないと処方できないようです。ADHD治療薬としてはストラテラ(アトモキセチン)と比較して即効性があるのが特徴で、一日飲むと効果が12時間続きます(ただしこれは人によって異なります)。
自分の場合は18mgから36mgに増やした時点で子供の頃から悩まされてきた日中の眠気が軽減され、仕事中に感じていた焦燥感もだいぶ軽減されていろいろと楽になりました。もちろん製がつや仕事も含めミスが完全になくなるわけではありませんし、仕事中メモを取るようにしているのですがだいぶいろいろと楽になったような気がします。まぁ本当は薬に頼らない方がベストなのですが・・・特にコンサータの場合、長期的に飲んだ場合どうなるのかわからないのでその辺は不安ではあります。
ちなみにストラテラ、コンサータともに「アイディアが浮かばなくなる」とよく言われていますが、自分の場合そのようなことはありませんでした。アイディア自体は4月の治療開始前と同じく浮かんできますし、むしろコンサータを飲んだ結果落ち着いて作業できるようになったような気がします。
ただ3割負担だとコンサータ 72mg 一ヶ月分で約8,000円とえらく高価なのがネックです。ジェネリックは今後も登場しないので毎月8,000円負担するのはアレなのですが、幸いADHDだと自立支援医療制度が使えるので、今月中に手続きを行う予定です(受理されるのに2ヶ月かかるのでそれまでは3割負担で支払う必要はありますが・・・)
昨日暑すぎるねん。
朝でも夜でも外にいるだけで汗ダラダラかくからダメージ受けましたわ
自分の無力さと甘さを痛感したよ。
太もも痛すぎて眠れない…。
今日は朝5時に起きたはずなのに、まだ目がぱっちりしてる
久々に全身筋肉痛になるレベルのことをしたけど…全身筋肉痛の一番嫌なことは
ということですね…。
全身筋肉痛が痛すぎて寝られなかったのは中学生の時に、病み上がりに1800mを本気で走って、150人中18位になった時以来。
その時に比べたら冷静だけど
特別運動できるわけじゃないけど、中学時代は少年野球をやってた貯金で持久走だけはけっこう早かったので…意地になって病み上がりに本気出して全身筋肉痛になりました。
中学まで持久走強かったおかげで、底力がついて大人になっても山登りや肉体労働する時に役に立った。
色々筋肉痛になってきたけど、個人的に「なりたくない筋肉痛」トップ3は
1位、全身筋肉痛…体が緊張しすぎて寝られない
2位、利き腕が筋肉痛…握力がダメになるから、デスクワーク全般が辛い。
ですね…。
痛みには慣れても弊害は辛い…
ような気がしてきた。
今日、全身筋肉痛なんだけど…もうね、ずっとお腹の調子が悪いんだ。
寝ることもできないが、置きてても集中力散漫でゲームも音楽聞いてるのも続かんくて辛かった
痛い事自体には耐えられるようになっただけど…集中力がないことで1日が長く、しかもカチッとハマらないことへの焦燥感っていうのはやっぱ辛い。
最近、熱中症で寝込んだこともあったから言うけど、過度な筋肉痛はもう病気で寝込むより辛い。
下手に動けるけどまとまらないし、眠れないせいで辛い
なんでもそうだけど、体のスイッチがぶっ壊れるまでやっちゃダメです。
体のスイッチがぶっ壊れると「休んで治す」ことができなくなるから、追い込むと言っても休んで回復できるレベル(休めるレベル)にしておかないと…追い込んだ次の日が本当の戦いになるかも
昨日に続いて、なかなか寝付けない割にすごい早い時間に起きるぐらいに痛かった。
でも、ソシャゲを続けられるぐらいには、集中力は戻ったし、体重計に乗れば体脂肪率が減って筋肉が増え始めてる。
峠は越えた。
これ、うつがひどい時もそうなんだけど…一番悪い時はゲームもできないので「横になって、規定の睡眠時間まで体だけでも休ませる」のが辛いんですよ…。
だから、もう「ゲームだけでもできるようになった!」というのは、どん底を脱した証拠なので本当にありがたい。
痛みを和らげられる
人間のパフォーマンスは、NARUTOのチャクラコントロールの理論に近いと思ってて、
「身体と精神のどちらかのエネルギーが不足してると、できることが限られる」
わけです。
ゲームしかできない・ゲームさえできないは心と体、どっちかのコンディションが悪いから大きな事ができない状態
ゲームに限らず、なんでもいいけど…
「うまくチャクラが練れない(コンディションが良くないから、高度なことができない)危険な状態になった時に増えてしまう時間や悪習」
ライフハックにも満たない「自分のトリセツ」といえばいいのかな?
ちなみに、
「心か体の体調が良くない時についついやってしまうこと」
これが、やけ食い・やけ酒・ギャンブル・性・暴力という人はよりお金がかかったり、トラブルに巻き込まれて大変だと思う。
善悪以前に、「大変」だろうと思う
「人間は正しく真面目に生きるべきだ」
とか言うてたんですが…正しいこと・真面目なことってだいたい消費する体力がハンパないからね…。
行いだけを見て、善悪、真面目不真面目決めるのはまぁまぁ危ない思想。鶏卵な部分もあるし
話それたけどアレや…。
今は、心か体が辛い時でも
時間はムダにするかもしれないが…大きなリスクがなく充電できるので…そこはいい時代なので、うまく活用していきたいし、されてほしいと思うよ
ただ、心がしんどいときにも、体がしんどいときにも使える「サウナと日帰り温泉」はなんやかんやコンディション調整では最強だと思う
心がしんどい時は周りの音を全部切ること。