はてなキーワード: 注文の多い料理店とは
「注文の多い料理店」と聞いて、メニューの品数が多い料理店のことだと思う現代人はまずいないだろう。
あの小説では、そう解釈していた大正時代の紳士たちが、注文を出されていたのは自分たちだったことに気づく瞬間がクライマックスになっている。
それと似た話だが、「カンバセーション…盗聴」という映画では「He’d kill us(彼に殺されるかもしれない)」というセリフが「He’d kill us(殺される前に殺してしまおう)」を意味していたことに主人公が気づくシーンがクライマックスになっていた。
この映画の場合も、英語でなければ、どんでん返しの快感が味わえない。
「注文の多い…」も「カンバセーション」も、現代の日本では、どんでん返しがあったことにすら気づかれないまま受容されてるみたいなので、どんでん返しは無ければ無いで何とかなってしまうものなののかも。
タイトルまんま。現実の知り合いに話すわけにもいかないし、ここに書いておく。
田舎あるあるだろうけど廃墟みたいな、っていうかこれ廃墟じゃないの?って言いたくなるくらいボロいラブホの存在は知ってたけどまさか自分が行くとは思ってなかった。いつも遊びに行く方面とは違う方に行ったのもあってノリで入ってしまった。(でもラブホって意外と面白いから予定が潰れたらフリータイムで映画見たりごろごろしたりする)
多分昼間の姿しか知らない地元の子供とかは廃墟と思ってるだろうし小学生の私が通りすがったら廃墟だと思ったろうし夜に立ち寄った現在の私もこれは廃墟だけどヤンキーの溜まり場になるの防止で照明と監視カメラだけ通電させてるのかと思った。1台も車停まってない。暗い駐車場の端っこに1台原付が停まってるだけ。スタッフの物だろう。そうじゃなきゃ怖い。雨の音しか聞こえない。彼氏もやめとこうかと言い出したけどせっかくだし面白そうだから入店。
びっくりしたのはまずめちゃくちゃ寒かった。外の方があったかくない?って言いたいくらい寒かった。そんで部屋選ぼうと思ったら半分くらいの部屋が使用中。いや誰も車停まってなかったけど。この辺のカップル全員ここまで徒歩でここ来てるのかそれとも老朽化が激しくて使えなくなってるのかわかんないけどとりあえず使える部屋を選ぼうと思ったら写真が日焼けしすぎててほぼ見えない。適当に空いてる部屋のボタンを押す。廊下は暗いけどどこかから少し物音はするので誰かはいるんだろう。マトリックスのポスターが貼ってあったのが印象的だった。
部屋に到着。ここもまためちゃくちゃ寒い。最初の印象はばあちゃんの家みたいだった。泊まりに来た時用意してくれてる来客用のあんまり使ってない部屋、みたいな感じ。扉が多いのは寒いところ向けみたいなこと昔注文の多い料理店で読んだけど流石に扉2、3枚じゃ大した効果がないんだと感心する。エアコンをつけるけど全然風が出ない。電源入ってるか怪しみつつ彼氏と2人で震える。いつまで経ってもあったかくならないので先にシャワーでも浴びて暖まろうとお風呂場に行く。ここもまたばあちゃんちみたいなちっっっっさい湯船。明らかに昔これバランス釜だったんだろうなーって形だった。タイルは寒いし排水溝から嫌な匂いがする。勘弁してよってなったのはシャンプー、リンス、ボディソープに並んで使いかけのローションがあったこと。半分くらい残ってたけどいつのやつかもわかんないしうっかり間違って手に取りそうでビクビクした。最初はこんなリフォーム前のばあちゃんちの風呂なんか入れるか!と思ったけど寒さには勝てなかった。シャワーで体をあっためてから部屋の中を見物することにした。その頃にはあのボロいエアコンもじわじわ風を出してたし。
私はラブホもビジホも観光ホテルも備え付けてあるパンフレットなんかを見るのが好きで隅から隅まで読んじゃうんだけどあそこのはすごかった。全部じゃなかったけど手書きの紙がラミネートされてた。マジックで縦書きに。内容は散らかすなとかテーブルに置いてあるお菓子はサービスだとか料金とかその辺だったと思う。他にも宿泊の人は朝食サービスが出るとか軽食サービスについてとか書かれていた。一応怖くなったのでお菓子の賞味期限もチェックしてみたけど普通に数ヶ月先だったので食べた。ちなみにうまい棒と味ごのみとなんかよくわかんない小さいチョコだった。ここもばあちゃんちですか。持ち込み用冷蔵庫の中に冷凍パンケーキが入っててサービスと書いてあったけどこれは食べる気が起きなかった。彼氏は備え付けのウォーターサーバーの水だけ飲んでいた。
ネットで「廃墟みたいなラブホ」で検索するともうすでに廃墟になってるラブホの紹介の記事が大半で、もうちょっと下に心霊系のネタとしてボロいラブホに泊まる企画の記事や動画が出てくる。今回のもそれに出られるくらい古くて暗いホテルだった。そんなホテルだけど何故か公式ホームページも持ってるし、ラブホ紹介サイトにもしっかり登録されている。PR部分に「アットホームなホテルです♪」と書いてあった。ラブホにアットホームさっている?
精算方法は意外にもエアシューターじゃなくて自動精算。かと思ったら機械が故障していてスタッフの人が回収しにきてくれた。ごく普通の、丁寧な人だった。ここで初めて自分たち以外の生きてる人間に会えてホッとした。いや普通はラブホで人に会ってホッとするとかないんだけど。料金はめちゃくちゃ安かった。
一部では昭和ラブホがエモいとかカワイイとかゴージャスとか言われてるけど虫とか不衛生さが無理な人は行かない方がいいんじゃないかな。綺麗なところもあるだろうけど博打だし、和式トイレのラブホとかお風呂に石鹸ひとつあるだけのラブホもまだ残ってるらしいし、口コミほとんどないからどんなところかもわかんないし、多少珍しかったりエモさがあると昭和ラブホ好きな人の口コミやレポがあるけど大体はそれもない。
某中古車販売店の恫喝LINEなんかを見ると、またこのパターンだなと思う。
あらゆる洗脳によって身近な人間が何人も姿を消していった増田なりに考えた洗脳についての話です。
洗脳と聞くと誰か特定のターゲットに行うものと思われがちだけど、実はそうでもなかったりする。
例えばカルト宗教を思い浮かべてもらえるとわかりやすいのだけど、来た人間全員を洗脳しようとは思ってはおらず、間口は広くしておいて洗脳に引っかかった人間だけが残るような仕組みになっている場合の方が多い。
つまり、「Aを洗脳しよう!」ではなくて、「A、B、C、D、E、Fにそれぞれ洗脳を試してみて、B、Eが洗脳に引っかかったから次はより強い洗脳を試そう。」といって絞り込んでいくような感じだ。
なので、洗脳というのは割りと結果論的な側面が強いパターンが多いよというか、むしろほとんどですよということをまず知ってもらいたい。
言い換えれば、誰にでも効果が期待できる洗脳を追い求めるよりも、洗脳にかかりやすい人を探したほうが早いよということ。
某中古車販売となんの関係があるの?と思うかもしれないけど、恫喝は典型的な洗脳の手段だと思ってください。
洗脳とは、簡単に言えば相手を自分の意のままに言うことを聞くようにすること。
逆を返すと、どのような状況であれ自分の意のままに言うことを聞くようになっていれば、それは洗脳が成功しているとも言える。
この違いは何かというと、そこに本人の納得は必要ないという点。
宗教のように心から相手を信頼してしまうパターンもあれば、自分は納得していないけど大きな借金があるから言うことを聞かざるを得ない状況というのも、等しく洗脳されている状況といえてしまうのだ。
手段や関係性はどうであれ言うことを聞く状況になってさえいれば、それは洗脳において成功と考えてなんの差支えもない。
恫喝というのは世間一般で考えればどう見ても間違ってる行動だ。
それによって離れる人間もいれば、自分が悪かったと受け入れる人間が出てくる。
さらに言えば、恫喝された他の人間の反応を見て自分も恫喝する側に回れば支配する側に回れると考える人間だっている。
一度くらいなら自分が悪かったと思ってこらえる人間がいるかも知れないが、それが当たり前に何度も続けば結局は残った人間は恫喝を受け入れた人間だけということになる。
つまりこの状況は、恫喝という非常識的な行為を繰り返すことによって、それでも言うことを聞く人間だけに絞り込めた状況と考えて差し支えがない。
そこに言うことを聞くようになった理由は必要ない。言うことを聞くという事実こそが重要なのだ。
洗脳する側にしてみれば言うことを聞く人間だけ残ればいいのだから、まともな判断力を持った人間はむしろ不要で、恫喝を受け入れた人間だけでなくそれを理解した上で利用する側に立った人間だって必要な人間だと言える。
この点も、信仰の強い信者だけでは宗教が広がっていかないのと同じで、同じような手段を理解した上で行使できる宣教師も必要だということと非常に近しい。
なぜ恫喝を受け入れざるを得なかったのか、その部分を説得や集団心理などを利用して騙していくことを洗脳だと考えている人も多いだろう。
しかし、それが最初にいった洗脳に対する誤解が多い部分でもある。
そこを自分たちで説得するよりも、注文の多い料理店しかり、正常性バイアスで受け入れてしまう人間を探したほうが早いと言うのが現実だ。
それならば、まずは相手がどのような考えを持っているかを知るよりもさっさと恫喝してしまったほうが結果は早いのだ。
某中古車販売店で言えば、その点において用意したものと言えば高い報酬と人間的成長くらいであろう。
ただし、人間的成長は逆説的に行なえない側を幼稚とするものだったと思われるが。
それでも納得しない人間たちを説得するよりは、ついてきた人間だけを選んでいったほうが遥かに効率がよいのだ。
今回はたまたまトリガーになったわかりやすい例が恫喝だったが、増田自身は勝手にそれを裸踊り的儀式と呼んでいる。
しかし、洗脳されている人間にしてみればありとあらゆる理由をもって裸踊りをする自分を肯定できてしまう状況にある。
つまり裸踊り的儀式とは、洗脳の手段ではなく洗脳度合いの効果測定を目的としている。
はじめから裸踊りをさせるわけではなく、最初はもっと小さなことから行われる。
人前で大声を出すとか、駅前を掃除させるだとか、普通ならやらないようなことに何かと理由をつけてやらせてみるのだ。
それでもし言うことを聞くようであれば、次のステップへと進む。
離脱してしまえば仕方ないし、迷っているようであれば背中を押すような理由を用意する。
そうして少しずつ洗脳の効果測定をしては、思い通りに動く人間を選別していくことが洗脳の本質であると考えている。
そういう意味では、落ち葉掃除のために誰もが犯罪だとわかるような枯葉剤をまいてしまうという行動も、すっかり洗脳が浸透している状況だったとも言えよう。
裸踊りには、周囲から奇異の目を向けられることによる社会的孤立という副次効果もある。
社会的孤立によってその2つから遠ざけることができれば、より洗脳をしやすくなるのだから選ばない手はない。
つまりは、ここが洗脳から助け出せる最後の分水嶺だとも言える。
もし何か怪しい方向に進んでいる近しい人がいるならば、突然社会的孤立につながるような行動が増えたときは要注意だ。
それが公序良俗に反していないだけであって、誰もが最初はおかしいと思うようなことでも、いつかは望んでするようになるし人に勧めたりもするものだ。
一部の体育会系運動部が好んで行う人前での奇行なんかはまさにこれだ。
過去に体育会系大学出身の人材が就職に好まれたのも、すでに洗脳されやすい土壌が学生生活の中で作られていたことが理由であろう。
そして何もこの話は対岸の火事ではない。
むしろワンマン経営者の中小企業に多いし大手学習塾でも当たり前のように見られる。
それ自体を悪だとは言わないが、仮にこの裸踊り的儀式の兆候が見られたときはそれより先に進むべきかどうかは必死で悩むべきだろう。
人間が自分の意志だけですべてを決定できるとは思っていないが、誰かの欲を満たすための道具にされることを望んでいる人なんていないはずだからだ。
今までのラブコメって受け手に対して物凄くワガママで身勝手だったんだ。
「今は助走期間だから」
そうやって受け手に対して物凄い負荷をかけ続ける注文の多い料理店が平成中期までのラブコメだった。
読者は何処から読んでも幸せで、いつだって楽しんで読みおわれる。
からかい上手の高木さんとかがそれだ。
そういった作品を「ストレスフリーで軟弱」「やれやれ最近の読者は」「ゆとり世代乙」「なろう小説かな?」と馬鹿にする人もいる。
でも読者が満足するのはそういったいつだって面白い作品なんだよね。
最後の最後には報われると信じて走り抜けた先にあるものには、信じて最後まで走り続けたって余計な要素がつきまとう。
それは恋愛ものを楽しむにあたって単なる不純物で、本当に欲しかったのは積み重ねた絆で、だったらそれってずっと幸せな姿のままでいてくれた方が積み上がるんじゃねって我々は長い長い平成の時間で辿り着いた。
その向こうで生まれた令和のラブコメが、いつだってクライマックス、いつだってストレスフリー、いつだってハッピーエンド、いつだってラブラブ、いつだって全員がメインヒロイン、そんな夢のような作品。
その代表が100カノなんだ。
ソレに対して、平成初期のラブコメ、いいや昭和のラブコメとも言える価値観を引きずって、ダラダラとヒロインレースを続けた挙げ句、その責任さえ果たそうとせずに逃げてしまった僕便なんだよ。
僕便も、生まれたのが昭和の時代だったら皆に歓迎されたかもしれないね。
でも時代が違うんだ。
今の時代にはお呼びじゃない。
ずっと不思議だった。
どうして100カノがこんなに売れてるのかって。
でも僕便のおかげで分かったんだ。
僕便、君にあえて本当に良かった
どうでもいいけど、「注文の多い料理店」を思い出した。
anond:20191011152715 の続き。
その授業は全くといっていいほど、眠くならなかった。
先生は結局、自分の好きな作品語りで講義時間を使い果たしてしまった。ただ好きな著者や作品を語るだけの、講義と言えるかよくわからない時間だったが、俺は数式を写すよりも楽しくその内容をメモしていた。一番のお気に入りは三島由紀夫の「金閣寺」らしい。著者の切腹のエピソードなども挙げ、その不思議な人間性の話を、重く、楽しそうに語っていた。
終了時刻に近くなると、急に我に返ったようになり、先生はプリントをこちらに配った。一枚目はアンケート用紙で、二枚目は文学入門書の序章の写しのようだった。先生はアンケート用紙について「それ提出したら、帰っていいよ」と呟き、また入門書の写しは次回までに読んでくるように、と指示した。しかしこの入門書が、なんというか、堅苦しくて読みづらそうでげんなりした。その文章の塊を横目に、俺はアンケート用紙に手を伸ばした。
「文学とは何ですか?」初っ端からのこの質問に、俺は手も足も出なかった。
え、文学ってなんなの?
俺は文学という科目を履修登録したくせに、文学については何も知らなかった。「文学」と称されるもので自発的に読んだものといえば宮沢賢治の「注文の多い料理店」とか、三島由紀夫の「美しい星」とかだ。読んだは読んだ。でもだからといって文学が何かなんて、よくわからない。傑作とされた小説が、文学なのか?それともたくさん売れた、読まれた小説が文学なのか?普段本を読まない人間には、よくわからない。
そう思いながら俺は尤もそうな、うわべだけの説明を書き入れた。
他にも「好きな文学はなんですか?」「好きな言葉は?」「ノーベル賞を渡したい人は?」などと質問があり、モヤモヤする答えをひねり出しては、消しては書いてを繰り返した。最後の質問に関してはいくらか浮かんだが、著名人なのに漢字で書けないのは嫌という変なプライドが頭を持ち上げて、結局漢字が分かる三島由紀夫にした。先生みたいに強い思い入れもないのに、いいのか?なんて考えていると、終了時刻になってしまったので、結局そのモヤモヤを残したまま、アンケート用紙を提出した。
日本アニメではなぜ徹底的に電線が描かれるのか?を海外メディアが推察
https://gigazine.net/news/20171225-why-anime-power-lines/
アニメにおいて背景・風景として電線が描写されることはエヴァ以前からもちろんあった。
そういった時代の記憶を引き写した風景の中であくまで添え物として、
あるいは便利なオブジェクトとして最低限の作画で描かれていたのが、電柱と電線。
鳥が電線にとまっている、ゲイラカイトが電線にひっかかった、犬が電柱に小便、電柱に隠れて尾行。
エヴァとは何か。
エヴァの深夜再放送の高視聴率が深夜アニメのパイロット版として働いた。
その後、エルフを狩る者たちから深夜アニメ放送の歴史が幕開ける。
異様なこだわり作画と作画崩壊との背中合わせも既にしてその内に秘めていながら自身は夕方アニメ。
一人のユダヤ教徒でありながら死して新しく宗教を作ったイエス!福音だね。
そのこだわりの一つに電線がある。
電線、無くてもいいですよね、そこ描く手間と映す時間をキャラに割きますよね普通。
そうじゃないのが、庵野。
ただの背景以上の電線。
2015年第3新東京市のツイッタラーは、揺れたら「電線」ってツイートするから。
そう、1995年に描かれた20年先の近未来、2015年の日本を描いてあの電線。
エヴァより先を生きている私達は知っている。
まだ相当に電線してる。
怪獣とスケールが合うのは高圧送電線の鉄塔、架線に接して火花散るインスタ映え。
なんて、俺が語るより本人がいろいろ語ってるし。
「庵野秀明の世界」トークショーレポート2回目 「電柱は積極的に残すべきだ」「特撮もやりたい」
http://neweva.blog103.fc2.com/blog-entry-3368.html
庵野「同じ電柱はないんですよね CGでコピペしても違和感がある ナナメになっているのもいい」
氷川「エヴァ以降、電柱を描くアニメ作品も増えているが 垂直な電柱が多いですね」
庵野「電柱に対して愛情が足りない 表層だけ真似ても魂が入らない」
冒頭の無人漂流船内に残されていた本は、宮沢賢治の『春と修羅』。
「わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」
『注文の多い料理店』所収の「月夜のでんしんばしら」も電柱モノのハシリである。
文明開化で産まれた、すき焼きやカレーライス、あんパンが現代日本の食文化であると言えるならば
日本最後に電気が来たのは宮沢賢治の故郷岩手の「タイマグラ」。