はてなキーワード: 江戸時代とは
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
しょうがないな、俺様がお前に昔からある正当派のあたまのおかしくない料理漫画を紹介してやるよ。
というのは以前のシリーズとだいたい同じではあるんですが、前は炒飯を投石機で投擲するくらいだったのですが最近は本当に不老不死になっちゃったりとか、マオシン師父が寿司を握ってしまったりとさらに高みを目指しているところではある。
一応時代的に寿司があってもおかしくはないという謎に細やかなところも注目だ。
というわけで寿エンパイア!
序盤は同作者の過去作バンビーノと同様に若き才能あふれる寿司職人である主人公が名店で苦労する・・・というような内容だがコンテスト編で自分の出生の秘密とかを探りはじめたあたりから様子がおかしくなる。
ミステリアスな天才寿司職人と対決するうちにその男が実は江戸時代から生き続ける寿司漫画界の鬼舞辻無惨だということが明らかに!
さあどうする!
料理喰ったら不老不死になるくらい普通じゃね・・・なんかこないだやってたドラマでも歯がはえたりしてたよ?とかいう?ならタイムスリップだ!
天才料理人ケンが織田信長の元にタイムスリップ!多彩な料理知識と歴史知識をもとに無双する!
当初はなんか結構気を遣って歴史を変えないようにとか考えていた節があったけど、長期連載となることで現代への帰還をあきらめ現地の女と結婚したり、積極的に歴史改変に動くなど斬新な内容に。連載追ってない私がいうのもなんですが遂に完結したらしいのでその結末をお前も確かめろ!
原始神道では、神が宿る対象は特定の巨木や山などに限られていたのは増田の言う通り。
しかし平安時代初期(8世紀~)から中世にかけて神仏習合が進むにつれて、森羅万象に神が宿るという思想に変わっていった。
特にこの時代の神道は密教の山岳信仰と密接に結びついていて、山中のあらゆるものに神が宿ると考えられるという思想が、現在まで続く概念の起源となる。
その後は伊勢神道(9世紀~)が「森羅万象に神は宿る」という思想を広め、
江戸時代の吉川神道の開祖である吉川惟足(1616~1695)が明確に「神は幽玄にして森羅万象に充満し、一草一木もこれ神ならずということなし」と表明した。
左手前に飯を盛った茶碗、右手前に味噌汁もしくは汁物を置き主菜をその奥に置く関東の作法に対し、
左手前に飯を盛った茶碗、左奥にに味噌汁もしくは汁物を置き主菜を右手前に置く関西の作法との文化的衝突がここ最近はてな界隈で話題となった。
私自身は関東の右利きの人間だが、右手前に味噌汁があるのは食べにくそうなので関西式に味噌汁は左側(左奥もしくは左手前の茶碗の更に左側の手前)に置いて食事をしてきた。
しかし今回の論争を見て、あえて関東式とされる右手前に味噌汁を置く方法で食事をしてみた。
よく言われている「右側に味噌汁があると主菜(おかず)を食べようとして味噌汁をこぼす」という事はなかった。主菜に箸を伸ばすことについて、右手前に味噌汁があることは特に障害とはならなかったのである。
関西式に左奥に味噌汁を置いた場合、味噌汁の椀を取るのは左手のみであった。
関東式に右手前に味噌汁を置いてみると、自然と腕を取るのは両手になったのである。箸を持っていない左手と、箸を持った右手の小指側掌底で椀を持ち上げ、腕が口に着く直前で右手が椀から離れたのである。
噂に聞くところによれば、江戸時代以前まで首都であり文化の中心であった京都を中心とする関西圏では主菜が充実しており、食事は飯+主菜をメインとして左手前に飯、右手前に主催があって、脇役たる汁物は左奥であった。
一方関東では、江戸の町人の食事は朝晩は茶漬け、昼は一汁一菜でありと言われ、昼の味噌汁は主菜であった。
あえて関東式の配置をしてみた時に自然と現れる椀の両手持ちは、まさしく「有難や有難や」と主菜たる味噌汁を両手で持ち上げる仕草なのではないだろうか。
さて、和食の例を離れて、中華や韓国・朝鮮料理ではどうなるであろうか?
これは簡単である。汁物の椀を直接手に持って飲むのは日本独特の作法であり、町中華のレバニラ定食や、焼肉屋のハラミ定食などで登場する中華スープや韓国朝鮮スープは蓮華や朝鮮匙で飲むものである。だから当然のことだがスープは利腕側(一般的には右側)にあった方が良い。
店によってはラーメンを汁物と考えて右側に置くが、これについては「汁」「飯」という発想から離れ、単純に器の高さから判断するべきであろう。
つまり、ラーメンの丼よりもチャーハンの皿の方が低い。利き腕側に低い器があった方が圧倒的に食べやすいので、右利き基準で考えれば右に炒飯、左にラーメンがあるべきなのだ。
ココイチに行くと、あることに気付く。必ずカレーが手前、奥がライスになるようにカレーライスが置かれるのである。そして客は無意識のうちにそれを45度回転させてから食べ始める。
利き腕側をライスにするとライスの消費が早くなり、最終的に比較的少ないライスと比較的多いカレーによって濃い味で食事を終える事になる。
利き腕側をカレーにするとカレーの消費が早くなり、最終的に比較的少ないカレーと比較的多いライスによって淡白な味で食事を終える事になる。
ココイチが客に対してカレーとライスの境界線を水平にするのは、右利きと左利きを差別しないダイバーシティの精神があるのではないだろうか。
https://toyokeizai.net/articles/-/214690
記事後半とかの内容はどうでも良いんだけど、江戸時代ってどういう時代かつうと比較的平和な時代が長期にわたって続いていた時代で、また江戸だから農民とかも少なめで労働力としての子供もそんないらん、それに次男三男とかだとそもそも嫁や子を養う経済力とかもないわけでそうなると結婚のしようがないし、かといって地方に行ってなんとかなるかというとならんわけで。今と似てません?
ヤリたいとかにしても最悪ソープにでも行けばいいわけでさ。そりゃそれで我慢できない層はいるわけだけど、だから頑張って婚活しますってなるのはあんまいないわけでさ。女性が結婚してやるインセンティブ以上に男性側にもないわけなんだよなそういうの。
年とってから孤独に死ぬことになるぞって言われてもそりゃもうしょうがないじゃんってなるんだよな。婚活とかするより綺麗に死ぬにはどうするかみたいな方向にいっちゃう。ほんとどうすりゃいいんだろな。
赤い花と言えばアマリリスじゃないの
https://www.fp-k.org/hanazukan/3471/
日本への渡来は江戸時代の天保年間に原種が入り、交配種は昭和初期より品種名のない丸弁系や剣弁系として輸入され、日本でも改良が行われました。
https://ameblo.jp/1898/entry-12331777330.html
これが本当に江戸時代に入った原種かどうかはまでは知らないアマリリスって属名みたいだから違うかもしれん適当にググっただけ眠い
こないだの文化資本のホットエントリーじゃねーけど、今の都心の子は、狭いし忙しいしかわいそうだと思う。
俺はどちらかと言うと友達とワイワイなほうじゃなかったけど、それでも子供の頃は、小学校は、帰ったら玄関でランドセルぶん投げて友達と遊びに出かけた。父親は19時には帰ってきていた。一家団欒があった。
中学校に入ると、15インチのテレビ、VHS、ミニコンポがある狭い部屋に同級生4人が肩寄せ合って遊んだ。ゲームやCD持ち寄ってさ、兄貴姉貴がいるやつは重宝されたな。
都心の小学生は原っぱはおろか、遊べる路地も川もない。みんな監視が行き届いた学童保育。
父親や母親が早く帰ってきて迎えにくる家庭は、一家団欒のためじゃなくて塾や習い事の送迎。
都心の中学生には個室がない。みんな一人っ子で、3人兄弟なんかほとんどいない。いたらいたで、個室あてがってもらえないしな。
給付金やら減税でどうにかなるレベルじゃないきがする。江戸時代なんかもっと過密な長屋暮らしでも子供は育ったんだから、別に大丈夫なんかもしれんけど。子供はしたたかだから、勉強してるふりしてスマホで友達とつながってよろしくやってるんだろうけど。
都会人が都会の生活を手放せないのもわかる。
洋の東西を問わず、死罪の次に重いのが島流しだったわけで、文明人に取って文化を取り上げられるのは死の次に辛い。
電車通勤はその間寝れるとか勉強できるとか、かなり言ってることおかしいよ。
刑務所だって足くらい伸ばして寝れるし、17時には作業終了でしっかり8時間寝れると言うのに。
週末に美術館に行けたってさ、割に合わない気がする。
大人は命削って働いて発狂しながら子育て、子供は子供の時しかできないことを我慢させられて、その対価が美術館だとか博物館とかいわれてもさ。
製糸場の女工が就業時間が12時間とかいうけど、休憩含めた拘束時間。通勤時間含めたら現代人はすでにそれに近いと思うんだけど。
結核で死なないのは、栄養状態がいいからで、昔ならとっくに死んでる。
夏、冷房で部屋を冷やすと外はもっと暑い。美術館に行けて幸せか?暑すぎて命を守る行動をとテレビが叫ぶ土地なのにさ。
冬、人が多い屋内施設らいつも空気は淀んでて二酸化炭素濃度が高い。レストランもそうだ。他人の吐いた息を吸うんだから、当然臭いし病気はうつる。
・前に読んだ時は「単なる男女逆転逆ハーレムだろ?」としか思わなくて2巻まで読んで投げた。
・7巻(の35話)から始まる赤面疱瘡vs医学vs異学排除の三つ巴は話の構造が立体的になっていて面白かった。
・ジェンダーSFってそもそもSFって名前がついてるだけでSFじゃなくない?
・イケメンにも歴史にも興味がない俺にこの作品を評価する資格はなかった。
・個人的な好き嫌いで言うと7巻~12巻は好きだけど、それ以外は正直しんどいだけだった。
・作品の根底にある「将軍が女だったらヤバくないっすか?」みたいなのに全然共感できなかった。俺のジェンダー感だと「有能ならどっちもでいいだろ」なので。
いつか「大奥」をちゃんと読もうと思っていたが、中々その機会がなかった。
いろんなランキングとかでの評価の高さに釣られて1・2巻まで読んだ時の感想は「江戸時代の日本で逆ハーレムしつつ、ついでにフェミニズム的なノリで男はクソだといいまくって気持ちよくなりたい連中の下世話な漫画」だった。
だがそれだけの漫画が日本SF大賞を取れるのかという疑問があった。
単に男女の役割を逆転させただけのものをジェンダーSFと言い張る界隈に対して、一言物申すためにも一度こちらが勉強しておきたいという暗い情熱もだ。
とんでも設定をぶちあげてフェチズムを描いた作品として家畜人ヤプーのような物を想像していたのだが、どうも他の人のレビューを見ているとエログロナンセンスのアイディア勝負けで評価はされていないように感じた。
もしかしたらジェンダーなだけでなく本当にSFで、5巻ぐらいから未来人が出てきて、10巻で超能力者、15巻で未来人、そして最終巻で神が登場したりするから日本SF大賞を取ったのでは……そんな突拍子もない空想も膨らんでいった。
いつか読もう。
そんな気持ちを抱えていた俺に機会がやってきた。
ピッコマで1日だけ全巻無料になるらしいと知ったのはGWが始まる少し前だ。
普通に買っても買って満足して読まないだろうことは分かっていたので、こういった期間限定で読める機会はちょうどいい。
今回の24時間無料に焦点を当てなければ下手すればもう二度と読む機会は来ないという感覚がビンビン来る。
とはいえ前に読んだ感じだと1巻につき1時間弱かかるわけで、1日で残りの17巻を読むのは厳しいだろう。
そこで俺はふとマンガParkを立ち上げた。
前に1・2巻を読んだときに使ったのがマンガParkだったからだ。
アプリを立ち上げて検索してみると、まだ「大奥」は引き上げられておらずFREEコインで読めるようだ。
2巻の途中までが完全無料、そして11巻までがFREEコイン。
ここで少しだけフライングしてから24時間無料に挑むと丁度いい塩梅になりそうだ。
そして俺はGWが始まる少し前から毎日30分ほど(約4話分、約2/3巻)大奥を読み進めるという姑息なフライングによって7巻までを事前に読み終えた。
残りは12巻。1時間に1巻読めば12時間で終わる計算だ。希望が見えてきた。
長く苦しい戦いだった。
12時間までいかずとも10時間は大奥をひたすら読んでたと思う。
漫画喫茶でドラゴンボールやうしおととらを一気読みしたことはあったが、その時も流石に10時間はかかってないし、一度読んだことがあるからおおよそ内容は頭に入っている。
しかも特に好きな漫画というわけではなく、前々から興味はあったけど感覚的に合わない漫画を「今ココでトドメを刺さなければもう一生読む機会がないかも知れない」という予感に急かされるままに読む。
キツかった。
まず俺が一番言いたいのは「これはSFじゃなくない?」ってこと。
ジェンダーSFというジャンル自体は聞いたことがあるけど、そもそもそのジャンル名自体がSFという名前を文化盗用してるだけじゃないってこと。
これがSFに含まれるなら光源氏でさえ「もしもこんなヤベーイケメンがいたらという思考実験なんだが」でSFになっちゃわない?
男が死ぬウィルスによって社会構造が何から何までまるっきり変わるならともかく、むしろこの作品が言いたいのは「男女が普通に逆転するだけではないでごわすか?男が特別なわけではないでごわしょ」なんでしょ?
病気部分がSFかといっても、単に男が死ぬ致死率の高い天然痘ってだけで、解決方法も天然痘のものをそのまま持ってきただけだし。
SFかどうかは置いといて作品としての評価をしようとしたんだけど、考えていく内に俺には出来ないってことが分かった。
イケメン坊主を脅して無理やり種馬にしてやるぜぐへへへ・・・とかやられても、「権力者は身勝手だな―」ぐらいにしか思えなくて。
徳川家が途中から女ばかりになっちゃうんですよ!凄いでしょ!とかやられても、「ゆーて直虎も謙信も女だったしなー」ぐらいで終わっちゃうわけで。
日本SF大賞取ってなかったら読んでなかったタイプの客というかね。
辛いもの好きじゃない客が10辛頼んで「舌が痛すぎて味がしなかった。豚の餌未満 ☆1」ってレビューしててもそれは単なる検索汚染じゃん。
公式が「医療編」と書いてる7巻ラスト~12巻は普通に面白かったな。
治療方法自体は天然痘の焼き直しなんだけど、それが蘭学によってもたらされることで政治劇に絡まっていってるから一筋縄ではいかなくなってる所に話しの膨らみを感じた。
トップが変わることで一度全部ひっくり返ったあと状況を逆転していくのとか作劇としてしっかり王道だったなと。
他の将軍様が女としての幸せを軸に物語を展開させがちだった中で、思想を持つものと持たぬもの戦い・当主としての成長っていう熱血軸で展開していく家斉のストーリーもこの作品の中では新鮮味があって面白かったな。
作中最大級のヴィランも出てくるし、いろいろな解決方法に納得感があるし、実際ここが作品のピークだった気がするんだよな俺の個人的な好き嫌いを抜きにしても。
他にも黒木が~青沼が~マジで~カッコよくて~と飲み屋で延々アニメの話してる中年オタクみたいな感じでしばらく語れそうだけど、俺の話聞いてる暇があったら実際に読んでほしいし一度読んだ人ももう一度読んだほうが俺の話聞くよりもタイパがいいだろうからここらで切り上げるか。
「大奥ちょっと読んだけどマジで無理だわつまんなかったわー。優男が尻掘られそうになる話とかどうでもいいわー」と思ってる人でも途中全部飛ばして35話から読むのはアリなんじゃねーかって気はする。
この部分はマンガParkでも読めるしな(7~11巻はフリーコインだけど12巻はボーナスコイン枠なのでコインを買うか動画広告再生して貯めてくれ)。
フライングも合わせて15時間近くかけて全部読んで結局「うーん医療編意外は全然合わなかったな―」となってしまったことについて後悔がないかと言えば、トントンなんだよね正直。
最終巻での感動のラストっぽいのもそこまでに積み上がった「ここまできたなら凄いの見せてくれ―!」ってハードルが上がりすぎてだいぶ肩透かしだったし。
失礼な言い方になるかもだが、「ありのままの姿見せるのよ的な?それって要はアナ雪やろ?こんだけ引っ張って最後にやるのがこの程度なの?」って感じだったのよね俺的には。(この程度の自由さえも奪われてしまうお貴族社会の悲しみこそがこの手の作品におけるトロの部分なんやろなあというのは分からなくはないんだけど、もっとこうなんか19巻読んだかいがあったぜマジスゲーみたいなのを期待しててですよ。)
黒歴史の最後を紐解いていく展開として公武合体にかこつけて凄い所に踏み込んでた感じはするんだけど、最後は大人しい着地になってしまったなと。
そもそも俺の中で「将軍が女とかありえん!帝が女とかありえん!」みたいなのが全然ないんだよね。
だってそういう仕事してる人に求められるのって機能を果たせるかであって、それって個人の資質に依存してるんだから性別なんてどうでもいいじゃん?
男でも無能なら勘弁して欲しいし、女でも有能ならぜひやって欲しいわけで。
別に俺が将軍とエッチしたりオカズにしたりするわけでもないんだから、その人達の性別とか本当にどうでもいいんだよね。
ゆーて大奥の連載が始まった頃既に40を超えてたような人、つまりはバリバリの昭和生まれからしたら「将軍が女とか絶対嘘でしょ」って感じなのかもだけどね。
俺がジェンダーSFをSFだと認識できないのはそういう所も関係してるのかも。
宿題を1つ片付けられた感じはするので。
しばらくはこういう「合わなそうだけど読んでおかないといけない気がする」でコンテンツを接取するのは休もう。
めっちゃ消耗したよー。
「『押しも押されぬ』という言い方は誤用、『押しも押されもせぬ』を言い誤ったものだ」と言われます。でも、江戸時代の文章を調べると、「及びも及ばれぬ」「立ちも立たれず」など、まったく同じ語法があります。「押しも押されぬ」もその系統に連なると考えれば、誤用とは言えないことになります。 pic.twitter.com/1EdovLN5Kd— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) December 8, 2018