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はてなキーワード: 時代精神とは

2024-05-19

今の時代精神病んでる奴多いけど

なんで?昔より治安労働環境良くなってんのに。俺が若い頃なんてそこらじゅうにヤンキーいたし萌えアニメなんか見てるの知られたら意味も無く暴力受けてたぞ。俺は隠れキリシタンのように見てたが。労働環境も相応に終わってたし。

でも今はそれら全てがクリーンになってクリアボックスのような社会になってんのに何をそんな病むことがあるんだよ。

2023-08-04

「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」の起源

Shin Hori氏の「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」というパワーワード話題になっている。

ttps://twitter.com/ShinHori1/status/1686574496952758272

個人的な仮説だがこのパワーワード起源は、旧社会党綱領文書であった『日本における社会主義への道』(以下、単に『道』と略す)にあるのではないかと思う。

社会福祉だけはあってほしい...

日本における社会主義への道』第一第一節(3)福祉国家批判

ttp://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_015.htm

(中略)

 もとよりわれわれは彼ら(引用者注資本家側)に譲歩を要求し、西欧先進諸国に比しいちじるしく立遅れているわが国の社会保障等をさら前進させなければならないが、その彼らの譲歩にも「利潤の枠内」という厳然たる限界のあることを明確にし、またこれらの分配における部分的譲歩によって、基本的生産関係における労働者民主的要求を眠らせたり、勤労諸階層革命エネルギーを後退させたりすることのないようにしなければならない。

上記引用文の「彼らに譲歩を要求し...」が、「社会福祉だけはあってほしい....」の起源ではないか個人的には睨んでいる。但し『道』においては、この後に続く言葉は「アナーキスト」ではない。では何なのか。

同(3)

したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民要求民主主義進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さら革命を通じていわゆる福祉国家限界突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである

まり、「社会福祉だけはあってほしい....」の後に続く言葉は、「資本主義。但し、その資本主義社会主義化のつなぎに過ぎない」ということになる。

ちなみに『道』でいう社会主義とは、ソ連中国とは異なる社会主義だそうである(詳細は同第二節「社会主義原則と基本目標」を参照)。

筋が通った無責任

『道』が示唆している考え方は平たくいえば、「福祉を拡充できるだけ拡充しろ。でも、給付と税負担関係などトレードオフは考えない。だって資本主義はどの道、社会主義に取って代わられるのだから」というものである。これは一見すると荒唐無稽無責任に見えるが、実は筋が通った無責任である。例えば、3か月後に取り壊す予定の家に対して丁寧にメンテナンスする必要はなく、好き放題して改造したり掃除をサボったりしても問題は起きないだろう。『道』の起草者たちにとっては、資本主義は3か月後に取り壊す予定の家のような仮初めのものであり、その維持に注意を払う必要性を感じなかったはずである

『道』が旧社会党承認を受けたのは1964年であり、まだこの時期の日本では社会主義化がリアリティーある構想であったことに注意する必要がある(日本世界第2位の経済大国になるのは1968年)。問題は、資本主義が仮初めのものではなく、将来的にも社会主義化をしないのならば『道』の考え方はどうなるのか、である

「筋が通った無責任から荒唐無稽無責任」へ

『道』を読むと、資本主義下での議会制民主主義に対するネガティブ評価が目につく。

同第三章第一節(3)われわれと議会制民主主義

http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_019.htm

 したがって、現存するブルジョア民主主義としての議会制民主主義を、勤労大衆は、形式にとらわれて、すべてがそのまま、価値あるものとして考えてはならないのであって、そこに資本家階級支配が貫徹している支配機構としての側面を見抜かなければ、基本的な誤りをおかすことになる。

先の「筋が通った無責任」と相まって、これが左派知識人無責任体質の種をまいたのではないかと、個人的には推測している。

『道』策定時は社会主義化がリアリティーある構想であったが、時代が下るにつれてそれは荒唐無稽になっていったと思われる。そのため、おそらく1970年代末以降は「但し、その資本主義社会主義化のつなぎに過ぎない」の部分が忘れ去られた一方で、議会制民主主義に対するネガティブ評価雰囲気として後世の左派知識人継承され、「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」を誕生させたのではないか。「但し、その資本主義は...」を忘却し、議会制民主主義に対するネガティブ評価雰囲気として継承された点が、「なんとなく」の部分として凝縮されているように思う。

『道』に通底する時代精神あるいは社会認識が、「貧困文化」ならぬいわば「無責任文化」を日本左派知識人の間に醸成させてしまったように感じられるのである

趣旨を変えずに文章を改変しました。

2023-07-21

君生きは宮﨑駿の人間宣言である

正直宮﨑駿というアニメーターのお遊び以前に、今まで日本国内に刺激を与えた数々のジブリアニメ映画のものが見たかった。

宮崎駿アニメ日本に限らず、世界中ほとんどの人は一度も鑑賞もしくジブリというスタジオの名を聞いたことがある。

この時代人間が持っている心象風景時代精神は宮崎駿を語らずにいられない。現代ロックソングは、ビートルズという背景があるから発展して来たのと同じだ。

というか、宮崎駿作るのがアニメだけではなく、幼少期の「見る」冒険である。幼い頃に、みんなはもものけの壮大な自然神秘を感じ、千と千尋トンネルから冒険心を育つ。ラピュタで男女の純愛に目覚め、トトロ友愛を知った。

ジブリ映画存在しているだけで、確実に世界はある程度優しさが増えた。

ところが、君生きはなんだろうか?

君たちはどう生きるかという思想の強いタイトルを挙げながら、ただただ今までの作品二番煎じのように、主人公自由意志がなく、ひたすら母を求める。その母への愛情ははっきり言って共感しにくい、特に若い世代に関しては、エディプスコンプレックス的な描写あるいは哲学思想は、陳腐以外他ならない。

宮﨑駿の独りよがり、彼だけにしかからないエディプスコンプレックス、徹底的なエゴイズムだったことは明白であり、宮﨑駿という人間へさほど関心を持たない人々にとっては、どうでもいい話。どうでもいい映画なのだ

それでもこの映画を深いとか、教養が要るとかと漠然と代弁してくれるものがいるが、こいつらは夢から目覚めたくない人たちである

この作品深淵であり、洞察しようと近いたら何もない闇に堕ちてしまう。宮﨑駿が長年に渡り、隠して来たニヒリズムのものの固まり

つの神話、一つの時代はこの作品により終焉を迎えた。

エヴァ卒業式みたいなスッキリした気分にはなれず、捨てきれずに残った元カノメモリアル的な存在だった。風立ちぬで終止符を打ってくれるとダンディではあるが、君生きで〆るのが、無敵の人無差別テロストーカーの未練ダラダラみたいで気持ち悪い。

一昨日映画見に行ったのに、未だにこの不快さが取り除けない、あと褒める人がいることを見てさら陰鬱な気分になってしまう。

とりあえず最後最後無差別テロをやってしまう宮﨑駿は、所詮人間だった。

追伸

外人増田なので、日本語が変だったら許して

2023-05-31

ポリコレ

なんかわかんねーけどよぉ

俺は永遠について考えちまうわけだ。俺は、俺なんかは。

ま、でもそりゃあ珍しいことでもなんでもなくって、

文章書くやつなんてみんなそうだろって思ってたわけよ。

まれたからにはどんな形でもいいか普遍とか永遠に触れてみてぇ、

そう思ってるようなやつが文章書くんだってね。

まずここにいる俺のためにこの文章はあって、

次に想定されてる読者がいるとするなら、はるか遠い未来の、

ほとんど俺とコンテキストを共有できてないような、下手したらほとんど言葉も通じねぇような奴、

そいつに何かが伝わるなんてことを夢想したりするもんなんじゃねぇの。

でも今はもう

今通じることを

今許される表現範囲内で書く、

ってのが主流なんですかね?

いや共感されてぇってのはわかるよ、俺だってある、今ここで分かられてぇ時もある。

でもね、

「今許される表現」ってのはほんとに一過性のもんで、

昨日はOKだったけど今日ダメ、でも明日んなったらまたOKになるかもしれねぇ代物だろ。

そんなこと気にする必要あんのかね。

虚空に向かって放つつぶやきだぜ?

どうせ俺らは時代精神ってのにどっぷり浸されちまっていて、

既に使える言葉なんて知らんうちに限定されてんのに、

さら自分に猿ぐつわハメるようなまねしてどうすんのよ?

表現の自由、とか大上段に立った話じゃなくてもよ、

俺は書く時くらいは何にも囚われないでいてぇって思うよ。

つーか、何にも囚われない感覚を得るために書くってこともあんじゃねぇか?

まぁでも叩かれんのも嫌だからビビりでめんどくさがり俺は、こうして匿名で書いてるわけだ。

つーわけで、愛してるぜ、アノニマスダイアリー

2022-10-02

運動会赤組白組どっちも応援する人の時代精神

元はといえば源氏平家を同時に応援する大狸のような人物

令和時代に置き換えると

ウクライナ頑張れ~

ロシア頑張れ~

どっちも頑張れ~

と言っている人。

2021-04-08

anond:20210408040339

めんどくさい奴らってどこにでも湧いてくるからなぁ

俺も面倒だと感じたらリアルネットわずに切るように心掛けて来たらだいぶ精神的に余裕が出来てきた

こっちがいい生活してると見たらすがりよってくるような奴ばっかを切ったら自然生活は満たされるようになった

仲の良い奴だけ適当に助けて生きる事が今の時代精神的に楽だな

2021-03-07

anond:20210307165855

そうやって簡単に「時代精神」みたいな話にするのが行き止まりなんだよ

時代じゃなくて個人の行き止まり

2019-08-30

昔々、ハリウッド

 

 『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。

 

 『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたときマジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネ意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。

 『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノ監督した作品が、ドラマ1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。

 

 なんてことをメモしていたら、タランティーノ子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二子供が生まれたり、タランティーノ子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。

 といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。

 というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい

 書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたときある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノドラマシリーズ制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノ劇場長編映画デジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。

 タランティーノがつくるNetflixドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言最近あった。自身監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダアルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストリーについての妄想を語っていた。

 ①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合ストーリーになるだろう。

 ②ビルはいかにして巨悪となったかエステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔人物オリジンを描く物語

 ③ハンス・ランダナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件解決してゆく物語

 ④アルド・レインは戦後どうなったか教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。

 なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分作品世界相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノバース」だ。もちろんタランティーノ世界MCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストリーはすでにコミック化されていることだし、劇場映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセントヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。

 で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。 

 

 話を元に戻そう。『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画タイトルからしてこの有り様なものから映画監督クエンティン・タランティーノいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。

 『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスター予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。

 タランティーノは、過去映画音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングものとして消費された文化の「エキサイティング感覚自体をそのまま現在再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノ映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッドから郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端

2018-09-12

anond:20180912231746

性的消費」は大学先生も使ってたか記憶してるけど、社会科学用語として広まった訳じゃないかもね

欲しがりません勝つまでは」「八紘一宇」「鬼畜米英」は、当時の人の精神世界時代精神を知る上での歴史用語一種

そういう事実論理的にあるということではなく、当時の人の言葉として史料のように扱われている用語のようなもの

カッコくくりなのもそのニュアンスが込められてるんだと思う

性的消費」もそれと同じで、当事者活動家達の豊かな精神世界を端的に示すキーワード解釈すれば分かりやす

「ハクナマタータ」「MOTTAINAI」「なんくるないさー」「じぇじぇじぇ」「性的消費」「だっちゅ~の」「日本死ね」みたいな感じだ

2012-10-15

土着音楽フォークロア)と紙粘土

古代いにしえよりの文明におけるコスモロジー全体論(holistic)であり神学(theology)であった、なんていかめしくニューサイエンス的な前口上を言い立てるまでもなく、

明らかに昔のほうが物事を全体として捉えてたんだよな?そのことを如実にあらわしてるのが土着音楽について振り返ってみようか。原始のリズムを食らえ。

しかしよくよく考えてみると音楽における霊性なんてイマドキ流行らないし流行らせない。ほらやよい時代って祭儀と祭祀で回ってたから。古代ギリシャ神託政治(ポリ)してた。politics語源だしなウソだけど。

基本リズムから全て派生していく様は完全に宇宙観をあらわしてる。けど現代人にはピンときづらいか紙粘土に喩えたらどうだ?

紙粘土ってなんでも作れる。だからこの世界は全部紙粘土で出来た世界として捉えてみることも可能である。箱庭宇宙。んだらば、それは素粒子論とは全く異質のモナドロジーではないのか?いやコスモロジー

絶対なんて絶対ないなんて今様ポップス音楽はこぞって歌うけれど恥知らずに要素還元主義つきすすむのも悪くはない。ペンロー図で有名な先生は怒るけど。

あとホフスタッターとかそういうのに啓蒙されたジョブズ世代でしょ。音楽時代精神(シュトゥットガルト)のみならず宇宙論コスモロジー)も表わしてる。マクロ意味でね。

理論化って常に近似なんだよね。理論の上に乗っかっていびきかいてると分からないけど。そりゃ眠ったら本質が見えなくなります

でも近似なのが分かってたらじゃあ実際どうなのよってなるじゃん?それはすぐれた近似なのかでたらめな近似なのか、そこを見極めないといけない。宇宙論()も見極めないと。

ところが見極める段になってまた見極めるためのメタ理論が要る。堂堂巡りじゃないか。そこで紙粘土音楽は元から発想をひっくり返す。見極めるとか見極めないとかそんなチャチなもんじゃねえ。

恐ろしいものの片鱗を味わうのよ。つまり「これ」という指差しや「ほにゃらら」という名指しや「ほにゃらか」という言い表しは全部無意味ってこと。

「この音楽いいよ」であるとか「この部分って何を表現してるんじゃ?」であるとか。そういう発想ではない。われわれはマントラ宇宙の原始の創造であると聞いたら幻惑してしまうだろう。

創造というか何というか、素粒子論とはまったく違った紙粘土の発想でのアレだからな。「これ」と指を使うとその時点で制限がかかるから指さずに「アレ」と要ったほうがよかろうもん。

その上であえて「ほげ」と呼ぶならば、その「ほげ」なる言葉としての意味はないが存在として意義のある呪文というか真言は、何に対しても使うことのできる万能のおまじないのようなものである

嫌なことがあっても「ほげ」。嬉しいことがあっても「ほげ」。「そうだハロウィンだ」と思っても「ほげ」。全部「ほげ」。全部紙粘土なの。

2008-01-14

http://anond.hatelabo.jp/20080113233746

>君の言う、歴史歴史学は同じもの?違うもの

違う。研究として、学問としての歴史

史料事実とやらに既にバイアスが掛かっているじゃない?

事実をただ積み重ねる事自体は学問にはならないよ。

>それを判断する主体があってこそ、初めて意味を持つ。

おっしゃるとおり。

資料の選定からして主観が入っている。

が、歴史学目的とは何か、ということだ。

だれだれ流に言えば時代精神を明らかにすることなど、高い普遍性を持つべきものであって、

 

>むしろこの南京問題で言えば、中共政府は明確に「政治問題」として利用してるよね。

などは愚の骨頂。それに対抗する日本ネットの一部の連中もね。研究者研究が正しいかどうかにぶらさがってるだけで、独自研究が出てこないじゃない。南京周辺の農村史100年でもやろうとしてるなら認めないでもないけど、視点も全然ユニークでもないし。単なる政治的ケンカだよ。まったく評価できないね。やるんなら何か新鮮な切り口を提示してよ。それなら認めないでもないけど、研究者の成果に乗って騒いでるだけじゃ単なるお祭り。(ま、自分自身がそういう2ちゃん祭りにのっかって被害者にひどいダメージを与えたことがあったんでね。そのくだらなさを知っての上での話)

 
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