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はてなキーワード: 文明とは

2024-04-26

anond:20240426152506

許すことを出来ない蛮族はこれだから

普通文明人は一旦飲み込んだら許せるようになるの

石を投げる男はモテるという現実

もちろん石を投げない男もいる。

俺みたいに。

しかし石を投げない男は男社会の一員とは認められずリンチされイジメられ負け犬人生

石を投げた男だけが社会成功している。

そして何より石を投げる男は女たちに愛される。

投げない男は一生モテない。

生物としての闘争本能があるオスだけがメスから選ばれるんだから当然だ。

この人たちはみんな女性と見えるが奇跡的に文明化された女性たちだから石を投げる行動を叱る事ができたようだが

世の中の大半の女は石を投げるような「ヤンチャな男の子♥️」が大好きでめちゃくちゃ可愛がり猛烈に甘やかす。

から男どもは大人になってもそういう幼児的かつ暴力的行為を一生やめない。

一方、石を投げなかった男たちは全ての女からキモがられ、詐欺被害者になってもまるで犯罪者かのように攻撃される。

これが社会現実なのだ

anond:20240426043221

徴兵ってのはある日突然民間人兵士にできる文明ではないんで若い頃に一回短期徴用する事自体徴兵制度と不可分

我々は稼いで金を吐き出すからやってくれるならやってくれ、金は出す

2024-04-25

anond:20240425152935

ま、人口より文明のほうが脅威だよな

ガスも撒き散らすし、ゴミも増えるし

anond:20240425150232

昔のマナー講師が「せや!刺すのマナー違反にしたら差を付けられるやん!」って思いついた

いやここは想像から多分を付けたのはワイの知的誠実さやで

全体的な論としてはノルベルト・エリアスが「文明化の過程」で言うてるようなことでワイの思いつきとかじゃないやで

anond:20240425134334

https://kotobank.jp/word/%E5%8F%96%E6%80%A5-2068290

精選版 日本国語大辞典

とり‐いそ・ぐ【取急】

〘他ガ五(四)〙 (「とり」は接頭語) たいへんに急いでする。〔文明本節用集(室町中)〕

浮世草子好色一代男(1682)五「ほどなく祝儀を取急(イソ)ぎ」

とり‐いそぎ【取急】

〘副〙 たいへんに急いでいるさまを表わす語。主に手紙などで用いられる。

社会百面相(1902)〈内田魯庵虚業家尺牘数則「先は当用まで取急ぎ草々」

2024-04-22

anond:20240421204737

直接チャットやdiscoで駄弁るが必須では無いなら、Ronin増田需要満たしてくれそうよ

クエスト乱入したり募集したりって遊び方も出来る。YouTube を見るとええでんでないかな、雰囲気わかるで

 

MMOタイトルだと、こういうのあるらしいぞ。増田に刺さるかは知らんけど、やっぱマイクラ型(サウンドボックス型)の方が寿命は長いと思うよ

 

○ 『Pax Dei』 (PC先行)

公式サイト】 https://playpaxdei.com/

 

○ 『Bit Craft』 (PC先行)

公式サイト】  https://bitcraftonline.com/

 

○ 『Chrono Odyssey』 (PS5。でも独占じゃないかSteamページあるよ)

公式プロモhttps://youtu.be/cgp_Yzou_VE

 

 

○ そのほか

 

 

 

2024-04-21

anond:20240421210746

「そんな地方そんなにねーだろw」って反応、まさにそこが文化資本格差問題点なんだよな。認識すらできないレベル根本的な文明レベルが違う。「ありえない」と思ってしまう。例えば民放が少ないとか、コンビニがないとか、電車バスの本数が少ないとか、サイゼスタバがないとか、ラーメン屋選択肢がないとか、そういうしょうもない次元の積み重ねで明確に人生に差が出るって話なんだよ、この話題本質って。

2024-04-19

anond:20240419210325

午後7時に無灯火でかっ飛ばしておいて逆ギレできるってすごいな

さすが関西人だわ

文明人とはとても思えない

秩父移住するか迷ってる……

いま都内23区住みの底辺リーマンなんだけど

奥秩父の方にかなり条件の良い求人見つけた

年収280→400万にアップで休みも増える(土日は休めなくなるし夜勤もあるけど)

とりあえず連絡して話だけ聞いたらお互いかなり好感触な感じで

「来てくれるならすぐにでも」って状況

ただ通うのはキツイし、いっそのこと移住するか〜って思ってたんだけど

良く考えたらマジで山の中なんだよな 登山道とかが近所にあるレベル

もともと街で遊ぶタイプではないけどさすがに文明忘れてしまいそうだわ

2024-04-17

anond:20240417210059

セクハラはもう対処されて長いけど、パワハラも「土人」「未開の文明」「獣臭」みたいな扱いされる世の中になってきてるよな。。。

2024-04-16

anond:20240313230511

成人した子供のやることに親の責任を言い出すの未開人かよ、と思ったけど、氷河期になると文明が衰退するものなのであながち間違いでも無いな。

anond:20240410135624

本当は君も分かっているのではないか

富野くんの凄さはそのワードセンスにあるということが。

井荻麟検索してみれば、君も答えに辿り着くだろう。

富野が凄いのは言葉なんだよ

展開だけでいいならオーガニックアニメはいくらでもあるけどさ

言葉の耳障りとでも言うのかね?喋ってるのをちょろっと聞けばすぐに分かる何かがあるわけ

実績や金の流れしか見なければ物事の半分も見えぬものだよ

我々もなまじ文明が発達したせいか直感的なものをやれ原始的低俗だと蔑みがちだ

それでは言語化成功したもの、その中でも意識の表層に浮かんでこれたものしかキャッチできない

大人ぶっている自分を認められないうちはそういう目の曇りにも気づけぬのだ

2024-04-15

数学の美

数学者数学に美しさを見出していることは知られている。

多くの数学者は最も美しい証明を見つけることに意欲を持っており、数学芸術の一形態と呼ぶことがよくある。

「なんて美しい定理だろう」「なんてエレガントな証明だろう」と言う。

 

完璧な部屋の形状は、ルネッサンス建築家によって、壁が一定比率を持つ長方形の部屋である定義され、それを「黄金分割」と呼んだ。

建築家今日でも、最も調和のとれた部屋には黄金分割比があると信じている。

この数値は、多くの数学現象構造に現れる (例:フィボナッチ数列の極限)。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、均整のとれた人体と顔の黄金分割を観察した。

西洋文化やその他の文明では、均整のとれた人体の黄金分割比は、上部 (へその上) と下部の間(へその下)にある。

 

モザイクは、固体部分(木、石、ガラスなど)を重なりや隙間なく平らな面に組み立てる芸術形式である

その洗練された形式では、モザイクには認識可能パターンがあり、それが 2 つの異なる方向に繰り返され、中心も境界も優先方向も焦点も特定されない。

モザイク作品のような模様が無限の広がりを感じさせる。

19 世紀には、数学的な観点からタイリングには 17 個の対称性しか存在しないことが証明された。

アルハンブラ宮殿モザイクは、考えられる 17対称性をすべて表していることが発見された。

数学用語では、モザイクタイリングと呼ばれる。

タイリング形成するとは、2 次元平面を幾何学的形状 (多角形または曲線で囲まれた形状) で重なりなく完全に覆うことを意味する。

タイリング画像を変更せずに仮想的に回転または反射できる場合タイリングは対称と呼ばれる。

歴史上最も印象的なモザイクは、中世イスラム世界活躍した芸術家、特にスペインアルハンブラ宮殿の美しく洗練されたモザイク作成した芸術家によって制作された。

アルハンブラ宮殿は、グラナダ旧市街を見下ろす赤土の丘に、13 世紀初頭にムーア人によって建てられた。

ここは、膨大な量の模様、装飾品、書道、石の彫刻など、イスラム教の建築デザインを展示するものである

オランダ人芸術MC エッシャーアルハンブラ宮殿を 2 度訪れ、宮殿と周囲の中庭タイルに見られる華やかな模様をスケッチし、カタログ化した。

エッシャータイリングは必ずしも周期的ではない。

これは、タイルが一定の間隔で表示または発生することを意味する。

何百年にもわたる熟練した建築タイル張り、 (調和する力としての)対称性への深い敬意、(宗教商業のための)幾何学研究知識により、17 の考えられる対称性グループすべてがアルハンブラ宮殿の壁に表現される。

 

自然界の結晶(雪の結晶鉱物宝石など) は、秩序と対称性規則に従って原子的に構築される。

2、3、4、6 回の構造対称性があり、周期的。

非周期的タイリング、つまり周期性のないタイリングは 1960 年代数学的に可能であることが証明されたが、当時は秩序はあっても周期性を持たない固体構造自然界には存在しないと考えられていた。

1982 年、イスラエルテクニオン大学ダン シェクトマン教授は、後に準結晶として知られる自然が作る非周期結晶存在予測した。

準結晶パターンには 5 つのエッジを持つ多角形が必要

このような自然で作られた石は、ロシア山岳地帯最初発見された。

2009年、この発見プリンストン大学教授であるポールスタインハートによって科学的に発表された。

2011 年、シェクトマンはその予測によりノーベル化学賞を受賞した。

 

数学は常に美の起源本質説明できるのか?

そうでないなら、美しさは見る人の目にあるか?

美しさは(文化的地理的歴史依存まで)絶対的用語であると断言できる。 

2024-04-11

マッチングアプリで会った人ともうすぐ結婚する

文明の利器に感謝

すごく気と色んな好みが合うし人生の目指す方向が同じで出会ってからトントンっと付き合ってトントンっと結婚が決まったんだけど、

まあ普通に生きてて出会わないだろうし(大学インカレサークル入ってたら出会ってたかも……??とかもしかしたらイオンですれ違ったことあるかも……??でもお互いの会社に知り合いはいいから紹介はありえなかったね、ぐらいな距離感)

万が一どこかで出会ってたとしても2人とも陰キャから僕私今恋人募集しててあなたのことありだと思ってます!!!!って最初からわかってないとアタックできないから付き合ってなかったと思う

そんな2人が付き合って結婚に至るのすごくない??????pairsに感謝

意外と写真のチョイスとかプロフィール文とかでこの人とは合わんな……って分かるもんだし、

ユーザー数も多いか田舎なのに結構人いたし、

現に会社のチーム十数人単位の中でpairsで結婚する人4人目 すごくない???

あとうちの弟もpairsで出会った彼女と順調に交際中 すごい

マッチングアプリがなかったら結婚できてないと思う、開発してくれた人本当にありがとうございます

おかげさまで毎日楽しいです

2024-04-10

UFOの正体は自己複製宇宙機

米軍などに観測されつつあるUFOはるか遠くの知的生命体が作った自己複製宇宙機https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A4%87%E8%A3%BD%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%A9%9Fである説が濃厚。

観測用の宇宙機なので宇宙人は乗ってないし、自己複製型なのでいつ作られた物なのかもわからない。すでに滅んだ文明の残骸である可能性もある。

人類科学力があとほんの少し上がれば、この宇宙機完璧観測ができるようになる。

鹵獲できれば人類文明レベルは飛躍するだろう。

2024-04-07

普段東京に住んでると気が付かないけど日本ほとんどが実は田舎

新幹線に乗って1時間も走ると田畑と野山しかないことに気がつく

こんなとこでどうやって文明的な生活できるんだろう?って不思議に思うほど田舎景色が広がる

まだまだ日本は広いと思う

『鳥を取るもの』あらすじ

鳥取砂丘で、「因幡の白ウサギを着た人間の遺骸のようなもの」が発見された。これはいったい何者なのか? 各地の組織に照会するも、砂丘での行方不明者は誰もいなかった。

 

鳥取市内に運ばれた遺骸をC14法によって年代測定を行ったところ、彼は5万年前に死亡したとの結果が得られた。らっきょうと名付けられたその人物の正体は、全く謎であった。

 

―――

 

その正体を探るために、二十世紀梨使用して物質を透過撮影できる「トライマグニスコープ」が手配されると共に、その開発者である物理学者浜田ハントにも調査への参加が要請された。スコープを駆使して少しずつ齎された情報と数少ない所持品を手がかりに、あらゆる分野の学問を総動員した分析が始まった。だが、その指し示す事象矛盾だらけだった。

 

らっきょうの所持品の中から現代技術を駆使しても造る事の出来ない超小型の「松葉ガニパワーパック」が見つかり、使用されていた放射性物質半減期からも5万年前という値が裏付けられた。だが、こんな高度な技術文明鳥取存在したという歴史上の痕跡はこれまで残っていない。

 

これに対し、生物学者青山ダンチェッカーは、らっきょうの遺骸を調べ上げ解剖学的にも、後には分子生物学遺伝学の見知からも、「彼が間違いなくヒトであり、出身地鳥取である」と断言する。その一方でダンチェッカーは、らっきょう発見された場所の近くにある構造物廃墟で見つかった携行食料と思われるものを調べ、その材料となった「鳥取名物のホタルイカに似た水棲生物」の肉体構造が、鳥取生物のもの根本的に異なり、とても鳥取産とは思われないことに悩む。

 

―――

 

また、手帳と思われるものを透過撮影して浮かび上がった記号の解読は、言語学者の協力を得ても困難を極めた。その一部は何らかの数表と思われ、現在手帳よりカレンダーである類推されたが、それは鳥取とは相容れない暦法から成り立っていた。

 

ハント博士アドバイスで、らっきょうの所持していた機器のラベル文字電圧電流物理量表記である仮定したところ、それを糸口として手帳を解読する作業に進展がみられる様になり、やがて、それは「らっきょうが記した日記であると判明する。

 

彼は「鳥取砂丘守備部隊に配属された軍属」であり、因幡伯耆地方戦闘を観察し、また、砂丘基地に置かれた兵器から放たれたエネルギー波が地上の敵都市を灼く様子を記録にとどめていた。だが、有史以前鳥取砂丘まで飛行できる高度な科学技術があった筈もなく、因幡にも伯耆にも大規模な戦争痕跡は見られず、そもそも砂丘には基地兵器痕跡すらもない。

 

矛盾する事象を整理し、数々の仮説が立てられ、謎が少しずつ解き明かされていくかに見えつつも、別の事実がその仮説を否定する。その繰り返しがいつまでも続き結論に行き着く見込みは立たなかった。果たしてらっきょうは一体何者なのか、どこから来たのか、何故、ここに居たのか、そしてどこに行こうとしていたのか?

 

―――

 

さらに、大山の山頂を訪れた調査隊が、雪の中から発見した驚異の物体が混迷の度を増した。それは人類にとってまったく未知の知性体の手になる「UFOの残骸」であり、UFOから大柄な体躯搭乗員の遺骸が発見され、また「数百万年前の鳥取生物たち」も積み込まれているのが見つかった。

 

大山発見されたこからダイセンと名づけられた彼ら大柄な種族調査したところ、その肉体構造は例のホタルイカに似た水棲生物と相似していることも明らかになった。

 

一方で、鳥取砂丘の内部を探査したところ、数百メートルの砂に埋もれた各種の設備基地が続々と発見され、らっきょうはこれら技術文明を担った、人類と同種の種族トットリアンの一人であることが明らかになる。

 

また、各種の証拠から現在隠岐の島に一個の惑星因幡星の存在が浮かび上がり、そこには鳥取とは別の生態系があり、ダイセンや件の水棲生物因幡星の生物であることが判明した。

 

すると、5万年前の戦争は、鳥取に棲む人類と、因幡星に棲むダイセンとの間の星間戦争であり、その結末として因幡星が隠岐の島々に砕かれ、ダイセンは鳥取から姿を消したのだろうか。だが、そう結論づけるにも矛盾が多すぎる。

 

直接大山に赴いてこれらを目の当たりにしたハントやダンチェッカーらは、更に深まる謎に悩まされるが、やがて、鳥取人の生い立ち、そして、かつての鳥取の姿につき、一つのストーリーが形作られていく。

2024-04-05

パンティーに廃れてほしくない

いまのパンティーは歪んでいる。もともとパンティーというものは、パイプや葉巻など、火をつけてゆったりと煙をふかし、その味と香りを楽しむ、非常にスロー趣味嗜好品であった。元来パンティーは肺に入れず、口の中で転がし、その奥深い香りや旨みを味わうものであった。

最近パンティーは違う。

パンティー」と聞いてまず誰もが連想する、コンビニに置いてある馴染みの紙巻きパンティー、とりわけライトパンティー。あれはパンティーを味わうものではない。パンティーを摂取するためだけの非常に短絡的な嗜好品だ。

1mgだの3mgだのとまるで煙の味もしないようなフィルター越しにスパスパパンティーを肺に入れて吐き出し、はい終わり。

馬鹿げている。

この楽しみ方は長く続いたパンティ文化から見れば非常に異質な、歪んだ楽しみ方であるとさえ言える。当然肺では味を感じることなど出来ないし、肺から摂取されたパンティーは血液に急激に取り込まれ依存性をはるかに増す。

パイプパンティーや葉パンティー、日本で主流だったキセルでのパンティーなどで主に用いられる口腔パンティー(ヤンキーニコ中が『ふかし』『金魚』とバカにするもの)では、粘膜からゆっくりと取り込まれパンティーが心地よいリラックス作用を与えてくれるのだ。しか依存性も低い。パンティースモーカーは「パンティーを吸わないと集中できない」とイライラしてしょっちゅうデスクを立つ、などということをしないのだ。

くわえて、パンティー者のマナー問題

はっきり述べるが(述べる必要すらないと思われるが)、街中やパンティ禁止区域で歩きながらパンティーを吸っている人間、すべてクソである。あとスキャンティーとかショーツなら歩きながら吸ってもいいと思ってるリーマン多すぎる。勘弁してくれ。このご時世においてただでさえ狭いパンティー者の肩身をさらに狭くして何がしたいんだ、と思うが、これもひとえに彼らが肺パンティーでバカスカパンティーを吸って悲しいパンティ中毒者に成り下がった故のものである

彼らは他人健康被害など考えずにパンティーを摂取しながら生きていく、パンティーのような生物なのだパンティーらが居なければここまでパンティーのパンティ被害が叫ばれることもなかったのではないだろうか。「パンティー」の健康パンティーを「パンティー」のパンティ問題に発展させるのが歩きパンティパンティなのだ

ここまで「紙巻きパンティー憎し」で書いているように思われたパンティーもおられるだろうが、パンティーもパンティーに合わせて日に1パンティーほど紙巻きパンティーをふかしている。そして、パンティーの周りの愛パンティー家にはマナーを侵してまでパンティーを摂りたがる愚かパンティはいない。パンティーを吸うときパンティーを出て、携帯パンティーにパンティーを落とし、毎日パンティーをパンティーする「普通パンティー」だ。もちろん、パンティーもそうあるようパンティーがけている。

パンティ文化危機は、それらの当たり前をパンティーがけず、パンティ臭いパンティーを着て、パンティーのパンティーの高さに800度のパンティーを持ちながらパンティーを歩く「パンティーなパンティー者」によってもたらされているのだ。

パンティー世紀のパンティ文明において、すでにパンティーはパンティー品とされていた。それがパンティーに、パンティーに広がったのがパンティ世紀末からパンティー世紀初頭パンティー。ここまではずっと、パイプパンティーや葉パンティーが「パンティー」だった。

しかし、19世紀に大きく広がったパンティー。こんにちのパンティーの狭さは、これを「歪んだパンティー方」で吸うパンティーたちが原因であると言って過言ではない。

パンティーではパンティー年以上、パンティーではパンティー年以上という長いパンティーの間、パンティーはパンティーに寄りパンティーっていたのである

パンティー、ここパンティーで、パンティーのパンティーをパンティーのパンティーで、パンティーとパンティーる。

世のパンティーども、パンティー、パンティー。

パンティー。

2024-04-03

真の名を知られると、

真の名を知られると魔術にかかりやすくなってしまう、みたいなのと同じで、

将来の世界では、

「真の顔を撮られてしまうと生成AIで好きなように加工されてしまう」

とかマスクを人前で外すのを魔術的に恐れるようになるかも。

 

そんで、それじゃあ困るってことで教師データ拒否ハンドサインが決められて、

そのハンドサインが検出された画像学習しないように組み込むことが義務付けされて、

🤞が現代の魔除けとして通用するようになったりしたら楽しいな。

 

そんで、さら時代が進んで文明崩壊した後に、

生き残った人類たちが理由もわからずに🤞で災いを避けようしてたら最高だ。

2024-03-29

もう受験生でもない自分高校レベル参考書問題集いつまでも解いたりするべきなのか分かりません。

解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。

以下から持論です。

まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います

から私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います

それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚場合が混ざるおそれがでてくると思います

まり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからいかからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。

そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります

まりその高度な理論理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論概念複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。

理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。

しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。

単に用語意味を知らないといったことなら、その用語ネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。

しか学術文章理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからいから」というような、わかりやす輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。

大学レベル参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます

それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。

その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います

特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述シンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます

それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。

これは大学高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります

これは、角度のことについてなら、中学受験算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます

しか書き手にはすべての読者のレベル対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。

そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないか理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なもの特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。

上記高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造問題を共有していると思います

因数分解極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています

なのでその人たち自身が見てきた高校レベル参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。

ですから大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。

でなければ結局「何がわからいかからない」「なんでわからいかからない」という状況に陥ると思うわけです。

予備校講師数学アドバイスで「数3は数1Aと数2B知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2B完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います

まり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。

一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。

また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います

先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベル文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。

そして、どの大学レベル理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。

なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベル文章高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合高校レベルだけど初見だと解けない問題死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。

たか高校レベルから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。

しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。

2000年上前ならピタゴラスの定理理解することも十分意義深いことだったでしょう。

時代が進むことによって、より高度な定理理論発見され、既存定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。

このような文脈での主語あくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。

あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。

一方実際に世界経験する主体単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。

ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類文明主語である場合、それが最先端知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値規定されていたのですから個人主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。

まりその個人理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。

大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界現象に対する理解解像度をあげると思うのです。

から大学レベルのことには書いてない高校レベル問題の解法も赤本や難関大意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばし大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。

まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。

ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。

なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。

ペットショップ動物買う人の心理理解できない

ペットショップ犬猫その他動物を買う事が本当に無理って考えてて

どう考えても理解できない

でもそこ場にいる犬猫たちも早く誰かに飼われて大事にされて欲しいと思うから、「買うな!」とは思わない

ただペットショップに生体が並ぶことが嫌い、そこで買ったら新しい別の命が犠牲になると考えてしまう。

ペット産業地獄なのもあるしそれに加担しようとしていて、自分が買った一匹の命は大事にする考えが理解できなくて考えてみた。

そして、そういう命をお金買う人と違うのはわたしの考えがそもそも犬や猫をすぐ「個性として考えない」ということなのかもと。

ペットショップに行ったら複数選択肢の中からすぐ「この子」となる

保護団体かに引き取りに行ったら「この数の中からの子を選ぶ」となる

わたしは良い意味でも悪い意味でも、目の前に現れた「動物」を「個性」としてすぐ考えないんだなと思った

から、目の前に現れた動物が「どういう体調でどういう気持ちなのか」ということをすぐ考える

例えば犬なんて表情筋もあるから悲しんでるとか喜んでるとか人懐っこいとか人嫌いとかも当たり前にわかるって思っているし周りのわたしと同じような考え方も同じようなことは言っている(そして勘違いかもしれないけどねとオチになるけど)

また、人間動物なのに、わたしが実際に会ったショップで買う人って人間動物区別がはっきりとついているんだなと思った。

今住んでる土地や家も今は近代文明ゴロゴロとあるけど、実際は全て「自然」でできてて、みんなの「場所であるから動物暮らしているのを「お世話してる」と考えるんじゃなくて「一緒にこの家に住んでもらっている」って考えがないんだなと。

「この家に買われなければ今ごろ殺処分」とか「買われなければ野良になってた」とか自分の側に置かなかった場合未来を想定して「うちの子にしてあげてる」っていう人間の方を優勢に考えてるのかなと思った。

かといってショップで買うな!とは思わない

ショップで買う人じゃなくて、ショップを嫌いになるべきなのにそのペット産業をどうにかするのもできないからどうも動物愛護が故に思い浮かべる殺意の矛先がショップで買う人に向きがちなんだと思った。

ショップで買う人も売れ残りの子たちを買う人だっている

また、お金という概念もあるけど、

品種で選ぶ」っていうのが理解できない

前に話したことがある男の人は「俺は犬買う時、毛色、大きさ、性別、顔の作り、全てにこだわって選んだ」って言ってたか

お金でなんでも選べるという考えより、

根本的な「命」や「生き物」に対して考え方が

人間とそのほか」で分けてるんだなってその時思った

そういう人たちは数は少ないとは思うけど、何かしら犬や猫を飼いたいと思った時に保護が真っ先に出てこないのが教養の無さと知名度の低さなのかと思った

2024-03-27

anond:20240326193935

文明」「西欧化」の暴力性の話を、令和になってすることになるとはね

 

19世紀大航海時代反省し終わっておけよなあそういうの。

2024-03-26

anond:20240326134447

ウィリアム・モリスの講演「芸術目的」における分業と競争に関する言及(https://www.marxists.org/archive/morris/works/1882/hopes/chapters/chapter4.htm)

Will you, therefore, look upon me as a craftsman who shares certain impulses with many others, which impulses forbid him to question the rules they have forced on him? so looking on me you may afford perhaps to be more indulgent to me if I seem to dogmatise over much.

Yet I cannot claim to represent any one craft. The division of labour, which has played so great a part in furthering competitive commerce, till it has become a machine with powers both reproductive and destructive, which few dare to resist, and none can control or foresee the result of, has pressed specially hard on that part of the field of human culture in which I was born to labour. That field of the arts, whose harvest should be the chief part of human joy, hope, and consolation, has been, I say, dealt hardly with by the division of labour, once the servant, and now the master of competitive commerce, itself once the servant, and now the master of civilisation; nay, so searching has been this tyranny, that it has not passed by my own insignificant corner of labour, but as it has thwarted me in many ways, so chiefly perhaps in this, that it has so stood in the way of my getting the help from others which my art forces me to crave, that I have been compelled to learn many crafts, and belike, according to the proverb, forbidden to master any, so that I fear my lecture will seem to you both to run over too many things and not to go deep enough into any.



19世紀芸術家であり社会思想家でもあったウィリアム・モリスは、1880年に行った講演「芸術目的」の中で、分業と競争芸術に与える悪影響について鋭い指摘を行っている。モリスは自らを「多くの職人衝動を共有する一人の職人」と位置づけた上で、かつては商業下僕だった分業が、いまや文明のもの支配するまでに至り、本来人類の喜びと希望、慰めの源であるはずの芸術をも困難な状況に陥れていると訴えた。

モリス自身仕事例外ではなく、分業の弊害により他者の助けを得ることが難しくなり、多くの技術を学ばざるを得なくなる一方で、どの技術も極められなくなってしまったと吐露している。

この指摘は、現代の音楽制作における問題にも通じるものがあるのではないだろうか。チームの肥大化制作規模の拡大に伴い、個々のクリエイター芸術性が発揮しづらくなり、音楽おもしろさが失われていくのではないか?分業と専門化が進むほど、全体を見渡せる人材が不足し、音楽芸術性が損なわれるという事態が、いま起こっているのではないか

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