「文学」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 文学とは

2024-05-08

anond:20240508192401

ここまで長々した文章で、他人作品についての記述が「文学性の高い文章ですごく読みやすかった」のみで、残り99%は延々容姿の話w

  法律科学かという問いに対して、 規範科学であるという答えを出している者もいるが、HelmHolzはとにかくに、法学は、論理的思考であって文学とは違うと述べている。

    最高裁たばこを吸う権利があるかどうかに関しても、  人権公益比較衡量し、 理由けが備わっていないと判断枠組みとして確立できないことになっており、その限度で

   単なる感情的な調整、融合、和合、この辺でちょうどいいからこの辺にしておくというものではなく、 論理的整合性要求されており、その整合性がないときは、違憲となるから

  最高裁判断が全て気分で判示されるわけではなく、最低限の論理法則に従っている。

   ※ 3階左のざーちゃん、さっきまで作業していただけど、稚児だし老齢だから寝てしまった。

同人女に夢破れて

私は25歳になる同人女

約9年二次創作活動を続けてた。

Twitterピクシブでは細々活動していたんだけど、イベントに出ようとは一切思ってなかった。

そんな私がこの度初のサークル参加をしてきた。

きっかけは「同人女感情」という漫画

キラキラした同人女たちが二次創作活動を通してワイワイするストーリーで、同人あるあるネタ(毒マロとかジャンルの神との確執とか色々)がふんだんに使われてて最初はただ楽しく読んでいたんだけど、だんだん憧れを持つようになった。

Twitterアイコンの向こうにはどんな人がいるんだろう。

きっと「同人女感情」に出てくるようなキラキラした素敵な人達だ。

イベント参加したらこの素晴らしい絵を描いた人と友情が生まれたりして。

社会人になってから新しい友達なんて中々できないし、アラサーになったことだし死ぬ前に一回参加しようかな。

そんな夢や希望と共に20pのペラペラ漫画10冊を持って迎えた当日。

私が今活動しているのはジャンルは伏せるがキラキラカラフルアイドル男子達がわちゃわちゃする結構大手ジャンル。弱小絵描きでもそこそこファンはついてるしきっと仲良くしてもらえるだろう。ついでに同人女感情も買いに行こう。

そんなことを思って会場に足を踏み入れると、モデルみたいな可愛いからどこで服買ってるんだみたいな雰囲気の人までいろんな人たちでごった返している。

が、この時点で「モデルみたいな人」は少数。

どちらかと言うと「どこで服買ってるんだ」系の割合の方が多い。

しまむら系とかGRLとかそういうレベルじゃないんだ、なんというかアレだ、スーパーの中に併設されているような服屋に並んでいる奇抜すぎるデザインの服とか、あとは地元の薄暗いリサイクルショップに「アンティーク」と銘打って何年も放置されていたような服とか、あと占い師か?みたいな狐の尻尾みたいなネックレスしてるとかそんな感じ。

いやまあいい、きっと私が好きな絵の人はもっと洒落だ。そうでなくても普通だ。会社にいる人ぐらいの清潔感のある服装はしているはずだ。

そう思って自身サークルスペースに向かう。

希望的観測だった。

私のサークルの向かいではゴテゴテの和装に大量のつけまつ毛で目がなくなっている(白目の部分が無くなるぐらい大きな青いカラコンをしていた)人が気取った口調で「うふふ」と笑い声をあげていたし、その隣には全身真っ黒の格好で後ろで一本で縛った女が早口で「××君モブに囲まれて酷い目にあって欲しい(もっと過激表現)」「その後お清めですね〜!(もっと過激表現)」「××は複数が似合う〜!(××があられもない姿になっているポスター掲示しながら)」みたいな人たちがいて、私のサークルの隣のスペースにはメイクもヘアセットもしていない、赤縁メガネにフワフワワンピースを来た女の子が気まずげに俯いている。そういう光景が広がっていた。

地獄

巨大版アニメイトじゃん。

キラキラしている女子ほぼおらん。

あと会場がほんのり汗臭い

その後トイレ行くふりして他のサークルを眺めてみたけど、キラキラしてるのもう本当に一部。しか日常出会ったらフツーぐらいのレベルだけどここにいるから綺麗に見えるとかそんなんばっか。まあ私もそんな人のこと言えないけどさ。

私は早速後悔し始めてたしなんなら撤収も考えてた。

まあひとまず買いにくるって言ってくださった方いるし、仕方ねえその人たちのために帰らんでおくか、と、そのままいたら、

「あの」

さっきの眼鏡の子に話しかけられた。

はい

今日、お隣ですね。よろしくお願いします」

「ああ、お願いします」

「あの、わたし、」

「××くんぶっかけ似合いますよねー!!」

かいサークル下品すぎる声が彼女のウィスパーボイスを遮る。別にいいけど声量を抑えろ。ラブホ廊下キスをおっ始めるカップルぐらい迷惑だぞ。

遠慮なく顔を顰めていると、眼鏡の子も気まずそうに笑った。よく見たらかなり若かった。多分大学生ぐらいだと思う。

「…………気まずいですね…………」

「……本当にね」

「私実はサークル参加初めてで」

「そうなの?私も」

同人女感情って漫画が好きで、サークル参加に憧れて参加したんです」

「マジ!?私も!」

その後打ち解けるのは早かった。眼鏡の子は私にとっての唯一の味方だったから。色々聞いた。

自分に自信がないこと。交流が苦手なこと。でも作品を作るのは好きで、勇気を出して参加したことエロにはそこまで興味がないこと。

その間も向かいサークルは着々と、大々的にドギツい会話をしながら準備をしていく。そこそこ大手らしく部数も沢山あった。

「でも、ああいう絵を描ける人の方が、きっとたくさん好きって言ってもらえるんでしょうね」

眼鏡ちゃんがぽそ、と漏らすので、

自分が好きなもの書いて好きって言われた方が絶対いいよ。無理しなくていい」

そう励ますと、眼鏡ちゃんニコ、と笑った。可愛かった。自信持ってよ、あなためちゃくちゃ可愛いよ、と思った。

結局開場してから、向かいサークルは列ができるほどの盛況だった。一方私のはまあフォロワーさんがちらほら買いにくるぐらいで、眼鏡ちゃん作品は3、4人ぐらいが買ってった。

わたし作品を買ってくれる人がいるって、目に見て実感できるのってこんなに嬉しいんですね」

字書きらしい表現力で眼鏡ちゃんは喜んだ。可愛いかった。

私はそこで同人女感情を買うために一旦席を外した。

スペースに戻ってそのまま撤収作業に入ろうとすると、眼鏡ちゃんが話しかけてくる。

「あの」

はい

「一冊いただけませんか?」

「え、ああ。じゃあ作品交換しません?」

「え?!いいんですか?小説ですよ!?

どうやら眼鏡ちゃん小説漫画では漫画の方が価値が高いので等価交換にならないとTwitterで学んだらしい。そんなことないだろ。

「いえいえ、是非」

そう言って交換すると眼鏡ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。まーかわいいこちらこそありがとうね。

そう心の中で思いながらもう二度と来ないだろう会場に背を向け私のイベント参加は終わった。

家に帰って風呂から出た時、Twitterに新しい通知が来ていた。フォローとリプの通知だった。

「こんばんは。今日お隣だったものです。今日ありがとうございました」

この書き出しで私の新刊感想がリプされていた。このコマのこの表現がいい、このコマのこのキャラ表現がいい、と事細かに褒めてくれていた。なんていい子なんだ。

私もフォローを返してから急いで彼女の本を読んでリプを送った。文学性の高い文章ですごく読みやすかった、表現が美しかったという短い内容だった。

彼女は本当に喜んでくれて、再びリプでお礼を言ってくれた。

今日本当はイベント心細くて、人見知りで怖いし帰りたかったんですけど、やっぱり行って良かったです!」

まーかわいい。本当に。

という訳で、同人女感情はやっぱフィクションだと思う。現実あんキラキラしてないしキラキラ女子もいない。ジャンルによるかもしれんけどさ。

でもいないなら作ればいいから、とりあえず眼鏡ちゃんキラキラさせる事にした。

今度一緒に化粧品買いに行く。

anond:20240508133151

さすがだな

Chat GPTだとこんな感じの鑑賞だったよ

まだまだ人間が上か

この俳句は、日本の伝統的な文化である俳句形式使用していますが、その内容は現代ポップカルチャーとの興味深い対比を表しています一般的に、魔法少女というキャラクターは、可愛らしさや女性らしさを象徴するイメージがありますが、「実はおれ」という男性主語使用されており、性別や期待に対する挑戦を示唆しています

また、「告げる雪」というフレーズは、冷たい雪のイメージと、何かを伝えるという意味合いを持っています。この対比は、普段は明るく希望に満ちたイメージ魔法少女と、冷たく静寂な雪のイメージとを結びつけ、その両方に含まれ可能性や複雑さを示唆しています

この俳句は、伝統的な日本文学形式を通じて、現代ジェンダー役割文化的な観点に挑戦し、異なるレベルでの理解考察を促しています

2024-05-06

短歌を詠むほど俳句は作れなくなる

https://anond.hatelabo.jp/20240506061423

短歌結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。

多くの人は短歌俳句が同じ短詩型文学であるから短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。

なぜなら、両者は表現アプローチ正反対からだ。短歌風景言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである

短歌を詠むということは、言葉情念圧縮するということだ。穂村弘短歌爆弾に喩えたが、自分情念読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というもの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識純粋培養物なのである

それに対して俳句を作るということは、言葉風景カットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械しかない。俳句にとって情念ノイズしかないのである

このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなた情念しまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクしまラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなた後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか

そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。

という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するとき自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。

---

追記しようとしたら長すぎたので記事を改める

一茶の句は反例にならない。

https://anond.hatelabo.jp/20240506233546

---

https://anond.hatelabo.jp/20240508195326

俳句情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。

2024-05-04

朝ドラ『虎に翼』って発送がFATEと同じだよね

実在する偉人モデルにして、全然別の人間でっち上げて、実在する偉人エピソードを好き放題切り貼りして、現代人が「エモい」ってなる話にするために好き放題やる。

そんで受け手から「流石にこれは違わないか?」って言われたら、「だってアーサー王じゃなくてアルトリアペンドラゴンやし」と言って逃げる。

カスか~~~?????

まあエロゲカスがやるカス文学からしゃーないが、朝ドラでそれやるのは品がなさすぎるだろ。

2024-05-02

・否にはあらず

「ねぇ、僕とお付き合いしてくださいよ」

 人付き合いが苦手だという彼は、唐突にこんなことを言い出した。

「…付き合うって、どういう事です?美妙さん」

「どうって、当世では男が女をこのように誘うと聞きました。男と女の付き合いを、知らないわけではないでしょう?」

 なるほど。要は特務司書であるこの私に女として付き合うことを要求する、と言う事らしい。彼…最近この帝国図書館にやってきた山田美妙は高らかにこう続けた。

「なんならここから飛び出しても良い。こんな退屈なところ、うら若き貴女にとっても良くはありません。どうです?僕と一緒にここから逃げませんか?何なら俥を用意しましょう。俥で行けるところまで行ったら、今度は舟に乗りましょう。こっそり脱け出せば、誰も追いかけてきやぁしませんって」

 なんと一緒に駆け落ちしようと来た。軽薄な男であると言うのは逍遥先生から聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。

 それと同時に、悪魔的な好奇心を彼に感じるのもまた事実だった。色素の薄い整った顔立ちにどこか仰々しい立ち振る舞い、そして蠱惑的な台詞言い回し。軽薄だと分かっていても、花に寄っていく蝶のようにフラフラとそちら側に倒れてしまいそうな感覚を覚えて、くらりと少し視界が回る。恐らくは彼も本気ではないだろう。それならば、このお遊びに付き合うのも悪くはない、むしろ面白そうだと思って、私は彼が差し伸べた手を取り、引かれるがままに立ち上がった。

「そうですね…二人でどこか遠いところへ行くのも、良いかもしれません」

 私がそう答えると、彼は目を丸くした。色良い返事を期待していなかったのだろうか。そのまま顔を引きつらせ、口角をつり上げて高笑いをしだした。

「ハ…ハハッ…貴女、本気にしたんですか?ここから、逃げる?ハハハハッ!僕に惚れていたのなら残念でしたね!共に逃げ出したところで、僕の芸の、文学の肥やしにするだけですよ、ハハハハハッ!!」

 乾いた笑いが部屋の中に響く。それは軽くて、悲しい笑いだった。向けられた好意に素直に反応ができない彼の精一杯の強がりのように見えた。なら、私も、その強がりに見合った対応をしよう。

「……何を言っているんですか?」

「え、何って……」

 放たれた一言によって高笑いが止む。私は矢継ぎ早にこう続けた。

「惚れたも何も、そもそも本気になんてしていませんよ。単純に、あなたとの火遊びに興味がわいているだけです。誘いに乗ったのだって、ただ何となく面白そうだったからに過ぎません」

「………………」

「私を芸の肥やしにする?それも結構!私は私で、あなたを私の好奇心を埋めるくさびとして扱いましょう。そこには愛も何も有りはしません」

 ここまで言い切って一息つくと、彼は呻き声を上げながら固まっていた。少しやり過ぎたかな、と思いつつ、伸びたままになっていた手を握り返す。

あなた火遊びのつもりで誘ったのなら、お互い利害が一致して良いじゃないですか。金と女は自由に生きるのにあるだけ欲しいって前に言ってたの、こっちは覚えてるんですよ。嗚呼、金は流石に用意できませんが」

「あ……え……その……」

「さぁ行きましょう。俥は目立ちますから自動車を呼びますね。嗚呼、遠出をするとは言え、朝になる前には帰ってきますからそのつもりで」

 私は握り返した手をそのまま引っ張って彼を外へ連れ出そうとする。最初の威勢は何処へやら……抵抗なくついてくる彼は、まるで初めて共寝を迫られた乙女のように顔を赤く染めて、俯いていた。

 これは火遊びするどころじゃなさそうかな。そんなことを考えながら、私は彼の腕を引っ張る力を強めた。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12703400#3

学歴コンプレックス卒業した 1/4


約十年前に、とある4年制大学卒業した。名を佛教大学という。

高校生の頃は、仏教を学ぶための大学だと思っていたが、それはごく一部の人に限ったこである

実際には文科系総合大学だった。ちょっとだけど理系もある。

なんで、この増田でこんなことを書こうと思ったのか。それは、この大学での思い出や記憶に踏ん切りがついたからだ。人生の一部に納得ができたというか。それで、卒業シーズンということで、今回書いてみようと思った。書き始めは3月下旬である。ずいぶん時間がかかってしまった。

普段から増田投稿してるわけじゃないから、ヘタクソな箇所があるかもしれん。ご容赦を。なお、「学歴コンプレックス」という言葉は、当日記中では使用していない。

佛教大学は、いわゆる中堅私大と呼ばれるところだった。平均偏差値は……なんとも言えない。理学療法士作業療法士になるための学部は高偏差値なのだが、それ以外の学部はお世辞にも偏差値が高いとはいえない。Fランクではないが、基本的には関関同立不合格だった人が入学してくる。滑り止め率が極めて高い大学である

なんで自分がここに入学たかと言うと、やはり滑り止めだ。第一志望としては同志社大学(政策学部)に行きたかったのだが、実力があと一歩及ばなかった。残りの関関同立も全滅して、残念ながらこの大学社会学部に進むことになった。

大学4年間のことはそこまで覚えてない。実際には、いろいろあったんだろうけど。

学業一生懸命に取り組んだ。授業をサボることもあったけど笑 成績はいい方だった。卒業単位が揃った後でも、まだずっと授業に出続けていた。学問が好きだった。

アルバイト金閣寺にあったマクドナルドで、部活(実態サークル)は地味めの文化系だった。いわゆる【文芸サークル】みたいな感じか。みんなでドキドキ(?)な文芸を書いてたんだが、大学生なんで、俺を含めたほぼ全員が既存作家コピペだったのが記憶に残ってる笑

ただ、今になると記憶がない。本当に記憶がない……自分はこの大学で何をしていたっけ? そんなに無為ではなかったはずだが。

学食は1人で食べることが多かった。それ以外の行動も、1人または少人数のどちらかだ。授業は半期ごとに目いっぱい取った。32単位分を。教職課程は2つ取っていた。186単位を取得して卒業したんだっけ。サークル飲み会では、やっぱり1人でちびちびと飲んでいた。大した思い出は詰まってない。

冒頭が退屈なのはよくない。本題に入ろう。まずはアブストラクトだ。

大学1回生の時に思ったんだ。「このままじゃダメだ」って。第一志望の大学に入れなかったけど、大学生活をエンジョイして、就活では結果を出して、大学入試の結果をバカにしてきた家族兄弟や親戚を見返してやろうと思っていた。

でも、正直心が折れかけたよ。1回生の頃からそうだったけど、とにかく在学生の質が低すぎた。ヤバイと感じていた。ただし、これは当時の考え方にすぎない。今だと「どこの大学生でもあんなもん」くらいの緩い考え方である

当時は、実力を高めることに貪欲だった。飢えていたのだ。強い自分に。弱い自分が嫌だった。人としてレベルが低い学生を見ると腹が立った。自分がこいつらと同じなのかって思うと腹が立ってしょうがなかった。一刻も早く、ここから卒業して、立派な社会人になりたいと思った。

そういうわけで、学業とか、TOEICとか、文芸サークルとか、アルバイトもそうだけど、とにかく何でも頑張って、最後は……いい会社から内定をもらうことができた。アベノミクスの始まりの頃で、景気はゆるやかに上向いていた。

入社したところは、いわゆる一流ではないけど、佛教大学卒業者で会社員~という観点からすると、いいところだった(電子機器を作ってるところ)。同学年では、全学部を含めて№1の結果だった。

さて。ここからは、各学年の時の思い出を綴っていく。

一番最後に、今の自分気持ちを書いてみたい。



大学1回生の頃~

入学式と最初オリエンテーションが終わった後、知恩院という重要文化財のある宗教施設に行くことがあった。大学がやっている新入生向けのイベントだった。浄土宗大学だったので、そういう縁からか、知恩院僧侶の方々が歓迎的な催しをやってくれた。

今思えば、重要文化財のお堂にあれだけの新入生を詰め込んで、いろいろやってくれるってスゴイことだったと思う。

この時はまだ、この大学に悪い印象はなかった。しかし、本格的に授業が始まってからは、上に挙げたようなマイナスイメージが付きまとうようになった。大学時代日記を参考に書いていく。

以下、特定の思い出エピソードを語る場合は、太字タイトルを付けて1字下げにする。

1.授業中の男子学生

 新入生向けの英語の授業だったかな。前の席に座ってた男子学生が、先生の話を聞かずにケータイを弄っていた。先生がさ、「授業中です。携帯電話はやめなさい」って言ったんだけど、彼は聞かなかった。

 先生それから何度か指導をするんだが、やっぱり聞かない。で、そいつは「う~い、わかりやした~」みたいな感じで答えている。先日まで高校生だった人には、授業はきついのだろうか(と当時の日記に書いてあった)。

「もういい。お前は落とすっ!!!!」

 先生が小さい講義室の中で、声を張り上げた。いやあ、あれは久々にびっくりした。その学生は退出を命じられ、教室には重苦しい雰囲気が漂った。

 当方は、京都まれ京都育ちである佛教大学には、高校生の時にオープンキャンパスで来たことがあった。その時は、悪い環境じゃないなと思った。学生以外にもいろんな人がキャンパスにいた。学食には障がい者とか、ご老人とか、浮浪者の人とか、中高生とか、とにかく多様性に富んでいた。どんな人でもキャンパスに受け入れる空気感が好きだった。

 しかし、【カオス】というのは多様な方向に拡がる。それは、いい方向ばかりとは限らない。そういうものなのだ……。あと、ついでを言うと、この頃はちょうどキャンパスの再整備工事最中だった。今ではクソデカ超立派な新一号館が鎮座している。

仮校舎とかもあった。実際、授業中の思い出と同じくらい、工事現場が間近にあったイメージが強い。

2.想像を絶する張り紙その他

 一般的に、若い人ってモラルが低くなりがちである。それはいい。若いんだからマナー常識もこれから勉強すればいい。

 しかしbut。自分学内で見た貼り紙の中には、「え……?」というものがいくつかあった。以下に列挙する。

(貸出物品のこと)

 多目的情報ルームみたいな施設があったのだが、職員カウンターの前にこんな趣旨張り紙がしてあった。

「今後は学生への事務用品の貸し出しは行いません。貸した後で帰ってこないことがあまりに多いためです」

 久保帯人ブリーチじゃないけどさ、俺にしてみれば「なん…………だと…………」だった。

体育館張り紙

 キャンパス内の鷹稜館(おうりょうかん)という建物には、体育館兼式辞ホールがある。飲食禁止である。昼休み中に駄弁るのもダメ。そういうルールだった。しかし、学生の中には、スポーツとかするエリア内でメシを食べたり、授業の空き時間ステージ上で寝てる人が多数いた。

 いつからだろうか、「館内での飲食や休憩はできません。見つけ次第指導します」といった貼り紙が増えていた。その際の、自分認識としては……「なんでこんな貼り紙存在するのだろう。管理者ダメって言ってんだからダメなんだよ。なんで従わないって選択があるんや?」というものだった。

 大学生になって一年も経ってなかったが、高校時代とは違う風景がそこにあった。大学自由なところとは聞いていた。でも、俺が想像していたのはこういう自由ではなかった。

コピーカードのこと)

 何円だったかは忘れたが、学内のどっかで【コピーカード】を販売していた。ただ、部活(サークル)が小説などを書くところだったんで、印刷物を刷る時の負担が大きいんだよな。100%公的もの(ex.学内新聞関係)だと部活動費で賄えるが、個人的趣味出版物だと難しいものがある。

 同じ部活にいた文学部学科は忘れた)の女の先輩が、趣味同人誌を作ってたんだけど。その人が、ゼミ教授から一時的に借りているコピーカードがあって……教授が持ってるコピーカードって、枚数無制限なんだよな。もしくは1万枚とか度数があったと思う。

 もうわかってるとは思うが、その先輩は、印刷無料販売用のマイ同人誌を大量印刷していた。確かあれは、『TIGER & BUNNY』か『ギルティクラウン』のどちらかだった。さすがに今では、どっちか思い出すことはできないけど。

  「先輩、それヤバいっすよ」と言ったけど、先輩は素知らぬ顔で答えるのだ。

増田君。文学活動にはね、お金必要なんだよ。これも社会のためだと思って、見逃してほしいな♪」

 だってさ。あまりクールだった。いやぁ、あの時は痺れたね……笑

 (参考:https://tadaup.jp/702e034b1.jpg)

 ※度数1000のコピーカード画像自分教授から借りてそのままだった笑

この頃から自分は佛大の学生とは距離を置こうと考えていた。

早く、とにかく早く実力を身に付けたい。レベルが高い社会人になるべく、今から努力を積み重ねるのだ!! この課題については、なんとしても早く――昨日のうちにでも達成する必要がある。

そして、大学卒業後は、一流どころの大企業へ。そんな牧歌的なことを考えていた。

https://anond.hatelabo.jp/20240502193039

anond:20240501191612

海外おすすめだともう読んでるかもだけどチママンダとかどうだろ

アメリカーナは面白いなと思えた

あとはちょっと手に入れづらいかもだけどナギーブ・マフフーズとかアブドゥルザク グルナとか

この辺の非ヨーロッパ文学はなんだかんだ結構目が覚める感じする

2024-05-01

togetterで見た史学科に行ったら就職が~とか笑ってしまった

氷河期世代からすると人生舐めてんな~実学したくないなら太い実家を頼りなよね~って思う案件

だって文学やりたかったけど機械工学に行った。結果ギリ食えてる

でも今は若者が少ないからそんなとこ行っても何とかなっちゃうんだろうなあ

2024-04-28

文学研究てなんなん

新潮文庫芥川龍之介地獄変・偸盗』を読んで表題のようなことを思ったのでちょっと書いてみる


この本は解説吉田精一という人が書いている

どうやら偉い学者のようだが、「何言ってんだこいつ」と思えるところがある


この人によると収録されている『六の宮の姫君』は出典元の今昔物語集と筋はほぼ同じで、あとは若干の創作が付け加えられているだけだそうだ

評価する者もいるが大したことない作品らしい


芥川龍之介が話の筋を重要視してないのは素人自分でも知っている

谷崎潤一郎議論があったのも知っている

話の筋は、芥川作品において読み解くべき優先順位は低いだろう


この人は「わずかに潤色をほどこしているにすぎない」と芥川創作部分を評価してないようだが、

出典元と読み比べてみると、むしろ筋以外はほとんどが芥川創作で、描写される景色人物言葉今昔物語集には存在しない

芥川が生み出したところに目を向けず、筋だけを取り上げて大したことない作品貶めるとは、こういうのが文学研究なのかと、いったい何をしているのかと思う


『六の宮の姫君』は芥川自殺する5年前に書かれた作品だが、自分には作中の死にゆく姫君の言葉は将来の芥川自死を予感させるもののように読めた

こんな素人ぽい分かりやすい読みを超えた、専門家らしいもっと深く鋭い解説を読みたかったが、それともこれこそが専門家らしい読み方なのだろうか


あと、「極楽地獄も知らぬ、不甲斐ない女の魂」を芥川の姫君に対する批評としているけど、これは作中人物のセリフである

中人物のセリフをそのまま作者の思想とみなすのはどういう根拠があってのことなのか

2024-04-27

anond:20240426172155

最後に大落ち持ってくるあたり、ブロント文学の息吹を感じる

anond:20240427111742

文学はな、言語能力の高い人間を苦しみで押しつぶすと出てくるごま油みたいなもんだよ

って、何かの画像で見た

anond:20240426234848

1.未成年選挙権

 私は著書「統計データおもしろい! -相関図でわかる経済文化・世相・社会情勢のウラ側- 」(2010年10月技術評論社刊)の中で、この図録を含む上記つの図録にもとづき、「少子化公的支出で防げるか?」という表題の1章を構成したが、「政治奇跡」へ向けての具体策として以下のように提言した。

「私は、究極の普通選挙として、選挙権未成年にも与え、親にその代理投票権を許すという新制度について真面目に検討してもよいのではとさえ思っています世界史上はじめてこうした制度をつくるとしたら、高齢化スピードが最もはやく、高齢化に伴う社会保障制度のゆがみが最も深刻な日本においてではないでしょうか。」(p.121)

 これは、一般には、なかなか受け入れがたい考えかなと思っていたら、同じことを考えている人は、予想以上に多いようだ。

 経済学者大竹文雄氏は2008年10月20日(月)発売の『週刊東洋経済 』に「子供の数だけ親に投票権を」というコラム掲載している。

 大竹文雄氏のブログでは、他にも同じ提案をしている例として「北海道大学大学院文学研究科金子勇教授がお書きになった『少子化する高齢化社会』(NHKブックス2006年2月刊)の148ページから149ページに記述があります。そこには、2004年4月富士通総研鳴戸道郎会長が「少子化コンファランス」でこのような提案をされたと記載されています。」とある

 さらに、東京新聞では、「ゼロ歳児から選挙権を」という見出しで、スウェーデンで「赤ちゃんを含めた将来世代選挙権を広げよと提唱し、」同国で反響引き起こしたイエーテボリ大学のボー・ロースタイ教授へのインタビュー記事2011年2月20日)を掲載している。

「昨年9月スウェーデン総選挙では与野党年金所得への減税について優遇策を競い合った。高齢化した有権者層の受けを狙った、投票を金で買うような行為によって政策をゆがめた」「いっそゼロ歳児から国民選挙権を獲得すれば、スウェーデン政党は新たに誕生した約200万人の有権者の獲得を目指すことになる。この大きな一撃は政策優先順位必然的に変える。もちろん選挙関連法の改革必要で、実際には保護者子ども代弁者として投票する仕組みが考えられるだろう

夢物語では。

もともとは10年ほど前にスウェーデン小児科医らの協会が考えたアイデアだった。彼等は経済的困窮に陥った子供たちを多く見る立場なので発想できたのだろう。私は当初『とんでもない考えだ』と否定的にとらえたが、学者としての調査過去30年間、西欧社会子供貧困精神不適応が驚くほど拡大したことを実感しており、人的資源子供)に投資しない政治社会をもはや見逃せなくなった」

 こうした投票制度は「ドメイン投票制度」としても知られているようだ。

 親権者子供の数だけ投票権を与えることで、間接的に未成年者にも投票権を与えようというアイディアは、「ドメイン投票方式」と呼ばれ、人口統計学者ポールドメインPaul Demeny)によって1986年に考案されたとされる。「ドイツでは2003年ドメイン投票方式を導入について議会議論されたが、実現には至らなかった。そして2008年に再び議論されている。なお、ドイツでは ドメイン投票方式子供投票権(Kinderwahlrecht)の名で知られている。」(ウィキペディアドメイン投票方式」2013.4.30)

 提唱者のドメイン教授を招いた「ドメイン投票制度」についての討論会2011年3月に催されている(NIRA該当サイト)。ここで、ドメイン教授は、ドイツ議会での議論のほか、シンガポールリークワンユー元首相が同様の提案を口にしたこと、またハンガリーの新憲法草案として「子どももつ母親に1票を付加給付」という考え方が示されたことを紹介している。

https://honkawa2.sakura.ne.jp/1587.html 

2024-04-26

日本人英語を学ぶべき理由の一つは、米国文学などにキザな文章結構あることかな

建前論は日本では青いだのお花畑だのとダサイ扱いかもしれないが、アメリカではけっこう尊重されてる感じある(表面的には)

あなた父親母親がこうした懸念事項を見過ごしてきたからといって、あなたが見過ごし続けるべき理由にはなりません

Because your fathers and mothers have been neglectful of these considerations, is no reason why you should continue in ignorance.

筑波大学お薦め図書リストの「まず読みたい100冊」についての感想

個人の感想です

学生のためのお薦め図書リスト | 筑波大学 比較文化学類公式ホームページについての感想です

・「まず読みたい100冊」の話しかしません(次に読みたい100冊は単に好きな本リストでしょうから


三四郎』 『地獄変・偸盗』

最初にこの2つを持ってくる意味が分かりません。あらゆるリストにおいて最初の2つはこのリストがどういった順序になっているのかを示すものであるべきです。五十音順かと思いましたが、それなら次は『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉世界』になるはずですから違いますね。大学生向けということですから対象年齢順ではないでしょうし、難易度順というはずもないでしょう。

もしもあえての順不同だとしても、最初のいくつかはコンセプトの紹介となるものを選ぶべきです。このリストを見た人がどういう思いを受け取ればいいのか迷わないように。

まさか、それで選んだのが「漱石明治時代大学生を描いた名作です。自分と比べて見るのも一興。」「何百もの小説を残した芥川。「羅生門」だけじゃ物足りない。」ですか?ならば多くの人がこのリストを見限るでしょうね。「若造ども、俺が超おすすめ古典文学ってのを教えてやるよ。無教養な君たちはまずはこの辺でも読みなさい」ですか?まあ確かに、そういうリストなのかも知れないですね。だからといってそれをいきなりぶつけてみせるのは初対面の相手に対しての礼を失している。礼を失しているようなものが作ったリストに載せられたあらゆる作品不憫でなりません。

コメントなしの紹介

紹介としての体をなしていません。ただ名前を挙げるだけで仕事をした気になっていいのは山手線を暗記したことを自慢する幼稚園児の鉄道オタクぐらいのものです。なぜオススメするのかを書いてください。オススメされたものへの礼儀です。オススメする側が上で、された側が下だと考えるから礼を失するのです。

大学とは大人の通うものです。先日まで高校生だった人間であっても、言動子供っぽさがあっても、大人として扱ってやることによって、彼らに自分たちはもう大人なのだという自覚を与えるのも大学役割です。学生大人として対等に扱ってあげてください。大人同士だと認識しているのに教える側が絶対的に偉いと思ってるなら、それはもうただの人格破綻です。

紹介コメント(80字以内)「一般教養」 「古典的名著」

どう一般教養なのか、どう名著なのかを書いて下さい。最低限の表現力が欠如しています先入観を持たれることを恐れて書かないというなら、そもそもが間違っています。入門的な書物名前を出した時点で多くの学生は「お前らはまずこの程度のものから身につけなさい」という説教のような印象を受けるでしょう。実際にそう言いたいのですか?そうだとしても、それは効果的な態度ではありませんね。

なぜ学生がまだ最低限の教養を身につけていないのかを考え、そこからバカからだ」という結論にでも至ったのでしょうか?それなら、そんなバカ相手にただオススメするだけで意味はないですよね?それでなにかやった気になって「俺はやれっていったけどなー」とチャチいペシミズムにでも浸りますか?そうじゃないでしょう。なぜ、これをまず学ばなければいけないのかを、言語化してください。それが無理ならリスト作成に関わらないで身を引いて下さい。リスト作成者の人も、こういう人に身を引かせられるようにしてください。座組の段階の問題でもあるのですよ。

ギリシャ神話』 出版社岩波文庫ほか」

一番オススメ出版社のものはどれですか?いくつもの出版社作品を読み比べて欲しいと言うならそう書いて下さい。もしもこれを読んでほしいという一番のオススメがあるならそれを書いて下さい。少しでも多くの情報を伝える努力をする姿勢を。

あっ、駄目だ。

そろそろイライラして変なこと書きそう。

もうここで俺は辞める。

誰か続きを書いてね。

ツッコミ自体はまだまだあるから

まあ6割ぐらいは割と悪くないんですけどね。

参考文献が書いてあったり、オススメ理由が書いてあったり、とりあえず興味を持った順に読むって形に持っていきやすいし、自分がひとまず何から読むべきなのかの道筋もある程度示されていると思いますし。書店での入手可否やkindleでの有無なんかがあるのもいいと思います結構いいと思いますよコレ。

2024-04-24

真夏の豊穣の豊かさに比べると、冬枯れの無機能の美しかない今にあっては」という表現は、東大文学部卒で昭和50年代一世を風靡した串田孫一エッセイ表現である

   串田孫一   東大文学部卒   詩人  エッセイスト  評論家

   1964年頃から活動していたが、男として頭角がなく、昭和54年以降の女性時代になって、その独特の性狂いのエッセイが大流行し、一世を風靡した。

  「真夏の豊穣の豊かさに比べると、冬枯れの無機能の美しかない今にあっては」というのは、串田孫一の、エッセイの一節である

   ここでいう、冬枯れの無機能の美というのは、現在警視総監である小島博史が書いているようなゴミの事である。これをあえてゴミと強く表現する必要はないにしても、宮崎県警通信指令課

 宮崎県警本部長が最終的に書く行政処分書が上記のものに該当することは明らかである代表

  著作は山岳文学画集小説人生論、哲学書翻訳など多岐にわたる。詩集『羊飼の時計』(1953)、『山のパンセ』などが主著。

  実際に流行ったもの

『山のパンセ実業之日本社 1957 のち集英社文庫岩波文庫・ヤマケイ文庫

串田孫一断想集』大和書房 1964

現代人生全集11 串田孫一集』雪華社 1966(のち私の人生10 串田孫一日本ブックエース)

『光と翳の領域 随想集』講談社文庫 1973

『Eの糸切れたり』時事通信社 1987(のち平凡社ライブラリー)                  

『もう登らない山』恒文社 1991

『星と歌う夢 最新エッセイ集』平凡社 2003

2024-04-20

オープンレター北村さん・雁琳さん訴訟について雑感

地裁判決がでましたが、学識豊かな人々が相互に叩き合っていて不毛です。見ているだけでも疲れる。しかし、感情を揺さぶられるのとTwitterアルゴリズムによってつい追いかけてしまます

複雑な出来事単純化して、自分からこう見えているというのを整理してみます

お互いの陣営がそれぞれ自信たっぷり相手批判していて迷うこともあるのですが、みなさまはこれらの項目のどこまで合意できそうですか。その他重要論点あれば教えてください。


雁琳さんには池内恵さんにすすめられていたように著書執筆に専念しては欲しいです。

参考記事

森新之介さんのブログが整理されていた(ほかの記事を読むと人文系アカデミアにうんざりしてしま・・・

呉座勇一への懲戒処分とテニュア付与|森 新之介

卒論などでお世話になった人も多いだろうnext49さんのブログオープンレター関連について整理されている

メモ:「女性差別的な文化を脱するために」関連の時系列 - 発声練習

雁琳さんとの判決文。東京地方裁判所 令和4年(ワ)第4632号 判決

http://www.mklo.org/mklo/wp-content/uploads/2024/04/ffdd5b80e78c62b11a9a19dbd8ffa153.pdf

追記

id:IkaMaru さん

増田に限らず「俺は中立だけど」みたいなトーンで話を進める奴のほとんどが即バレしない程度にちょっとだけアンフェ側が正当に見えるよう話をズラしてゆく。もう諦めろ。雁琳のためにもならんぞ

コメントありがとうございます増田としては、今回の雁琳裁判後も吹き上がって裁判や、もともとの被害者である北村さんを批判しまくってているTwitterユーザが多いことにかなりゾッとしていまして、かれらや、かれらのフォロワーのうち一人でもおかしいぞ、と思ってほしくて書いた次第です。

ただ、頭ごなしに全批判しても受け入れてもらえないのではと考え、今回の一連の事案のどこまで合意できるだろうかと論点を列挙しています。少なくとも、いじめ被害者への二次いじめをしていると自覚してほしい。どうしたらいいんでしょうね・・・

2024-04-19

商品名一般名詞差別用語蔑称になったもの


チー牛:ブラック企業大賞すき家『とろ~り3種のチーズ牛丼』、巻き添えで吉野家の『チーズ牛丼』、松屋の『チーズ牛めし』など

片親パンヤマザキの『薄皮つぶあんぱん』、『チュロッキー』、『チョコチップスナック

黒人スイカステレオタイプスイカ

フライドチキン:上と同様に黒人差別で使われていた

スイーツ(笑)スイーツ全て、発音は同じ

和室界隈:和室

ストゼロ文学ストロングゼロ文学

D.A.D

これ以外にもまだあるよね?

というかみんなでWiki作ろうぜ

追加

ピザデブ蔑称最近聞かない)

メガネ弱視障碍者差別だけでなく、増税なども含まれ

キムチ韓国蔑称的に使われる

くまのプーさん中国におけるきんぺーコラ

猿:かつて日本人蔑称していた単語

Hitachiマジックワンドは本来の使い方と離れたセックストイ(いわゆるローター)によって生産中止となった

事情が異なるもの

弱者男性などのような、単語のものが新しく出来たもの意味が違う

4℃や114514、810などの数字しかないものについては違法数字ってことで別でまとめるべきである(というか誰かまとめただろ)

言及された増田蔑称であるチョコチップメロンパンなど、その個人の界隈でしか聞かないものもその一種だが、チー牛などのように一般的に使われていないので一応除外(FLASH板の日立製作所もその1つとされる)

anond:20240419164432

気分悪くはなんないけど、純文学楽しめないのは分かるわ。

 

感情移入するとか、起きている事件を楽しむとか、そういうのじゃないんだよな。 

意味深な状況を描写してるから、それについて理性を働かせて、理性のために感情は一旦止めといて、ああそういうことねみたいな。

国語テストかよ。

感情が止まってるってことは、もうそれはつまらないだろ。

文学ファンって、テストに正解できたことに悦に浸って、自分感情を動かしてるんじゃないの。オシャレカフェで美味しくもないコーヒー飲んでるのと同じ。まあこれは想像だけど。

 

それでいて言わんとしてることが、結構しょうもないんだよな。

世間知らずの上流階級向けだからか?

俺ら下層民にとっては「そんな当たり前のこと言って何が面白いんだ?」みたいな感じ。

コンビニ人間』とかね。『無敵の犬の夜』とかね。『蹴りたい背中』とか。クズ人間クズ行動をして得るクズ体験なんか、普通によく見るだろ。動物園珍獣を見てるような気分なんだろうけど、文学ファン以外のマスにとっては日常からなそれ。日経平均株価上下移動見てるようなもんよ。

花火』だけはちょっと面白かった。芸人あるある日常ではないから。

2024-04-18

anond:20240418110459

ラノベレーベル名乗って無くてもラノベ出してる所はあるしラノベってカテゴライズ自体が後付けだから客観的指標は無い

作者が謳う場合もあるし作者は意図してないけど出版社がそう取り扱う事もあるし公式には言われてないけど読者の多数が判断してそうなることもある

からお前の指すそれはラノベじゃねえよっていう議論自体不毛所業

これは小中学生でもサクッと読める娯楽小説だなって感じたらラノベって判断でも間違ってないし

ラノベレーベルからハイファンタジーハードSF出したって構わんのだ

 

ちなみに昨今は古典文学や古い小説萌えイラストを添えて再版していることも多いので表紙が可愛い女の子っていう定義はもう当てはまらない

古典的な美の概念

美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアルネサンス絵画建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。

イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧バランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧イメージを達成しようと努めました。あらゆる形態自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的作曲システムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定独立性を維持します。それは原始芸術無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。

古典的概念では、美しさは、比例、調和対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。

これは西洋原始的な美の概念であり、古典および新古典建築彫刻文学音楽のどこにでも体現されている。

アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。

そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)

アリストテレス示唆しているように、この見方黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。

この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書パルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。

カノンは、完璧プロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。

医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率指定していると説明している。

その論文身体のすべての対称性私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体正典と呼んだ作品でその論文裏付けた。

古典的テキストにおける「対称性」の概念は、双方向鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要

それはまた、古典的意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能比率一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。

たとえば、『ソフィスト』 では、プラトン高潔な魂を対称的である説明している。

古代ローマ建築ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的概念体現している。

建築は、ギリシャ語タクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人ディアシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人エコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます

秩序とは、作品の細部を個別バランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。

プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。

シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます

アクィナスは、典型的アリストテレス多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)

18 世紀のフランシスハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。

「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。

実際、この見解の支持者はしばしば「数学スタイルで」話す。

ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッド命題を挙げる一方で、次のような普遍的物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然熱狂的に賞賛している。

「美しさはある、と彼は言いますアイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)

美とは部分間の特定比率問題であり、したがって古典的概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちアイデア起源についての哲学的調査」で与えられている。

植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えていますリンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えていますしかし、バラリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間身体には、相互一定比率を保っていることが観察される部分がいくつかありますしかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん