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はてなキーワード: 教科書とは

2024-05-15

    数学構造に従って順次検討する。  定理・・・発見されたとき驚愕される有用ものであるが、大したことがなく、研究が深まっておらず、完全無欠とは言い難い定理は、公式と呼ばれる

  ようになって、証明技術使用できない。例えば、  sin^2+cos^2=1 は高校教科書の当たり前の定理であるが、公式と呼ばれる。 加法定理公式化している。完全無欠でそれ以上に

  ないところまで進化していないと、使い物にならない。パスカル定理とか、 対称にして消すといった概念は、数学では完全無欠の象徴とされ、計算技術の中に出て来る。円もそうである

  しかしこの辺りの技術平成の者は誰も教えられていないので、具体的に、いかなる概念定理が完全無欠と言われているかについても、その種の本が絶滅しているため、知りようがない。

  この辺のことは、FF9のウイユヴェールにあるといって、平成26年11月13日頃に強制にやっていたような感じがあるが、その秘術は、ウイユヴェールの部屋の中にあるので、誰も知りようがないということ

  である。ウイユヴェールの老人でその夜に存在するかどうか分からない人間が全部封印したので分からないということであり、板橋区志村福祉事務所も、そこがウイユヴェールであると言っているが、

   事務所に行ってもウイユヴェールの顔見たいな人は見当たらなかった。よって、この定理進化して完全無欠な形態になるといっても、最終的に、何が完全無欠な概念であるかは不分明であり、

  現代法、現代憲法解釈論の中にそれがある可能性もあるが、いかなる定理が、完全無欠であって、他の問題構成に出て来るのかは全く分からない。なんらかの恐るべき科学技術存在し、

   完全無欠な定理や、計算技術がそこに使用されている可能性があって、その恐るべき結論を導出している可能性が高いが、その種の装置は、存在する場所が隠されており、外部から見ても

   分からない。  

2024-05-14

anond:20240514194453

他の女と比べるのがNG教科書に書いてあったからそれじゃないのか

https://anond.hatelabo.jp/20240514161338

  どうでもいいから読んでいない。 そもそもABC予想証明する必要がないし。 ワイルズ場合は確実な定理教科書に書いていって最終的に、コルイヴァギンフラッハ法により出来たが、

   リチャードテイラー、 谷山豊などは、哲学的に確実な方法に持って行こうとして、発見すべくして発見した。

   幾何学アイデアも用いている。  ちなみに警察強制していないと、  ABC予想といったところで、 40代東大卒理科3類からウソ乙と言われて終わってしまうので。

2024-05-12

自分は淘汰されていく側の人間なのではないか

最近気付いてしまった。

自分は淘汰されていく側の人間なのではないか」と。

私は20代半ばの女で文系学部卒、都内実家住みで都内勤務である

これだけ聞くと一般的にいるアラサーで、むしろまれている方かもしれない。

今年の初めに交際相手に振られ、その後はフリーだ。

新しい出会いについて考えたが、理想が高くなってしまったのかなかなか相手に1歩踏み入れられない。マッチングアプリで1人会ってみたが、プロフィール詐欺(職業学歴居住地など)の多さに耐えられなくなった。やはり理想が高いのか。

理想

年齢:同年代(ジェネギャをできるだけ減らしたい。できたら同い歳がいいけど±2歳くらいが目安)

身長:160〜180cmくらい(自分より高い方が相手も気にしないかなっていうのと、高すぎると並んで話すのがちょっと大変だった。でもこちらも目安なので低くても高くてもOK)

年収:400万〜

住み:23区多摩地区東側(1人暮らしだとなお良し、職場か私の家から1時間半の範囲内だと嬉しい)

顔:好きになった人がタイプっていう綺麗事しか書けないけどそれは本当、ガリガリ肥満心配になるから好みではないかもしれないけど体質なら仕方ないよな……

タバコ:吸わないでくれ

学歴:大学卒(どの大学でもいいからしっかり勉強研究部活動サークル活動アルバイトなど何か打ち込んでいたらいいなとは思う。難関大出身でも散々サボってるのにテスト直前に周りの人に「ノート見せて」って言ってたり、遊び呆けたりしていたらおそらく価値観が合わない) 学部卒でも院卒でも

趣味:ギャンブル関係シーシャNG。あとサウナ行きすぎると毛根や精子が終わるので週末サウナ族はNG。昨年アプリをしていた時に「毎月給料が入ったら遊戯王カードを買っている(手取り18万くらいなのに5万以上するカードを買っている)」と言っていた男がいたが、それだけならいいけど毎週友達と朝まで飲んで飲み代えぐくて「もしかして給料を使い果たすタイプなのか……?」となって以来、金遣いの荒い趣味の楽しみ方をしている人が苦手になってしまった。でも経済を回しているので恋人としては辛いけど、友達としては楽しいかもしれない

その他:体調が悪くなければ毎日入浴と歯磨きを頑張って欲しい、ひげはない方が好きだけど生えてきちゃうよね(伸ばしている方は好きではないが、脱毛していたら天を仰いで感謝する。お金がかかるから無理はしないで欲しい※私自身は全身脱毛済み)、店員さんに失礼な態度を取らないで欲しい、ごみちゃんごみ箱に入れて欲しい、ハゲNG、鼻をほじるな、耳をほじるな、できれば清潔でいてくれ、高圧的な態度を取らないでくれ、ある程度TPOを弁えた服装を心がけてほしい

1番は、「会話ができる人」。ちゃんとやり取りができるのって大事面白い人が好きとか、かわいらしい人が好きとか、そういうのは求めすぎな気がしてきた。それに、条件で付き合うのではなく、やっぱり好きで尊敬して付き合いたいけどそれはもう手遅れだろうか。

周りの紹介で会った人は結婚願望が0だし(なぜ紹介した)、こんなやりとりがあった↓

相手「おいしいイタリアンがあって……マンマパスタっていうところなんだけど」

私「おいしいよね!」

相手「知ってるの!?淵野辺まで来たことある!?

私「淵野辺って相模原の?(昔友人が住んでいて地名を聞いたことがあった) いや、ないけどチェーン店から他の店舗なら行ったことあるよ」

相手淵野辺マンマパスタが1番おいしいから!淵野辺店じゃないと!」

私「(どこぞの婚活ネキのトリキ祖師谷ネタと同じじゃねえか)へえ!そうなんだ!今度行ってみようかな!」

ここまで来ると、私は結婚どころか、今後恋人ができるか怪しいのではないかと思えてきた。世の中には様々な人がいて、結婚恋愛が全てではないと分かってはいるけれど、どうしてもその幸せを私も掴みたいと思ってしまうのだ。大好きな人と一緒にいられたらそれでいい。傲慢だろうか。

段々、「自分は淘汰される側かもしれない」というフレーズ脳裏にチラつくようになってきた。中学理科の便覧で見た遺伝子の優劣の図が脳内で踊り出した。親には申し訳ないが、私は淘汰される側かもしれない。

そうなると、寿命までの何十年を楽しんで過ごしたとして、それは後世に何も残せないのかと思うと人生って何なんだろうなと思う。友人と会うのは楽しいし、スポーツするのも楽しいし、芸術鑑賞をするのも楽しいし、大学で取った資格で好きな仕事をして仲間にも恵まれているし、おいしいものを食べるのも窓辺から景色を眺めるのも散歩して道端の花を見て季節を感じるのも、全部大好きなのに。全部1人の中で消費されて、いなくなった後には何も残らない。

こんなことを考えては急に虚しくなった。生きる意味って何だろう。繰り返すが、結婚恋愛が全てではなくて、もちろん特定相手がいなかったり、籍は入れていなかったりしても幸せに過ごしている人がいるのは重々承知だ。

きっと、新しく恋人ができたらこの悩みも薄れるのかもしれないと思う。その時は相手安心材料みたいに絶対に思わず、大切に、そして幸せにする。

あ〜〜〜〜元恋人に「〇〇(私)から面白みを感じない」と交際1ヶ月あまりで振られたのが結構きている。それなら何で「好き」って言ったんだよ、「付き合って欲しい」って言ったんだよ。無理だよ、デートドタキャンされた次の日のデートツッコミのキレが悪かったなんてそんなのドタキャン理由もやもやしていてツッコミができる状況じゃないんだよな!それなのにもっと上手く関われたはず、って後悔して復縁考えてたのがもっとしんどい。やはり私は弱い。

とりあえず、別れて3ヶ月以内に新しい彼女を作って「彼女が出来た」と報告してきた元彼は、今度帰省した時にでも実家のありとあらゆる場所を探って、道徳教科書を熟読してください。

こうやって考えるのって自分自分のことを生きづらくしているようなものだ。とっとと筋肉を鍛え、美容に気を遣い、周りの人に感謝して、好きなものを目一杯楽しんで強くなるしかないなと思った。

強くなってどうなるのかは分からないけれど、日曜の夜はこれくらいで思考をやめておこう。

追記

こんなに反応をもらえると思っていなかった。ありがとう

身長だけなら1つ前の相手自称165cmで歴代で1番低いけど、むしろ身長は高くない方が並んだ時に話しやすくて助かった。体型は普通体型の範囲内だと思う。具体的な名前は伏せるが某大学の某自治寮出身者だったので付き合ったら面白いかと思った。しかし、思いのほか付き合うのが難しかったので、私のキャパの狭さが露呈した1ヶ月あまりだった。

趣味については私自身元女ドルオタだったのである程度の金遣いに理解があるつもりではあるが、グッズに月3桁使って親に泣きついたり、給料をいつも趣味交際費だけに使い果たしたりするのは結婚を考えると難しい。仕事終わりや休みの日にライブに行ったり、自分の払える範囲内でグッズ類をコレクションしたりするのはぜひとも楽しんで欲しい。

マンマパスタ淵野辺店は普通においしいと思うのでいつか行ってみたい。

オッサン趣味女子高生やらせる」ばかりではなく「せいかつ!」や「たいじん!」によってオタク教育して欲しい

序論

社会が求める「真人間ハードル」は昨今ますます伸び上がりを見せている。

平成に入るまでは「毎日風呂に入る」ということを達成できない社会人もそこそこにいたが、現代においてはそんな人間精神疾患を疑われて病院を紹介される。

そんな中でもオタク達は未だに「毎日風呂に入っているのに臭いと言われるのはおかしい」と言いながら、漂白剤を使わず洗濯して部屋干しした服を着て、汗や雨の臭いが染み付いたリュックを背負って出勤してしまっている。

生活における常識アップデートをする機会がオタクにはないのだ。

社会普通に生活をしていれば、他人ときちんとコミュニケーションしていれば少しずつ求められるハードルが上がっていっていることに気づく機会もあるだろうが、オタクにはそれも難しい。

オタク生活というものについて情報仕入れる最大の機会はインターネットとなるが、そのインターネットでさえも「コミケの前には風呂に入ろう!入ってきた!ヨシ!」を未だに繰り返していて周回遅れも良い所だ。

ならば他の場所オタク啓蒙しなければいけない。

たとえばそれはゲームであり漫画でありアニメだ。

アニメを通じてオタクに「ちゃんと殺菌されてない生乾きの服を着てはいけないし、汗をかきやすかったりワキガ体質ならデオドラント製品を使うべきだし、靴は二足を使いまわして毎日脱臭処置をするべきなんだ」と伝えてやる必要があるんだ。

オタクが未だに「野原ひろしの足が臭いのは外回りサラリーマンから仕方ないとクレヨンしんちゃんに書いてあった。つまりオッサンの足が臭いことについて文句を言うやつは働いたことのない子供ニートなので無視していいんだ」という感覚で生きているのは、オタクの周囲に新しい感覚を教えてくれるコンテンツがないからだ。

無臭もしくは素晴らしい体臭を設定された美少女たちを描いた作品ではオタク啓蒙できない。

特別体臭を描くときでさえ「アポクリン汗腺!」と冗談めかしているようでは、オタク達に正しい社会生活というものを教えることも出来ない。

小学校で習ったはずの裁縫さえまともに出来ない自分を「俺はママ属性キャラじゃないからなあ」で済ませている彼らに、生活力を身につける機会を与えてあげなければいけない。

そういった使命感を持った作品社会に求められているのではないだろうか?

美少女にやって欲しい「生活

洗濯

・入浴

コミュニケーション

栄養管理

睡眠管理

掃除

整理整頓

交通安全

法律民法

法律刑法

契約

金銭管理

既に達成されているので追加で必要ないもの

筋トレ

勉強

教科書で習う科目

音楽

美術

・戦史

性教育



anond:20240512003820

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

Davinci Resolveは何でもできるけど、思った10倍手間がかかる

プリセットテンプレがほぼないので、簡単にできると思えることが意外と大変だ

もちろん少し凝ったことをしたいと考えると他のソフトでは難しいことも多いのだけど、いまこれを簡単にこうしたい、という要望にDRはまず答えてくれない

非常に直感から外れている

教科書的なものも不足しているのでやり方探すだけで一日が終わる

苦労して探したら有料プラグイン必要と来たりして大変萎え

というか有料プラグインいれても無料ソフトのほうがよいこともある

2024-05-11

漫画レコード大好き小学生カケル

ジャイアン萌え漫画

ジャイアンセリフだけ木村昴脳内再生されるんよ

Twitterで流れてきて

ジャイアンが未知の文化出会って惹かれていく様子と

レコードにしみじみ良さを感じる主人公くんの描写

滅茶苦茶いいな…と思って買った

・下手なBLより滅茶苦茶萌え

まさかレコード漫画ジャイアン受けの良さを

こんなにわからせられるとは思わなんだ

俺を部に…⁈ウヒョー!からあなたになりたいの

一連の流れが描写完璧すぎるやろ

ジャイアン受け萌え

ブラックギャグ描写父親の妻(第三者)に対する舐めすぎレベル

優先順位描写ヒロインのすぐ私にはレコードを聞く資格が無いんだわ!!ってなる

極端な振り幅、マジで自分にあるところなので

すごい反面教師道徳教科書になった

こういうギャグ、好きです

ジャズ興味あるけど全然わからん人なので

ジャズ担当女児いるの助かる

2024-05-10

「赤いスポーツカー 心理」で検索してたら公認心理師過去問解説サイトがヒットした。

https://public-psychologist.systems/10-%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%96%BE%E6%82%A3%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%B2%BB%E7%99%82/%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%99%E3%82%8B%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%95%8F%E3%80%802022-151/

公認心理師試験ってこんなに簡単問題が出るんだな。

まず「22歳の男性A、無職。奇異な言動心配した家族に」の時点でもう病名はほぼ統合失調症に絞り込める。

あとは鑑別と除外。「半年上前から」で短期精神病性障害統合失調パーソナリティ障害は除外できる。

空笑・独語・まとまりのない言動関係妄想という教科書的な典型的統合失調症の症状の記述で確定。

これが分からないレベル人間心理職についてたら不味い(医療に繋げることができないため)。

国家資格である公認心理師ですらここまでレベルが低いんだから、この資格すら持ってない自称カウンセラーにかかるのは相当リスクが高いと思う。

2024-05-09

スーファミ試作機の所有権任天堂が失ったのはいつか

スーファミの試作機がネットオークションに出されて話題になっているが、一部では任天堂がその気になれば所有権に基づき試作機を取り戻せるのではないか、と指摘されている。

当方法曹でもなければ法学部卒でもないが、民法教科書を読む限りは、任天堂は遅くとも2015年11月23日にはスーファミ試作機の所有権を失い、試作機占有者正式に所有者になっているのではないかと推測する。以下、条文の当てはめを示す。

  1. 使用貸借契約(593条)に基づき、任天堂ゲーム開発会社に試作機を貸し出したと考えられる。これにより代理占有関係が成立し、試作機を任天堂自主占有かつ代理占有し、ゲーム開発会社は他主占有かつ自己占有していたと考えられる。つまり、この時点ではゲーム開発会社に試作機の所有の意思が認められない(185条)。これに加えて、任天堂は試作機の所有権をも維持している。
  2. 遅くともスーファミ発売日の1990年11月21日に、試作機の使用貸借が終了(597条第2項)。この日より、使用貸借契約に基づく試作機返還債権任天堂に発生(593条)。
  3. 時効により、1995年11月22日に試作機返還債権消滅(166条第1項)。加えてこの日より185条も適用されず、試作機の占有者は所有の意思を持つことになる(186条第1項)。すなわち、この日が取得時効の起算点となる。任天堂はなおも所有権に基づく物権返還請求権により、試作機の返還占有者に求めることができる。
  4. 時効により、2015年11月23日に試作機の占有者はその所有権を取得する(162条)。その反射的効果として任天堂は同所有権を失い、試作機を返還させる法的根拠を全て失う。
取得時効の起算点

占有者の所有の意思自主占有はいつ発生するか。この発生時期が取得時効の起算点になるため重要である

試作機の使用貸借の終了により代理占有関係消滅しても、任天堂は試作機をなおも代理占有し続ける(204条第2項)。他方で学説は、占有代理人に「自己のためにする意思」も存在するときは、占有代理人において他主占有に加えて自主占有も併存しうるという(潮見佳男 民法(全)(第2版)(pp.245-246))。これに合わせて、所有の意思の有無は、占有取得の原因となった客観的事実占有権原の性質から外形的に判断される(最判昭45.6.18)という判例理論考慮すると、試作機返還債権消滅という占有権原の性質の変化から占有代理人には他主占有に加えて自主占有も併存し、この債権消滅日を取得時効の起算点と自分結論した。

しかしこの結論私見に過ぎず、本当に正しいかは自信がない。

追記

 ブックマークコメントの指摘の通り、所有の意思占有取得の原因となった客観的事実占有権原の性質から外形的に判断されるならば、試作機返還債権時効消滅しても占有取得の原因となった客観的事実は変わらないのだから、引き続き占有代理人には所有の意思なしと考えるべきかもしれない。

 しかしその場合占有権原(使用貸借契約)に起因する債権(試作機返還債権)が全て消滅時効にかかってもなお任天堂永遠に代理占有し続けうるということを意味し、法的な不安定性を社会にもたらしうると思う。別の解釈として、試作機返還債権を本人(任天堂)が行使せずに時効により消滅させたことを、黙示に代理人に占有をさせる意思放棄(204条第1項第1号)したと位置付け、任天堂代理占有消滅占有代理から他主占有消滅した、こういった具合に法律構成することができるかもしれない。但し、ざっと調べた限りこれを支持する判例学説は見つけられなかった。

もっとも、オークション売主の言動を見る限り、ゲーム開発会社に勤めていた父親退職の記念に持ち帰った試作機を相続により承継した子息が売りに出した、こういった経緯が目に浮かぶ。この場合退職により父親が持ち帰った日にゲーム開発会社占有代理人)は占有物の所持を失うことになり、任天堂代理占有消滅する(204条第1項第3号)ので、退職日が取得時効の起算点になるだろう。また、ゲーム開発会社解散して試作機が外部に流出した場合は、同様の理由でその流出日が取得時効の起算点になるだろう。いずれにしても、取得時効の起算点は1995年11月22日よりさらに遡る可能性が高い。

クルトレの所有権マクドナルドが失う時期(追記)

この少し前に話題になった、日本マクドナルドの社内研修ニンテンドーDSソフトの「クルトレ eCDP」について、同社が所有権を失うのはいつか。以下に示すように、遅くとも2039年頃にはマクドナルドはクルトレの所有権を失うだろう。

まず、スーファミ試作機の考察から取得時効の起算点の特定のために、占有者の所有意思の推定(186条)を所有者が覆せなくなる日はいつかが重要になる。その日は、フランチャイズからクルトレが外部に流出マクドナルド代理占有を失った(204条第1項第3号)日になるだろう。この日からクルトレ占有者の所有意思の推定(186条)をマクドナルド代理占有根拠に覆せなくなり、取得時効が起算される(162条)。

クルトレが外部に流出した日はいつかはケースバイケースであろうが、報道によるとマクドナルド2018年までクルトレを研修使用していたとのことなので(ttps://www.j-cast.com/2024/03/27480390.html)、遅くともその翌年の2019年に外部流出したと仮定してよいだろう。

すると2019年20年後2039年取得時効か成立し(162条)、クルトレの占有者正式所有権を取得する。その反射的効果としてマクドナルドは同所有権を失う。

参考条文

民法

使用貸借

第593条 使用貸借は、当事者の一方がある物を引き渡すことを約し、相手方がその受け取った物について無償使用及び収益をして契約が終了したとき返還をすることを約することによって、その効力を生ずる。

占有性質の変更)

第185条 権原の性質占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有性質は、変わらない。

(期間満了等による使用貸借の終了)

第597条 当事者使用貸借の期間を定めたときは、使用貸借は、その期間が満了することによって終了する。

2 当事者使用貸借の期間を定めなかった場合において、使用及び収益目的を定めたときは、使用貸借は、借主がその目的に従い使用及び収益を終えることによって終了する。

以下略

債権等の消滅時効

第166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。

一 債権者が権利行使することができることを知った時から五年間行使しないとき

以下略

占有態様等に関する推定

第186条 占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然占有をするもの推定する。

2 前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したもの推定する。

代理占有権の消滅事由

第204条 代理人によって占有をする場合には、占有権は、次に掲げる事由によって消滅する。

一 本人が代理人に占有をさせる意思放棄したこと

二 代理人が本人に対して以後自己又は第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと

三 代理人が占有物の所持を失ったこと。

2 占有権は、代理権の消滅のみによっては、消滅しない。

所有権取得時効

第162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。

以下略

1000年後の世界史教科書地図

3か月でマスターする世界史 というNHK番組がある。高校講座なんかと違って、カルチャー教養番組として作られている。地図を表示して地政学的にこんなふうに領土が広がって又は狭まってと解説してくれて分かりやすい。その中で講師役の人がよく言う話が「地図範囲ではこんなに広大な領土制服していたように見えるが、別に厳格に同じ制度支配していたわけではなく、現地の長に任せていた緩やかな支配だった」という内容。オスマン帝国とか中国羈縻政策とか。翻って現代社会世界に数多の国が存在しているも、西側アメリカ)につくか、対抗するかの2陣営に分かれていて、西側アメリカ軍を頼って緩やかな統治を受けている。1000年後の世界史教科書地図には日本アメリカ領土として色が塗られているだろう

 

※3か月でマスターする世界史 - NHK

https://www.nhk.jp/p/3monthsmaster/ts/XKZNWL2Y2R/

ネットで人気の「賢い話」って、丸っきりソーカル論文な件

ソーカル事件は流石にお前ら常識だよな?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 ソーカル事件問題点を要約すると、「自分を賢いと思ってる/賢いふりをしたい馬鹿は、シンプル普通にわかる話よりも、複雑でわかりにくい話をわかったように振舞うのを好む」という話。

 つまり、お前らだ。

 イスラエルガザ無差別虐殺をしていることを理解するのに「ユダヤ2000年歴史」を得々と語る必要はないし、Apple動画炎上に「文化が違う」なんて説明をする必要もない。

 イスラエルは単純に政治的野心がある西欧最後植民国家だし、Apple動画カートゥーン的な表現リアルにしたものに過ぎない。

 でもお前らはそういうシンプル合理的な答えを好まない。ものごとの裏には何かもっと面白い話」があってくれと願っている。

 だから常にSNS増田では「面白い話」が伸びる。そしてそれを「面白い話」としてだけ受容してるならともかく、もちろんそうやって拡散されてしまった話は普通に信じられて常識みたいになっていく。

 そうやって出来上がっていくお前らの世界こそがネット右翼やQアノンデマ妄想歴史捏造の温床なのだと何故気づけない?

 ソーカル事件も知らないのか?

 …とこんな風な話をすると、お前らはたいていこう返してくる「ソーカル事件くらい知ってらい」いや、知ってるなら余計に問題なのだという話をしている。

 ソーカル事件ソーカル事件という「面白い物語」のひとつとして覚えてるだけだからお前らは駄目なんだ。

 ソーカル事件という教訓からシンプルレトリックの少ない話を尊ぶ」という学びを得てないから駄目なんだ。

 

 本当に論理的で嘘のない文章は、面白くない。これは断言できるが、お前らが「面白い」と判断するようなものには絶対にならない。それが面白いという場合は、数学物理教科書を読むように、一行一行一言一言のつまらなそうな単語の裏にどれだけ綿密なロジックの準備があるかを紐解いて初めて面白いと感じるときのみである。そんな読み取るのに時間のかかるものネットでバズらないし、それをバズるような価値観の変化を望むのは流石に不可能である

 だから、お前らが誠実で「賢い」人間でありたいなら、できるのは「バズるような物には中身がない」と自分客観視することだけだ。

 中身のないものをバズらせるのは良い。バズったもの面白いと感じるのも良い。しかし、バズったものは、自分面白いと感じたことには、面白いだけで中身がないと自覚だけはするべきだ。面白いから知的価値もあるはずだというのは認知バイアスしかない。本当に賢くなりたいなら認知バイアス自覚しろ

 自分は賢い話も理解できるが、中身のない話も面白がるしバズったら読んだりしちゃうという程度の人間だと客観視できるのが、本当に賢い人間だ。

 

 ソーカル事件のような例がどんなに歴史に積み重なっても、それを教訓でなく只の面白い話としてしか消費しないオタクのような受容では、賢い人間歴史から学んだ教訓というようなものには決してならない。人類は成長しないままだ。

 

2024-05-08

anond:20240506233546

俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念シマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人三橋鷹女の句を紹介したい。

  この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉  鷹女

あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?

たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいから、この樹に登ったら全身火に包まれしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれ鬼女になる」というそ妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。

これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。

  白露や死んでゆく日も帯締めて  鷹女

ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。

和服着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。

死ぬはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダー内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念世界だと思う。

どうだろう、こういった情念個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。

そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、から俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。

スペイン語読むときにだけ吃音みたいになる

大学スペイン語勉強してて、そこで教科書音読とかするときだけ吃音になる

吃音?というか、つっかえってすらすら読めなくなる

単語単語で区切るたどたどしい読み方しかできない

同じ文章読んでても他の学生よりはるか時間かかる

みんなが1分足らずで読める文章3分近くかかる

マジでなんでなのか分からない

読んでる間はえーとえーとって必死になってる

先生に「真面目に読んでる?」って言われたこともあったけど 大真面目に読んでる

普段は人並みに喋れる

特に日本語だったら人よりもすらすら喋れる方だと思う 音読かめっちゃ得意なタイプ プレゼンも得意な方で人前で話すことに抵抗はない

発音度外視するとして、英語も読めるしフランス語も読める

ただ、スペイン語だけ読めない

文法理解してるし単語意味理解してる

日常会話でテキストなしで話すときにはすらすら喋れる 発音問題ないと言われる

これが意味からない

ネイティブ先生に話しかけられてもそこそこ応答できるけど、テキスト渡されてはい読んでって言われたら急に読めなくなる

カタカナで全部読みがなふったり、事前に何回も練習しても無理 というか練習の時点で無理

どう無理なのかうまく説明できないけど、ピアノ弾けない人がドレミ音階だけ見て鍵盤押してる感じ?

ド………、レ、ミファ、えーっと、次はソ、ソ…みたいな

とにかくそんな感じでたどたどしい音読しかできない

これって吃音なのかな?

すぐに直したいとは思わないけど、改善できる方法があるなら教えてほしいよ

2024-05-07

anond:20240507205129

君が教科書を読むだけで一発ですべてを覚えられて、東大医学部首席合格しましたとかだったらまぁそりゃ宇宙人人間学習法を理解するのは無理だって話になるけど

教科書を読んでわかるっていうのにも段階があるし、勉強するならいくらでも上級の本はあるでしょ

というか親が勉強しろって書いたのに教科書がどうこうっていう返事が来てる時点で、大人が何か新しい知識勉強するっていうことがそもそも念頭にない社会的階層っぽいけど

世界史を読み直すのでも大学レベル数学をやるのでもいいし、資格試験でもいいか自分が知らないことを勉強する姿を見せてれば子供も多少は勉強するんじゃねっていう気がする

子供ちゃん勉強してるなっていう家庭は親もそこそこ普通に勉強してたしな 子供にだけ何かさせようとしても難しいよ

anond:20240507203710

教科書読めば分かるのに予習復習は何を求めてやるの?って感じかな

本とかはまあまあ読んでるけど子が興味持つかどうかは別だしな

勉強するって習慣が無さすぎるからどう子供に教えればいいのかわからん

両親も勉強しなくてもペーパーテストはできてたタイプから勉強のやり方?習慣?なんてものは教えてくれないし身につけさせてくれなかったし

自身宿題やって授業中に教科書先まで読む程度、資格習い事で親の迎え待つ間に本屋立ち読みして何とかなってたから本当に勉強の習慣が分からない。

未だに予習復習って何?いつやるの?何をするの?状態

勉強普通にしたくないものから、親がしっかり管理しなきゃいけないんだろうけど親がまずやり方がわからん

格好いい人であってほしい

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2361965

lady_joker 私は部屋が散らかっているのが嫌なので配偶者よりはマメ掃除をするけど、私の好きでやっているだけなので別にイライラもしない。別のパラメータ混同している雑な漫画

このマンガは、

前半は美人女の子先生との幸せタイム邪魔された腹いせに

邪魔してきたやつを生物学知識を使って雑に殴るが、

結局その話はだいたいひっくり返されるという構成で出来ています

今回の話もそうなっています

まりマンガとしては彼女の話を肯定していません。

また、このことは別に1話から順番に読まなくても、この話の最後まで読めばわかるようになってます

1話ぶん読む労力を惜しまなければ確認できる話です。


そのため、lady_jokerさんはこのマンガ描写批判したいなら「雑な女の子だ」というべきでした。それならあってました。

この表現を出来なかったということは、togetterまとめのところだけ読んでコメントしたということでしょう。


マンガのワンシーンでこういうコマを描いているか作品や作者もこういう考え方なのだと考えることはよくありがちですが

そういう読み方をする人はマンガから雑に読んでもいいと侮っているのではないでしょうか。

小説で、一節だけ読んで「これが作者の結論だ。雑な作品だ」とは言わないでしょう。

もしそうであるならば、とても失礼な話だなと感じます

今回の件で言えば、間違いなく雑に読んで雑にコメントしているのはlady_jokerさんの方であると感じました。

人を「雑だ」と言うのであれば、自分の雑さについても厳しくあってほしいです。


私の指摘が明らかに的外れであるとか気に入らないということであればはてな運営通報して消されても文句は言いません。

しかし、あなたは良い意味で格好つけたがりな人だと勝手に思っているので、あなたの思う格好良い対応勝手に期待しております

lady_joker 全編読んだら増田の言っていることが正しいのだけど、あの部分を文脈無視で切り出しているのは作者なので、その部分のみで論評されることも引き受けるべきだとも思う。とはいえ今後はなるべく全編読むようにしま

ありがとうございます

やっぱり良い意味で格好つけだと思う。

悪い格好つけの人は前半しか書けない。

格好つけない人は後半しかかけない。

ここで格好つけられない人はその時点で興味なくなる。

とはいえ今後はなるべく全編読むようにします」が言える人は信用できる。これからも良い意味での格好つけの人であってほしい。



https://anond.hatelabo.jp/20240507174501

あとこれドヤ顔で貼る馬鹿は本当に興ざめだ。

こちとら相手を見てやっとるんだわ。

lady_jokerさんは、礼儀を持って事実を指摘する分にはBANはしないと信頼しているし仮にされたとしても文句言わないって書いとるやろが。 

教科書読むしか出来ない無能は黙ってろ。無粋すぎる

anond:20240506102800

「『普通』ではない女性物語

→これはその通り。ただ当時は今よりも階級社会だったとは言え、寅子も日本社会の中で生きている限り、その「常識」「普通」とされるものに従わなければ生きていけない。「普通ではない」と切り捨てるのも違う。

「当時の人間は全員教科書的な「昭和初期の『普通』の価値観」を持っていたはず。

ドラマだと、そもそも寅子たちが「当時の普通価値観」(とされるもの)が何かを全く理解できない宇宙人のように見える。帰国子女エリートは言え、さすがにそれはないと思う。


増田が考えているほどに女性差別が当たり前の常識ではなかった」

→これは何を女性差別と考えているかにもよるけど、そういう理解も正しい。しかし、例として挙げているものは、女性差別実例として取り上げることも十分に可能もの。「女性は弱いのだから同情・保護してあげなければ」というパターナリズムかもしれないから。

現実フィクションをごっちゃにするのやめようよ」

→こういう議論をする人が多いのだけど、映画創作物における表現も厳然たる「現実」の一部であることを忘れないように。とくに昔の映画は今とは逆に、リアリティのある表現をひたすら追求するもの一般的だった。昭和時代も女性蔑視的なことをはっきり口にするのがよしとされていなかったことは明らかで、その上で、そこに様々なジェンダー差別存在していたことを読み取ることが重要になる。

anond:20240507001122

国語教科書に載ってた。

今読み返すと、なかなか解釈しづらい。

2024-05-05

anond:20240505025228

文系は理数系の教科書を深く読めて論理記号表現できて、学んだことはあれもこれも同じ原理だとギャンブラー精神で応用することも出来るはずなんだけどな

2024-05-04

買う客だけ犯罪にしたら売る売春婦の状況が悪化したの「経済学」って感じで好き

買春犯罪化により客が減り、少なくなった客の交渉力が上がって、値下げやNG行為(ノースキンなど)の要求売春婦が抗えなくなり収入が減ってより危険になったとのこと。

フランス買春処罰法がセックスワーカー仕事生活に及ぼした影響

https://akaikasa.net/?p=999

記事ではあまり触れられていないけど、犯罪化により違法行為を避ける善良な客がいなくなり反社会的な客だけが残ったというのも大きそう。

経済学者が嬉々として教科書に書いて

「需給の法則には誰も逆らえない。良かれと思ってこの規制を導入した当局人間たちは市場でそれぞれのプレイヤーインセンティブの変化にどのように反応するのか事前によく考えるべきだった」

ドヤ顔講義しそう。

面白い記事を紹介してくれてありがとう

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