はてなキーワード: 政治手法とは
そもそも、北朝鮮のミサイルへの過剰反応って、安倍の問題そらしでしょ?
森友がまだだいぶ盛んだった時に、ミサイル飛ばして、アラートとか鳴らしたと思ったら自分はゴルフ行ったりした。
それを叩かれたら、無駄に逆に、8月末は、何故かミサイル飛ぶ前日だけ2回だけ官邸に泊まったりとか。
外患を煽って内政から問題をそらすというのは古来からの政治手法の一つ。
裏でほかの国と汲んでて、問題逸らししたいんだ手伝ってくれ。後で人道目的の食料援助の名目で金あげるから。
という話になっててもおかしくないね。今までも全部最後そんなんだった。
まあ、バンバン飛ばしまくってたらそのうちオオカミ少年みたいに相手にされなくなるよ。
正直、相手にしない+相手にするな。と呼びかけるぐらいが一番ミサイルを止めるのにいい方法だと思う。
北朝鮮と裏でつながってなくても、ミサイル飛ばしてなにか要求を通そうとするのだから、完全に無視されるのが北朝鮮は一番堪える。
第2第3の安倍政権を作らない為には、一体どうすれば良いのでしょうか??
とりあえず私の考えをお読みください。
これは皆さんが再三『今すぐ安倍をおろすのではダメだ』といってきている通り、社会から大きな非難も無く、突然パタっと、安倍晋三首相が下野する。
これが最も望ましくない形です。
結論から言いますと、『安倍政権の失敗』は社会でもみんなが認知し、マスコミもネットも国際社会も取り上げて、大きく社会問題として取り上げること。
これが最も大事になってくると思います。(これは嫌がらせでもなんでもなく。)
『安倍政権による失策によって、国民はどれだけ酷い思いをしたのか?』
『二度・三度とこのようなことが起こらないためにはどうすれば良いのか?』
これは安倍政権に反感を持っている、すなわちスキャンダルの実態を知っている人が少ない状態で、考える問題でしょうか??
日本社会全体で考え、皆が皆、他人事にしないで考えるべき問題なのです。
そして各方面の専門家の知識、一般市民の知識を持って真の解決策を考え、その対応策として法的に何か新しいものを作るのならば、なおさらその法を作るにあたって、社会全体が危険か否か?ということも含めて検討せねばなりません。
そしてより良い政治を作る為には、国民全体が意思表示することが大切だと思うのです。
それはマフィアの事件を思い出していただければ、より分かりやすいでしょう。
それがあの事件で大きく報道され、国の社会全体が広く認知したことで、私たちはあのような『アウトロー集団の危険性』を認知できているのです。
結果、アウトロー集団のような怪しい集団に勧誘されたり、接点を持ったときに、私たちはマフィアを思い描いて警戒心を強めることができる。ということにもなっています。
つまり、安倍政権の危険性が大きく社会で認知されることで、また同じようなことをやろうとする集団や個人への警戒、そして非難が世の中に定着する。
これによってやはり、『第2第3の安倍政権』が出来上がる、その大きな抑止力になるのです。
ですがこれを明らかにしなければ、また同じ連中が違う手法で日本いや国際社会に絡んでくることは避けられません。
そして相手が何者か??それを明らかにしなければ、本当の意味で具体的な対応、防衛策はできないでしょう。
時勢を見れば、彼らのことももう決着を付けなければ、後々本当に国際社会が大変なことになり、多くの被害者を出すことはもう彼らのことをご存知な方は気が付いていらっしゃるのではないでしょうか。
屋内全面禁煙が公約だそうなので、私は小池新党には投票しない。
子どもがいる家は家の中も禁煙だとか言っている。人の自由を奪おうとする発想反対。
彼女は、豊洲問題では移転でも中止でも、大多数の支持は得られないと考えた。そこで争点を変えて、明らかに過半数の支持が得られる屋内禁煙問題に切り替えたのだ。だが、少数意見を無視して強行するのは政治家の本来の仕事ではない。
五輪誘致なら多数決による決定も分かる。しかし、禁煙は、禁煙派が喫煙派の権利を奪うという点で、もともと多数決はそぐわない問題なのだ。少数民族の権利を奪う法案だって、単純な多数決なら通ってしまうのだ。つまりは、イジメだ。
当然この政治手法は、今度他の問題でも適用されるだろう。今後あなたが少数派に属するような問題が争点になったとき、小池百合子は同じように数の論理と人気取りで強行突破する可能性が高い。
従って、有権者は、「禁煙か喫煙か」ではなく、将来、タバコ以外のことにも応用されるであろう、この女の政治手法に対して、YesかNoかを票で投じるべきだ。
もう分かるだろう、Noでしかあり得ないことが。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20170125
内容は
「日本の自動車産業は大幅に輸出超過で、米国の自動車産業は大幅に輸入超過だ」 ……(*)
ということの指摘。それで「大変だあ」と騒いでいる。
(1) 既知
(*)の内容は、経済を知っている人なら、誰でもよく知っていることだ。今さら騒ぐようなことじゃない。
こんなことを今さら騒ぐなんて、どうかしている。単に自分の無知をさらしているだけだ。
日本の輸出構造がどうなっているかなんてことは、貿易を学べば最初に知ることだ。こんな初歩的な知識も知らないで、よくまあ、今まで偉そうに経済のことを書いていたもんだな。呆れる。
高校生だって、このくらいのことを知っている人は多い。大学入試のセンター試験でも初歩的なことだろう。こんな初歩的知識を知らなかったなんて、中学生か。厨二病?
(2) 貿易
そもそも、ちきりんは貿易というものの根源を理解できていない。
貿易とは、得意な産業では輸出して、不得意な産業では輸入することだ。これは「比較優位」という概念で説明される。この概念ぐらいは知っているよな?
日本で言えば、自動車や電子部品などを輸出して、農産物や石油や原料を輸入する。特にアメリカとの関係で言えば、自動車を輸出して、牛肉や戦闘機やオスプレイを輸入する。こうして、持ちつ持たれつの関係になる。
なのに、そのうち日本の輸出品目である自動車だけを取り上げて、「日本の方が一方的に輸出している。やばい」と指摘しても、何の意味もない。それだったら、「日本はアメリカから牛肉や兵器を一方的に輸入している。アメリカも日本の牛肉や兵器を同じぐらい購入するべきだ」となる。しかし、馬鹿げていますね。
貿易では、貿易品目ごとではバランスが取れなくていい。それが原則だ。そんな基本も理解できないのが、トランプと、ちきりんだ。
ついでに言えば、貿易は、二国間でもバランスを取れなくてもいい。全体でバランスを取れればいい。
日本はアメリカに自動車を輸出する。アメリカはアラブに兵器を輸出する。アラブは日本に石油を輸出する。こうして三角形の三つの頂点で貿易は循環する。それで全体としてバランスが取れている。
トランプやちきりんの理屈を取るなら、日本はアラブに石油をいっぱい輸出することで、貿易を均衡させる必要がある。しかし、そんなことは馬鹿げている。
トランプやちきりんは、「貿易とは何か」をまったく理解できていない。
※ 追記
【 参考情報1 】
一方で、現地生産の台数は、大幅に増えている。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012500851&g=use
http://www.asahi.com/articles/DA3S12765436.html (図)
http://www.asahi.com/articles/ASK1S5GN1K1SUHBI01L.html
トヨタは、輸出比率が高かったが、近年は現地生産比率が高くなった。
なお、1番目の記事では、対米輸出台数は「175万台」と記してある。
ちきりんの記事では、「日本の生産超過台数が 423万台」とあるが、これは、全世界を対象とした数字だ。対米貿易とは関係ない。全然関係のない数字を持ち出して、これを対米輸出台数だと思わせている。数字の読み方を間違えている。ひどい。
【 参考情報2 】
米国の貿易収支において、日本が占める率は近年、大幅に低下した。
http://3rdworldman.jugem.jp/?eid=168
というのは、
「自動車産業のせい」というのも誤りだし、「日本のせいだ」というのも誤りだ。
誤認の根源は、彼が基本データを理解できていないことだ。まずは上のグラフを教えて上げるべき。
【 参考情報3 】
「貿易で正論を述べても、失業している白人困窮層の心には届かない」
http://www.asahi.com/articles/DA3S12744609.html (翻訳)
http://blog.livedoor.jp/koyamaiwao-0525/archives/68417516.html (転載)
要するに、こうだ。
アメリカでは毎日、大量(7万5千人)の失業者と雇用者が発生する。それは通常の出来事だ。そのなかで米国の自動車産業による雇用が数百人ぐらい増えたからといって、それはほとんど誤差程度の意味しか持たない。トランプが何かを言って、フォードやトヨタの雇用者が少し増えたからといって、何の意味も持たないのだ。
まったく、ごもっとも。米国が失業者を減らしたいと思うのであれば、日本の自動車産業をいくら攻撃しても意味がない。大切なのは、マクロ的な経済政策を妥当にやることだ。そして、そのために最も効果的な方法は、ピケティの方法だ。つまり、富裕層に増税して、中低所得者の所得を増大させることだ。こうして富の偏在を是正することで、GDP が拡大して、失業者は減少する。これが最も正しい政策だ。
ところがトランプや共和党は逆に、富裕層で減税しようとする。これではかえって失業者は増えてしまう。
クルーグマンや経済学者の話をきちんと理解すれば、トランプのやっていることが、狙いとは正反対の効果を持つばかりだとわかるだろう。ただし、それを理解するだけの知恵がないのが、トランプとその支持者だ。
※ 注記
本項では「トランプに反論するにはどうすればいいか」という政治的手法については述べていません。
本項の目的は、「何が正しいか、何が間違っているか」という真相を明かすことです。どこがどうなっているかを理論で示すことが目的であり、あくまで学術的な話です。現実世界でどういう反論をするべきかというような政治手法は、話の対象となっていません。
自分に矛先が向くのが怖いのか、過去にそういう経験があったのか、
とにかく人員が流動的な職場において、常に標的を一人に定めて攻撃対象にする。
とにかく周りを洗脳して1人また1人と仲間を増やしていく。
実は2~3割の人数に暗黙同意を取り付ければ、その集団ってのは支配できる。
え?たった2~3割??と思うかもしれんが、どんな集団でも大多数はノンポリ
(特にどっち派でもない)だから、2~3割握りゃ他の多数はなびくんだよな。
途中からは仲間に入れないのが怖くなったヤツが寄ってくるようになるし。
いつしか日頃の自分たちの不満のはけ口として全員でそいつを攻撃するようになる。
そいつはツブれて辞めていく。
最初に戻る。
俺が10年近く見てる限りそのパートババァは、ずっとこれの繰り返し。
スケープゴート(いけにえ)ってやつですな。
あれに血反吐吐くくらい耐えて最終的にババァ捲ったのは俺だけだったな。
(※ちょっとだけ自慢させてもらいました)
比較的健全な集団だと、不満・はけ口・悪口はバラバラの相互関係になる。
色んな人が色んな人の悪口不満をブーブー言って廻っていく感じ。
そうやって人間の集団は文句を言いながらも、くだらない毎日を過ごしていく。
意図的に一本にまとめて、ぶっとい矢印でたった一人を
もうあんなヤツ他で出会いたくねーな
学生時代の昔語りをしてはいけないと言われているから、匿名で書く。
俺は小中学校通じていじめられっ子で、毎日他の生徒に引っ叩かれ、学ランには毎日スリッパの跡がつくような楽しい学校生活を送っていました。部活動は体育系に強制加入で、そこでもサンドバッグでした。首の神経がどうにかなる寸前だった時は、加害者の方が自宅にニヤニヤしながら謝罪に来てくれましたが。でも、すぐに元の状況に逆戻りでしたね。
体育会系の教師が生徒指導の役割を担って体罰を加えて統治することは、昔はけっこうザラにあったと思うんですよ。俺はエリートが集う運動部に加入していたわけじゃないけど、桜宮高校で行われていたことが「あるある感」とともに過去の記憶を蘇らせるくらいの実感があります。
◆
http://anond.hatelabo.jp/20130122033549
その支配の構造は上記の記事と、そのブクマにある「自主性=言われなくても俺の思う通りに動け」のとおりだと思うのです。剣道部出身の社会科の先生が担任だったけど、気に食わないことがあると授業を中断して職員室に帰っちゃうわけです。それが5回に1回はあるわけですよ。それをねー、いじめられっ子兼学級委員長の俺が「お願いですから帰ってきてください!」と三文芝居しなきゃいけないんですよ!俺を殴っている態度不良な生徒の不始末を抱えて、こんな幼稚な教師の筋書き通りにいい子を演じるのは耐えられないけど、そういうもんだと思ってやってました。「いい子」だったから。それが役割だもん。
大津のいじめ問題でも同様のことを感じたんだけど、「学校を治める」ことは「生徒を健全な状態に保つ」こととは全く別の問題なんですよね。あたりまえか。生徒に対してプレッシャーを掛けて正しい指導をしていると思っている人が、現実を解決してくれるわけではないのです。
◆
【体罰問題】大阪市立桜宮高校の生徒・OBの声 まとめ - Togetter
学校の中で発言力が高い生徒が何の疑いもなくこういうことを言ってしまう環境の中で、俺がいじめのターゲットにされていたら、マジでやばかったんじゃないかと。学校の教育方針とそれに同調する生徒が甘ったるい美学で包囲する世界じゃないですか。生徒同士の「指導」がひとつの機能として認められかねない環境ですから、体罰やいじめが運動部だけの問題に収まっていたとはとても思えないんですよね。
もし、俺が桜宮高校の中にいたら、あの過去よりもさらに深い絶望に陥っていただろう。もし、桜宮高校で「攻撃してもよい生徒」になったとしたら「俺をこの地獄から一刻も早く救ってくれ!」と祈ったよ。
◆
橋下の政治手法がどーだこーだと言う人がいます。学校に圧力を掛けているだの、入学まで止めなくても、過去に体罰を容認していただろとか、大人の責任を子供に押し付けているだの。そのとおりだと思います。普通科への看板の掛け替えをしただけ、とも言われます。根本原因を解決していない。全くそのとおり。仰せのとおりでございます。
だけど、俺が追い詰められて死ぬ生徒の立場なら、そーんな政治や中・長期的な視野なんて、ク・ソ・ど・う・で・も・い・い!!こんなアホだらけの学校に自浄作用や自主性を促されて、平和な環境がいつできるの?つーか、殴られ続けている最中にそんなことを周りから聞かされたら、さらに絶望してビルの屋上に足がススム君だわ。
殴られて絶望している生徒は、一般の生徒と同じ仲間じゃないんです。殴られて絶望している生徒は、一般の生徒と同じ仲間でいなければならないからこそ絶望するんです。ミソもクソも一緒にして、生徒の自主性だの、大人が子供を騙しただの、なんていうロジックで、自殺したキャプテンとTogetterに出てくるような糞餓鬼をひとつのカテゴリに入れている場合か?何よりも優先して救うべきなのは、今暴力に押しつぶされようとしている生徒だろ?
◆
この糞餓鬼共にキチンとした人権意識を持たせたり、学校に行動を改めさせるのは、乱暴に言うと今すぐじゃなくていいんです。まず、手を出せない環境を作ること、手を出したら損をするという状況を作ることです。優先順位を誤って対策をすれば、初動で効果的な対策が延び延びになるだけですよ。まず初動、そのあとで誤った教育を行わないシステムの改修をするべきです。初動対策が終わったら、視野を広げて考えればいいし、むしろそうしなければいけません。そこで初めて、生徒というカテゴリを前提とした一般論が必要になるのだと思います。
今回の「ハシシタ」の件を、権力者の横暴や政治圧力の話にすり替える低劣さったらないよ
http://anond.hatelabo.jp/20121020111103
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20121020111103
橋下の支持基盤っぽい、いわゆる保守ぽいネトウヨっぽい人達が塊として顕在化し始めたのが、在日や部落などの逆差別~利権糾弾がその走りだった事を思い返すと、方々の捻れたリアクションがまた味わい深いね。
何か勘違いブコメがあるので一言述べておくと、逆差別・利権化のために(部落)差別を利用するような行為も、今回のような橋下氏批判に利用したいがために(部落)差別の問題を政治圧力の話にすり替えるような行為も、同根・同類で低劣かつ本当の問題を矮小化し見えにくくするものだということである。
記事読んだけど全然差別記事じゃない。差別を錦の御旗にした権力側からの言論封殺恫喝とあっさり屈した情けない出版側。記事のどこが差別問題だかも示さずに何を言ってるんだか。
何が問題なのかも分からないとするブコメもあってびっくり。会見やニュースでも指摘されていたはずなのだが。
『橋下氏が自らの政治活動を差別批判にすりかえていることが問題』とかいう頓馬なブコメもあるが、今回の件は週刊朝日の記事も「政治手法を検証するつもりはない」と述べており、その結果として当然のことながら、それを受けた橋下氏側も政治活動への批判に対する応え・論点逸らしとして差別批判を持ち出しているわけではない。
「在日が、部落が」とか言って喜んでいた人が突然人権意識に目覚めたことは素晴らしいことです(棒読み)。/週刊朝日は外国人差別記事を平気に載せていたから「権力者による政治圧力に屈した」のが真相でしょ。
『「在日が、部落が」とか言って喜んでいた人が突然人権意識に目覚めたことは素晴らしいことです(棒読み)。』というブコメがあるが、これが、私がこれまで『「在日が、部落が」とか言って喜んでいた人』だという意味であるのならば、根拠もなくそのような侮辱的な認定・レッテル貼りを、他人に対して平気で出来る人間が存在するという事実に愕然とする。
なんじゃこら。他者が間違ってると言うだけで自説は言わない、てのは、そもそも自分の説をもってない人がよく用いるメソッドだね(実社会では通じないのでほぼネット限定だけど)。
また頓珍漢なブコメがあったが、問題のあると思われる行為に対して間違っていると指摘することは、それ自体が自説の開陳に当たるのだが。「いや、その行為は間違っていない」という反論だって可能なものだ。実際、橘玲氏などは
「血(ルーツ)」こそがひとの生き様を支配する、という人間観を持っている。佐野氏の作品が多くの読者を獲得したのは、こうした人間観が広く受け入れられているからでもある。
「日本国の首相の座を目指す公人は、父母や祖父母の代まで遡ってすべてのルーツを国民に開示すべきだ」
というのは、ひとつの思想信条として認められるべきであり、それを追求した今回の行為は間違っていないという形での反論を行なっている。
↓出身地域で部落認定なんてことが実際に行われていたことを知らない、知識不足で感度の低い人は、今回のようにどこそこは部落だと書くこと自体が大きな差別問題を引き起す記事となることだに理解出来ないんだなー
『出身地域で部落認定なんてことが実際に行われていたことを知らない、知識不足で感度の低い人は、今回のようにどこそこは部落だと書くこと自体が大きな差別問題を引き起す記事となることだに理解出来ない』蓋しごもっとも。ニュースでも指摘されていたのでここが問題点の大きな一つであることは周知だと思っていたのだが、違うようだ。そして、出身地域による部落認定で結婚が阻害されたれたりも現実にあった。
追記
今回の件は「橋下氏の人権が侵害された」という問題ではなく、上記とも絡むが、橋下批判をする中で橋下氏とは関係のない人たちに対する差別助長(およびそれに伴う人権侵害)の危険性があったという問題であろう。その点で「公人だから」「既出情報なのに」といった議論は見当違いの詭弁。もちろん橋下氏とは関係のない人たちだけではなく、今回のロジックでは、血を引き継ぐことになる橋下氏の子供たちに対しても大きな問題を孕んでいるが。
追記2
週刊朝日の「おわびします」記事においても、『同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました』『多くの関係者を傷つける事態をまねいたことについて、深く反省』となっていて、
問題の中心が「橋下氏の人権が侵害された」ところには無いという扱い。妥当であるし、「橋下徹大阪市長の人権を侵害していない」からと今回の記事を擁護するのが如何に的を外した馬鹿げたものであるかも示している。
なお、同和地区を特定したも何もそんなのは既に衆知であろう、だから問題にはならないというのも、あの記事での同和地区の扱われ方 -橋下氏にネガティブなイメージを与えるための出汁にした- を考えれば通用しない強弁にすぎない。
「政治的圧力による言論弾圧に屈した悪しき事例を作ってしまった」
「権力者が気に入らない記事は載らなくなる」
といった方向から、今回の「ハシシタ」の件を捉えるのは筋違いも甚だしい。「橋下氏やその支持者は敵失で得したね」という方向からのは言わずもがな。
今回の問題はもっとそれ以前のところに問題があり、だからこそ週刊朝日の謝罪も橋下氏に対してのものではなく「不適切な記述」に対するものが主となっている。
これを権力や政治圧力の話にすり替えてしまうことは、記事の本当の問題を矮小化するに等しい低劣な行為だ(しかも、橋下氏へのネガキャンに利用するためだけにそのような矮小化をしようとする浅ましい人たちまで存在する)。
もし、今回のが権力者による政治圧力に屈したものであり、橋下氏のような権力者が相手でなかったら謝罪も連載中止もなかったとすれば、そちらの方こそ深刻である。
追記
何か勘違いブコメがあるので一言述べておくと、逆差別・利権化のために(部落)差別を利用するような行為も、今回のような橋下氏批判に利用したいがために(部落)差別の問題を政治圧力の話にすり替えるような行為も、
同根・同類で低劣かつ本当の問題を矮小化し見えにくくするものだということである。
追記2
何が問題なのかも分からないとするブコメもあってびっくり。会見やニュースでも指摘されていたはずなのだが。
追記3
『橋下氏が自らの政治活動を差別批判にすりかえていることが問題』とかいう頓馬なブコメもあるが、今回の件は週刊朝日の記事も「政治手法を検証するつもりはない」と述べており、その結果として当然のことながら、
それを受けた橋下氏側も政治活動への批判に対する応え・論点逸らしとして差別批判を持ち出しているわけではない。
追記4
『「在日が、部落が」とか言って喜んでいた人が突然人権意識に目覚めたことは素晴らしいことです(棒読み)。』というブコメがあるが、これが、私がこれまで『「在日が、部落が」とか言って喜んでいた人』だという意味であるのならば、
根拠もなくそのような侮辱的な認定・レッテル貼りを、他人に対して平気で出来る人間が存在するという事実に愕然とする。
追記5
また頓珍漢なブコメがあったが、問題のあると思われる行為に対して間違っていると指摘することは、それ自体が自説の開陳に当たるのだが。「いや、その行為は間違っていない」という反論だって可能なものだ。実際、橘玲氏などは
「血(ルーツ)」こそがひとの生き様を支配する、という人間観を持っている。佐野氏の作品が多くの読者を獲得したのは、こうした人間観が広く受け入れられているからでもある。
「日本国の首相の座を目指す公人は、父母や祖父母の代まで遡ってすべてのルーツを国民に開示すべきだ」
というのは、ひとつの思想信条として認められるべきであり、それを追求した今回の行為は間違っていないという形での反論を行なっている。
追記6
『出身地域で部落認定なんてことが実際に行われていたことを知らない、知識不足で感度の低い人は、今回のようにどこそこは部落だと書くこと自体が大きな差別問題を引き起す記事となることだに理解出来ない』蓋しごもっとも。
ニュースでも指摘されていたのでここが問題点の大きな一つであることは周知だと思っていたのだが、違うようだ。そして、出身地域による部落認定で結婚が阻害されたれたりも現実にあった。
追記7
今回の件は「橋下氏の人権が侵害された」という問題ではなく、追記6とも絡むが、橋下批判をする中で橋下氏とは関係のない人たちに対する差別助長(およびそれに伴う人権侵害)の危険性があったという問題であろう。
その点で「公人だから」「既出情報なのに」といった議論は見当違いの詭弁。もちろん橋下氏とは関係のない人たちだけではなく、今回のロジックでは、血を引き継ぐことになる橋下氏の子供たちに対しても大きな問題を孕んでいるが。
追記8
週刊朝日の「おわびします」記事においても、『同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました』『多くの関係者を傷つける事態をまねいたことについて、深く反省』となっていて、
問題の中心が「橋下氏の人権が侵害された」ところには無いという扱い。妥当であるし、「橋下徹大阪市長の人権を侵害していない」からと今回の記事を擁護するのが如何に的を外した馬鹿げたものであるかも示している。
なお、同和地区を特定したも何もそんなのは既に衆知であろう、だから問題にはならないというのも、あの記事での同和地区の扱われ方 -橋下氏にネガティブなイメージを与えるための出汁にした- を考えれば通用しない強弁にすぎない。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100720/plc1007201308005-n1.htm
仕分けは政治手法として極めてパフォーマンス性の高い行事になりつつある気がする。マスコミ受けもいいしなあ。
これってつまりは、仕分け=ディベートってことなんだろうから、ようやく日本もオープンなコミュニケーションで物事が決まるようになったのかしら、と思ったりもするのだが、肝心の参加者がディベートに不慣れなおっさんおばさんばかりなので、実効性は薄いだろうな。テレビ的にはディベート下手なほうがざっくり斬られておもしろい!メシウマ!現代のチャンバラ!暴れん坊大臣最高!みたいな感じかも知れないけど。
今後ますます『仕分けに負けないディベート力』みたいなのが社会人にも求められる世の中になっていくのかも知れない。
でもなー、結局仕分けの対象になったらその時点で負けってのが当面の現実なんだろうな。
【橋下知事に直言】(上)「政治手法は『いじめ型』」 神戸女学院大教授、内田樹さん
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100204/lcl1002040807000-n1.htm
「学力」のとらえ方を間違えている。学力は文字通り「学ぶ力」であり、学びへの欲求が活発に動いているかどうか。テストの点はその一部にすぎない。
確かに良い事を言っているように聞こえるが、これは昔からよくあるインテリのごまかしである。学力がテストの点数だけでは測れないにしても、それと「テストで点数を取れなくても良い」というのでは話が別だ。
日本の現状を見てみよう。「テストの点数では測れない学ぶ力」がどれだけ進学に影響を与えているのか。最近ではAOなども増えてきたとはいえ、依然大多数のテストではその点数により選抜が行われている。そして、こうした競争を勝ち抜いた者たちの多くが、難関国家試験に合格したり一流企業に就職したりして高給を得ている一方で、偏差値の低い大学に進学した者はFランと馬鹿にされ、中学、高校までしか出ていない者は中卒、高卒としてバカにされる。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言った福沢諭吉の時代と同様、現代もテストによって評価される学力によってその本人の地位が規定されている。
「学ぶ力」が本来の学力ならば、「自主的に学ぶ姿勢」を重視した総合的な学習の時間がなぜ問題となったのか。それは日本人が「学ぶ力」の重要さを頭では知りながら、本当のところは豊かな生活をしたければ「テストで測られる点数」がなければどうしようもないということを理解しているからである。
すぐに数値で成果を求める姿勢は、ひと昔前に流行った成果主義、能力主義的発想であり、知事自身の成功体験から導かれたものだろうが、成功体験に固執すると他のさまざまな教育実践の方法に対して非寛容になる。いろんなタイプの子供がいて、いろんな能力の発現の仕方があるということを認識する必要がある。
こうしたタテマエが教育現場でまかり通り、社会の現状とはとかけ離れている状態こそが、橋下知事の指摘している問題なのではないか。
西洋における平等の概念は、決して「あらゆる人間は平等だ」という認識に立つのではない。人間は肉体的な条件はもとより、知能的にも情操的にも一人一人が違うのだし、それはごく当然のことである。こうした彼らにとっての平等とは「機会の平等」に他ならない。だからその平等は「優勝劣敗」という厳しい現実を前提としている。
ドイツでは比較的早い段階で進路が決定し、(いわゆる)勉強の得意なものはギムナジウムへ、不得意なものは専門学校へと進学する。そして自らの専門をじっくりと勉強し、自分の得意なことを身につけ、優勝劣敗の社会の中で生き残るためのスキルを身につけている。ドイツでマイスターが称賛される事情の裏には、こうした機会の平等に基づく優勝劣敗の原則と、そうした競争の中で名を上げてきた者に対する尊敬があるのである。
日本人はこうした教育制度を見て「一度落ちこぼれたら二度と戻って来られない制度」だと批難するが、本当にそうだろうか。社会の流動性が高く「一億総中流」と言われた時代は今は昔。所得格差は広がる一方で、政治家も二世三世が当たり前だし、医者の息子が病院を引き継ぐという話も珍しくない。このような状況で公教育が
という考えに走ったらどうなるか。金持ちは自費で子供により一層の勉強をさせ進学の機会を拡大させる一方で、経済的に苦しい家庭の子どもたちは、例え才能を持っていたとしても一生進学することはできなくなる。すると社会の流動性はより一層失われ、より一層の社会的格差を生む事になる。これこそ機会の平等の損失であり、本来的意味での不平等である。
現代の日本では、教育現場でタテマエとして身分も職業も超えた無差別平等が成立している。それにより全ての者が平等という原点からスタートし、努力さえすれば受験という競争を好成績で突破することが出来るようになっているという。すなわち「みんな平等なのだから受験勉強が出来無いヤツは努力が足りないだけなのだ」ということである。
ところが、現実には優勝劣敗という厳しい結果が待ち受けている。環境的にも肉体的にも異なったものを持って生まれてきた我々に、個人差がないはずはないからだ。そこで、タテマエとは逆に自由競争であるはずの受験に敗れたものは劣等者と見られ、その人たちは一段低く見られることになる。
そしてそれがまた、競争の激化を生む。こうして優越者たるインテリは現状を変える事なく偽善的に「競争」を批難し、劣等者は「平等」という正義の仮面を被ってお互いの足を引っ張りあう。ネットでは自分の方が多少でも有能であるということを確信したいばかりに、他人をFランとバカにし、こき下ろす。
色々なタイプの子供がいて、色々な能力の発現の仕方があるのならば、なぜ勉強の出来る子はもっと勉強をさせ、勉強の苦手な子供からは別の才能を伸ばしてあげるという教育が出来無いのだろうか。その為には、子どもたちを「みんな平等」だから「やればできる」と誤魔化し続けた挙句、就職活動で無残に放り出すのではなく、早い内から自分の才能を確認出来る場を与えることが必要なのではないか。その意味では、橋下が教育に対して言っていることは少なくとも評価出来ると思う。
しかし、内田さんがなぜ「いろんなタイプの子供」や「いろんな能力の発現の仕方」を認める一方で「学問に携わる」という能力だけは認ないのか、謎である。なるほど、全ての人間には等しく教育を受ける権利がある。しかし、義務教育を負えてもなお、大学まで行かなければ一国民としてきちんとした教育が受けられないというのであれば、それは教育制度の欠陥でしかない。中学や高校を卒業した後、専門知識をじっくりと習得していれば世界的なレベルになっていてもおかしくない若者たちの未来を、グダクダと学校に拘束し続けることで奪っているのである。「大学全入時代」が持つことの意味を、もう一度考えた方がいいのかもしれない。
金正日が、アメリカの大統領がブッシュからオバマに変わるのを期待し、六者協議での決定事項の実行を先延ばしにしていたのは、クリントン政権時代のような融和政策を取り、支援を流し込んでくれると期待していた為である。担当者が変われば政策も変わるし方針も変わる、その変化の方向が、これまでとは正反対であると予測するのは勝手であるが、その予測を実現するのに、何をなしたかが重要となる。
北鮮は、大統領の交代後の接触において、感触が良くない事から、長距離弾道ミサイルの発射、地下核実験と、矢継ぎ早にカードを切った。強硬姿勢を見せる事で、融和を引き出そうとしたのである。
しかし、融和を引き出せなかった。
そこで、今度は北鮮側の担当者を変える事で、時間稼ぎを狙い始めている。
金正日の後継者として、三男の金正雲なる人物が後継者に認定され、長男と次男の取り巻き達は粛清されているという話である。
単純に後継者が決まったという話では信憑性が無いが、その他の候補者の取り巻きが粛清されているとなると、信憑性が高まる。
この時間稼ぎを、どのように評価するかが問題となる。
たとえば、拉致や偽札や核やミサイルは金正日の暴走として押し付けて終わった事にして、民生支援を引き出そうとするという展開が予想される。食料や燃料、軽水型原子炉の供与といった支援を引き出しつつ、実際は、核開発や弾道ミサイル製造を続けるという展開である。
政権の正当性を確保するのに、前任者を犯罪者にして処断してみせるというのは、特定アジアでは普通に行われる政治手法である。
金正雲なる人物が、特定アジアの伝統的手法を選択して親を処断してみせるか、あるいは、儒教的価値観を優先して金正日の路線を引き継ぐかは、もうしばらく様子を見なければわからない。
独裁制国家における政権の正当性とは、前任者からの禅譲であると言うのであれば、金正日の路線を引き継ぐしかなくなるであろう。ただし、それでは、せっかくの代替わりを利用できない。亡命した長男か次男を中国が担ぎ上げ、軍事的に平壌を落として継承させるという手もあるが、この場合に、金正雲を悪役に仕立てるには無理がある。既に金正日が死亡していて、今いるのは影武者であり、金正雲が弾道ミサイルの発射や地下核実験を命令したというように話を作る事もできないわけではないのだが、それを行って軍事的に平壌を落とし、新しい中国の傀儡が核や弾道ミサイルの開発をしないと約束したとしても、それに支援をするのは中国の仕事となり、我々は一切手を出さないという展開にしかならないであろう。
かつてのソ連が大国であったのは、衛星国の面倒を見ていて、地球上の陸地の半分を制していたからである。中国に衛星国の面倒をみるようになるだけの余裕があるかという点は疑問であるが、大国を目指すのが中国の方針である以上、北鮮を衛星国として取り込む動きは、いずれ、発生すると考えるべきであろう。
http://anond.hatelabo.jp/20090211111554
そこはちょっと違和感あるなー。
良い結果が出たとしても、それは手段の正当性を証明したことにはならんでしょう。手段が正当でなかったことを(多少なりとも)免罪はするかもしれないけどさあ。で、そうやって良い結果が出たことを理由にして「あの手段を評価する」ということはやっぱり「度し難い」と評されても仕方の無いところではないかしら・・・。超たとえ話地獄に陥る可能性を恐れずに言うならさあ、雨乞いして雨が降ったからって、雨乞いってスゲーな!まじ最高雨乞い!ってならんでしょ。(や、これも明らかに間違った言い方なんだけど。少なくとも予算削ったことと財政黒字だしたこととの間には因果関係があろうし。どっちかというと例えるなら家族の誰かを生贄、とかそういう方向で考えた方がいいかな)
そりゃまあ、結果よければ全てよしと思いたいとこではあるけど、飽くまで認められるのは「結果的にオッケーだった」ということであって、その「手段が正しいかどうか」ってこととは全然違うし、ごっちゃにしたらいかんポイントではないかなあ。良かったのは結果だけよ、という。(ありむー的には、その結果にしたって長期で見たら信用ならねえよ、という話を併せてしているけど)
もしそういう「手段」の正しさを認めちまうなら、橋下知事とは比較にもならんような悪党が、何かあったときにそういう「手段」を悪用してしまうことに繋がりかねない。だから、結果から手段を正当化しちゃいけねえよ、ってことを言ってるんじゃないかなあ。
ここ、結構大事なとこじゃないかしら。
http://anond.hatelabo.jp/20090211111014
うーん、教育・福祉予算を減らすことによって財政黒字が達成できたにしても、その「教育・福祉予算の縮減」は必ずしもああいうポピュリズムに則ったやり方、世間を煽るやり方でなければ実現が不可能だったものかね。(や、まあ俺は大阪府民じゃないから、現場の人から、長年そういうぬるま湯に浸かりきった体質を甘っちょろいやり方でどうにかするなんて不可能ですからボケ!ガタガタ言ってるけど橋下のがよほどエライわアホ!と言われたりすると反論不能ではあるんだけど)また、「縮減するための予算」は本当に教育・福祉予算からでなければならなかったのか、ということも大事じゃないかなあ。どうも見てるとその辺おざなりになってそうだから・・・。
あと、破綻したら全てを失うのだから、手段を問わずに受け入れろ、つー手法は、いくらでも悪用が利くから安易に認めちゃまずいって。こーゆー言葉はあんま適当じゃない気がするし、またぞろ論争を巻き起こしそうだけど、トリアージを実施するときだって、黒タグ付く人に「全員診てたら全員助かんないから君諦めて」って面と向かって言い放ったりはしないでしょ。削られざるを得ない立場の人に対する慙愧の念みたいなもんはあるわけで。
そこを正当化しちゃって、削らざるを得ない立場の相手を「お前が甘い」「おかしい」と説教するのは何か政治のお仕事ではないと思う。行政が道徳やったらいかんて。まして、福祉・教育の予算を受ける相手って基本的に強者じゃなくて弱者なわけでしょう。中学生泣かせちゃったのとか、ああいうのを通じて支持を集める政治手法って相当ヤバくみえるわけです。おれが過敏なのかな。
橋下知事が、こうした手法を駆使して予算を削ろうとしたのでなかったなら、同じように教育・福祉予算が削られたとしても、橋下知事批判は相当に穏当なものとなったのではないかしら・・・(無論、それでも左翼的な視点からは批判しうる余地は残るけどさ)。