はてなキーワード: 政治形態とは
患者の妄想タイプその1: レベルが高いコードが書かれていればレベルが高い(進次郎)
記事からは、コードを書いた人が誰なのか証明する方法がない。アウトソーシングした可能性、コピペした可能性、アレオレ詐欺している可能性などがある。技術力を証明したければ競技プログラミングで証明するので、記事でわかると考えるのは病人。
患者の妄想タイプその2: 肩書が納得できればまともなことを書いている可能性が高い
某外資系企業のデータサイエンティスト()のRのコードとか酷いし、それを酷いとわからない時点でお前は肩書に騙される低能とわかる。
現実社会の大抵の問題は政治的な問題であり、政治的言及をしたければお前のいうポエムという形式になる。技術の部分は所属している会社の中で発揮すればよい。仮にオープンな何かがあるなら、完全な善意であるケースもあるが、それをオープンにすること自体に少々の政治があるケースが多いと考えて良い。ポエムか技術記事かは、どのような政治形態を取るかという違いでしかない。
私は誰かに「表現の自由戦士ですか?」と聞かれれば、「そうですよ?」と真顔で、しかも相手のことを若干哀れみながら即答する程度には表現の自由戦士であるつもりだ。なぜ哀れむかというと、表現の自由戦士という言葉が私には「黒人と女性の選挙権戦士」と同じ感触を持って聞こえるからだ。「それ、大分昔に結論が出てて、しかもその結論に従わないと野蛮人みたいな扱いをされるはずじゃなかった?」と。このあたり、「野蛮な西洋思考から脱却してイスラムを根本に据えた政治をやれ」と言って戦っている人と思考形式としては似通っているかもしれない(主張にも方法にも同意しないが)ので、戦士と呼ばれるのもむべなるかな、と思う。
そんな私の政治的立場は、やけくそになって後藤輝樹に投票した一回の過ちを除けば、10年ほど毎回共産党に投票してきたし、だいぶ左寄りであるとは思ってきた。とは言えきょうび共産主義を目指すというのは頭がおかしいとしか思えない。マルクスを多少なりとも学んだ人なら知っていることだが、マルクスは共産主義がどのようなものかとは全く説明していない。資本主義を打倒すれば生まれてくる何か、としか言っていない。まあ、現状の批判だけでもそれが新鮮なうちは一分の理があるのかもしれないが、色々テストされた挙げ句「民主主義は最悪の政治形態と言える。これまでに試みられた民主主義以外のあらゆる政治形態を別にすれば」というジョークが生まれたあたりで、共産主義は役割を終えたのだと思っている(とはいえマルクスの資本主義批判自体は時代のテストを耐えた今でも通用するものだと思う。よりよい資本主義を目指す限りにおいて)。なので、自分の共産党に対する印象は「理想については頭がおかしいが、現状についてはいちばんましなことを言っている人たち」というもので、だから投票してきたわけだ。
何を「現状いちばんまし」と考えるかはその人によって大きく変わるであろうことを私は知っている。私には自民党が腐っているように見えるが、別の人から見ればそうでなかったり、あるいは腐っていても何らかの利用価値があると考える人がいるのはわかる。私が自民党を嫌って共産党に共感している(と思っていた)のは、ひとえにリベラリズムという思想を自分がインストールされていることによる。私がここで言うリベラリズムは、ほぼ井上達夫の言っている「リベラリズム」に等しい。つまりそうとう偏っている。井上達夫は日本の「リベラル」を批判する。例えば自衛隊についてはこうだ。「憲法は何よりも大事だ。その憲法に戦力は保持しないと書いてある。今日本が保持している自衛隊は戦力であり、違憲状態にある。このままだと憲法が無視されてもよいことになってしまうので、憲法を変えるか自衛隊を解散するかの二者択一だ」と井上達夫は言っている。いっぽうで「リベラル」は「大事な憲法を変えるな、自衛隊はないと困る」と言ってて矛盾している、というわけだ。全くその通りだと思う(ちなみに井上は憲法を変える方を選ぶが、憲法そのままで自衛隊を解散しろという意見にも理は認めている)。井上達夫は筋金入りも筋金入りのド左翼であるが、この現状左派内で主流の「リベラル」を超えたリベラリズムに殉じる、という姿勢は左派運動をしている人からも批判が多いらしく、度々愚痴をこぼしている(まあ『リベラルのことは嫌いになってもリベラリズムのことは嫌いにならないでください』(名著!)という本を出すくらいなのだから戦う気マックスなのだろうと思うが)。
その自衛隊について志位和夫氏が例の件の一日前の記事で、「自衛隊と憲法は矛盾するから今すぐでなくともいずれ自衛隊はなくすべきと考えてはいる」と言っているのを見て、「相変わらず頭おかしい理想を抱えてんなあ。まあでも理屈としては正しい」「とはいえ理屈のレベルでの話が通じる政党すら貴重なので今回も共産党だな」と思ったのだが、今思えばこの歯に物が詰まったような言い方に違和感を覚えるべきでなかったか。井上達夫流に言えば、ここは「政権を取ったら自衛隊はすぐに解散する」と言い切るべき場面ではなかったか。
私が理解している井上達夫流リベラリズムは、「人間はその知識の研鑽によってより良くなっていくことができる」という思想と「人間は人それぞれである」という思想に基づく「正義」を掲げる思想である。前者=啓蒙を重視するからこそ「頭はおかしいけど一応話は通じる」共産党に投票してきたし、後者=寛容を重視するからこそ自民党を支持する人を口汚く罵ったりはしない。自分の正義に反するからだ。しかしこの寛容と言う概念は問題含みで(啓蒙は啓蒙で問題があるが今回は触れない)、代表的な物に「不寛容にも寛容になるべきか」という問題がある。私は(多分井上も)「啓蒙を正義として掲げている以上、あるいはそもそも正義を正義として掲げている以上、それを侵す不寛容には寛容になるべきではない」と考える。たとえば在特会は在日の人々の「人それぞれ」あるいは彼らがそもそも人として生きることそれ自体を侵しているのだから、それらをゆるす必要は無い、ということになる。自分では常識的な考えだと思っているが、どうか。
児童ポルノ問題について話を向かわせよう。私は表現の自由戦士であるからして、表現の自由はかなり大事なものだと思っている(本当は順番が逆だが)。なぜ大事なのかと問われればそれは、第一に大事な憲法に書いてあるからだと答えるが、そもそもは「啓蒙」が表現の自由がなければ成り立たず、また「寛容」の精神から多少気に食わない表現であってもゆるすべきであると考えるからである。そしてエロが啓蒙に役立つのか、と言われれば、もしかしたら立つかもしれないと答えるし(過去の文学作品を見よ)、仮に役に立たないとしてもそうした「くだらないもの」を排除する理屈は、やがて「人それぞれであること」あるいは正義についての議論をもくだらないものとみなす理屈に変わるだろうから、と答える。ニーメラーの警句だ。だから、そもそもわいせつ物規制自体あまり気に食わない。ただ、職場にヌードポスターがあったり、子供でも見えるところにエロがあるのが嫌であるとか、そうあるべきではないと考える人がいるがいるのも十分にわかる。したがって彼ら彼女らの「人それぞれ」を守るためにゾーニングを行うのは賛成である。ただ、コンビニのエロ本棚やアキバのエロポスターを除去すべきだったかは、発行側の「人それぞれ」も考慮するために議論の余地がある(というか啓蒙の観点から、撤去するにしても議論を尽くした上でそうすべきだった)。宇崎ちゃんとかラブライブポスターについては、まず第一にそれらはポルノではないのだからこれまで挙げた例とは別の理屈が必要であり、第二にその理屈づけが成立していないので、規制側が間違っているというのが私の意見だ。
他方で現実の被害児童が存在する児童ポルノについては断固として規制すべきであるとも考えている。第一にそれらは例外なく児童の「人であること」を侵しているし、第二に(それらが児童を対象にしている以上「合意の上」ではありえないので)それらが「啓蒙」の議論に結びつくことはありえないからである。第一の点は説明不要だろうが、第二の点は説明が必要かもしれない。私は法学の専門家ではないが、以前表現の自由に関して法学者が書いた本を斜め読みしたところによると次のようなことが書かれていた。第一に表現の自由はやはり重要なのだという。しかし憲法にも書かれているように公共の福祉の観点からそれを制限することはありうる(と法学者だから法律のことしか書いていなかったが、この点は不寛容への寛容を認めないことともつながり理解できる)。たとえば殺人やレイプなど、犯罪を行わなければ撮影することのできない「表現」は、この観点から規制すべきである。とりわけ児童ポルノは被写体が児童=法律的に自由意志を持てない人が対象であるからして、万が一にもそれが「合意の上での表現」であることはありえず、また放置は被害児童の人権の侵害が拡大することを意味するから、したがって問答無用で規制してよい。そのようなことが書かれていたと私は理解しており、完全に同意である。こうした理屈で児童ポルノを「とりわけ規制すべきもの」とするのは、表現の自由戦士たる私にも容易に理解し同意できるものであり、過激派フェミニストから右派左派合わせて多くの人が同意可能なことだと思う。しかし「とりわけ」児童ポルノを問題視するということは、「殺人やレイプを記録したフィルム」を取り締まるべきものではあるが一段低いところに置くことでもある。私はそれに同意するが、同意しない人もいるであろうことは理解できる。私がそれに同意するのは、それが成人同士の合意による「殺人風フィルム」「レイプ風フィルム」である可能性を考えれば、表現の自由(なぜこれをそんなにも大事にするのかは既に書いた)の観点から取り締まりにはすこし慎重になるべきだと考えるからである。これは断じて殺人フィルムレイプフィルムを見逃せと言っているのではない。もちろんそれが「風」でなければ断じて規制すべきである。話を「児童ポルノは啓蒙の議論に結びつかない」というところに戻すと、児童ポルノは「風」である可能性が皆無であることから、児童の「人それぞれ」を侵していることが明白であり、拡大解釈の余地がない最小限の表現に対する必要な規制であるということである。
この理屈は若干弱いところを抱えている。成人同士の合意による「児童ポルノ『風』」の表現は一切存在しえない、という前提をしいているからである。海外において日本の「ロリ系」AV女優の作品が規制されていることがあるのは諸氏も御存知の通りだろう。あれは愚かで間違った行為だと私は考えており、「見りゃ分かるだろ」と思うが、向こうは向こうで「見たまんま」規制しているのが難しい。私は日本においても「出演者が17歳くらいに見える児童ポルノらしき表現」の取り締まりは殺人フィルムレイプフィルムと同様の慎重さが求められると思うが、ここは議論があると思う。これはよくあるようにそう言ってお茶を濁しているのではなく、本当に議論の結果ボコボコにされ誤りとして認める可能性もあると考えた上で言っている。
では2次元はどうかと言えば、これはほぼ完全に無規制であるべきだと考えている。「ほぼ」というのは実在の児童ポルノのトレースでないことが明かな場合である。これに関しては規制すべきだと考えているし、先ほどの「17歳に見える児童ポルノらしき表現」みたいなグレーゾーンはほぼ無いと考えている。また仮にグレーゾーン(「17歳に見える児童ポルノらしき表現のトレースらしき表現」とか)があったとしても議論の主戦場はそこではない(誰も宇崎ちゃんが児童ポルノのトレスだとか言ってないわけで)と考えている。そう考える理由は既に書いたと思う。付け加えるならば、実在の児童が被害に遭っていないわけで、それを規制するならば児童ポルノ規制とは別の理屈が必要(たとえば「助長」とか)だということを理解している人がまず少ないようなのがつらく思える。その上で構築された「助長論」等々も、表現の自由(なぜそれが略)を規制するほどのたいした理屈ではないと考えている。たとえば「助長論」を支持するような科学的研究があってはじめて「さあ話し合いましょうか」となるし、仮定に仮定を重ねることになるが「現実児童への被害を助長する」ということが100%正しいとしても、私は表現の自由の立場から反対するのではないかと思う。「社会をに悪影響がある表現」に対する規制は、容易に「よりよい社会を求める言論」に対する規制に流用できてしまうから。そうした流用が行われないような条文を提案された場合に初めて、私は規制に納得するかもしれない(しないかもしれない)。
そこに来て共産党である。私は彼らを「理想は狂っているが理屈レベルでは誠実な議論をする人たち」と考えてきた。それは私の考える「理想」とは異なっても、私の「正義」とは道を同じくするものと考えていた。しかし今回「非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。」という根拠の無い理屈を用い、釈明においても「いやあれ一足飛びな法的規制を目指したものじゃないよ」というだけで、その理屈の撤回自体はされていない。私が今回共産党に失望した理由はここにある。「非実在児童ポルノを以下の理屈で規制します!」といつもの共産党らしい理屈づけをもって主張していれば、「まーた頭おかしい理想抱えてんのか、でも理屈は通ってるな」で共産党に投票した可能性もある。しかし今回のできごとは、私にとって共産党を「頭のおかしい理想を抱えていて理屈も通じない人たち」と感じさせるには十分であった。であるとすれば、自民党や立憲民主党と何も変わらないどころか、それより劣った存在にすらなりうる。なにせ自民党や大手野党は私に10万円をくれたり(資本主義の犬であることを私は否定しない)、あるいは議会で私のために動いたりしてくれる可能性があるが、議席を少ししか持たない共産党はその力がないからである。
私は共産党を「左過ぎて頭変な人たち」と思ってきたが、私はその共産党よりも左寄りなのかもしれない。その兆候はあった。井上達夫を師匠のようにあがめてきたが、その井上達夫も「左派」の人たちからは何かと批判されているのだ。その理由として考えられるのは、井上達夫が右派であるからというものより、「左派」より左にいるからと考える方がよほど妥当だろう。私が共産党より左寄りの位置にいるとして、共産党より左の政党が無いことは百も承知だが、今回は他の政党に投票することになるかもしれない。それは本来あるべき態度ではないと思う。共産党さん、「頭おかしいけど理屈は通ってる人たち」に戻ってくれませんか。
コロナ下の日本におけるトップダウン型の政策は、不明瞭な感染対策と歩みの遅い経済対策を生み出した。
この不安定な情勢で出てきた「検察官定年延長問題への抗議」は、ついに現代政治の限界を露わにしたように思える。
政権とそれに寄り添う人々は「定年延長決議自体は何も問題ない」というが、
国民が怒りを露わにしているのはそうした局地的な法律問題ではなく、今まで少しずつ溜まっていた「政治への不信感」によるものだ。
今の国民は、「与党vs野党」「保守vs革新」「自由主義vs社会主義」なんて図式には一切興味がない。
求めているのは、その政党が取る行動が強権的なのか協働的なのか、透明性が高いのか低いのかという「安全・安心感」という目線でしかない。
強権主義に陥らず、国民に説明責任を果たし、反対勢力に敬意を持って接しさえすれば国民は納得すると私は思う。
様々な政治形態がある世の中で、ポピュリズムが一定数の支持を集める理由はまさにこれであり、
現在のローテクで時代遅れな政治形態では、倍々で膨らむ経済と加速するグローバル化に対処できないことが分かっており、
目の前の魅力的で人々に寄り添う(ように見える)リーダーに、どん詰まりの状況を解決してもらいたいからである。
だが「強い」の意味が昔と違う。
現代の「強さ」は相手を言い負かす能力ではなく、相手と手を取り合う能力だ。
現在の日本の政治は、与党であれ野党であれ、それが出来ているだろうか。
https://globe.asahi.com/article/11530020
思うに、民主主義を素晴らしいと思えるかどうかという問題は、他人(もしくは大衆)の理性や道徳を信用できるか、という点につきるのではないか。
もし、他人の理性や道徳が信用に足るならば、投票によって選出された政党や政治家を受け入れることができる。
そして、選出された政治家の理性が十分なら、独善的な政策ではなく、野党とも議論を交えながら政治を行うことができるだろう。
当然、野党となった政治家の理性が十分ならば、建設的な反対意見と与党側との議論により、いわゆる少数意見をある程度なりとも反映する政策を与党側に提案し、説得することもできるだろう。
これは理想。
だが、現実的にはそんなことは成り立たない。
政治の場面では、例えば与党が他者の意見に耳を傾けず独善的な動きをすれば、野党側もヒステリックに反応することで、その対立は時間を経るごとにエスカレートする。
他国のことはわからないけど、少なくとも日本では上述のような理想は絵空事だ。付和雷同の傾向が強く、議論が成立しない日本人にそのような理想ができようはずがない。
そんな歴史的なことを言わなくても、Web上でも片方が極論ともいえるような内容を声高に主張し、他者はヒステリックに反応するか、無視をするという光景はよく見る。とくに現在は、Webなどの発達により意見を主張するハードルが下がっているから、そういう光景が多くなり、両者の間の溝は大きくなるばかりである。
Webの発達した現在では、そのような他人との精神的な溝を自覚しやすくなっている。つまり、他人の理性や道徳を信用しにくくなりやくすくなっているのが、現在なのではないか。
現在のような状況では、民主主義に対する疑問が出てきてもおかしくはないと思う。とはいえ、他者の意見を軍事的に潰すような政治形態は論外だ。