はてなキーワード: 挨拶とは
ずっと前の話、なんとなく日の出が見たくなって
近所の小さな山のてっぺんに登ると、三角の屋根のベンチでサンドイッチを頬張ってる人がいた
見た目は同い年みたいで、よく見ると目が充血していた。
こんにちは、と挨拶をして「あなたも日の出で見たくなったの?」と聞くと
帰るつもり」とそっけない返事をくれた
「じゃあもうちょいいようかな」となり
二人で日の出を待つことになった
崖の下から見える窓からはまだ灯りが零れていたし、大嫌いでたまらなかった学校には多分誰もまだ来てなかったと思う
しばらくして、私はご飯も食べずに家を飛び出したことを先におなかが思い出したのか
(きゅっ)って痛くなった
それでおなかをさすっていたら、それを心配したのかその子が板チョコをひとかけらくれた
食べたらあまくて、ほっとした
でも段々眠くなって来て、それは隣の子も同じみたいで明らかに目が開いてなかった
でも頑張って起きてようと思ったんだ
だけど、気がついたら私たちは寝ていた
目を覚ましたら既にそこは朝の光が満ちていて
「もう日の出ぇ?」と言っていた
「あらら」
あわあわする私をよそに全く気にしてないみたいな素振りの隣の子だった
じゃあ…ここまで来た意味ってと私ががっくりしていたら
私が言ったら
「だったらカップラーメンを半分ずつ食べればいいいじゃん。僕が買ってあげる」
「いいの?」
そんな会話をして、コンビニで何のだかは忘れたけれどカップラーメンを二人で食べた。
さっき地平線から顔を出したばかりってのに
おひさまったら「ずっとここにいましたよ」みたいな顔して街を照らしていた
遠くにうすくうすく月が見えていた気がする
私も大昔ストーカーされたことあるけども、私と結婚前提だって思って、そう周囲に言いふらしていた。
ある時、バイト仲間から「〇〇さんと婚約してるんだってね」って言われて、めちゃくちゃ驚いた。
初めて誰かがそう言いふらしていることを知った。
〇〇さんって誰?って聞いて、そのストーカーを初めて認識した。
本当になんにも印象に残らないような人だった。
婚約どころか付き合ってもないし、本当に知らない人だって言っても、周囲は私が恥ずかしかって、他人のふりをしているって思い込んでいた。
一旦顔を認識したら、バイト帰りにも最寄り家の駅でも見かけることに気がついた。
本当に話したこともない。
集団面接で挨拶した人の中に、そんな顔の人がいたようなレベル。
バイト先に相談しても、「先週デートしたって聞いたよ。意外な組み合わせだけど、恥ずかしがらなくていいよ〜!」みたいな扱いで、誰も本気に取ってくれない。
そして、どこにでも現れるけれど、声もかけてこない。
実害はないのが、また最悪だった。
めちゃくちゃ悩んだし怖かった。
突然、インターホン鳴らされた時は殺されると思った。
色々あって、最終的に傷害事件になった。私は全治半年の大怪我をした。
友達のツテで怖い人専門の弁護士さんにお願いすることができて、なんとか終わらせることができた。
もう十数年前の話だけど、いまでも怖い。
そして、私のことを“婚約相手を振って逆上させたビッチ”だって思っている人がいる。
でも、本当に、最後の最後まで、そのストーカーとは、一度も、話したことなかった。
そんな話。
デモの人数は少ないけど、かなり遠いところから警官が柵を用意していざとなれば侵入を止められるように備えていたし、綿棒の長くなったようなやつを持ってうろついていたりした。
思い起こせば朝、ふだん無関心な警官が急に挨拶をかけてきたのも、夜に備えてピリピリしてたのかもしれぬ。まったく予期していなかったのであからさまにビクッとしてしまったが、警官の中ではあの程度なら許容範囲って感じの不審ぷりだったんだろうな。
やはり嫌われたのかもしれない。無視されてるわけではない。挨拶すると返してくれる。話しかければ、二言、三言だが会話は成立する。でも、冷たく感じる。昨日、話かけて少し喋ったあと立ち去っていった。誰に対しても反応が素っ気なく冷たい子だからいつも通りと言われれば当てはまるかもしれない。
大したことないように見えるかもしれないが、異性関係だからセンシティブだ。相手は、何度かご飯にいって、告白して、ご飯程度ならと答えてくれた子である。告白自体は失敗している。ここで判断を誤れば付き纏いだのストーカーだの言われかねない。だから色々と怖くて恐れ慄いている。ハッキリとしないから。
先日、Twitterで明らかに女性が避けてて脈がないことを暗示しているのに男性はそれに気づかずアプローチし続けていて痛いという旨のツイートが話題になっていた。このようになりそうで怖いのである。いやこの投稿を観たから余計に嫌がられてないか気になっている。好き避けという言葉もあってそうであって欲しいが、こちらに賭けるのはリスキーである。そうであれば御の字だが、そうでなければ付き纏い、ストーカー予備軍だ。
ハッキリしないことが不安と苦しみを増幅させる。ハッキリとしないから不安に駆られ、話し掛けたくなる。でもウザがられたくないから、話し掛けたい気持ちをグッと堪えて苦しくなる。結局、不安が勝って話し掛けてしまうこともあって、その後に大きな後悔が押し寄せる。正直言って、“察しろ”は僕の場合、事態を悪化させる助燃剤である。ハッキリと言われれば、気は落ち込めど色々悩み苦しむことはないから楽である。
好意を寄せていて上手くいかないから苦しんでいるのもあるが、それ以上に色恋沙汰で拗らして鬱になった時の二の舞になりそうなのが怖くて苦しい。男女問わず皆から、ハニトラだの美人局だの相手が悪かったなどと言われてはいても、察せずに突き進んで拗れて、自殺寸前まで精神的に追い詰められたあの時の二の舞にはなりたくない。地獄を味わい、その淵が再び見えているから怖い。
はぁ、上手くことが運ばないかなぁ。
辞めても何も困らないし、ダメージも誰にも何にも入らないです
斡旋や裁判になると顧問弁護士や社労士動かす必要があるので面倒だなぁってなると思います
あっせんの申込みいきなりしても効果は薄いので再放送しておきますね
いちばんの解決方法は「いちいちツッコミが入るような自分が不得意な仕事には就かない」だけど、
なんらかの事情で不得意な職のままを過ごさないといけないなら、
「ご指導ありがとうございます。改善します」と伝える。反論や嫌な顔はしない。凹んだ顔も見せない。
何を言われようが気にしていない風を装いこちらから積極的に元気に挨拶し話しかけよう。
そのうち態度は軟化する。
これでも態度が軟化しないのならおそらく誰構わず不機嫌な態度を撒き散らすタイプの人。
たぶん増田以外の人に対してもロクでもないことを言っているだろうから、
いい区切りだったので乱文になるけど吐き出させてほしい
8年ほど前、まだ20代後半だった自分が今の会社に中途採用された際に同時入社の同期が1人いた
自分とは歳の離れた40代後半であった同期である彼こそが後に、時限爆弾を仕掛ける人物である
入社した会社はその時期に基幹システムの刷新を考えていたらしく
その募集でシステム部として採用されたのが自分とその同期であった
当時のシステム部の社員は2名体制で1人が60代で定年間近の上司A、もう一人は50代の上司B
2人でなんとか基幹システムの維持だけを行っている状態であった
会社としては基幹システムの刷新以外にも社員の世代交代を徐々に行っていくための採用だったと入社直後に言われた記憶がある
60代の上司A、50代の上司B、40代の同期、そして20代の自分
確かにそのまま行けば年齢層は順調に推移して、10年単位で20代を採用することを繰り返せばいい感じにも思えた
入社してからの仕事としては60代上司Aの定年退職が控えているため、まずは稼働中の基幹システムの仕様理解に日々の業務の引継ぎ
そんな多忙な業務をこなすなか同期と話すうちに彼の人柄が徐々にわかってきた
箇条書きでまとめるとこんな感じだったと思う
・今の会社に採用される前、同じような職を転々として現在8社目であること
・受託システム開発ばかりやっていたが、そろそろゆっくり仕事ができる社内SEでまったり過ごしたいこと
・年齢と経歴の割にプログラムが雑なこと(※これは自分視点だがそう的外れではないと思う
また、今の会社に対してのスタンスや不満が溜まってきていることも伝わってきた
・システムを作る自分たちのチームが上で、運用するチームを下だと見下していること
・その運用チームから稼働テストの際にミスを指摘されると不機嫌になること
中々怪しい気配が漂ってきたと当時の自分は思った
残業に関しては、毎日という程ではないが20時頃までは働いていたと思う、遅くても21時までだったはずだ
ただこれはシステムの刷新が終わるまでという明確なゴールがあったのでそれまでは申し訳ないが対応してほしいと事前に説明があったし残業代もきっちり出ていた
自分は前職が完全にブラックで終電帰り、残業代なしが当たり前という環境もあったため特に問題なく仕事ができていたが同期はかなりストレスだったようだ
給料については会社の方針として勤続給ではなく年齢給であったため同時入社であるものの同期は自分よりかなり貰っていたはずであるが、それでも不満だったようだ
トラブルといってもただ上司Bが打ち合わせ中の同期の態度について不真面目だと切れて説教したのだ
この上司Bと同期の彼は相性が悪いようで度々小さな衝突はあったが上司Bが声を荒げて説教するのは始めてのことであった。
しかしこのことがきっかけで上司Bは同期に対して我慢がきかなくなったのかこの後もおよそ2ヶ月に1度のペースで業務のミスといったことから朝に挨拶をしなかったといった細かいことまで説教は続いた
この状態に嫌気が差した同期はある時を境にプライベートの予定があるからと基本残業はしなくなった
たまにどうしても必要がある際は業務命令という形で残業を依頼していたが、それでも19時くらいまでであった
しかし同期はそれもかなり不満だったらしく
残業した日は会社の最寄り駅と会社の間にあるビジネスホテルに泊まり
翌朝、ホテルの前を出勤中の社長や役員の前を偶然を装ってチェックアウトして遭遇し上司Bが無茶な残業を強要するせいでホテルに泊まる羽目になったとアピールするということもあったという
そのため、ちょくちょくシステム部にたいして過度な残業に関する指導が入っていたと後に上司Aから聞いたことがある
そして入社からおよそ3年が過ぎ、なんとか新システムも完成に近づいた時
しかしこの時は同期も相当機嫌が悪かったのか、それとも今まで積もり積もったストレスが限界だったのか、もしくは両方か分からないが
上司Bも同期もお互いに売り言葉に買い言葉で収集が付かず、上司Bが一旦頭を冷やすといって席を離れた際に同期はPCを少しいじると私物をまとめ無断で早退として帰っていった
なおこの時、上司Aは有給で休み、自分は電話応対中であったため止める者がおらず気がついたら終わっていたといっていいスピード感だった
そして同期は翌日、人事部に退職すると電話するとその後出社することはなかった
新システムの作成中データを取り出すために起動したがそれ以降はそのまま一度も起動することなく放置という状態であった
上司Bは撤去したい様子ではあったが、ある役員から戻って来るかもしれないからとりあえずそのままにしておくようにと指示があったので触れることもしなかった
その後、同期の担当分を自分が引継ぎ新システムの作成にとりかかるが彼の担当していた機能はなんとなく察してはいたが、かなり雑な作りな上
運用部門の要望をまったく聞かなかったため、とてもリリースできる状態でないことが発覚
改めて要望に沿った形で修正をする方針で進めると彼が作成したコードで残った部分は30%も残らなかった、ほとんど作り直しと言っていいレベルだ
そのときには定年から雇用延長となっていた上司Aは区切りがついたと退職
会社の業績もあまり安定しない時期でもあったため追加人員の採用は見送られシステム部は上司Bと自分の2名体制となった
その際に新システム作成が評価されたのと2名体制で苦労をかける事情からか自分は課長に昇進した、4年目のことである
新システムはその後、小さなトラブルはあるものの順調に稼働を続ける
なお小さなトラブルの大半は同期の彼が作った部分が関わっていることが多く
その度に彼が作ったコードは修正され、今では機能の殆どに彼のコードは残っていない
残っているのはせいぜい彼が名付けた関数名や変数名くらいである、中身はもう別物だ
そして6年目のある日、上司Bが突然亡くなった
腹痛を訴え病院へ、で即入院してそのまま復帰することなくという形だ
癌だったらしい
その時の会社の上層部はかなり大慌てであったらしいがシステム部としては正直あまり変わりがなかった
というのも新システムを作る際に運用部門の要望をほぼ取り込んだ結果
システム部の基幹システムに関する仕事はほとんどなくなったといっていいレベルとなったのだ
しかし周りはそうは思っていないらしく、システム部は1人しかいないのだから極力負担をかけないようにと各部門には通達がいったらしい
しかし実態はあれだけ忙しく残業していた日々が嘘のように毎日定時で帰っても問題ないのだ
同期の彼が望んでいたゆっくり仕事ができる環境がここに完成していた
そんな中、同期のPCを残しておくよう指示を出した役員も退職する時期となり
そこで改めてPCを起動して中をいろいろ確認していったのだが、そこであることに気づく
起動回数は1回限りで未実行、起動予定はかなり過去の日付が指定されており、とっくにその日付は過ぎていた
バッチ処理の内容を詳しく見てみるとPCの全ドライブの消去コマンドが書かれていた
同期の嫌がらせだったらしい
起動予定の日付を良く確認すると彼が退職を連絡した日の翌月が指定されていた
しかし実際は彼が退職した翌日以来、PCを起動した事はないしバッチも動作していない
※今回は不発だったから良いけど実際にやると損賠賠償になるから
このことは報告していないが、業務でバッチ処理に関わる度に同期のことを思い出す
もし彼が残っていたら昇進したのは自分ではなく同期となり、彼の言う満足いく給料を貰えたかもしれない
もし彼が残っていたら上司Bがいなくなりストレスがない職場で彼は働けたかもしれない
もし彼が残っていたら運用部門からの要請はなくなり、残業とは無縁な仕事が出来たかもしれない
いや最後のは無理かな
作ってたコード雑だったし、人の話聞かなかったし
ふと彼のその後が気になって調べてみたことがある
世間話で同期がSNSをやっていると聞いたことがあり検索してみたのだ
アカウントは知らなかったが彼の話していた世間話の内容で検索してみると意外なほど簡単に見つけることができた、アイコンも自身の顔写真にしており間違いないと思われた
また次(の次?)の職場で残業がらみのトラブルを起こした愚痴が書いてあった
うちの会社を退職したときの事は何を書いていたのか過去の在職期間の投稿を見てみると大半は案の定愚痴の羅列が並んでいた
そして、その連続した投稿の中で退職直後の時期に面白い投稿があった
要約するならこうだろうか
社内システム作っている自分に無茶ぶりばかり、データ全部消去して退職してやった
直してくれと謝罪の連絡してももう遅い、既に新しいホワイトな職場でまったり仕事中です
彼の中でうちの会社は有用スキルを持った人間を無能と決めつけ追放したギルドのように写っていたらしい
しかし実際はデータ削除の時限爆弾は不発であったし、仮に成功していても
現在彼の書いたコードはほぼ残っていないから直してくれと依頼することもない
そして彼の新しい職場は現在のSNSの投稿を見るに彼基準ではホワイトな職場ではないと自白をしている始末だ
ところで実際彼に連絡した人がいたのかという話だが
上司Bは既に亡くなっているので分からないが、おそらく連絡はとらなかっただろう
彼が退職の連絡をしてきた後、残っていた有給を消化したくらいのタイミング(大体1か月後)で退職に伴う書類の送付先の確認で何度か電話をしたが繋がることはなかったという
どうやら彼はこの連絡を会社からの謝罪の連絡だと思っていたのかもしれない
世の中の人ってみんな普通は 普通に 優しいんだ 優しくされたからこの人は私のことが好きと思ってはいけないんだ←これって本当にそうなんですか?
理系男性と接することが多かった人生 今年に入り急に文系男性と接する機会が増えた自分の感性があまりにも童貞すぎて笑えない 距離感を間違えたチー牛理系男性がストーカー化してしまうという話が一時期話題になっていたことを思い出す 挨拶をされた・消しゴムを拾ってくれた・人並みに扱ってくれたよりは上の扱いをされていると思い込んでいるがこれは抱いて大丈夫な感情なのか?かなり前に話した好きな物を覚えてくれていたり呼び捨てで呼ばれたり飲み会で肩を組まれたり親しい友達としか交換してないであろうSNSアカウントを教えてくれたり
男→女に対するこれは当たり前のものなのか?うーん つらつら書き連ねたらこれって友達にすることだ 気づいた 普通に 男女の友情が成立すると思っている文系男性がこれをしているだけだ みんな彼女いるしな 浮かれるな 私とチー牛理系男性の差は行動に移すかどうかだけ 優しくしてくれる人は私のことが好きではあるけどその好きって恋愛的な好きではない ただ人として当たり前のことをしてくれてるだけ 大学生のうちに気づけて良かった 良かったと思いたい
でも彼女いるのに他の女に優しくするな!!!!!あーんでもでも 優しい人って、良い…… はぁ 恋したい 恋愛とかじゃなくて、ただ、恋が このフェーズを25歳までに終わらせるのが今の目標です 助けてー
数年前転職してきた(具体的な年数は記載しない。「a few years」の数年前)上司が飛んだ。もちろん形式上は通常の手続きでの自主退職だけど、引き継ぎなども特になくクロージングもなく「いなくなった」。
私もサラリーマン人生長いから、今まで「鳴り物入り」の同僚や上司が来て、淡々と去っていくのを見てきた。中でも今回の「飛び」は印象深かったから、個人や場所を特定されない話として残しておこうと思った。
推薦図書を全員にメールで送ってきた。結局ほとんど誰も読まなかったらしいけど、私は「上司の推薦図書=実質義務」だと思っているから、アマゾンの中古本と図書館で借りることで一冊(アマゾンでも高かった)除いて全部読んだら「本が好きらしいので」と5冊持ってきて結局「義務」が私だけ5冊増えた。想像つくとは思うけど結局「読まなかった人へのペナルティ」も「読んだ人へのアドバンテージ」も特に無かった。もちろんそのあたりも最初から想定していたので特段の感慨はない。
感想?「何冊かは『読む』本じゃないよね」ということ。
仕組みやシステムを構築する時、困ったり抜けを確認するために該当箇所に当たってチェックする本だなというのが感想。
就任後一ヶ月くらいで、私を呼んで分析用のデータの作成を指示してきた。
「網羅すべき内容は?」「全部」
「どのくらいの期間で?」「できるだけ早く。3日位で」
これを聞いた瞬間に感じた。
(ああ この方自分で読んでそして我々に推奨してきた本の中身を理解してない)と。
推奨図書のうち一冊には「なんでもそうだけど 内容を明確にして対処するのが一番大事だよね」的な書物があったんだけどな、ついでに自分の仕事人生の中で「全部」と言われたデータが役に立った例は古今東西あった例はないな…と思いながらデータを取りまとめる。
…想像通り3日で作ったデータは死蔵品と化して、最後まで日の目を見ることはなかった。
推薦図書の中に「全てのデータを取得してアウトプットして活用する」的な本もあった。
だけど上司のアウトプット=資料を殆ど見たことがない。強いて言うなら文字位置がガタガタなPowerPoint位と画像貼り付けノートとして使われてたEXCELくらいかな。
データ使いこなすと言うならまずはMicrosoft Officeを使いこなしてほしいかな、と思っていたけど流石に直接そう話すわけにもいかなかった。
予感はしていたのだけど「ここ(現業)は◯◯が低迷し…」から始まった瞬間、皆の顔が微妙に歪むのを観察していた。私も現職で数社経験しているから身にしみて知っているのだけど、私が努めてきたどこの職場でも「課題も問題もある。それは皆わかってる。でも別に好きでそうなってるわけじゃないし誰かがサボってそうなってるわけでもない」。そこまでの経緯や体制など色々な原因が横たわっているからそこを改善しないとどうにもならない。それをさも「怠惰」が原因であるかのように話をしてもどのプレイヤーも得をしない。
予想はつくと思うけど、その後も会議はたくさん招集された。だけど上司から出てくるのは「課題」「問題」「事象」。いや、上司に求められているのはその3つに横たわる「原因」を分析する能力なんだ。それら3つはもう全員が理解してる。だからすぐに「会議を開くこと。そして上司の話を聞くこと」が会議の目的と化した。そして上司は目的語が大きかった。業務を遂行するうえで、顧客のどの層を想定するかは割と大事なポイントなのだけど、常に上司の口からは「お客さん」というワードだけが出てきた。それとなく傷つけないように目的語を会議中に修正した事は何回かあったけど結局最後まで変わらなかったな。
私の嫌な予感は的中し、上司の話を聞き流す人が着実に増えていった。
その結果どうなったか?上司はコミュニケーションの機会そのものを自分で減らしていった。立場上忠実(にならざるを得ない)直属の部下のみを招集しての会議のみがやたらと増えた。直属の部下は上司との会議のすぐ後に他部署との会議や自分の業務を抱えて辛そうだった。そのなかで上司はいつも5時になるとすぐログアウト。そして退社するのがルーティンになっていた。
いいか悪いか、は別として、現職の経営層は管理職に「プレイングマネージャー」であることを望む傾向が強い。仮にプレイングマネージャーでなかったとしても、課題も問題もあるわけだから暇な訳が無い、だからポジションを募集して貴方が来たんでしょう?と思うのはごく当たり前のこと。だから「イマイチ何をしているのかわからないが毎日定時で退社する上司」が現職の職場で目立ち始めるのに時間はかからなかった。
私の現職の部署はやや職場の位置が特殊で、本社の中枢部分に数人のデスクがあり、分館みたいな所で私を含む大部分のスタッフが働いている。
そんな中で、上司は分館の会議室に脇目もふらず直行して会議だけ行い(内容は少し聞こえてくるのだけど、何かが決まっている雰囲気はあまり感じられなかった)会議が終わるととてつもない速さで分館からいなくなり、分館スタッフと話す事は殆どなくなった。
コミュニケーションを嫌がる(怖がる、かもしれない。少なくとも私にはそう見えた)ものだから、メールの返信もいつも一行から三行位。「ふわっとした」疑問形で返されることも多かったから、メールの案件が上司が介入した結果結論に到達せずに途中で止まってしまう事が多かった。
承認書類も途中で止まるようになった。上司の承認が止まるものだから業務も案件も滞る。その中で招集された会議で上司の承認待ち案件について「あの案件が停滞しているのは何故?」という発言が当の上司から出てくるというギャグみたいな状況に数度直面した。
でも両方とも魔法使いじゃない。外部業者やコンサルと打ち合わせを行うと、初回で外部業者が必要しているデータをそもそも持ち合わせていないことがわかり数回の打ち合わせで大半が立ち消えとなり、事前検証や打ち合わせの時間分の工数が消える結果となった。
おそらくは経営陣側が「上司の力量に一旦は任せてみよう」という判断になったのだと想像している。その一方でこうも思った「後日経営陣は確実に費用対効果を確認してくるだろう。まあ私が問われるわけじゃないからいいけど…」。
良くなかった。
基本的には与えられた条件の中で新たな費用を発生させないことを前提としているが、どうしても少額の費用(最近はサブスク的な月1000〜2000円とかの定期支払いが多い)が必要になる時があるが、そういう少額費用の決済が恐ろしく渋くなった。どれだけ費用対効果を説明する資料を作っても駄目。
その中で「稟議通過したこの件だけど、まだまだ足りないからもっともっと金を使うぞぉ」的な資料を見つけてしまいため息しか出なかったのをよく覚えている。
会社は数字でのリターンを求めてくる。でも部下とのコミュニケーション同様「ふわっとした」説明しかできなかったらしい。資料を作って見せるスキルもないからすっかり経営層から「マーク」されたらしい。
その結果、上司が分館に来て誰とも目を合わさないテーブル(デスクではなく)で黙々とノートPCと向かい合って「何か」をして、5時になると姿を消す姿を連日目にするようになった。
だけど一つだけやっておきたいことがあった。
着任後半年くらいしてから「現業の未来像をどうするか」でブレーン・ストーミング会議を行いたいと言われてメンバーが招集されたことがある。
結局はブレーン・ストーミングでもなんでもなかった。
「役員が”将来像”は『A』になると言っているから、皆『A』にするための方策を考えて」だった。
私は基本的に官僚スタッフなので、方向性として示された事をいかに実現させるかに頭を絞るのが職務だと捉えている。だがこの件は看過しているとまずいと考えて話をさせてもらった。「『A』はできない訳ではないのですが、会社の体制と対応そのものを変える必要があり現職の状況には沿っていないと考えます。恐らくなのですが『B』という考え方があり…」とホワイトボードを使って説明した。参加者全員が納得してくれ、上司も「まあいいでしょう」と話をして次の会議予定を設定した。
次の会議になった途端、上司が『A』の話をし始めた。私から「先日お話した『B』の話は役員にしていただけましたか?」と話したところ「役員は『A』と言っているから」の一点張り。結局この将来像は、微妙にどうなっているかわからない状態になっていた。
上司の退職が決まって10日後位のこと。この”将来像”とは別案件で当の役員が来ることになった。別案件とは書いたが、この別案件の作り込み方は”将来像”によって180度に近いくらい作り込みが変わってくる。私もそれで悩んで色々な絵図面を散々描いては直し、を繰り返してきた。
私が事前に”将来像”について役員に直接確認する必要があるよねという話をしていたので、自ずと役員を前にその話題に流れていくことになった。
『B』だった。
私が話した内容とほとんど一致していた。
誤解しないでほしいのは、別に自分の自慢をしたいわけじゃないということ。
少しだけ捕捉すると『A』は「0か1か」の案で、『B』は「濃淡をつける」案。
外部の方からするとどっちも似たようなものに見えるのだが、実際は業務の作り込みから顧客への応対からシステムから何もかもが違ってくる。
恐らくなのだが、役員が『B』で話したのを、上司が忖度して「役員の期待?に応えるためにはもっと厳しくしないと!『A』じゃないといけないだろう」と脳内変換したのではないかと推測している。
念の為だけど上司を責める気はまったくない。誤認や勝手な忖度は初めての案件の場合よくあること。問題はそこからどう修正するかであり、それを可能にするのがコミュニケーションだと思っている。
その会議には退職間近の上司も参加していてほとんど何も喋らなかったが、役員が『B』を笑顔で話している時に上司をちらりと見たところ、ずっと下を向いていた。
会議後、役員は次の会議に向かった。そして上司はそっと席を立った。その時、他部署の方が「◯年前にさっきの話を聞いていればこんなに時間かからなかったのに…」と言っていたのが全てを表していたと思う。
その日から10日間、上司はほとんど別館のテーブルノートPCをおいて「何か」を見ていた。手は殆ど動いていない。誰かと会話する時間は一日10分程度。それでも定例の直属部下とのミーティングは開催されるし、案件の会議には一応「出た」。そしてほとんど何も喋らなかった。
外部業者(ほとんど実現可能性のない案件を相談)から次の打ち合わせの打診がメールで入ってくると「◯◯が設定します」の一行メールで返信が入ってくる。当該◯◯さんに「どう進めます?」と聞くと「話聞いてそれで終わりだねー」と「せやな」で返すしか無い見解をいただき安心した。つまり上司が片っ端から声をかけてきた外部業者やコンサルトのルートはほぼすべてがクローズされるという結果となった。
やっと手が出るようになったのだが、他部署に関わることのため話の持って行き方をずっと考えていた。何とかうまく「敵に回さないよう」話ができた後、上司から話しかけてきて「やっぱりダメだよね◯◯部署。ところでXXのデータには当たってみた?」
‥いや違うんだと。◯◯が怠惰でやっていないのではなく、現職の業務体制で手が出ていないだけでそこに「悪」は存在しないんだと。そして私がやるべきなのは問題提起と提案まで。実務は◯◯に依頼しなくてはならないから、私がXXに当たる意義はほぼないんだと。何より私はただ一件の話をしているのではなく、背後に眠る数百件の類似ケースとその検証に手を回せない体制を改善しようとしているんだと。
純粋な親切心でそこまで言おうかなと迷ったが、意味も意義も無いのでやめた。
(退職メールではなく、普段から自分の口と文章と資料で経営陣とも部下ともコミュニケーションを怠らず「わかってもらう」努力を欠かさなければ結果が変わったかも…)と思いながら返信。
返信した30分後位に挨拶に来た。
聞いてみたところ、メールを出してすぐログアウトしたので返信は見ていないとのこと。
なので私の画面で返信をお見せした。
私の返信を要約すると「理論は大事。だけど現実とリンクさせないと殆ど無駄打ちに終わる」「コミュニケーション不在はやばい」となる。できるだけ親切に描いたつもりだった。
上司からの感想はなかった。「頑張ってください」の一言だけだった。
私も想定内だったので「ありがとうございます」と挨拶した。話を聞く限り返信を返したのは私だけのようだ。
恐ろしいのはここから。
上司が退室して10分後には「なんの支障もなく回る活発な職場」「上司がかつて通した稟議案件は(経営陣が追加コストを嫌気して)廃止になるかもしれないから準備をしておこう、と話すスタッフたち」の姿が。
…そう、最初からそんな人は「いなかった」んだよ。という扱い。
程度の問題ではあると思うんだけど、人間には承認欲求というごく当たり前の感情があるはず。これが怖くない人はいないと思う。
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193040
この大学を卒業してから長い時間が経った。あれから1回転職して、新卒で入った会社とは別の電子機器メーカーで働いてる。今はキーボードとか作る仕事をしている。東京~神奈川にオフィスや工場がある会社である。もしかしたら、地下鉄なんかで増田民やはてな民とニアミスしてるかもしれない。
今では佛教大学に感謝してる。あの頃はいろいろ思うこともあったけど、だからこそ今の自分があるのだ。
仮に、第一志望だった同志社大学に進んでいたとしたら、きっと、ここまで努力は重ねなかった。自分に実力があると勘違いして、学業に力を入れるとか、TOEICで相応の点数を取るとか、就職活動に超力を入れるとか、そんなことはなかっただろう。
この道は、正しかった。第一志望の大学に不合格でよかった。親や兄弟や親戚に不合格をバカにされてよかった。だから、悔しさをバネに努力ができた。
自分は運がよかった。今ではそう思って、歩んできたこの道に感謝してる。
でも、実は後悔がひとつだけある。卒業式である。実は、自分は卒業式に遅刻している。その前日にアルバイト+飲み会があって、就寝が遅くなった。朝起きたら卒業式開始の10分前だった。
失敗はそれだけじゃない。なんと、卒業式の最中にゲリピーブレイクになってしまい、トイレに行っている間に式が終わっていたのだ……あれはショックだった。遅刻だけならまだいい。遅刻してる学生はたくさんいた。しかし、これは……「失敗した」という思いが強かった。ずっと引きずっていた。
というわけで、先日3/18(月)に佛教大学の卒業式に参加してきた。もちろん保護者席である笑
後ろの方の席だったけど、約十年前もあんな感じだったな、としみじみした気分になった。この時はさすがに遅刻はしなかった。しかし、残念なことに……式の最中にゲリピーブレイクが再発した。
焦った。これは焦った。けれども、ここで奇跡が起こった。十年前のことを思い出したのだ。十年前の失敗は確か、最後まで我慢しようとしたのが原因だった。それで、学歌斉唱が始まったあたりで体育館の和式トイレ(※洋式はない)に駆け込んだ。それで、失敗した。
式次第を読んでみる。そして、学長その他3名による卒業祝いの挨拶が長時間になると踏んだ。「よし今なら……いける!」と、その時間帯に会場を抜け出し、体育館の和式トイレ(※洋式はなかった)に駆け込んだ。
会場に帰る頃には、ちょうど学歌斉唱が始まっていた。そういえば、大学の学歌ってほとんど聞いたことがない。どこの大学でもそんなものだろうか。
とにかく、卒業式は無事に終わった。終わったのだ。十年来の無念が晴れた気がした。最後はプロジェクションマッピングがあって、マジでびびったわ……。
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ところで、式次第には学位記授与のことが書いてあった。卒業式の後、それぞれの教室で学位記を受け取る儀式があるのだ。
ああ、確かこんなのあったなと思いながら、ついでに保護者枠で参加することにした。幸い、見た目は学生時代から老けている。今ではすっかり小太りのおじさんである。社内では、同輩や後輩から「部長」と呼ばれることもある。保護者に見えなくはないはずだ。
卒業式の会場を出てから、100席ちょっとの教室に入ると、今まさに社会学部のとある学科の学位記授与が行われようとしていた。この時も、約十年前にあった学位記授与の記憶が蘇ってきた。
約十年前は、学位記授与の担当教員に怒られたんだっけ。小さい講義室で、学生たちがあまりに煩いものだから、学位記を授与する前に怒号が鳴り響いたのだ。懐かしい。4年前の入学式でも、やはり怒号が鳴っていた笑
あとは、その日の夜にあったホテルでの謝恩会の時も、一番最後に卒業生代表が、ステージ上で「私がこの学校に入学が決まるまで、大学受験で苦戦しました~3月の最後の最後まで受験を続けて、それで最後に合格を掴み取ったのが、この佛教大学でした~卒業生の皆さんも~(以下覚えていない)」といった卒業記念の挨拶をしていた。が、当時の卒業生諸君は大騒ぎだった。卒業生代表の話なんて聞いちゃいなかった。
今では、そんなことは一切ない。みんな、小さい教室の中で静かにしている。雑談している子は1人もいない。こういうのって、なんだろうな。もしかして、少子化によって選ばれし優秀な遺伝子しか世の中に存在できなくなりつつあるのか?
それはいいとして。学位記の授与では、一人ひとりが名前を呼ばれて学位記を受け取ってたんだが、やはりその……しみじみとした思いがした。自分はずっと、彼ら彼女らが教員から学位記をもらうのを眺めていた。全員が終わるまで30分以上もかかった。
(以下要約)
・あなた達はコロナ禍の大変な時期(※2020年度)に入学してきた
・入学式はなく、授業はリモートだった。学食でも黙食であり、不安も大きかったと思う
・社会人になってもどうかそのことを忘れずに、自信をもって働いてほしい
すべてが終わると、学生たちは粛々と立ち上がって、静かに退出しようとしていた。俺がいた頃とは大違いだ。あの頃は、絶対にみんな大騒ぎだったと思う。懐かしい。「威勢のよさ」と「常識の順守」がトレードオフになっている。そんな気がした。
※推測だが、2020年当時って、入学式やオリエンテーションはないし、マスクオンで皆の顔わからないし、何より授業はリモートだし、学食でも黙食が義務だった。ということは、学生間の絆のレベルがコロナ禍以前に比べて低かったのかもしれない。
ちなみに、ほかの学部の学位記授与の教室もチラッと外から覗いてみたのだが、どこもいい雰囲気だった。先生も学生も、熱の篭った感じで最後の儀式に興じていた。特に、教育とか保健とか看護の学部がよかった。
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大学を出た後、近くにある千本北大路の交差点で、卒業生達が「じゃあな」と言いながら別れていくのを見た。
社会人をやって十年以上が経つけど、今日という日は感慨深いものがあった。涙までは出なかったけどな。
これで結びになる。
若い頃は楽しかったってよく聞くけどさ。実際、そこまで楽しくはなかったよな。当時の日記を読み返してて感じたんだけど、「早く実力を身に付けたい」の一点張りだった。あの頃は、自分が雑魚すぎて嫌だった。
「あの頃はキラキラして、いつでも輝いていた~」みたいなことは絶対なかった。あるわけねーだろ。当時の日記を参考に、あの頃の気分を一文で表すと、砂漠をうろついてるフンコロガシみたいだったよ。でっかい玉を作りたくて、己のショボい脳と身体でどこまでも足掻いていた。満たされなくて、いつも飢えていた。心が。
大学の中も、大学以外の外にある世界全体も――学業、アルバイト先、恋愛とかでも、自分よりはるかに格上のヤツがいっぱいいた。劣等感が凄かった。自分が何者でもない感じがして、苦しかった。自分の雑魚さ加減が嫌になったよ。そんな4年間だった。
今でも夢に見る。学生時代の下宿で、コタツ机に昔の自分が座ってる。深夜1時だというのに、アルバイトから帰った後で、TOEICの教材でリスニングの勉強をしている。
なんだか寝落ちしそうな雰囲気なのだが、その度にコタツ机から立ち上がり、頭をそのへんの壁に打ち付けていた。一息を吐いてから、それでまた、勉強に戻る。
「あきらめないでくれ……」
夢の中にいる自分には、そう応援するくらいしか手段がなかった。でも、勝手に声が出ていた。
「昔の俺よ、どうかあきらめてくれるなよ」って、そう祈っていた。そしたら、いつの間にか目が醒めていて、いつもの布団の中にいる。天井を見上げている。
でも、学生時代が楽しかったかといえば、楽しかったよ。当時は辛かったんだろうけど、でもなぜか、今になると「あの頃は楽しかった」に記憶がすり替わっている。
苦しかったはずの日々なのに、どうして「あの頃は楽しかった」ということになるのか? それって錯覚じゃないか? 自分で自分を騙してる。なぜ、こんなことが起きる?
確信はないけど。【一所懸命】だったからじゃないか。自分は忘れても、脳は覚えてる。あの頃、一生懸命に苦しんで、欲しがった何かが――今、自分の手元にあるんだって。無意識はわかってる。
だから、それまでの過程がぜんぶ、愛おしくて、切なくて、やり切った感があって、いい思い出として変換されるのだ。実際は辛くてしょうがなかったのに。
苦しかった時のことほど、楽しく思い出すことができる。反対に、楽しかった頃の記憶って、特に何も感じない。脳裏から記憶が消し飛んでいく。それだけだ。
今回、自分の記憶を整理する機会に恵まれた。十年ぶりに大学の卒業式に参加することができた。おそらくもう、あの大学の門をくぐることはないと思うけど、本当に運がよかった。