はてなキーワード: 成就とは
今の世の中には情報がいっぱいある。
新聞、雑誌、自己啓発本、解説書、小説、漫画、テレビ、講演、病院での診察、インターネットだけでも、このはてなブログのようなブログ、一般的な記事、YouTubeの動画やショート、それらに対するコメント、占い、電話相談...いろいろ、いろいろある。
今、少々込み入った片想いをしている。
込み入った、と書くと変な感じがするが、そこまでではなくて、ただ、通常はあまりしない、望みがない、成就したとしてもその後がとても大変、みたいな感じ。しかも普通の人には相談できない系。
そんな片想いしていることに気づいて以降、色々な情報に触れた。
特にインターネットについては、googleを立ち上げては過去のチャレンジャーたちの成功・失敗談、それに対するコメント、恋愛テクニック、心の整理のしかた等を毎夜毎夜、休みの日は一日中読み込んだ。YouTubeもいっぱいいっぱい観た。観てしまった。
だから、この成功・失敗談やいろんなコメント、全く関係ない文章を読んでいる時だって、YouTubeを観ている時だって、日常生活の中でもいつもその人が頭にいて、「あの時の行動の裏ではこう考えられちゃったかな」、「このアクションはどう思われるかな」、「やっぱり恋人がいるのかな」とか「奇跡的に上手く行っても、やっぱりその後大変な思いをさせてしまうかな」等など考えてしまう。
そんな状態で床に就くものだから当然に眠れるはずもなく、読んだ記事やコメント、YouTuber達の解説が頭の中をぐるぐる回り、そのまま外が明るくなってしまうような日々が続いた。その人を考えることで、思い出すことで、心が潰される。吐き気がする。
デジタルデトックスと称してインターネットから離れてみたけれど、一度心にこびり付いた焦げってなかなか取れない。何もしていない時間ができてしまうと、ふとした瞬間にフラッシュバックして、胸のあたりが締め付けられる。呼吸が荒くなる。仕事中もそのことばかり考えて、集中できない。食欲なんて当然無い。
第一印象はどうだったとか、それがどう変わって行って結婚を決意するに至ったか、みたいなことが書いてあって、成就事例として載っているぐらいだから、まぁ良い話なわけ。
だけど、読んだ後心を締め付けてる殻がちょっと緩んだ気がしたんだよね。何十年って生きてるけど、自分の心のしくみにそんな一面があることを初めて知った瞬間だった。
それに気づいた次の日、本屋で平積みにされていた優しい表紙の短編集を買った。最近はもうkindleで買うことが多いんだけど、今は紙の本がいいな、って。
まだまだ心の焦げにはその人がいるから、登場人物で雰囲気の似ている人が出てくると、どうしても重ねてしまうのは止められない。だけど、インターネットの記事やコメントを読んだりYouTubeを観ている時に出てくるその人への感情が、自分の心に棘を突き刺す存在に感じてしまっていたのに対し、本の中で出逢うその人は柔らかく寄り添ってくれて、ガチガチに固まってしまっていた心を、解きほぐしくれるような存在に感じた。ふとした瞬間に心がザワザワしても、本を開けば、すーっと氷が溶けるように、心のモヤモヤが晴れてゆく。
今は真っ暗な中にいるけど、光の方向へ一歩、前に進めるかもしれない。情報の波や逆風に負けきらないかもしれない。うん、大丈夫なような気がする。
成人式というワードを今年もぽつぽつ目にして、ああもうそんな時期かと思ったら苦い記憶の蓋が開いてしまったので当日も終わった今書き捨てる。
私は成人式で振袖を用意できずにスーツで行った女だった。全女性参加者の中でスーツは一人だけだったのでとにかく浮いたしそれなりにしんどかった。用意できなかった理由は親が毒親だったから。親戚も一族まとめて酷いもの。主に父親から肉体的、精神的、性的、金銭的と教育虐待を受けていて、母も逆らえないし妹を守るためにも私を差し出している節があり言いなりだった。
バイトも当然させてもらえない。①⚪︎⚪︎家の血に高卒は許さない高学歴になれ、②お前なんか高卒で働け金は出さねえ、の毒親あるあるダブスタから這って足舐めて進学させてもらったものの学校以外でほぼ家から出してもらえないから。されど振袖資金も出すわけもない。頼み込んでお金を前借りする事もできない。母は式の一年ほど前から「振袖どうすんの」と聞き、お金がないから難しいだろうね、と言うと「でも…」と残念そうに肩を落として終わる会話を何回もした。酷い言い方だけど、多少の罪悪感を感じてはいるようだったので、逃れるための気にかけていますポーズだと思っていた。ちなみに父はその話題に絶対触れない。文字通り顔を背けるし黙って居ないふりをする。
忘れもしない。前夜まで悩んで悩んでスーツでもいいから行くことにした。行って振袖を着られなかった悲しみと戦うか、行かずに一日潰していつか(やっぱり行けばよかった)と後悔する可能性を持ち続けるのだったら、前者で当たって砕けた方がいいと判断したからだ。誕生日のように毎年来るイベントではなく一度きりなら行かずに後悔する方が長く後悔を引きずる気がした。父は成人式の話自体を振られる事が嫌なのか数日前からは特に顔を合わせようとしなかったので母には行くと伝えたが「本当に行くの?」と望んでいないような顔で言う。実際そうだったんだろう。夫である父が望んでいないので。あと振袖のことを気にしてるけど用意できなかったり父を説き伏せられなかった罪悪感を多少突かれるから、この辺りかな。
忘れもしない。支度のために家の中を行き来する間、家族は全員起きている気配がしていた。そもそも母は休日でも変わらず一番に起きてくる。父も子供達にテレビを絶対取られたくないので早く起きて一日中床に転がってザッピングしている。妹はまちまちだが物音がしたのであの日は確実に起きてた。全ての部屋から人が息を殺して隠れている時の独特な圧迫感もあった。私以外の全員から絶対に部屋から出て私の顔を見るものかという意思をあの時確かに感じられた。関わりたくない、知りたくない。なんなら親の部屋は挨拶も兼ねてドアを開けて確認した。朝は毎日目を見て父親が気に入る声音のおはようが言えるまでやり直しのイベントがあったから。両親ともに布団で顔を見えないように隠していて、どう聞いても寝息じゃなかった、起きていた。
ただ一人スーツで参加した私を何とも言えない顔で見る友達もいた。苦笑いもされた。直接なぜ振袖じゃないのか聞かれもした。用意できなかったんだ〜とだけ返して、苦しさと虚しさが喉元まで詰まって今にも破裂しそうな心地のまま、式の終了まで居た。それでも行かなければよかったとは一度も思わない。振袖で出られなかったのはやはり悲しかったが、断然行ってよかったよ。あの閑散としたリビングの風景と、あの日だけ九時を過ぎても全く誰も来ようとしなかった空間で充満していた家族の「関わりたくない」「知らないふりをする」という意思には傷どころか呪われたとさえ感じる。アラサーになった今でもあの日だけ妙にがらんとして空気が冷たかったリビングと朝日の色をはっきりと思い出せる。いつになったらこの傷も忘れることができるんだろう。
ここまで読んでくれた人はありがとうございます。最後に。思い出したからと言って、私の後に問題なく式を迎える/迎えた人たちを恨んだり等はしたくない。妹が成人式に私と違ってバイトを許されて貯めたお金で着物を着て行った時も、それを笑顔で自慢された時も、嫌味を言わずおめでとうだけを言える理性も用意できた。過ぎてしまった年月はもうどうしようもできない。ただただ向き合うしかないと理解はしている。でもやっぱり苦しみはまだ終わってないから、自分に掛けられた呪いを嘆くより人の幸せを願う方が穏やかな気持ちになれるからせめてもの祈りを書いてこの話は終わりにします。
今年成人を迎えた皆さん。成人おめでとうございます。あなた方の選び作るより良い未来の成就を心から願います。
これから成人を迎える方も、お子さんお孫さんに振袖を用意する方も、はたまた私のような苦しみをどこかで得た人も、全ての人が望むように暮らせる良い2024年でありますように。
話の途中ではアムとレッシィがダバを取り合ってて「どっちとくっつくのかな?」みたいな雰囲気を出しつつじわじわアム優勢になっていくんだけど、最後は妹と一緒に故郷に帰ってアムもレッシィも捨てられる
という話だと思ってた
実際は妹を助けたは良いけど長い洗脳の後遺症で頭がやられちゃったので面倒を見るために誰も連れずに2人で故郷に帰るだった
それを見てレッシイが「ダバはオリビーの世話に生涯を費やすことでヤーマン族の血は途絶える。これでポセイダルの復讐は成就してしまった。」と泣きながら話すんだけど
だったら、アムとレッシィはどちらか一人でも無理やりついてってダバとバンバン子作りしろよって思ってしまった
ガイキチ小姑がいるからってダバを諦めるのはちょっと現金すぎやしませんかね?
こういう時こそ産む機械の出番なのに
元というなら
Gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
"bodhi svāhā"(菩提・僧莎訶)は、菩提が叡智・悟り、僧莎訶が成就を願う感嘆で、お釈迦様の名前ではないのでは?
菩薩(bodhisattva)のことである菩提薩埵(ぼだいさった)と混同されているかも?
(参考)般若心経について: 極東ブログ
(参考)『般若心経』をサンスクリット原典で読む! - 甚之助の小屋 ※音読例がいくつか動画で載ってるし、語釈も詳しい
(参考)サンスクリット語、中国語、韓国語の「般若心経」: エムズの片割れ ※これも各国の音読例が載ってる
※中村元氏の『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)が著名と思うけど、良さそうな解説ないしは随想のページが見つからなかった
息子の嫁から連絡が来た。
息子には内緒で二人で会って話したい、息子のことで相談があると。
ルージュの伝言みたいだな、と思いながら日程を決めた。
内容としては、息子と些細なことで喧嘩が絶えないこと、息子が喧嘩の度に「価値観が合わない」「離婚する」「もう一緒にいない方がいいと思う」というような脅し文句を言うということ。
時々、息子に電話して新婚生活はどう?なんて聞いた時も「うまくやっているよ」というばかりで、しょっちゅう喧嘩しているなんて初耳だった。
心優しく穏やかな子だと思っていた息子が、奥さんにそんなことをいう男になってしまっていたのかと心底驚いた。
正直、自分の夫も軽々しく「離婚だ離婚」なんてことを言うことが度々あったので、それを聞いて育った息子も軽口で言ってしまっているのかもしれないと思った。お嫁さんには大変申し訳ないことをしたと思う。
今のところ、お嫁さんの言い分しか聞いていないので、息子の考えや言い分は分からないが、軽々しく口にしてはいけないことを言ってしまった息子のことは叱らなければいけないと思う。
ただ、息子の言い分の中にあった「価値観があわない」というのは心当たりがある。
正直、両家の経済力には多少隔たりがある。
我が家だって決して貧乏な方ではないと思う。息子を二人とも奨学金なしで大学に進学させ、一人暮らしさせてやるのに不自由はさせていなかった。
ただ、向こうの家は代々の土地持ちで、かなり羽振りのいい生活をしているようだった。
お嫁さんはブランドに詳しくない私でも分かるような、シャネルやヴィトンの鞄やアクセサリーをいつも身に付けていたし、冬場に向こうのご家族と軽く食事をしに行った時、親兄弟含めて全員モンクレールのダウンを着ていてちょっと面食らった。
息子には「逆玉だね」と冗談めかして言っていた。
正直、価値観が違うのは当たり前だ。
人様に言って恥ずかしくな大学・大学院を出て、誰からも一流企業だねと褒めてもらえる会社に就職した息子に比べて、
お嫁さんは偏差値だけで言えば何枚も劣る女子大の出だし、就職先だって聞いたこともないような会社だ。
はじめにお嫁さんのプロフィールだけ聞いたとき、私も夫も心の中で眉を顰めたのはしょうがないと思う。
それでも、実際に会ってみればとても気さくで心配りができて育ちの良さがにじみ出る彼女の人柄にはとても好感が持てたし、息子から聞く彼女の実家の太さはとても心強く思えた。
彼女との縁談を成就させるべく、彼女がどうしても欲しいと言った婚約指輪を買うために息子に少々援助までしてやった。
両家共に打算と妥協がなかったといえば嘘になると思う。
うまく二人で価値観を擦り合わせて暮らしていって欲しいと思っていたが、入籍から半年足らずでこんなことになってしまうとは、と頭を抱えている。
結局のところは「作者の匙加減でいくらでも調整できるハードルの先に置かれたトロフィーを手に入れるまでの茶番」もしくは「一部読者にとってポルノ的な効果があるシーンをひたすら繰り返すだけのワンパターン」でにしかならないんだよね。
「破局復活系」
「失恋系」
の4系統があるんだけど、このうち前半3つが上で上げた「作者匙加減トロフィーゲット系」で、最後のヤオイが「惰性型ポルノ連発系」に該当する。
「トロフィーゲット系」の物語は「相手との恋愛関係」「最高の思い出」のどちらかを主人公が手にするまでの物語を描いているのだが、その物語は究極的には1話で終わらせられる話を延々と引き伸ばしてるだけの薄めきったカルピスにほかならない。
「恋愛成就系」であれば「付き合ってください」「OK👌」で終わる物語を延々と先送りにしているだけ。
「破局復活系」であれば「ヨリを戻そうぜ」「OK👌」を引き伸ばしてるだけ。
「失恋系」であれば「でも楽しかったよ」で主人公が笑い泣きしておけばいつだって切り上げられる物語である。
まれに打ち切りだったり作者がぶっ壊れた果ての逆張りで凄い終わり方もするが、それは単にカルピスを薄め続けている間に誤ってコップを倒しただけであり、やっていたことがカルピスの無限水割りであることに変わりはない。
これらの物語は結局のところ、作者が登場人物の行動をひたすら阻害しているだけであり、登場人物が正しいアクションを取れば物語は本当に一瞬で終わるはずなのだ。
言ってしまえば「トイレに行きたいけど無理して我慢してる小学生の様子を延々と描写している」ようなものだ。
ただ主人公が「やっぱトイレ行ったほうがいいぜ!」でトイレに行けば開始1ページで物語は終わる。
しかし作者の都合により話は引き伸ばされ「プルプルしてるのを友人に指摘される」「すかしっぺでガス抜きに成功し誤魔化して一時的に復活する」「勢い余って少し漏れたことで急激に自体が悪化する」といったイベントが飛び込み差も物語は劇的であるかのように振る舞う。
しかしそれらは結局は主人公が「やっぱトイレ行かないと何も解決しないぜ!」でトイレに行けばその瞬間に終わる物語であるはずなのだ。
そうしているうちに収集がつかなくなったとき、突然主人公が「やっぱトイレ行くぜ!」といきなり宣言するか、破綻した物語に相応しい終わりとして盛大に漏らしてしまうのだ。
やっとトイレに行った主人公や漏らした主人公がやけにスッキリした顔を描いて作者は「やりきったぜ!」となるし、読者によっては「よかったね!よかったね!」と喝采を浴びせるのである。
しかしそれでやっているのは「1ページ目でトイレ行っておけよ」でしかないのだ。
恋愛漫画にはもう一つパターンがあり、成就した恋愛をダラダラと描き続けるタイプが有る。
これらの漫画はただひたすらに恋愛が成功して幸せに暮らす様子が描かれるが、そこに物語としての起伏はもはや存在しない。
主人公カップルたちのデートシーンを見て「羨ましい~~~」と読者が楽しむだけである。
やっていることはグルメ番組でシズル感ある映像を見ながら「まいう~~~」とタレントが感想を述べるのを見ているのと同じ状態である。
コンテンツのあり方としてこれは実にくだらない。
三大欲求の一つである性欲を間接的に刺激するような延々と続く前前前戯のシーンを見てココロのチンコマンコを読者がクリクリしてオナニーするためだけにこれらの作品は存在する。
読者にとって恋愛対象となるキャラクター達が恋愛をしている様子を見て、ピーピングトムとしての快楽に浸っているのである。
恋愛作品はときにはセックスを直接描写するが、それはまさにこのピーピングトム向けのご褒美なのだ。
だがその内容がセックスでなくても、性欲依存の覗き趣味を満足させるための作品なのは変わらない。
銭湯で盗撮をする行為をしたからといって相手にレイプのような傷を残すことがなくても、結局それを見て性的興奮を覚えるのと同じく、程度が違うだけでしかないのだ。
それが恋愛モノであり、それが最も顕著なジャンルがヤオイである。
これらの要素は作中人物たちの恋愛観がホモであろうがヘテロであろうが異種族間であろうが変わることはない。
各々の読者が自分なりに納得の行くオカズを求めてそれらの作品を選ぶのだから、結局それらは性欲に基づいた茶番の覗き見でしかないわけだ。
実に気持ち悪くい。
そして程度が低い。
それがどんなジャンルであったとしてもだ。
たとえば君達も映画で盛り上がっている時に急にラブシーンが始まると興ざめすることがあるだろう?
あれは結局のところ、性欲が高ぶっているわけでもない時にポルノムービーを見ているの同じ状態だからだ。
本当に中身があって面白いコンテンツであれば、そういった本能的な満足感さえ超えて圧倒的な力でこちらの感性をこじ開ける。
だが恋愛物が提供するのはどこまでも性欲の延長線上にあるものだけだ。
実に低レベルだ。
私が恋愛感情を持ったのは40歳の時です。遅すぎます。40歳で初めて恋愛感情を持つなんて、なんかのバグですか?バグですよね。
もっと若くないと相手も好きになってくれません。若い時に人を好きになりたかったです。出会いが遅かったのか、自分のせいなのかもわかりません。
20代なら許されるけど、40歳の恋愛感情はキモいとさえ思われます。悲しいです。
でも死ぬまでに恋愛感情というものを知れてよかったです。それだけは良かったと思えます。恋愛感情を知らずに死ぬのは炭酸の抜けたコーラみたいなものだと思いました。
もう叶わない恋愛です。ほぼ諦めています。相手にも拒絶されました。まだ若ければなんとかなるのでしょうが、この歳では無理でしょう。でもそれでも好きなのです。
恋愛感情を知れたおかげで、音楽に興味が出たし、恋愛ものの漫画や映画も楽しめるようになりました。それが救いであり喜びですね。人生が豊かになりました。