はてなキーワード: 愛郷心とは
国民国家は歴史的経緯から必然的に発生した一つの形式ではありますが、一種の虚構でもあります。
「愛国心」というものは愛郷心、民族主義、集団利害等がない交ぜになった幻想の産物です。
ただし幻想だからと言って、それに価値がないわけではありません。価値などというものは普遍的な物差しがあるわけでは無く、それを信じればそこに価値が生じる物です。
根拠が幻想だからといってそこに実際に心情(例えば自分自身の愛国心はこれに含まれます)が生じてしまっている以上、その心情をを特に否定する必要も無い、という話です。ただ(例えば)「自分の愛国心」のようなものに普遍性のある根拠を見いだせない以上、それを喧伝するような行動に対しては非常に腰が重くなっていることを否定できません。
政治学がなかなか表に出てこない(そもそも政治学部や政治学者が少ないというのもあるでしょうが)のは、この辺の政治学徒共通の腰の重さもあるのでは無いかと睨んでいますw 政治学が出せる答えは基本的に「こういう状況で、あんな目標なら、こうすればいい」というところまでです。ところが世間で議論の俎上に載るのは主に「現状をどうみるか(状況)」と「どこを目指すべきなのか?(目標)」の話なので、政治学はそこについてはたいてい回答を持ち合わせません(正確には「客観的に決定出来る物では無い」という回答を持っています)ので。
「中国が因縁つけてきてて怖い。これについて何か出来ないか」という質問に
頭が極度に悪いかわざと話そらしてるかどっちかでしょ(多分両方なんだけど)。
例えて言うなら
「暴漢がドアを叩いています、どうしたら」に
「部屋の片づけをしなさい」と言ってるようなもの、と。
で今は
「アホか」と言われて
「部屋の片づけをないがしろにするのかー!」と勢いで話そらそうと頑張ってる。
(部屋の片づけをしないでいい、なんて言ってる人間は見た限りここにはいない)
(喫緊のドアの向こうの暴漢対策として「部屋の片付け」はおかしいだけで)
日本では、老若男女1人1台携帯電話を持っている世の中になったといっても過言ではない。
今では小学生でも持っているのが普通だろう。小学4年生くらいになれば、
「パパとママのせいで友達できないよ」と言われ携帯電話を買わされる。
親としても防犯上の理由で買い与える。
(PSPとかニンテンドーDCも同じ、持っていなければBluetoothの輪に入れなく友達から置いてけぼりをくらう)
副作用といってもそれが良いか悪いかはハッキリしていないので、
ここではそれを銘々で考えて欲しいとしておく。
ゆえに、いつでも人との繋がりがリセットできるので、
深い話をあまりしないフラットな付き合い方、広く浅い付き合い方をするようになる
そのことで何が起きたかというと、
空洞的な気持ちに陥る現象が起きた。そのことが切り口となり過剰の同調が起き、
どこか私の知らないところで悪口を言われてないだろうか。
返事が直ぐ返ってこないから嫌われてるのではないだろうか。
このこで分かる通り、昔みたいな地域共同体や家族、親戚、友達の中に埋め込まれているリアルな繋がりではなく、
例えば、悩みや情報などは昔だと家族、友達などから収集、相談をしていたのが、
今はそんなことせずに情報ならネットで調べるし、悩み相談なら面識の無いメル友やSNSの相手などで満たされる。
ということは、どこにいても不自由せずに暮らすことができる概念が生まれてくるわけで、
例えばアキバで一時一世を風靡した個人が自分のコレクションを売る小ケース制度というものがあった。
それに紛れ込んでくるレア商品を目的にオタクはアキバに通いチェックしていた。
しかし、ネットオークションが当たり前になった今では小ケース制度はなくなり、
つまり、アキバに行かなくても情報ツールが満たしてくれて、アキバへ行く必要がないとなるわけだ。
今はまだ、携帯電話という低レベルの情報ツールしか蔓延していないが、
これからはもっと技術が発展しどうなるか分からない。一つの例としてコテハンがある。
言うならばリアル世界で役職や場所、性別、アイデンティティが変わってもコテハンだけは変わらずネット内で存在し自分を維持できる。
時期尚早となったセカンドライフがコテハンの発展版と言っていいだろう。
確かにまだ時代の流れとして社会に溶け込まなかったセカンドライフだが、
コテハンにアバターがつき臨場感ある3Dの世界へ在住する人は少数ながらいる。
もしこれから、こんなネットのアチラ側在住がマジョリティになればどうなるだろうか。
ネットに魂を置きリアルではご飯と入浴、排便をするだけみたいな、
リアル社会よりネット社会が主になる考え方にシフトしていく可能性も否定できない。
宮台氏がもっとも視座していたのが、昔の非流動型共同体(場所に拘る)と現代の流動型人間関係(場所に拘らない)、
どっちが良いか分からないが、こういうことを知って考える必要があるのではないかと示唆している。
でないと、ネットのアチラ側に在住した場合、リアルの場所には拘らないわけだから愛国心すら希薄になる。
この先IT技術や科学が発展し、言語と稼ぎ方の革命が起きるとより暮らしやすい海外に行くのは必然になるだろう。
別に、愛国心でも愛郷心でもどちらでもいいのだが、茹で蛙で愛郷心になるのはどうかと思う。
現在ではまだ、技術も発展中で非流動型もかなり残っているわけだから、
今一度、友達がいるけど寂しい状態ではなく本当の寂しさを補う事とは何ぞや、
本当の絆とは何ぞやと、改めて意識する必要があるのではないだろうか。