はてなキーワード: 建築とは
まとめるとこんな感じだった。
①吸引の際は結構咳き込む。心配されるくらい咳き込むけど、体感としては端から見るほど辛くない。
②5分くらいしたら、口の中がめちゃくちゃ渇く。渇いたときに水分がなくなるからか口の中は苦くなる。そして、身体の表面がそわそわする。強さによっては、この時点で揺れてる感じがしたり、回転してる感じがしたりして、気持ち悪くなることも。これは意識変容の最初のサイン。
③まずは、知覚が変容する。音が立体的に聴こえたり、色彩がビビッドに(赤と緑が強くなる気がする)なり、強さによっては少し歪む感じがすることも。そして五感が有機的につながって、ひとつの体験として感じられる。
④そこまできたら、感情が昂ぶっているのを感じるだろう。そして、思考がまどろんでいく。自分が何を考えてたか忘れちゃったり、距離の感覚が把握できなくなったり、腕が催眠術にかかったみたいに固定化されちゃったり、身体や足が椅子や地面と一体化しちゃったり。いわゆるストーン。個人的な体感として30分〜1時間くらいで落ち着く。
⑤上記と並行して、いろいろと気がつくことがある。この体験内容はセットとセッティング(心的構えと使用環境)によって大きく変わる。バッドトリップしないためにも、品質の良い大麻で、事前に偏見は取り除き、正しいセットとセッティングを整えよう。(当然、セッティングには安全な環境≒合法的な環境であることが望ましい点も含まれる)
⑥だんだんと普段生きている世界に帰ってくる。大麻では問題ないと思うが、意識変容体験であることは間違いないため、グラウンディング(心的着地感)についても気をつけよう。具体的には、黄泉がえりだ。つまり、あちらの世界(彼岸)からこちらの世界(此岸)へ、体験を持ち帰ってくるのであって、彼岸に魂をおいてきてはいけない。グラウンディングが適切に行えるかで、体験の質は大きく変わると思う。
個人的に、マリファナ体験でよく報告されるところの「マンチー」(食欲亢進)はあまり感じられなかった。
詳しくレポートしていく。
まず、体験した国名については推奨するわけではないから敢えて伏せておく。自分で調べてくれ。
もちろん、日本では違法だから吸うんじゃないぞ。合法大麻とか言って売ってる合成カンナビノイドもやめとけ。あれは信頼性の低いデザイナーズドラッグだ。最近は成分もよくわからんのが出回ってる。CBNクッキーとかまでにしておくといい。
さて、ここはとある大麻調剤薬局(ディスペンサリー)。清潔感のある店内で、店頭にはさまざまな品種のマリファナが取り揃えられている。価格としては、日本円にして1,200円〜2,800円/gほど。値段が2倍以上異なるのは、品種ブランドによるためだ。
マリファナには、文化慣習として大きく2つの品種分類があるとされている。夜の使用に適していると言われるリラックス効果が高いインディカ株、感情の高ぶりや笑い上戸、しゃべり上戸になりやすいと言われるエネルギッシュなサティバ株だ。なお、この分類は最近になって実際の化学構成(ケモタイプ)とはあまり関係がないことが明らかになってきていて、あくまで文化慣習的な目安だという。
ディスプレイされているさまざまな品種の前には、その効き方の目安として「意識の上昇」「多幸感」「意識の集中」「睡眠」「会話」などさまざまな効能が書かれている。私は、その中から3種類を選び、それぞれ1gずつ購入した。
ちなみに、購入したらその場でジョイントを巻いてくれた
さて、さっそく試しに吸ってみようと0.5gのジョイントを1本。同行していた友人とシェアしたので、半分の0.25gほどだろうか。火をつけてタバコと同じように吸い込んで、深く肺に入れる。
キック感がかなり強く、咳き込んでしまうわけだが、咳き込んで頭に血が上るような感覚ののち、段々と知覚が変わってくることを感じる。
まずは、口がすごく乾く。砂漠になったかと思った。あとは、少し喉が痛い。一気に吸い込みすぎたかも。喉が痛くて口が乾くから少し気持ち悪い感じがする。というか、世界が歪んできてる?酔っ払って三半規管が狂ったときみたいな、だけど意識はハッキリしてるみたいな、不思議な感覚が襲ってくる。
あれ、いつからここにいるんだっけ?あれ?今何してるんだっけ?聴こえてくる音楽が、風の音が、バイクの音が、なんだかすごく立体的に、リアル以上にリアルに感じるような気がする……
あぁ、そうだ。マリファナだマリファナ。いま吸い終わったんだ。5分くらい?経ったのかな?時間はー、えぇと、うん、進んではいるみたいだね。でも、進んでるとかじゃないよ。ただ、いまここに在るだけなんだから。
あぁー、完全にさっきいた場所とは違うみたいだ。いや、同じなんだけどさ。あれ、いまなに考えてたっけ?あぁ、そうだ。別の世界に来た感じっていうか。景色も随分とビビッドだし、鮮やかで、キレイだなぁ、あれ、時間って経ってるっけ?あぁ、腕が動かない。固まっちゃったみたいだ。あれ?なんか足が、足の裏が、地面が、あれ?どこから地面と足が分かれてるんだ?あれ?分かれてなくないか?一体じゃないか?
身体が椅子に、足が地面に根を張って、私はいつのまにか大樹になっていた。
1時間ほど経った後だろうか?だいぶ落ち着いてきて、立ち上がって歩けるくらいにはなってきた。まだ、世界は鮮やかだし、心は躍ってる。そのまま寺院観光に行ったけど、黄金に輝く仏像に、カラフルに彩られた建築が、なんだかこの世のものとは思えないほど荘厳に見えた。
上の体験記だけ読むと、ちょっと、いやかなり怖いものなのかなと思うかもしれない。たしかに、マリファナ体験の核となる意識変容体験は、認識に現れる世界をその根底から覆してしまうような、そんな衝撃があった。まさに、別次元の体験といっても差し支えない。だけど、不思議と怖いものではなかった。そこには、底しれぬ一体感があり、神秘の愛に包まれるような感覚がある。
思考がまどろんでいき、幸せな気分(THCの主作用に陶酔感、多幸感が含まれる)に包まれていく。「これはあれ」といったような識別作用、分別作用が弱くなっていく。だけど、不思議とそれを冷静に見つめる一つ上の自己みたいなものは保っていられる。そして、そんな変容意識体験においてしか、気がつけない「ナニカ」がそこにはあり、その「ナニカ」を受け取って日常世界に帰って来る。その体験は、さながら黄泉がえりであり、セラピューティックな気付きに溢れている。
自然の中での一服では、鳥の鳴き声、風の音、擦れる木々、すべてがハーモニーを奏でて聴いたこともないほど心地良い交響曲となっていた。
その日は一日観光をしてご飯も済ませたところで、23時頃だったかな。ホテルに戻ってきた。帰りに、ペットボトルに装着するかたちで使えるボング(簡易水タバコみたいな吸引器具)を買ってきた。個人的に、ジョイントでの喫煙は量の調整が難しいし、私は喫煙経験が浅いこともあって、こちらのほうがずいぶんと吸いやすく感じた。ボングの場合は喉の痛みもほとんど緩和されたし、氷水とかで試したらもっと快適そうだ。
それはさておき、ぶくぶくぶく。
もう慣れたもので、吸って5分くらいすると、口の渇きと身体のソワソワ感、その直後に「完全に別のリアリティに来た」という明確なテレポート感を感じたら、トリップスタートだ。
吸って30分くらいは、やはり少し混乱するし興奮する。2mくらい先にあるペットボトルを取りに行こうとするんだけど、動けない。なんというか、水取りに行こう、あれあんな遠くにあったっけ?あれ、何しようとしてたっけ?あぁ、水だ水。あれ、手を伸ばせば伸ばすだけ遠くにあるような感じがする。あぁ、もういいや、Let it be. だ、そういう感じ。
人間の慣れとはすごいもので、こんな超越体験でも1度経験してしまえば、体感のコントロールは効きやすくなる。30分も経てば、波は超えて、穏やかなチルタイムが始まる。
布団で横になって目を瞑ると、身体が風になって、世界の中空にただポツンと漂ってるような、そんなビジョンが浮かんでくる。ただポツンといる。そのはずなのに全く淋しい感じはしない。それは、まさに、風であるような体験だ。漂っている風はどこからか吹いてどこかへと消えていく、何かが振動し、その振動は空気を伝う。自然の振動は、どこかで区切られるものではなく、それは全体性の連関の中で生まれては消えていく。
風は一人ぼっちじゃない。この世界に〈私〉は一人しかいないし、実存的な〈私の世界〉は誰とも共有できない。だけど、ひとりじゃない。家族、友だち、社会、人間に限らずモノだったりコンピュータだったり、自然だったり、ありとあらゆる万物の関わり合いの中で、ただポツンとそこにある。そんな感覚が、ワンネスが愛そのものなんだ。
内省的で詩的なことを考えていたと思ったら、気が付いたときには朝だった。眠っていた。こんなにも熟睡できたのはいつぶりだろう、というくらい本当によく眠れた。眠りに入っていくその瞬間まで愛に満ちたまま眠れた。
もう3ヵ月以上前の話。日本に帰ってきてから無理をしてまで入手して吸いたいとは全く思わない。
あったら幸せだけど、捕まるかもとか勘繰りながら使ってたら安心してチルアウトなんてできたもんじゃないからね。それなりに異常な体験だし、セットとセッティングには気を付けたい。
いずれにしても、1回吸ったら廃人になる、気づかないうちに依存症になってるなんて類のものではない。世界でも解禁の流れは進んでるんだし、もうちょっとマトモな議論をしたほうが良いんじゃないの、とこの間のアベプラを見て思った。
何十年も前の話。当時、私は19歳。
帰宅すると祖母が仏壇の前で泣きながら「どこへもやらん!!」「嫁にはやらん!!」と叫んでいた。
何事かと訳を尋ねると「まだ嫁に行ったらあかん」と泣き叫ぶばかり。
丁度そこへ親が帰ってきて、私に見合い話が来たことと、それが原因で祖母が狼狽しているのだと教えてくれた。
その頃の私は生涯非婚を決意しており、それを祖母に伝えたが、なかなか泣き止まずなだめるのに苦労した。
話の種や人生経験として受けても良いかなと思ったりもしたが、最初から断るつもりなのに記念受験か何かのノリで臨むのは相手に申し訳ない。
それに断るつもりとはいえ、実際に見合いしようものならば祖母がまた大泣きしそうだった。
親は「受けるも受けないも好きにしたら良い。ただ断るつもりなら気を持たせないうちに返事をした方が良いと思う」という考えだった。
一応、釣り書きには目を通したら?ということで、見せてもらった。
渡された封筒には、高級紙に達筆の釣り書きと、ちゃんとしたスタジオで撮影したと思われる写真が入っていた。
年齢を確認した時「話を持ってきた人の顔も立てないといけないのかなと思っていたけど、安心(?)して断れる」と思った。
と、いうのも相手の男性とは30歳近く離れていたからだ。
自分は年の差婚自体に特に賛否はないが、当時の世間的な考えからすると断りやすかった。
親に「お断りしておいて」と言って、それでもうこの話は終わりと思っていた。
後日、見合い話を持ち込んだ張本人である大工の親方が私に謝りに来た。
「未成年者だとは知らなかった」
「しっかりしたお顔つきなので、もう何年もお勤めしていらっしゃる方だと思い込んで、先方には良いお年頃の娘さんだと言ってしまった」
などなど、お世辞だか何だか分からないことを言っていたが、まあ、正直な人だと思った。
当時、我が家は新しい住まいの建築中で、親方はその現場を仕切っていた。
新築現場と自宅は同一敷地内であったため、遠目で私を見かけたことくらいはあっただろう。
「お、嫁き遅れの娘がおるやんか。相手ももう良い年だから丁度ええな!」とでも思ったのかもしれない。
「私、生まれつきの老け顔なんで大丈夫(?)ですよ」と返事しておいた。
ようやくこの騒動も終わって一安心の筈だった。
更に後日、人伝に相手側の話を聞かされた。
見合い話を積極的に募っていた母親は「未成年と知っていたら、お願いしなかった。向こうの娘さんが傷ついていないか心配だ」と仰っていたそうだ。
しきりに恐縮がる母親の隣で息子は「僕は19歳大歓迎だけどなあ」と言ったそうである。
この親子に対してよく分からない、もやもやっとしたものが湧いた。
こんなことをわざわざ伝えてくる人にも、同様のものを覚えた。
「向こうは悪気なかったんだよ」と言いたかったのだろうが、私自身は「物好きな人もいるなあ」と驚いただけで別に傷ついた訳ではなかった。
「せっかくだからお会いしてみれば良かったのに」と言いたげな口ぶりだったのも嫌だった。
何でこんな話を今頃思い出したのか分からないが、書くだけ書いてみた。
どうでもいい内容だから後で消すかも知れない。
因みに生まれつきの老け顔というのは事実である。
おまけに産まれた時から頭髪が黒々と生え揃っていて、初産だった母親はたいそう驚いたそうだ。
そういった新生児はそれほど珍しくはないらしいが、頭部戦線だけでなく全身毛深いのが今も辛い。
https://ameblo.jp/kamosikaneko/entry-12409589412.html
皆ケ作 遊郭跡
2018-10-04
京急田浦駅の海側に元海軍造兵本部があったので・・さぞかし賑やかだったと思われます。
(写真多数)
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/kanagawa_data/kaigasaku_file.htm
三浦半島の追浜と横須賀の間は平地が少なく入り江の地形のため、国道16号線と京浜急行が並走し、トンネルが連続する。そんな入り江地形の一つ、横須賀の北、長浦港に面する皆ヶ作という町がある。横須賀は近代、軍港として栄えた町であり、3つの遊郭があった。一つは軍港の開設にともなって置かれた「柏木田」、新開地として整備された「安浦」、そして規模は小さいが田浦と追浜の間の皆ヶ作である。
京急田浦駅を降り、国道16号線を100mほど横須賀方面へ歩くと、左手海側に「仲通り商店街」のアーケードが見える。アーケードは今や寂れた商店街だが、そこから左右の路地に入ると住宅街の中にかつて花街時代の建築が残っている。昭和30年では、40件ほどの店を数えたという。
銅板貼りやモルタル吹き付けの看板建築、伝統洋式の建築が細い路地に面してポツポツと建っている。比較的大きい割烹料亭もあった(現在営業しているかは不明)。建物のデザインは、玄関周りや窓周りに人目を引くための独特な意匠が施されているので、注意して見れば単なる住宅建築ではないことは分かる。かつては港に近接し、港近くの飲食店がひしめいていたような場所があったが、港が埋め立てられたため今や必然性のない不思議な場所になっている。
http://sasabarikenta2019.blog.jp/archives/6127575.html
【神奈川県】横須賀市船越「皆ヶ作カフェー街」201203・201808
前回は安浦の旧赤線跡を取り上げたが、横須賀にはその安浦の他にもう一か所同様のカフェー街があった。
それが今回紹介する「皆ヶ作」、現在の地番で横須賀市船越、最寄り駅は京急田浦だ。
「安浦よりちょっと落ちるが、田浦と追浜の間の皆ヶ作にも四十三軒ほどあり」
という。
この「皆ヶ作」の近く長浦港には戦前、海軍工廠造兵部があり、戦後は東芝に変わっていた。
おもしろいのは、割烹や料亭のような建物が残っていたことで、恐らくは芸者もいたのだろうと思われる。
完全に私娼街の安浦とは違い、ここはカフェーや銘酒屋から転じた赤線と、花街の両面を持ちあわせていたのだと思われる。
実は、皆ヶ先には二度訪れている。
ネットの情報などによれば、北側に行くと更に遺構が残っているというのだ。
その確認のため、5年後に再度訪れた。
(略)
写真多数あり
https://bonzin529.exblog.jp/10068182/
古い文献には現在の船越町6丁目方面に花屋敷と呼ばれた花柳界が存在し、戦争や法律変更等で、時代に合わせて業態変更を繰り返していったのだと思います。なんと言っても横須賀市は軍港の町です。現在は船越町1丁目にある仲通り商店街周辺に、昭和の香りを感じられる建物が多く残っています。
HoYoFairチャンネルだから外部アーティストによる公式コラボ的な感じのもんだが一本の動画として洒脱な作りで、予算…いや気合が違うわ
5組の中で2組日本からH ZETTRIOと大橋トリオが参加してたのも偉いわね
いやーこんなこともあろうかといいイヤホン買っておいてよかった
中価格機からは低域中域高域どれも抜かりなく解像度や響きが一定水準あるようになる
最近は平面駆動が流行ってたし骨伝導ユニット入ハイブリットも流行の兆しがあるけど
やっぱ1DD+4BAが鉄板の隙のなさだわ
それはさておき、このイベントページにあるカクテルレシピに添えられたフレーバーテキスト
https://act.hoyoverse.com/puzzle/hkrpg/pz_0cLNSIl80j/index.html
まあ、「はるか昔に滅びた星トワッテイ」だからおふざけとも言えるが
しかも英文では"an ancient and long-forgotten planet named Tavyet"だから滅びたとは言ってない
それからレンがロビンの本名だとしたら…いや明らかにロビンの意匠に満ちたカクテルになってるが…初出情報だろう
あの公式SNS上でのホタルの実装発表のフレーバーテキストで初出の設定が明かされたのと同じように
ほのめかしという意味では、原神のレムリアのオルガン風建築の意匠や
夢による統合・支配をフィーチャーした内容も明らかにピノコニーを意識させる作りだったし
もしかしたらこの先の展開をレムリア世界任務によって示唆している側面もあるのかもしれない
というか崩壊3rdも、千織の実装に同じくして裁錦・裁断要素のあるセルマの深堀りイベをかぶせてきたり
セラペウムが図書館という夢の中に人々を「結合」させる様子を示してきたり
これはあれの示唆なのか?それともそっちなのか?全部が繋がっているのか?と
作品やメディアの境界を超えてセンス・オブ・ワンダーを感じさせに来てる感じがする
とにかく、レムリア世界任務の水路で演奏するシーンはめちゃくちゃよかった
美しすぎてなんか謎の部位が極まるようなへんな感動した
話を戻すとスタレの考察については
一介のナナシビトもとい名無し増田にすぎん自分は体系立てて語れるほどの能力はないが
今日みつけたネタを元にググってたら、サンデー大好きっぽい人による鋭い考察をみつけたので貼っておく
https://note.com/ashino_open/n/n97d91b350e70
https://note.com/ashino_open/n/n499ddac2e1fa
こんだけ考えて楽しめる作りになってるシナリオ作り、どう考えてもアツすぎる
あの頃は、土日なんて家に帰らなかった。
朝まで飲んで、遊んで、そのまま遊びに行って、飯を食って、公園や河畔や路上で飲んで、歩いて、遊んで、
ふと思いついて映画を見たり、美術館に行ったり、家具を見たり、建築を見たりした。
みんなといる時間、私は爆発して、どんどん新しいこと、面白いことがみんなと繋がって、1が10になって還ってきて、脳がぎゅるぎゅる言って、
一人でいる時間、私は自分と話をして、色々なことを思い出して、考えたり、本を読んだり書いたり、ごろごろしたり映画を見たり、料理をしたりしていた。
金曜の晩から、日曜の晩まで、あっという間で、今よりずーーっと長かった。
─ ─ ─
これが私だった。私の幸せだった。私らしさだった。
というより、私が、私を好きでいられるための過ごし方だった。
─ ─ ─
今、家に帰らなくてはいけない。
予定を立てなくてはいけない。ふと思いついて、なんて、そんなことできない。
朝起きて、その日の気分で、その日することを決められない。
言わなくてはいけない。どこに行くのか。何をするのか。1日という単位で。
─ ─ ─
皿は、洗いたいときに洗えばいい。ただし、跡が残る皿はすぐに洗いたい。
洗濯も、洗濯したい気分の時にすればいい。ただし、染みたものはすぐに洗いたい。
私は、自分の気持ちと、自分のモノと、向き合って生きていければいい。
そこに、身近すぎる人が介在しなくてもいい。というか、是非しないでほしい。
それは半分でしかない。
そもそも、これまでの産業構造の変革すべてに言えることだが、産業革命も情報革命も常に「資本家」と「弱者」の両方にメリットがあるものだ。
機械化に代表される生産性の向上は当たり前だが機械をもつ資本家に必ず有利なものになる。
一方で、機械化は人間の筋力や技能に頼っていた部分を機械が代替するので、それらをもたない弱者にも仕事をもたらすことになる。
欧米では一般家屋の建築もオートメーション化、プレハブ化が進んでいる。
工場でパーツを組み立てて、現場ではクレーンでサッとそれを組み立てる。
「現場仕事」のウェイトを下げることで、「熟練工には脅威となる」「工場をもつ資本家が力を増す」「力のない女性や老人、障害者でも、工場内でクレーンに吊るされたような建材に釘を打つなど、建設業で働くことが出来るようになる」という全方面への影響が出ている。
すべての技術革新は、大抵どの時代もこのすべてを含む。AIだって同じだ。
そこに古い大きいビルがいくつかあって、大きいといっても古いから高層ビルじゃないんだけど、横幅はなかなかあった
それらが取り壊されて、どうなるかと見守っていたら、平場の駐車場になるみたい。
見渡しはいいよ。駅から降りて広々開けて見えるのはいい。だけど5階以上ありそうだった旧ビルと比べて縦の密度の落差が凄い。もったいなく感じちゃう。
そしてそんな広めな駐車場が出来て、どこへ行くのかというと、別に周りに目玉になるような施設はない。
少し大きなライフとか市民ホールはあるが、それらは自前で十分な駐車場を持っている。それ以外で言うと古臭いずっとあるチェーン店の飲食店ぐらいしか残っていない。繁華街・オフィス街とはとても言えない。住宅街とも言えない微妙さ。
大規模な再開発が残りの跡地含め予定されているのか。いや希望的観測はよそう。きっとまともな建物を建てる魅力さえなく、どうせ遊ばせるならという消極的理由での駐車場だろう。
新しい大型建築が出来なくて寂れていくのか、寂れているから新しい大型建築が出来なかったのか。
…自分ではどっちか決めてかかってるけれど…。
整地中はイベント会場として食べ物フェアをやったりしてたそうだけど、駐車場になったあともそういった活用ができるのだろうか?
美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアのルネサンスの絵画と建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。
イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧なバランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧なイメージを達成しようと努めました。あらゆる形態は自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的な作曲のシステムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定の独立性を維持します。それは原始芸術の無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。
古典的な概念では、美しさは、比例、調和、対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。
これは西洋の原始的な美の概念であり、古典および新古典の建築、彫刻、文学、音楽のどこにでも体現されている。
アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。
そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)
アリストテレスが示唆しているように、この見方は黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。
この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書やパルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。
カノンは、完璧なプロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。
医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率を指定していると説明している。
その論文で身体のすべての対称性を私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体を正典と呼んだ作品でその論文を裏付けた。
古典的なテキストにおける「対称性」の概念は、双方向の鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要。
それはまた、古典的な意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能な比率の一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。
たとえば、『ソフィスト』 では、プラトンは高潔な魂を対称的であると説明している。
古代ローマの建築家ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的な概念を体現している。
建築は、ギリシャ語でタクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人がディアテシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人がエコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます。
秩序とは、作品の細部を個別にバランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。
プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます。一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。
シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間の身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます。
アクィナスは、典型的なアリストテレスの多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)
18 世紀のフランシス・ハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。
「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。
ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッドの命題を挙げる一方で、次のような普遍的な物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然を熱狂的に賞賛している。
「美しさはある、と彼は言います。アイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)
美とは部分間の特定の比率の問題であり、したがって古典的な概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちのアイデアの起源についての哲学的調査」で与えられている。
植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えています。リンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えています。しかし、バラもリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間の身体には、相互に一定の比率を保っていることが観察される部分がいくつかあります。しかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。
第二次世界大戦後、日本経済は世界を驚かせました。国は、テクノロジー、建築、金儲けが得意になりました。予想外だったが、日本はエレクトロニクス、機械、化学の創造に優れるようになりました。国は現在、世界で最も賢い国の一つです。
過去数十年にわたり、日本は住宅、オフィス、工場、エネルギーシステム、移動手段などの強力なものを構築してきました。しかし、これはすぐには起こりませんでした。それはさまざまな段階で起こりました。各ステップは、地球に優しくしながら経済を成長させることに焦点を当てていました。日本は賢明に成長する方法を示しています。
世界人口のわずか 1.6% の日本は、現在世界第 3 位の経済大国です。そしてこの経済を支えているのが、力強い日本の建設産業です。2011 年の東日本大震災をきっかけにインフラの耐震化が進み、現在の日本が形成されました。
日本の建設市場は現在、約 5,730 億米ドル以上と評価されています。日本はたくさんの人々と重要な産業がある大きな場所です。国は、企業、工場、住宅の建設に多額のお金を費やします。統計によれば、2021 年の建設市場は同年の GDP の約 5% を占め、総額は約 1,960 億米ドルに達しました。
日本には47万社以上の建設会社が正式に登録されています。しかし、全国の市場を支配している主要企業は、Obayashi Corporation、Shimizu Corporation、Taisei Corporation、Taneka Corporation、と Kajima Corporationなどです。それらは最大の産業プロジェクトを保有しており、その合計売上高は約 60 億米ドルに達します。
以下のリンクからすべての情報を見るには、ここをクリックしてください:https://www.sdki.jp/blog/construction-market-research-japan-importance-and-benefits/46
第二次世界大戦後、日本経済は世界を驚かせました。国は、テクノロジー、建築、金儲けが得意になりました。予想外だったが、日本はエレクトロニクス、機械、化学の創造に優れるようになりました。国は現在、世界で最も賢い国の一つです。
過去数十年にわたり、日本は住宅、オフィス、工場、エネルギーシステム、移動手段などの強力なものを構築してきました。しかし、これはすぐには起こりませんでした。それはさまざまな段階で起こりました。各ステップは、地球に優しくしながら経済を成長させることに焦点を当てていました。日本は賢明に成長する方法を示しています。
世界人口のわずか 1.6% の日本は、現在世界第 3 位の経済大国です。そしてこの経済を支えているのが、力強い日本の建設産業です。2011 年の東日本大震災をきっかけにインフラの耐震化が進み、現在の日本が形成されました。
日本の建設市場は現在、約 5,730 億米ドル以上と評価されています。日本はたくさんの人々と重要な産業がある大きな場所です。国は、企業、工場、住宅の建設に多額のお金を費やします。統計によれば、2021 年の建設市場は同年の GDP の約 5% を占め、総額は約 1,960 億米ドルに達しました。
日本には47万社以上の建設会社が正式に登録されています。しかし、全国の市場を支配している主要企業は、Obayashi Corporation、Shimizu Corporation、Taisei Corporation、Taneka Corporation、と Kajima Corporationなどです。それらは最大の産業プロジェクトを保有しており、その合計売上高は約 60 億米ドルに達します。
以下のリンクからすべての情報を見るには、ここをクリックしてください:https://www.sdki.jp/blog/construction-market-research-japan-importance-and-benefits/46
多くの数学者は最も美しい証明を見つけることに意欲を持っており、数学を芸術の一形態と呼ぶことがよくある。
「なんて美しい定理だろう」「なんてエレガントな証明だろう」と言う。
完璧な部屋の形状は、ルネッサンスの建築家によって、壁が一定の比率を持つ長方形の部屋であると定義され、それを「黄金分割」と呼んだ。
建築家は今日でも、最も調和のとれた部屋には黄金分割比があると信じている。
この数値は、多くの数学的現象や構造に現れる (例:フィボナッチ数列の極限)。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、均整のとれた人体と顔の黄金分割を観察した。
西洋文化やその他の文明では、均整のとれた人体の黄金分割比は、上部 (へその上) と下部の間(へその下)にある。
モザイクは、固体部分(木、石、ガラスなど)を重なりや隙間なく平らな面に組み立てる芸術形式である。
その洗練された形式では、モザイクには認識可能なパターンがあり、それが 2 つの異なる方向に繰り返され、中心も境界も優先方向も焦点も特定されない。
19 世紀には、数学的な観点から、タイリングには 17 個の対称性しか存在しないことが証明された。
アルハンブラ宮殿のモザイクは、考えられる 17 の対称性をすべて表していることが発見された。
タイリングを形成するとは、2 次元平面を幾何学的形状 (多角形または曲線で囲まれた形状) で重なりなく完全に覆うことを意味する。
タイリング画像を変更せずに仮想的に回転または反射できる場合、タイリングは対称と呼ばれる。
歴史上最も印象的なモザイクは、中世のイスラム世界で活躍した芸術家、特にスペインのアルハンブラ宮殿の美しく洗練されたモザイクを作成した芸術家によって制作された。
アルハンブラ宮殿は、グラナダの旧市街を見下ろす赤土の丘に、13 世紀初頭にムーア人によって建てられた。
ここは、膨大な量の模様、装飾品、書道、石の彫刻など、イスラム教の建築とデザインを展示するものである。
オランダ人芸術家MC エッシャーはアルハンブラ宮殿を 2 度訪れ、宮殿と周囲の中庭のタイルに見られる華やかな模様をスケッチし、カタログ化した。
これは、タイルが一定の間隔で表示または発生することを意味する。
何百年にもわたる熟練した建築、タイル張り、 (調和する力としての)対称性への深い敬意、(宗教と商業のための)幾何学の研究と知識により、17 の考えられる対称性グループすべてがアルハンブラ宮殿の壁に表現される。
自然界の結晶(雪の結晶、鉱物、宝石など) は、秩序と対称性規則に従って原子的に構築される。
非周期的タイリング、つまり周期性のないタイリングは 1960 年代に数学的に可能であることが証明されたが、当時は秩序はあっても周期性を持たない固体構造は自然界には存在しないと考えられていた。
1982 年、イスラエルのテクニオン大学のダン シェクトマン教授は、後に準結晶として知られる自然が作る非周期結晶の存在を予測した。
このような自然で作られた石は、ロシアの山岳地帯で最初に発見された。
2009年、この発見はプリンストン大学の教授であるポール・スタインハートによって科学的に発表された。
2011 年、シェクトマンはその予測によりノーベル化学賞を受賞した。
そうでないなら、美しさは見る人の目にあるか?