はてなキーワード: 尊皇攘夷とは
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000210358.html
ところでコイツみたいに他人種・外国人の殺害を主張して実行にまで至った殺人犯って戦後日本で何人ぐらいいて、何人ぐらい犠牲なってるの?
歴史の授業で大昔の日本人が尊皇攘夷で生麦事件で大津事件で頭おかしかったのは知ってるけど、戦後犯罪史となるとまるで詳しくないので知りたいな。
人権先進大国アメリカでさえこういうおぞましいヘイトクライムが後を絶たないのだから、鬼畜英米を唱えていた戦中からまるで進歩の無い我が土人国家ジャップランドならば最低でも120,000,000人の殺人犯と7,600,000,000人の犠牲者がいるに違いないよね?
徳川光圀。
辻斬りを頻繁に行い、家臣もその場で斬り殺す。
御三家の見栄のために石高を多めに申告し、そのために領民に重税を課す。
これがために藩の財政をさらに逼迫させただけに留まらず、水戸学を生み出し尊皇攘夷の震源地となり桜田門外の変を引き起こし、
その精神は薩長に受け継がれついには太平洋戦争を引き起こして日本は破滅へ進み、現在もその負の遺産を引きずっている。
水戸藩自体も天狗党と諸生党に別れて内ゲバを繰り返して優秀な人材は悉く失われ、茨城県の発展は遅れに遅れ、現在最も魅力のない都道府県ワースト1位に甘んじている。
このような現在に至るまでなお悪影響しか残していない暴君暗君の極み徳川光圀。
これを水戸黄門などと称して正義の味方のような扱いをするなど狂気の極みではないか。
例えるならヒトラーを正義のヒーローにしているようなものだ。(後世への悪影響という点ではヒトラーよりもタチが悪いかもしれない。現在の右翼団体のルーツも徳川光圀だ。)
アメリカは日本へ2発の原子力爆弾を投下して、日本は無条件降伏した。
無条件降伏だったので、日本はアメリカの植民地、奴隷にされた。
江戸幕府は鎖国政策を行っていたが、欧米はその間にも技術を発達させ、軍事力も増大させていた。
江戸幕府は当初「公武合体」によって、新しい日本の体制作りを目指した。
公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。
しかし、公武合体は失敗に終わり、薩長のテロリストたちがクーデターを起こした。
イギリスに支援された薩長同盟 VS フランスに支援された江戸幕府
英仏の代理戦争が日本国内で展開されて、イギリスのフリーメーソンが勝利した。
明治維新以降、日本は日露戦争に勝利する等、外国と戦争して勝つことができた。
調子に乗ってアメリカにも戦争をしかけたら(真珠湾奇襲攻撃)、逆にボコボコにやられてしまった。(原爆投下で第二次世界大戦敗北)
天皇が「勝つ見込みはありますか?」と尋ねたら、軍部は「短期決戦で勝ってみせます」と応えた。それならOKと戦争を開始した。
軍部は「アメリカから買っていた石油がなくなったので、これ以上戦争を継続できない」と判断した。(そりゃ戦争やってる相手に石油を売る馬鹿はおらんわなw)
松谷誠のように、早期講和を検討した者もいたが、軍部に握りつぶされた。
日本が2年程度で戦争を止めていれば、満州を失うだけで済み、日本の本土まで取られることはなかった。
結果的に、天皇と軍部は判断を誤り、早期の損切りができなかった。
松谷 誠(まつたに せい、1903年(明治36年)1月13日 - 1998年(平成10年)10月7日[1])は、大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛官。
天皇の悲劇は、周りにイエスマンしかおらず、適切な判断材料となる反対意見を言う者がいなかったこと。
(天皇一人が悪いのではなく、取り巻きの連中が使えなかった。)
もしも、松谷誠らが天皇に直接提案する機会があれば、完全敗北を避けることもできただろう。
歴史を振り返ると、ワンマンのリーダーが判断ミスすることによって、国が滅ぶ例が多々ある。
日本の近代史を振り返ると、日本の岐路は、「公武合体」にあった。
もしも日本が、天皇と将軍のツートップ体制だったら、どちらか一方が判断ミスをしても、リカバリーできる可能性があった。
しかし、ワンマン体制だと、一人のリーダーが判断ミスすることによって、ドミノ式に全体がミスに巻き込まれる。
公武合体が成功していたら、日本は今とは違う歴史を歩んでいただろう。
負け惜しみで、明治維新を賞賛する向きもあるが、敗戦の結果を見れば、明治維新の天皇制は失敗だったことに気付く。
残念だ。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
目次 [非表示]
1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。
筋さえ通れば反乱もやってのける命知らず。
不可能を可能にし、巨大な悪を粉砕する、
俺たち、「佐賀の七賢人」!
(以下はWikipediaの内容をまとめただけです)
総合すると、
まず大前提として僕はきわめて子供が好きだ。あやしかたなんかうまいほうではないけれども彼ら彼女らはとても愛らしい
ただ僕が子供を好きであることと子供自身が持つ人生は全くの別だ。100%の主観で他人を見て関与するのはやめておいたほうがいい
それがたとえ愛だとしても
現代は歴史上で最も人間が人間らしく生きることが難しい時代だと感じている
「なにをバカな、昔は宗教戦争があってコロッセオで人を虎に食わせて結核にかかったら必ず死ぬ時代だったんだぞ。今は飢えて死ぬことはどんなに貧乏でもありえなくどこにでも行ける交通手段があって子供に武器なんか持たせなくていいんだぞ」
とおそらく人は言う
けれど闘争も弱肉強食も宗教という信念に準じた戦争も尊皇攘夷も日本赤軍もアーリア人の強烈なナルチシズムもどれも人が自然に生きる中で生じた出来事であり、人としての感情が素直に発露した結果である。ここで書きたいのはそれが良い悪いの話ではない
現代は暴力や権力、自意識、怒りなど人が最もエネルギーを発揮する感情は全てそれがどんなに小さいものでも即座にたたきつぶしにくる
かわりに悲しみや平和ばかりが讃えられる。何か犯罪が起きた時に被害者遺族の悲しみには同情しても加害者の怒りにはほぼ誰も同情しない。特に女性は100%と言って良いだろう、聞いてみればいい
生まれた時からほぼ全員が道徳や正義、常識にそぐわない怒りというものをこれでもかと封じ込められてきた
しかしまともに生きてきた人間なら怒りほど行動力や思考力や集中力を高ぶらせるものはないと知っているはずだ
けれど「私」に蓋をすれば同時に悲しみや喜びにもふたをする。エーリッヒ・フロムはそれを抑うつの正体だと言った
これは何も先人達の闘争によって獲得された現代の平和を否定する話ではない。ただ人が有機体として生きるとは何かという話である
東京を歩いているとたまにどういう気持ちでいればいいのかわからなくなる時がある。人はその時々の環境によって見せる顔も役割も気持ちも違う
意識せずとも経験や自然な感情の流れでその場その場に適応していく
悲しい時には泣けばいいし笑いたい時には笑えばいい。そうやってその場の温度がつくられる
けれどどういう気持ちでいればいいのかよくわからなくなる時がある
貼り付けた笑顔で接客するファミリーレストラン
二面性を否定するほど子供ではないがそれでも憂慮も沈黙も罪悪感も置き去りにしているように見える無機的に見える事物が多い
愛よりも金や資本、有機体よりも無機質な物の趨勢がかなり強くなっているように感じる
I have to do 私は何かをしなければいけない
I am to do 私は「可能性、責任、運命、予定、意志」で何かをする
何かを持って何かをするというのはしなければならないと訳される一方で後者は自らでいるために何かをすると訳される。言語というのはかくも面白い
例えば笑って接客する店員はHe has the job to laugh at strangers with no reason.となる
直訳は彼は理由もなく他人に笑顔を振りまく仕事を持っている、省略すれば彼は笑わなければいけない、だ。
持つことを否定するわけではない。仕事も金も車も恋人も持つために持つと書くと強制になってしまう。欠乏している他人をさげすむ人は必ずこの思考様式である
僕自身も金に脅かされほとんど逆転してしまっている。もう抗うことは不可能なほど機械化もとい無機化が進行している
「戦争反対」のムーブメントが起きているわけだが(もう下火?出遅れてすいません)、なんだか重大な矛盾があるように見えるし指摘もされてる。アメリカにくっついちゃうと戦争しちゃうよ(この70年でアメリカは何度か軍事同盟国を動員して戦争してる)、それはやだ、ってわけだけど、アメリカにくっつかないと中国に戦争しかけられちゃうかもよ(この70年で中国は自分より弱い国に何度か戦争しかけたり侵攻してる)、それいいの?ってとこがどうも無視されてる。
いや、無視してんじゃないと思う。そこ、本質じゃないと思うんだよね。
いろいろな考えを持ったいろいろな人が参加してる。それは当然だと思う。大きなムーブメントにおいてすべての人の意思が統一されてる、なんてのはフィクションであり北朝鮮だ。いろいろな考えを持ってるのは当然。戦争しちゃうかもを最重要視してる人もいれば、違憲性を最重要視してる人もいるだろう(個人的には後者の立場の人には共感する思いが強い)。
でも、そういう人たちを結びつける何かがないとムーブメントにはならない。それはなにか?このムーブメントの本質とは?なんだか戦争反対・平和主義っていうのは語感がいいからスローガン化してるように見えるが、冒頭に挙げたようにそれが本質であるように思えない。もちろん、単に騙されてる(あるいは暴走してる)人も多いだろうが、頭のいい人達もかなり動員されてるので、みんながみんなそうではない。
何が彼らを結びつけているのか?
結局、反米じゃね?
って思った。
証明手段はない。個人の感想。すまんね。しかし、過去の日本のムーブメントを観察し、それで今のムーブメントについても同じ特徴をもつ蓋然性が高いだろう議論は可能だと思う。ちょっと言葉を変えると、尤度ベースで考えてみよう、みたいな感じのことだ。専門家からバカにされるだろけどね。だから増田に書いてるわけさ。
さてどうだろうか。戦争については、起こしたかったり起こしたくなかったりいろいろだ。護憲主義かどうかについては、冒頭の明治維新がすでに国体をひっくり返してる。しかしどれも明確に同じであるのは、反欧米の姿勢じゃないですかね。過去の大きなムーブメントはどれも反欧米の姿勢であって、それが過去の3つの大ムーブメントのどれにおいても起こっていることから、ベイズの定理によって反欧米姿勢があるために大きなムーブメントが起こったのだとする仮説の事後確率が高いのだと思えますね。問題点:観察したイベントが3つしかねぇ。超事前分布を置こう。めんどくさいからやんない。
他に日露戦争後の三国干渉への強い反発・日比谷焼き討ちだとか、湾岸戦争・イラク戦争時のアメポチ批判とかは、強いか弱いかにかかわらずやはり反欧米的姿勢に見える。太平洋戦争の本とかよむと、国際連盟脱退して帰国した時、松岡洋右は非常な非難を覚悟したのに、大歓迎されて却ってとまどったとかいうのがあったが、それもこれかもだ。太平洋戦争時には他に、満州事変から日中戦争の時には日本国民はあきらかに戸惑っていたが、太平洋戦争開戦時にはだれもが意気揚々として喜んだというのも読んだ。
さて、まともな議論のような皮を被った確証バイアスだらけのようにも思われる話はここまでで終わり。みんな批判的思考を持ちましょう。
あとは完全に個人の感想。
逆に親欧米にはどういうのがあるかっていうと、
ってとこでしょうか。
さて単純にどう思うかって話なのだ。
私がどう思ったかは、もうわかっていただけたと思うけど、日本国民を感情的に動かしてムーブメントを作りやすいのは反欧米的姿勢だけど、日本国を繁栄させてるのは常にアングロサクソンにくっついてる時じゃないのってことです。明治維新なんて説明するまでもなく、ムーブメント自体は尊皇攘夷運動だったはずが、最終的に親欧米政権つくって西郷さんと大久保死んじゃったみたいな話なわけで。
さてこういう話をするとき、明治維新のときから続く歴史の長いレッテル貼りがあって、それは今で言う「アメポチ」ってやつだ。言ってみれば、アメポチ初号機は井伊直弼であったともいえよう。戦時中には、鬼畜米英とか言ってる人を非難するような人は「非国民」とか言われていた。もちろん逆方面に対してはチョンとかなんとか言ってたわけで、究極的には自分最高って思ってるだけだろうけど。
で、アメポチ。アメポチ悪いの?ってこと。ていうか犬バカにしてね?まあそれはいい。
「情けない」とか帝国軍人みたいなこという人もあろう。でもさ。国家がアメポチであってそれが情けないなら、個人でアメリカいって勝負すればいいだけじゃないか。本当にアメポチにならなくて済むような有能な人は、当然アメリカで全くやっていけるし、あの国は人種や国籍にかかわらず、能力だけで天下を取れる、そういう国だ。ヨーロッパ人だってそうしてるよ。われわれ極東の日本人が「あれはアメリカ人」と思ってる人たちの中の相当数に、元ヨーロッパ人が相当隠れてる。ドイツ・オーストリア系とか特にね。敗戦国ですし。日本もだよ。
それだけの能力がない人は?そうやって能力もないのにこの冷酷な世界の中で平和を望む・・・そんならアメポチになれってことなわけ。自分一人で世界の中でアメポチにならずに立ち回れる能力がないくせに、日本国家に守られてアメポチではない立場になりたい、でも日本国家は嫌いだ、とかそんな都合の良い話はあるめえよ。
この世の中はローマ帝国と漢王朝の時代からまったく変わっていないと僕は思う。コーカソイドと東アジアに2つの帝国が出現するところまで変わらない(たぶん、20世紀のある一時期には日本がそれになりうる可能性を考えられていたかもしれないが、今は誰もそう思ってないっちゃ、ライジングサン)。
「戦争法案反対」論者の中には一定数、「すぐに中国が世界最強になるから敵にするのはまずい」と思ってる人がいるかもしれない。こういう人とは酒は飲める。まあわたしはそんなの数十年先以降なんじゃねーのって思うけど(だって科学力が違うからね〜)。
右:愛国 尊皇攘夷(?) 特定の日に軍歌流しながら凱旋 ヘイトデモ
左:労働者の権利 生活保護 人権 法改正とか反原発とかのデモ (昔は激しくてバリケード作ったり立てこもったりしてた)
書き出してみたら右のほうが知らない度が高そうだし、なんだか平等を欠いた記述になってしまった。申し訳ない。
9条で対立するのはなんとなく、そうねえとは思うんだけど。よくわかってないから間違ってたらごめんなさいだし今掘り下げるつもりはない。
でも愛国心がヤバイくらいあって、低所得者の生活の向上もしたいっていう人はいないの? そういう人はどっちなの?
別に左を全否定するのが右とかその逆とかではないと思っていて、というかそもそも別に常に仲悪いわけではないの?(門外漢にはそうは見えないけど)
よくわかんない。ぜんぜんわかんない。
大概は、”私”とは自分個人のことで、”公”とはみんなのことだと考える。
「公私混同」というとき、たとえば、仕事してるときのプライベートな通話とかを指して言う。
しかし本来、”私”というのは個人のことじゃなくて、「何かの立場に立っている状態」を言うということ。
つまり、自分個人としての立場で、「~したい。」「~したくない」ということだけじゃなくて、日本人としての立場でも”私”である。
今みたいに個人が独立したのはごく最近で、1980ぐらいはもっと家族単位・地域単位でみんなモノを考えてた。
そういう状態でいえば、”私”とは家族や地域のことも含むことになる。どこまでが私事なのか??
例に挙げられたのは尖閣諸島の話だ。
日本人として考えれば、尖閣諸島が日本領だってのは当たり前で、その立場に立って中国を批判する。
だけどそれも、結局”日本人”の立場に立ってものを言っている訳で、”私”の意見なんだ。
中国人としての”私”の立場、日本人としての”私”の立場を踏まえて、もうひとつ上の立場に立って、じゃあどうすればいいか。考えるのが”公”だ。
日本人・中国人の立場に立って、お互いに主張しあうのは楽だ。だって「言うべき言葉」はもうわかっているから。考える必要はなく、ただ互いを恐れ、怒ればいいのだ。感情に任せて。
だけどそれは私事である。頭を使う必要がない。ただの動物である。
僕らは人間だ。感情の単純な発露である”私事”を踏まえて、きちんと解決を考えないといけない。それが”公”の立場だ。
日本人の感情。中国人の感情。それぞれの目的をちゃんと受け止めて、我慢すべきことは我慢して、お互いにとっていい状態を得ること。それが”公”だ。
俺は右翼を自認するけど、今右翼と名乗る人にはすごく違和感がある。
明治維新時の日本のように、単に中国(当時は西洋)を恐れ、その恐怖の反動で、”私事”で怒っているだけだ。
であれば、”尖閣は日本のものだ”という私事は横に置いて、”公”のために尽くすこと。つまり中国の人たちの希望も汲んで解決を模索することこそ、日本人の本来の姿なんだ。
中華人民共和国からの入国者が増え労働力として欠かせないものとなり、また貿易などによって経済的にも利益が上がり始めると、
より中華人民共和国寄りの政治を求める声が特に経済界から強くなりつつあった。
2009年、政権交代があり、総理大臣鳩山由紀夫率いる民主党は移民と国籍に関する改正法案を成立させた。
この移民法により、移民の制限および国籍取得は緩和され、日本国は中華人民共和国の属国化することを余儀なくされていった。
また文部科学省主導によるアジア諸国よりの留学生百万人計画もこの年より始まった。
日本国の滅亡はこれに始まる。
2012年1月16日、中華人民共和国と関連の深い貿易を扱う企業経営者らが、さらに中華人民共和国寄りの政権を打ち立てるため、国体の転覆を計画した。
この計画を察知した野党自民党により各地で大規模なデモが発生し、一部地域では警察、自衛隊との衝突も起こった。
この最中、小沢一郎は急死する。これらに危機感を覚えた与党民主党幹部は治安維持のため国連に対し派兵を要請する。
中華人民共和国海軍東海艦隊は、自国民を保護する名目で東京湾に到着。今上天皇は幽閉状態となった。
翌年1月17日、岡田克也は臨時政府を打ち立て、天皇制民主主義の廃止を宣言した。
翌2013年7月4日岡田克也は、「共和制日本国」の建国を宣言した。岡田克也は同国の初代の、そして最後の大統領となった。
2014年1月に尊皇攘夷派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧された。1月16日には野党第一党党首であった谷垣も私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕拘束された。
岡田克也の主な業績は、日本国を中華人民共和国に併合する条約を作ったことだった。この条約が締結されたとき岡田克也は、「日本自治区」の初代書記に任命された。
2018年8月12日、時の中華人民共和国国家主席習近平は日本の中華人民共和国領への編入を宣言。
この日、皇居に掲げられていた日の丸が降ろされ、五星紅旗が揚げられた。
これにより中華人民共和国の自治区として編入され、2678年間の日本としての歴史は完全に幕を閉じた。
自治区となった後も、表向き日本は中華人民共和国の領土として扱われる事は無かった。しかし、名実ともに中華人民共和国領へと変貌していく。
これは党書記が設置されていながら、民族自治区という形がとられたためであった。2039年8月21日には完全な中華人民共和国領土として日本省が成立。
国を愛するというけれど、主権を持つ国という概念がなんとなくできたのが
せいぜい400年前。自らが国民であると自覚したのが仏革命以降で200年前。
若い。圧倒的に若いんだ。国家ってものは。
いわゆる中央集権国家なわけだが、その基盤が国民だ。いわば規模のでかいポリス。
しかしその国家への宗教的熱心さともいえる愛国心は、共同意識としてのポリス防衛心と違って
教育という形で養われる。義務教育は仏革命以降にはじめて実施された。義務教育の本質は
そのことは国語という科目名に象徴されていることがわかる。まさに「国」の言語。ナショナリズムの神髄である。
日本はこのナショナリズムをスムーズに浸透させることが出来たアジアでは珍しい国家だ。
ところでナショナリズムの発生条件には、大きく二つあると思う。
1.外敵の存在
2.象徴の存在
「尊皇攘夷」そして攘夷のためには弱腰の幕府を倒さねばならない。
これは他のアジア地域ではなかなか手に入らない。象徴として宗教が用いられるために、宗教戦争が勃発するが、もともと宗教が戦争を起こすのではないのである。宗教を使って起こすのだ。
だから宗教戦争を例にあげて「これだから宗教は」なんて言うのはお門違いである。「これだから人間は」ぐらいが適当だと思う。
まあつまり、日本における愛国心とは欧米に対抗するための改造パックであって、歴史の必然なのだ。